戦国時代の悪の話をする日本史スレ
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戦国ちょっと悪い話45
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戦国ちょっといい話46
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その頃、公方足利義澄卿の御母堂は柳原大納言隆光卿の娘で、今の摂政九条太政大臣政基公の北政所とは
御連枝であった。故に公武の貴賤、おしなべて九条殿を崇敬した。
しかし細川政元は公方家の権を執り驕りを極める余りであろうか、あらぬ心出来て、九条政基公の
御未子の公達を己が養子に申し受け、自分の童名を付け聡明丸と号し、その後今年12月10日、
この聡明丸の元服の時は忝なくも公方御手づから加冠なされて細川源九郎澄之と名乗らせた。
こうして公家武家相共にこの澄之を崇敬しかしずき、九条殿も繁盛した。
古、鎌倉の征夷大将軍頼常卿と申すのは光明峰寺摂政殿(九条道家)の公達であったのを、
武家の上将となした。これも珍しい例であったが、それは右大将頼朝卿の親戚であったからであり、
右大臣実朝公の跡目であったから、軽々な話ではない。しかし、今の澄之はまさしく摂政相国の公達で
あるが、将軍家の執事である細川政元の子として、盛んな事とするのは、末世とは言いながら浅ましい
次第であると批判する人々も多かった。
その後、またどうしたわけか、細川政元は熟考した
「我家は代々公方の管領を相勤め親類も数多ある所に、他家の子を養いて家督を立てるのも
謂れなき所業であり、細川一族の面々も、他家の大名も、これに同心し挙用しないだろう。」
そのように突然考え、かの九郎澄之には丹波国の主語を譲り彼の国へ差し遣わし、永正元年の春頃、
家臣の薬師寺与一郎元一を使いとして阿波国へ差し遣わし、彼の国の一族である細川成之の孫で、
讃岐守義春の子である11歳に成る男子があり、これを養子にしたいと所望した。
成之も義春も細川一族であり、すぐに同意すべきであったが、政元の行跡見届けがたいと感じ、
何事か後難があるのではないかと、様々に辞退したが、薬師寺元一が古今の例を引いて様々に
理を尽くして説得し、漸く成之、義春も同意し、ならば養子に参らせると固く契約した。
政元は喜び直ぐにこの子を元服させた。彼にも公方家より御一字を申し受け、細川六郎冠者澄元と名乗らせ、
未だ若年であるとして、上洛もさせず阿波国の屋形に差し置いていた。
下の屋形とは阿波国の守護所である。昔、常久禅門(細川頼之)は大忠功の人であったため、摂津、丹波、
阿波、讃岐の四ヶ国の守護に任じられた時、自身は在京して管領職を勤め、守護する四ヶ国には一族を置いた。
中でも阿波国には舎弟讃岐守詮春を留め置いて分国の政事を執行させ、これを下の屋形と号した。
そして細川頼之嫡流の管領家を上の屋形と名付けた。現在の義春も詮春の子孫であり、上の屋形に
子無き時は必ず下の屋形より相続するのが筋目であった。
そのような由来がありながら、政元はどうしたことか、身の栄耀に飽き足らず、驕りを極めるあまり、
摂家の貴族を養子にして、ついに一家に二流を作り、後日の災いを招いた。その不遠慮の義、只事ではない。
政元は不忠不孝であったので、すなわち天罰を被って一家は滅亡するのだが、その先触れであったと
考えるべきだろう。
(應仁後記)
細川政元が九条政基から澄之を養子にとった件、家格のことで当時から批判があったらしい、というお話
三方ヶ原で大敗した徳川軍
何としても一矢報いたいと ある計略を持って武田軍に夜襲を掛ける
大勝利に絶賛油断中の武田軍は後方よりの突然の奇襲に蜂の巣を突いた様な
恐慌状態に
「奇襲じゃ!」「逃げろ逃げろ!」「あそこに橋があるぞ!」「渡って逃げろ!」
「!! うわーー!!」
唯一残る逃げ道に兵達は殺到、しかしこんなところに橋なんてあったか?
