三国志に登場する蜀の人物
劉備
劉備は蜀の国を建国する。
字は玄徳。前漢の景帝の玄孫である。幼くして父は亡くなり、わらじやむしろを作って、生計をたてて暮らしてきた。
劉備は身長7尺5寸、両耳が肩まで垂れていて、目で自分の耳を見ることができた。手は膝の下まで届く長さがある。顔は白玉のよう、唇は紅を差したようだった。学問はあまり好まず、喜怒を顔に出さない。
(演義では)黄巾賊退治のための高札を見てた劉備に張飛が声をかけ、一緒に酒屋にはいる。
すると、酒屋では関羽が一人で飲んでいて「俺は黄巾討伐の兵に参加する」と言う。
三人は意気投合し、 張飛の家の裏の桃園で義兄弟の誓をする。これが有名な「桃園の誓い」である。
劉備は、黄巾賊退治で功績を上げる。しかしもらった官職は田舎の県尉だった。
劉備を視察に来た督郵と言う役人は、劉備に賄賂を求めた。怒った張飛は督郵を柳の枝でたたいた。
のち公孫サンのおかげで、平原の県令となった。董卓討伐軍に参加し、関羽・張飛と一緒に呂布と互角に戦う。
後、曹操に攻められた徐州を(太守は陶謙)助け曹操と和睦、徐州をあずかった。
しかし、袁術討伐の際、徐州を猛将・呂布にとられる。劉備は曹操の元に身を寄せる。
呂布処刑後、劉備は帝に対する曹操の振る舞いに怒り、曹操 暗殺計画に参加した。
この計画は漏れて劉備は袁紹を頼って逃げた。この際関羽とはぐれる。袁紹と曹操の対立が深まった。
劉備は袁紹に見方するが、このとき関羽は「劉備が見つかったら主人の元に帰る」という条件付で曹操の元にいた。
劉備はこのことを知り、関羽を呼び寄せた。そして、曹操から逃れるため荊州の劉表を頼った。
しかし、劉表一家のお家騒動にまきこまた。曹操も袁紹を討ち、荊州に攻めてきた。
水鏡先生や徐庶の勧めで諸葛亮孔明を軍師とした。江南の孫権と手を結び、赤壁におき火攻めで曹操を破る。
そして、長沙など荊州の南4郡を手に入れた。
面白くない孫権は、政略結婚の罠にはめようとしたが、孔明の策と趙雲の働きで回避した。
劉備はホウ統を副軍師に迎え、蜀をとった。そして、黄忠の働きで定軍山をとり、劉備は漢中王となった。
しかし荊州では、関羽が戦死。蜀が揺らぐ。復讐戦に燃える劉備だが、張飛があっけなく死に、劉備も陸遜に敗れた。
劉備は永安宮で病の床につき、223年、63歳の生涯を閉じた。
劉備の魅力はやはり、民衆を引き付ける力だと思う。
孔明
お待たせ!伏龍先生の登場です!!
諸葛亮、字は孔明。普通は字をとって諸葛孔明と呼ばれる。
前漢の司隷校尉・諸葛豊の子孫で父は諸葛珪。兄は呉に仕えた諸葛瑾である。
孔明は自分を管仲・楽毅になぞらえた。南陽に住み、晴耕雨読の暮らしをしていた。
風貌は、身長8尺、顔は冠の白玉のよう、頭には綸巾(頭巾)、身に鶴ショウ(道士の衣) をまとい、神仙の風韻を漂わせる。
劉備に三顧の礼で迎えられ、荊州と益州をとって孫権、曹操に対抗する天下三分の計を提案した。
劉備は孔明と親密に交わった。水魚の交わりという。
孔明は、荊州をとるように言うが、劉備は劉表を攻めることができなかった。
孔明は、呉の魯粛が荊州に来ので、魯粛とともに呉へ行った。
呉では、曹操と戦うかどうかを論争していた最中だった。
孔明は孫権と呉の水軍大都督(水軍の総監督者)・周瑜を説得し開戦へ踏み切らせた。
しかし、曹操を破るには東南の風が必要だった。冬には北西の風しか吹かないからだ。
孔明は、壇を築かせ祈ると、11月20日に東南の風が吹き出した。
そして、赤壁の戦いに突入したのである。関羽の配置では、わざと曹操の義理を果たせる配置にした。
