赤壁の戦いとは -三国志-
時代背景
208年劉備は荊州の劉表のもとに身を寄せていた。
司馬徽に軍師をつけるように言われていて、諸葛亮を
軍師といていたのである。しかし、劉表一家の騒動に巻き込まれ
この機に曹操も荊州(特に劉備)を攻撃してきていた。
長坂でからくも血路を開き江夏の劉[王奇]に身を寄せていた。
曹操は次に呉の孫権を狙っていた。呉では開戦するのか降伏するのかで
もめて、呉の魯粛は劉表の弔問を名目に江夏の劉[王奇]のもとにやってきていた。
図解・解説
諸葛亮は劉備を生き残らすには曹操と孫権を戦わせるしかないと考えた。
諸葛亮は孫権と周瑜を説得して開戦に踏み切らせた。
初戦では呉の水軍が勝利を挙げた。しばらくすると、蒋幹という周瑜の学友がやって来た。
周瑜に曹操に仕えるように説得にやってきてのだが、
まんまと周瑜の計にはまってしまった。すなわち、蒋幹にデタラメの情報を吹き込み
曹操に蔡瑁(曹操側の水軍大都督)を斬らせた。諸葛亮はもちろん
この計略を見抜いていたので、周瑜はますます諸葛亮に殺意を抱いた。
周瑜は諸葛亮に10万本の矢を用立てるようにいった。
諸葛亮は「三日あれば十分」といった。三日めの夜濃霧にみまわれた。
諸葛亮は船を用意して曹操軍陣営へ矢狩りに出かけ10万本の矢を手に入れたのである。
諸葛亮も周瑜も火計しかないと考えていた。そこへ曹操軍から蔡和と蔡仲という武将が
くだってきた。(この二人は殺された蔡瑁の親戚)もちろん周瑜は偽りの降伏と見破った。
そこで、黄蓋と周瑜は苦肉の策を実行しいかにも呉の陣中は乱れていると
蔡和と蔡仲に偽りの姿を見せた。呉の参謀・[門敢]沢は曹操のもとへいき黄蓋が
降伏したいという旨を伝えた。曹操は最初は疑ったがそこに、蔡和と蔡仲の諜報が届き
信用したのだった。曹操は真偽を確かめるべくもういちど、蒋幹を呉に遣わせた。
蒋幹は呉の陣中で[广龍]統とあう。黄蓋・[門敢]沢が用意していた曹操への土産だった。
蒋幹は黄蓋・[門敢]沢の裏切りはないと確信し[广龍]統をつれて曹操の陣営にかえった。
曹操は[广龍]統の教えで船になれない北方の兵士への改善策として船と船を鎖で繋ぎ
船のゆれをとめた。これらは全て、周瑜や黄蓋が仕組んだ事であった。
船が鎖で繋がっていれば火計が成功した時逃げる事ができなくなるからだった。
しかし、周瑜にはまだひとつ心配ごとがあった。周瑜は心配の余り倒れてしまう。諸葛亮は
「周瑜殿の病はこれです」と紙切れを渡した。「曹操を破らんと欲すれば、火計を
用いるべし。全て準備は終われど、ただ東南風を欠く」とあった。
この時、曹操は長江の北岸、周瑜は南岸に陣をとっていたのである。季節は冬。
北からの風しか吹かない。火攻めをかけても自分の方が燃える結果となる。
そこで、諸葛亮は風を祈り東南風を吹かせたのである。(吉川や横山の三国志では、
諸葛亮はあらかじめ東南風が吹く時期を知っていたとなっている)
風が吹き始めると、周瑜はうってでた。黄蓋は曹操の陣営に漕ぎ出した。
曹操は黄蓋を導くように指示したが、部下の一人が罠に気付いた。船足が早すぎるのだ。
曹操もハッと気付き黄蓋を攻撃した。しかし時はすでに遅い。湾内に入った船に火矢が射られた。
燃え盛る船は曹操軍の船に突進した。曹操軍は逃げる事もできなく、船団は業火に包まれた。
曹操はなんとかおちのびたのである。
逃げ道には趙雲や張飛が待ち構えていた。曹操はいきた心地がしなかった。
この時曹操に付き従っていた兵は27騎であったという。
最期に関羽が待ち伏せしていた。曹操はなんとか見逃してくれるよう頼んだ。
関羽は昔曹操に世話になっており、その恩義のため曹操を斬る事はできなかったのである。
こうして曹操は江陵に逃げ帰る事が出来たのである。