そう武田軍に仕掛けた計略はこの橋
実は夜襲の前に谷に布を渡し橋のように見せかけていたのだ
殺到する人馬の勢いは止められず崖の下にはおびただしい数の兵士や
馬の死骸が山の様に積み重なっていたという
局地戦で見事意趣返しに成功した徳川家
しかしその後この崖から夜な夜なうめき声の様なものが聞こえ続け
数年後に慰霊の大念仏を家康が執り行うまで地域の住民を苦しめ続けたという
こんなデタラメな言い伝えを残したくなるぐらいに、完膚なきまでに負けたってことなんだろうなぁ…
まとめの10964
此の度の戦いにうたれし三河武者、末が末までも
で後世の伝承以外が出てた
その弟与二(長忠)と共に、その頃の名高き勇士であった。度々の合戦で手柄を顕し、忠功は諸人に越えていた。
その中でも薬師寺与一は一文不通にて文才無き者であったが、天性正直で理非に厚い徳が有り、細川一門の
人々は、皆彼を重んじていた。されば、この元一ならばこそ、この年月、細川政元へ様々に諫言し、
終に一門である阿波守護細川家より澄元を養子とさせたのだ、
しかし近年細川政元は、政務を粗略にし、専念して魔法を行い、空の上へ飛び上がり空中に立つなど、
不思議を顕し、後々はうつつ無き事のみを喜び、時々狂乱のごとくとなった。
この有様に元一も、このままでは当家の滅亡は近いと諫言するも及ばず、赤澤宗益入道と相談し、
六郎冠者澄元を家督に取り立て政元は隠居させ、細川家を末長久に治めるべしとすぐに評議一決して、
永正元年九月四日、薬師寺元一は淀城に立て籠もり、同六日、赤澤宗益は京を落ちたが、巷説では
彼もまた多勢を催して淀、鳥羽へと攻め上がるのだという。
かつ又、西岡では土一揆が起こり、これも京へと攻め入った。
このようなわけで洛中では風聞頻りにして人々はみな騒動した。
細川政元はこの事態に驚き、薬師寺元一の弟である薬師寺与二を討ち手として多勢を遣わし淀城を
攻め囲んだ。与二はこの淀城攻めの案内者であり、兄に劣らぬ剛の者であり、彼は淀城へ攻め寄せたが、
城兵も能く防ぎ、同十日、寄せ手の一人、讃岐の守護代である安富某が討ち取られた。
同十四日、西岡の土一揆は散々に打ち負け、その指導者である四ノ宮という父子は淀城へ落ち入った。
そのような中、薬師寺たちが味方と頼んだ前将軍家(足利義材)勢力、細川慈雲院(成之)の阿波細川家、
畠山卜山(尚順) らの後詰めの出勢が遅れ、故に久しく持ちこたえること出来ず、同二十日、終に
淀城は攻め落とされ、四ノ宮父子を始めとして尽く討ち死にした。
城将の薬師寺元一は生け捕りとなり、かくして京勢は帰陣した。
この戦果に細川政元は大いに喜び、大将であった薬師寺与二に「与一は汝の心に任せて腹を切らせろ」と
命じ、与二は「畏まり候」と、兄与一元一を、彼が先年船橋の当たりに菩提寺として建立した一元寺という
寺へ送り、そこで腹を切らせた。
薬師寺与一元一は、最期にこう言った
「私は主君へ野心の企てがあったのではない。ただ細川家が長久にと思い、事を起こしたのだ。
私は一世の間、終に二心を持たなかった。故にその心を名に顕し、与一と言い元一と名乗り、
寺をも一元寺と名付けたのだ。
只今、腹をも一文字に切るべし!」
そう、腹一文字に切って死んだ。生年二十九歳であったという。
(應仁後記)
薬師寺騒動についてのお話
魔法に専念すれば空も飛べるのか
普通は滅亡話のフラグとして変な術に凝ってるとか言われるのに
少なくともこのエピソードでは普通に勝ってるしw
>しかし近年細川政元は、政務を粗略にし、専念して魔法を行い、空の上へ飛び上がり空中に立つなど、
⊂⊃ ⊂⊃
⊂ \ /⊃
\\ /政ヽ//
⊂⊃ (( \( ^ω^) ))
/| ヘ 空も飛べるはず
//( ヽノ \\
⊂/ ノ>ノ \⊃
レレ スイスーイ ⊂⊃
彡
\____________________/
(⌒)
 ̄
O
。
/政ヽ
⊂二二二( ^ω^)二⊃
| / ブーン
( ヽノ
ノ>ノ
三 レレ
追ってきた武田軍が渡る頃には石が元の布に戻り武田の徒士が転落したというもの
地元じゃこの説が有力
どっちにしたってあり得ん話やん…
きっと細川政元が空を飛ぶ度に
普通に飛べるようになってるの草
しかし細川澄元家臣の三好之長は、澄元を伴い近江国甲賀の谷へ落ち行き、山中新左衛門を頼んで