孔明は、周瑜と「荊州をとれなかったら私がとる。」と約束した。
周瑜は毒矢にあたり、 苦戦をしていた。孔明は曹操軍を欺き、南郡・襄陽ととった。つぎに、趙雲・張飛・関羽の活躍で、4郡を手に入れた。周瑜と荊州をめぐった争ったが、ついに周瑜は矢傷がもとで亡くなった。
ホウ統も仲間に入った。
劉備は蜀に向かった。孔明は、関羽らと荊州に残った。ところが、ホウ統は途中で戦死。
孔明は関羽を荊州に残し、劉備を助けに向かった。孔明は馬超を味方にいれ、 ついに蜀をとった。やがて、曹操が漢中をとったので、孔明は荊州3郡を返し、 孫権に合肥を攻めさせた。定軍山の戦いでは、黄忠の力を見抜き、定軍山をとる。
しかし、関羽が呉に殺された。劉備は復讐戦をしようとする。孔明は諌めるが聞かない。
劉備は陸遜の火計で敗れる。陸遜は追撃したが、孔明の策・石兵八陣に迷い、劉備は 無事に白帝城に逃げ込んだ。劉備は息子・劉禅を託し死んだ。
孔明は呉との国交回復に尽くした。成都の南で反乱が起きると孔明は、その首領・孟獲を 七回捕らえ、七回許した。こうして孟獲を心から降参させた。
そして、北伐である。孔明は司馬懿だけを当面の的だと思っていた。流言を流し、司馬懿を失脚 させたが、姜維を仲間にした後、司馬懿は復活した。街亭では馬謖が命令違反して敗れ、 カク昭には勝ったが、序盤苦戦した。ついに、司馬懿との直接対決になった。
孔明は「八卦の陣」を変化させたり、上方谷で火計を使って司馬懿を攻めるが、勝てない。
孔明も病気になっていた。北斗に祈って寿命を延ばそうとしたが失敗した。
そしてついに巨星は落ちた。孔明は息絶えた。234年8月23日、歳は54であった。
孔明は死ぬまぎわ、漢中への退却を指示していた。この策は、見事に司馬懿を欺いた。
人々は「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言いはやした。
趙雲
趙雲、字は子龍。常山郡の出身、身長は8尺、眉が濃く目が大きい。顔が広く肉付きが豊か。
蜀の5虎将軍の一人である。(他のメンバーは関羽・張飛・黄忠・馬超)
初めは袁紹に仕えていたが、袁紹に愛想をつかして公孫サンに仕えた。
公孫サンは、はじめ趙雲を袁紹の罠だとわるいと考え、趙雲には後詰めをさせた。
公孫サンは袁紹に敗れ逃げる。趙雲は単騎で袁紹軍に斬りこみ大活躍。
このとき劉備が応援に駆けつけた。劉備と趙雲の出会いである。劉備は趙雲に「いずれまた
会う日に」と言い、別れた。
趙雲の再会は劉備たちの主従再会のときである。劉備は袁紹から、関羽は曹操から離れ、
汝南の城へ向かったときである。このとき趙雲は公孫サンが死にさすらいの身となっていた。
趙雲は劉備と主従の関係を結んだ。劉備は荊州に身を寄せた。張武らの反乱では、この鎮圧に
活躍した。このとき劉備に差し出した馬が「的盧」である。
徐庶の作戦でも忠実に作戦に従い曹操軍に大勝。趙雲の見せ場は次の長坂での戦いである。
劉備は曹操から逃るため住民を引き連れ、南下したが追い付かれてしまった。
趙雲は乱戦のなか劉備夫人を見失う。趙雲は夫人と阿斗(劉禅)を救うため魏軍に斬りこんだ。
曹操軍の将・夏侯恩を斬り名刀「青コウ」を奪い、ようやく、怪我を負った夫人を発見する。
夫人は「私がいると足手まといになる」と言い、阿斗を託し近くの古井戸に身を投げ死んだ。
趙雲は阿斗を懐に隠し、曹操軍の囲いを突破した。そして張飛に長坂の橋を任し、劉備に
報告した。その後趙雲の活躍は、赤壁の戦いで、孔明を迎えにきて呉軍から守り、烏林で