近江甲賀の軍士を集めた。
また細川一門の細川右馬助、同民部省輔、淡路守護らも味方に付き、さらに秘計をめぐらして、
畠山も味方に付け大和河内の軍勢を招き。程なくこの軍勢を率いて八月朔日、京に向かって
攻め上がった。
昔より主君を討った悪逆人に味方しようという者はいない。在京の者達も次々と香西、薬師寺を背き
捨てて、我も我もと澄元の軍勢に馳加わり、程なく大軍となった。そこで細川澄元を大将とし、
三好之長は軍の差し引きを行い、九郎澄之の居る嵯峨の嵐山、遊初軒に押し寄せ、一度に鬨の声を上げて
入れ代わり立ち代わり攻めかかった。そこに館の内より声高に「九郎殿御内一宮兵庫助!」と名乗り
一番に斬って出、甲賀勢の望月という者を初めとして、寄せ手の7,8騎を斬って落とし、終には
自身も討ち死にした。
これを合戦のはじめとして、敵味方入り乱れ散々に戦ったが、澄之方の者達は次第に落ち失せ、残る
香西薬師寺たちも、ここを先途と防いだが多勢に無勢では叶い難く、終に薬師寺長忠は討ち死に、
香西元長も流れ矢に当たって死んだ。
この劣勢の中、波々下部伯耆守は澄之に向かって申し上げた
「君が盾矛と思し召す一宮、香西、薬師寺らは討ち死にし、見方は残り少なく、敵はもはや四面を取り囲んで
今は逃れるすべもありません。敵の手にかけられるより、御自害なさるべきです。」
九郎澄之
「それは覚悟している」
そう言って硯を出し文を書いた
「これを、父殿下(九条政基)、母政所へ参らすように。」
そう同朋の童に渡した、その文には、澄之が両親の元を離れ丹波に下り物憂く暮らしていたこと、
また両親より先に、このように亡び果て、御嘆きを残すことが悲しいと綴られていた。
奥には一種の歌が詠まれた。
梓弓 張りて心は強けれど 引手すく無き身とぞ成りける
髪をすこし切り書状に添え、泪とともに巻き閉じて、名残惜しげにこれを渡した。
童がその場を去ると、澄之はこの年19歳にて一期とし、雪のような肌を肌脱ぎして、
尋常に腹を切って死んだ。
波々下部伯耆守はこれを介錯すると、自身もその場で腹を切り、館に火を掛けた。
ここで焼け死んだ者達、また討ち死にの面々、自害した者達、都合170人であったと言われる。
寄せ手の大将澄元は養父の敵を打ち取り、三好之長は主君の恨みを報じた。
彼らは香西兄弟、薬師寺ら数多の頸を取り持たせ、喜び勇んで帰洛した。
澄之の同朋の童は、乳母の局を伴って九条殿へ落ち行き、かの文を奉り最期の有様を語り申し上げた。
父の政基公も母の北政所も、その嘆き限りなかった。
(應仁後記)
細川澄之の敗北と切腹についてのお話
すぐに大阪城へ使いを立てた
『今回の戦乱中、伏見城にて討ち死にを遂げた鳥居元忠、松平家忠、同五左衛門三名の首を
当地に取り寄せ実検を行ったとある上は、この一乱、秀頼公の企てであるのは紛れも無い事であり、
これより攻め滅ぼさせていただく。』
この口上に大阪城中は驚愕し、秀頼の母である淀殿はこれを請けて申した
『秀頼は未だ幼年であり、一乱を企てることは申すに及ばず、首実検の事も毛利輝元、その他奉行たちの
仕業であり、秀頼の存ずる義ではない』
そう一々に詫言したため、秀忠は京へ戻った。
そこで徳川家康がこの事を聞き、
「秀頼公については赦免し、今後は御蔵70万石ほど宛行うように。」
と仰せになった。
その発言までは諸家も旗を張り立て一戦の支度をしていたが、秀頼安堵の情報が伝わると、諸手ともに
旗を治め休息した。
(駿河土産)
これはおそらく史実ではないのでしょうけど、ここでも対豊臣強硬派が秀忠で、穏健派が家康なんですね。
引田の浦を取ってかけ持ちにし時変を考えた
安富肥前守はもとより秀吉公へ人質を出していたので土佐方へは従わず
雨瀧城をあけて小豆島へと渡っていた
秀久はまず屋島を取って城としようとしたが、山高くして益がなかった
幸いに高松城(喜岡城のこと)という良き城があり、これを攻め取らんとして
二千余人をもって取り上がり押し寄せたが
城主高松左馬助がよく守ったため抜けず、また空掘であったが数尺に切り立ち
底深い掘であったので、攻め手は蟻の如く群がったが、ついに城を攻め取ることができず引き返した
この際城中の鉄砲に当たって死んだ者が数十人あった
次に八栗が嶽の城を検察したが、険要のみにして治をなすには益がなかったため
志度の浦に戻り、結局そのまま小豆島へと帰帆した
その後仙石氏は少兵だったため、(土佐方の)香川氏・香西氏などには手向かわず
島伝いにあちらこちらに上陸し、少々の成果があった
土佐方は、高松城は国家の治道をなすべき立地であるから
久秀はまた攻め来たるだろう、加兵を入れて守らすべしとして
香西家臣唐人弾正、片山志摩守らに加え寄子百余人を指し使わし
城兵と共に二百余人をもってこれを守らせたため、城中はますます強くなった
(南海治乱記)
新居の物件探しをしてたら上手くいかず、いつの間にかゲリラ活動をする羽目になったお話
この後に引田の戦いが起こり、仙石秀久は讃岐から撤退します
天文18年(1549)11月26日より、将軍大御所(足利義晴)は御病気となる。
上池院法印紹弼が御薬を調進し奉る。
12月4日、御所御快気により伊勢国の住人・加多兵庫助教員が所持する竟花と号する
大鷹を、彦部雅楽頭晴直をもって召され長等山で御狩をされた。近衛准后父子、細川家
以下が供奉し、三井の衆徒ら多くが出迎え夜に入って御帰りとなった。
浅井久政は進藤山城守貞治に語って曰く、「将軍家の様子を見るに、武の御器量は甚だ
少なし。伊勢の加多が秘蔵する鷹を召して御慰みとなさるのは、今なさることではない。
ただ義士を集めて武林のもとに慰みなされば、何ともなく御運も開かれるであろう。
人はその作用に疎き時、必ず家を失うものぞ。
将軍家は和歌に達しなさるよりも武に達しなされば、まことに先祖の大功もおのずから
輝かせなさることだろう」とのことであった。
同21日よりまた将軍大御所は御病気となる。今度は片岡大和守晴親が御薬を奉った。
19年正月5日より、足に腫気があり、また上池院が御薬を奉った。同8日には山徒
正覚房法印の勧めによって御近習12人が登山して、中堂まで千度巡礼を行った。
久政はこれを聞いて曰く「人は必ず滅びんとする時に、まず空しく物事にかかって内に
留まらない。よって物を頼むのだ。これが前触れである。
鬼神には常に祈るもので事に臨み祈るべきものではない。ああ、将軍家が他界されれば
三好が時を得て、天下は三好のものとなるであろう。
これは武将の勤めてはならぬ過ちである。自己の神明を磨き出す人は希であるから、
皆々がこのようなものである」と言ったのだという。
――『浅井日記』
雞足院導賀、浅井久政が代官として登山した。
7月28日、将軍家(足利義輝)の許容により、前右京大夫晴元父子が上洛した。
これは佐々木左京大夫義賢(六角義賢)があらかじめ申しなしたからである。
久政はこれを嘆いて「ああ、これは乱のもとか。今の武将(将軍)は有名無実なり。
足利家の滅亡はほとんど近きものとなった」と言った。
8月朔日、三好長慶は前の右京大夫晴元父子が許されて上洛したと聞き、摂津・
河内両国の兵2万余人を引き連れて上洛した。将軍家は防戦に
及ばず、京都を去って丹波国山国に下りなさった。同13日、義藤公(義輝)は
勅命により上洛された。
――『浅井日記』
浅井日記は久政を悪く描いてないのは面白いけど六角義秀がバンバン出てくるし、
久政隠居もスルーされててうーんとなる。
秀吉に
つまらん。ありえん。
蜂須賀彦右衛門尉正勝、黒田官兵衛尉孝高を検使とし
仙石權兵衞尉秀久、尾藤甚右衛門尉知定
杉原七郎左衛門尉家次、小西弥九郎行長、共に七人の兵将二万三千人をもって讃州に発向した
四月二十六日に屋島の浦に到着し、北の峯に旗を押し上げると
国中の人民これを見て騒動すること言うばかりもなかった
ところが北の峯は分内狭迫にして兵を留めるのが難しく、そのため南の峯へと移ったが
この山も上代の名城なれど山高くして戦さをなすには用がなく
其の日下山して牟礼高松に上った
さてここに喜岡城という小城があり、高松氏世々の居城であった
香西伊賀守の旗下なれば、加番として唐人弾正、片山志摩守を兵将として百余人指し使し
高松左馬助配下の百余人と共に、二百余人をもって城を守っていた
この城は去年仙石秀久、小西弥九郎らが二千余人をもって攻めれども
堅城なれば落とすことができず、この度四国の手先に在って大軍の馬蹄にかかる事となった
秀吉公の御目代黒田孝高が宇喜多秀家に向かって曰く
「小塁(小城)あり、この度の手始めなれば、踏み落として然るべし
高松山の松を切り寄せ、これをもって堀を埋め上げ足場とし
一時攻めに陥とし国人の聴を驚かすべし」とて全軍に下知されたが
仙石氏これを聞き
「これは我が去年攻め残したる城なれば、他人の手にかけさせるべからず!」として勝手に攻め寄せた
このため攻め具を待たずに、総軍相争って蟻の如く城に取り付く有様となり、この時死ぬ者が多かった
城内にも鉄砲百挺ばかりあったが、敵兵二万余が天地を響かせ攻め寄せると
掘塀堅固とはいえ、猛勢に切所なければ、大軍がいやが上にも重なり
何の造作もなく落城し、二百余人の者ども一人も漏らさず攻め殺された
(南海治乱記)
三好長慶が供奉、翌日に将軍・義藤公(足利義輝)に謁見した。
3月11日、細川氏綱は右京大夫に任じられ管領に補任された。弟の藤賢は右馬頭に
任じられる。時に三好長慶、天下の権を執る。
この時、三好の家人・松永弾正忠久秀は、長慶の長男・義長(義興)の乳母と嫁して
諸事を沙汰した。その奢りは甚だし。長慶はこの松永を京都に留めて万事を下知した。
松永は西岡の凡下の者であったが方々に移り変わり、終いに三好に仕えるに至って
内縁に懸かることはこの如し。
6月10日、越前国主・朝倉左近将監延景が上洛し、将軍家(義輝)に謁見した。
延景は偏諱を賜って義景と号した。
義景は実は近江佐々木の管領・佐々木氏綱朝臣(六角氏綱)の二男で、朝倉弾正忠
孝景がこれを養子とした。
7月8日、朝倉義景は帰国、この時に左衛門督に任じられ従四下に叙された。義景は
近江に滞留し、浅井下野守久政の館・小谷の城において軍事を評論した。
(久政曰く)「今の世に武道に正しき将なし。運に乗じて一旦の功ありといえども、
後代、武の亀鑑に備わるべき者なし」
義景曰く「我が武は子孫の繁栄をもたらすとしても、私自身は非道(正道ではない)
なので身を立てることはないであろう」
(今世武道に正しき将なし。運に乗じて一旦功ありといふども、後代亀鑑に備ふべき者
なしと、義景曰、夫れ吾が武は子孫の繁栄を能くすと雖も、非道にして身を立てずと。)
――『浅井日記』
細川家の領国である丹波国の住人、香西四郎左衛門元盛は道永禅門(細川高国)の家臣であり、かの家の
沙汰を執り行い、威勢諸人の上に立ち驕りを極めていた。
この者の弟に柳本弾正忠(賢治)という者が居た(実際には兄)。彼は若年の頃は美童であり、高国は
彼との男色にひたられ、この者を寵愛し、成人の後、今に至りて俸禄身に余り、栄耀人に超えて、
香西・柳本兄弟の権勢は並ぶ者なかった。
この頃、細川右馬頭尹賢の所領である摂州尼崎に城を築く事を、高国は諸家に命じた。細川一門一党の
人々は日夜土石を運ばせ造営の役を勤めた。香西兄弟も尼崎に下ってこの役を勤めていた所、彼らの
下部の者達が、細川尹賢の人夫と、土一貫の事について争い口論に至り、やがて双方数百人に分かれて
瓦礫を投げ合う騒動と成った。しかし他家のの人々がこれをどうにか取り扱い和平をさせて、両方を
別け隔て、尹賢の者達は城中に入り、香西の人夫は丁場へと帰った。ところが、香西方のあぶれ者の一部が、
下知を聞かず尚も居残り、戯れに城中へと石礫を投げ入れた。
しかしこの行為に細川尹賢は怒った。
「和平の上に、さらに狼藉を働くなど以ての外の奇怪である!しかしこれは香西の慮外であるから
下部の者達を咎めるべきではない。」
そう、一旦は怒りを収めたが、香西は驕りの故であろうか、その後この事について細川尹賢への陳謝が
無く、そのような事は無かったかのように接した。
これに尹賢は鬱憤を重ね「あの兄弟、日頃の驕りに加え、さらにまた今回の事があった上は、彼らを
亡き者にしなければならない。」そう考え陰謀を巡らせた。
この香西元盛は文盲不学の者であり、常々料紙14,5枚ごとに判形を押しておき、手書きの部分は
彼が召し使っていた矢野宗好という者に、かの判紙を預け置いて、諸方書通のたび毎に宗好次第に
状を書かせ、書礼を進め返した。ところがこの頃どうしたことか、この宗好は香西の命に背き牢人
していた。
これについて、尹賢はハッと思いつき、密かに宗好を招き寄せ色々と語らい、彼の元に香西の判紙が
残っていることを確認すると、そこに秘計の状を書かせた。
その内容は、細川高国の仇敵である阿波の故細川澄元の残党である三好家の者共と、香西元盛が一味している、
というものであった。香西の判形紛れも無いよう拵えさえ、尹賢はこれを密かに高国の元へ持参し
「香西の謀反紛れもありません!」
と、その偽造した書状を証拠として誠らしく言い立て讒言をした。これに高国は、心浅くも真実と
判断し、「事を起こされる前に、早急に香西を誅さねばならない!」と、尹賢と示し合わせた。
しかし、突然高国は思った
「香西元盛を誅殺すれば、弟の柳本は私に仕えることが出来なくなってしまうだろう。年来、この柳本は、
この道永(高国)が『命に変えても』と契約した仲であり、いかにも名残惜しい。」
高国は様々に思案し、漸く思いつき、柳本へ起請文を書いた
『香西を誅殺するが、彼は謀反の者であるから是非に及ばぬ次第である。しかし柳本弾正に対して、
道永は少しも異心を持っていない。」
そう心情を顕し、これを文箱へ治めた。
者達を定めておき、大永6年7月13日、高国の館へ香西は召された。香西元盛は自分がそのような
状況に置かれているなど夢にも知らず、何の警戒もなく急ぎ高国の館へ参り、遠侍に入ると、
若殿原二人が出迎え、「太刀と刀を渡されよ」と言う。香西は少しも騒がず太刀と刀を渡し
「何事があったのだろうか」と不思議に思う体にて座っていた。
その間、暫く時刻が過ぎた。細川高国は待ちかねて「香西は遅きぞ」と言った、
これを細川尹賢は聞き間違えたふりをして、かの討ち手の二人に云った
「香西は遅いと言われた!早く斬るのだ!」
二人は即座に走り寄って香西を斬り倒し、その頸を落とした。無残と言うも愚かである。
細川高国はこれを知ると「一体どう言うことなのか!?」と驚いたが、もはや力及ばず事は済んでいた。
その後、高国よリ、あの文箱を柳本賢治の元へ遣わした。書中に
『その方の兄である香西は謀反人であるから、国家のために誅するのだ。その方に今更恨みを含む
事ではない。年来の契約は忘れていない。今後いよいよ、忠義を尽くしてほしい。私は今までと
少しも変わらず、お前を懇ろに扱う』
これを誓詞に認め言い送った。
柳本は起請文を開かないまま高国の館へ持参し、「これは勿体なき仰せです。兄の香西元盛は
逆心の罪科にて誅せられた事であり、私は少しも恨みを含んでおりません。
兄の罪科にお構いなく、前々のごとく私を召し使って頂けるとのこと、その御厚恩は生々世々に
報いがたいものです。この上は私に置いては、今後一層の奉公の忠を尽くして勤めます。」
そう感涙を流し宿所へ帰った。
その後、柳本は実際に努めて忠義を尽くしたため人々も感心し「流石道永禅門が年来目利きして
柳本を寵愛していたのは尤もの事だ。これほどの忠臣は世にも稀である。」
そう褒め称えたという。
(續應仁後記)
香西元盛謀殺事件のお話。だがしかし
打ち付けるような音がしたので、いずれの者も驚いた。御神前の番・相田喜左衛門と申す者は
御供所の方からと聞いて見に出ると、御供所にいた神田武兵衛と鈴木次郎三郎は神楽所の辺り
から音を聞いたとのことで、出合わせて見てみたが何ら変わった様子もなかった。
また常々御神前には鼠が多いため、御供えの餅を鼠が食べないように毎年寝ずの番をしていた
のだが、明くる正月3日の晩から突然鼠がいなくなったので火の用心をしていたところ、
18日・19日に江戸で大火事があった。以後また鼠が出るようになった。
――『東照宮御奇瑞記』
東照大権現、明暦の大火を警告するというお話。
となったことは、神武天皇以来なかったことである。諸卿はこれを難儀とした。
近衛殿・鷹司殿・綾小路殿・庭田殿・五辻殿・中原大外記など皆近江に下向されて佐々木
の屋形(六角氏)を頼り、観音寺城下の常楽寺・慈恩寺に寓居された。
この他の諸公家も皆国々に下ってその所縁をへつらい、末々の殿上人・地下人らは摂津・
河内・近江などの間に徘徊して民間に交わった。
また京都を御出にならない人々には、商家に身を寄せて朝夕をしのぐ人もいた。あるいは
一椀の食を求めんがために門戸に侘び立ちすれば、戦国の習いで案内・検見(斥候)の者
かと怪しみ捕らえられ、詰問の責に及ぶ人もいた。あるいは賊のために討ち殺された人の
妻子や眷属として所々に迷い行き、愁嘆のあまり淵瀬に身を投げたり、自ら湯水を断って
渇死する人もいた。その消息は中々見るに忍び難く、哀なること前代未聞なり。
――『浅井日記』
山形県民の敬愛する・・とか捏造するのやめにしない?
あれは「山形市」の武将だからね?
なにしろ山形県内の四つの地方のうち、二つは最上家改易のおかげで成立した城下町(庄内藩・新庄藩)が中心だし、
もう一つは上杉家米沢藩だし
山形市周辺も同じく最上氏改易で成立した小藩がもとになってたり、最上義光に謀殺された地元武将を顕彰してたりするしね
意図的に貶める向きが山形市内であった過去から見直しが入るのは結構なことだが、やっぱり山形市以外はほぼ関係ないんですよ
突然どうした?
広島とか岡山とか、かつての毛利や宇喜多と江戸期の浅野と池田の扱いはどうなってんのかね?
岡山は知らんが広島は完全に毛利の町。福島正則とか浅野とか殆ど意識されない。元就公一色。
その揺り戻しみたいなもんだからしばらくは仕方ないんじゃないの
そりゃ、維新の勝ち馬に乗りたいやろ…
是に於て豊臣氏は秀久の功を賞して当国(讃岐)に封じた。
(この時十河存保を山田郡二万石に分封)
さて秀久は宇足津の古城を修理してここに移ったが
当時の民情穏やかならずして、互いに結党し、国主に貢納するものがなかったため
秀久は直ちにその首魁どもを捕らえてこれを煮殺した。
また香川郡安原村の民が香西伊賀守の妻女を匿っているのを知ると
ある者は磔(はりつけ)に、またある者は斬首したため、ここにおいて一国の人民皆恐怖し従った。
(香川県史)
八幡神社(安原村大字安原下字平賀)由緒
世俗では岳八幡、又は平賀八幡と称せり。
社記、香西雑記等によれば、天正年間に仙石権兵衛秀久当国に封を受け、引田より宇多津に移居した。
時に当村の百姓等乱を起こし、秀久の命に服さなかったので乱民百余名が刎せられた。
そのため里人恐怖して安住せず、離散する者がすこぶる多かった。
この時当社御神体を奉じて葛西郷に至った者達がおり、そこで小さな祠を営んだ。
これが現在の香西町平賀神社の地であると言う。
(香川県神社誌)
仙石秀久讃岐入部時の弾圧とそれによって生まれた神社のお話
この辺のこと、例のマンガではなにも描かれないんだろうなぁ。
移民政策を取れば万事上手くいく
張り渡し、武田本陣の大勢はその綱に取り付いて向かいの岸に上がり、大野の蘆萩の茂る中の
細道より旗・指物を伏せて忍び出て、謙信(上杉謙信)の本陣へと鬨の声を上げて切り入った。
このため越後勢の謙信本陣は一度にどっと敗軍したので、武田方は勝ちに乗って追い打ちした。
晴信が勇み喜んで旗を進められたところに、大塚村に備を立て申していた越後勢の宇佐美駿河守
定行2千ほどの勢が横槍に突き掛かり、晴信本陣を御幣川へ追い入れた。
そこへ越後の侍・渡部越中守翔5百余勢が馳せ付けて晴信本陣へ切って掛かり、宇佐美駿河守と
揉み合い信玄本陣を立ち挟んで討ち取り申した。武田の人馬は河水に流れる輩、または討たれる
者と数知れず。謙信本陣勢も取って返し、晴信本陣を討ち取り申した。
越後方の上条弥五郎義春・長尾七郎・元井日向守・沼掃部・小田切治部・北条丹後守・山本寺
宮千代・青川十郎・安田掃部以下も政虎(謙信)同様に御幣川へ乗り込み、槍を合わせて
太刀打ち・高名をなした。その他手柄の侍は多く、また討死の者も多かった。信玄も30騎ほど
で川を渡り引き退いたところを、謙信は川中へ乗り込んで信玄を二太刀切り付け申した。
信玄も太刀を合わせて戦い申されたところで、近習の武田の侍たちが謙信を中に取り込めたが、
謙信は切り払って中々近付くこともできない様子であった。
そのうちに信玄と謙信は間切れ致して押し隔てられた。その時、謙信へ掛かった武田近習の侍
19人が切り付けられた。
謙信は人間の挙動ではなく、まさに鬼神であったという。
(謙信は、人間の挙動にてなく、唯鬼神にて候と申候。)
その折はまさか謙信とは知らず、甲州方では越後侍の荒川伊豆守(長実)であると取り沙汰され
ていた。後に政虎と分かり「討ち止めるべきものを、なんとも残念だ」と皆々が申したという。
信玄は御幣川を渡って生萱山土口を目指し、先陣と後陣がひとつになって敗軍した。甲州勢は
塩崎の方へ逃げる者もあり、また海津の城へ逃げ入る者もいた。
中条越前(藤資)は小荷駄を警固していたところへ、塩崎の百姓数千人がくり出して小荷駄を
奪うため、中条はこれを切り払い散々に戦った。
この時、上杉・武田の両軍は入り乱れて散々に戦ったので、敵・味方の手負い・死人は数知れず。
信玄は敗軍して土口と申す山へ退き申され、上杉勢は追い詰めて土口で甲州方数百人が討たれた。
――『川中島五箇度合戦之次第』
「あいつ人間じゃねえ!」と言わしめた上杉謙信の武勇
その中で真田弾正幸隆は傷を負って引き退くところを、上杉方の高梨源五郎頼治が名乗りを
上げ、真田とむずと組んで押し伏せ、鎧の脇板の隙間を二刀刺し申した。
そのうちに保科弾正(正俊)が取って返し、「真田討たすな兵ども!」と言って戦い申した。
真田の家人・細屋彦助は下に合わせ高梨源五郎の草摺の外れ、膝の上より討ち落とし、主の
敵を取った。これより保科を“槍弾正”と申したという。
保科もその時に越後方の大将に取り籠められ、すでに危うく見えたところを後詰の侍の海野・
望月・矢代・須田・井上・根津・河田・仁科ら9人の侍がこれを見て「保科討たすな人々!」
と大勢で一度に鬨を揚げ追い散らし、越後の本陣近きところまで切り掛かり申した。そこを
越後の後詰の陣所より斎藤下野守朝信・柿崎和泉守景家・北条安芸守・毛利上総介・
大関安房守ら3千余勢が鬨の声を揚げて切り出て、追い返し押し戻し戦い申した。敵・味方
の手負い・死人、算を乱して数を知らず。
謙信も紺地に日の丸、白地に“毘”の字の旗2本を押し立てて原の町に備を立てられた。
――『川中島五箇度合戦之次第』
真田幸隆、危機一髪
真田信繁の傅役の高梨内記の兄説があるようだけど
この逸話を見ると無理があるような
その仇を討ち止め申すべしと、仇を探された。
その時、謙信は川の向こう岸へ着かれ、左馬助は大音を揚げて「そこへ引き取り申されるのは
大将・政虎(謙信)と見受けた! 私は武田左馬助である! 兄の当の敵なので勝負なされよ!」
と申された。謙信は乗り戻すと「私は政虎の郎等・甘粕近江守(景持)と申す者である! 貴殿の
敵には不足であろう!」と申し捨てて、川岸に乗り上がった。
左馬助は主従11騎で打ち濡れて川を渡り申した。謙信は川岸に馬を立てて待ち受けた。
左馬助は左右を睨み「敵は一騎であるので信繁も一騎で勝負する! 皆々後ろへ下がるように!」
と命じて真っ先に渡ったところを、政虎は河へ馬を乗り入れて左馬助と切り結んだ。
左馬助は運尽きて左の高股を打ち落とされ、川へ逆様に落ち入った。
謙信は向こう岸に乗り上がり、宇佐美駿河守(定行)が7百余勢で備える中へ馳せ入り申された。
(原注:一説に武田左馬助信繁を討ち取ったのは村上義清であるという。上杉家では謙信が直に
左馬助を討ち取ったと申し伝えている)
――『川中島五箇度合戦之次第』
>私は政虎の郎等・甘粕近江守(景持)と申す者である! 貴殿の
>敵には不足であろう!
ず、ずるい…wまあ兵法にずるいも何もないけど。