曹操を待ち伏せ曹操軍にダメージを与えた。荊州南郡攻略では桂陽取りで活躍。
周瑜の政略結婚の策では孔明の錦の袋の策に従い、無事劉備を帰還させた。呉は荊州のため
阿斗の人質作戦にでるが、趙雲は策を見破り、張飛とともに阿斗を救った。漢中の戦いでは
黄忠とコンビを組み、曹操軍に当った。趙雲はわざと城を開門させただ一騎で前に立った。
曹操軍は趙雲に近づいく。しかし趙雲は顔色一つ変えない。気味悪がった曹操軍は退いた。
(後の孔明の空城の計)劉備は「趙雲の満身これ胆である」と褒めた。後、関羽が討たれ
劉備が呉に出陣しようとしても、趙雲は「魏と戦うべきで、呉に戦いを挑むときではない」
と諌めた。劉備死後、南征で活躍。北伐では、韓徳の息子4人を相手して、全員討ち取った。
(ここで趙雲はいつのまにか老将の仲間入り)しかし、敵のワナにはまり囲まれてしまう。
ここで、張苞と関興(張飛・関羽の息子)が助けにきた。
天水攻めでは姜維の腕に感心し、街亭の敗北では、退却のとき一兵も失わず、見事にやった。
蜀の建興6(228年)趙雲は亡くなった。軍議の最中、趙雲の息子趙統と趙広が来たとの知らせで、 孔明は「趙雲が死んだ」と悟った。
今回もかなり抜粋し割愛した部分が多いので、
もう少し趙雲について知るには爆笑三國志6が良いと思います。(結構笑える)
ホウ統
鳳雛先生です。ホウ統は、漢字変換ができませんので、少々、読みずらい点があると思いますが、ご勘弁ください。
ホウ統は字は士元、孔明とならび称される天才軍師である。
しかし風貌は鍋のように黒い顔にげじげじ眉とししっ鼻。不細工な顔であった。
演義での登場は、呉の周瑜に呼ばれ、魏の間者・蒋幹と曹操の陣へ向かった時の事。
曹操に北兵の船酔の予防に船と船を鎖でつなぎ、ゆれを少なくと「連環の計」にはめた。
帰るとき徐庶に捕まった。徐庶は「連環の計」の真意を見破っていた。
ホウ統は、徐庶に曹操から逃げる策を与えた。
のち、周瑜が死んだとき、孔明は呉に弔問に訪れ、ホウ統と再会した。
孔明はホウ統に「劉備に仕えないか」と勧めた。呉の魯粛もホウ統を評価していたので、
孫権に対面させたが、孫権は、ホウ統の風采があがらないので、評価しなかった。
ホウ統は孔明、魯粛に推薦状をもらうが、劉備の元にやってきたホウ統は、推薦状を
出さずに、劉備に面会した。劉備は耒陽県の県令を命じた。しかしホウ統は、赴任しても 毎日酒の日々で、政務などはやらなかった。劉備は張飛と孫乾を視察にだした。
ホウ統は、張飛と孫乾の前で百日分の仕事を半日で片づけてしまった。
孔明は視察から戻り劉備によく話した。よって、改めてホウ統は副軍師にとりたてられた。
のち、蜀の張松が蜀を献上しようとしていることについて、ホウ統は劉備に受けるように 勧める。張松から「対面するとき、劉璋を斬れ」と手紙が届き、ホウ統は劉璋を斬るように勧める。
しかし、劉備は聞かない。仕方ないので、魏延に命じて、剣の舞とみせかけて、斬ろうとするが、劉備にばれ引き下がった。呉の張昭が、漢中の張魯に「荊州を攻めよと」仕掛けてきた。
ホウ統は、劉璋に援軍を送るようにと言ったが、劉璋は老兵ばかり送ってきた。
劉備は怒った。ホウ統は、劉備に益州攻めに3つの策を与えた。劉備は「フ水関をとって 成都へ進む」の策を採用し、フ水関をまもる、2将軍を捕えた。
ホウ統は宴席で楽しむ劉備に、「親戚の国を取って楽しむとはあなたらしくない」
と皮肉を言ってたしなめた。
蜀の彭永年が、フ城は危険な土地だと告げて来ので、戦っている黄忠と魏延に忠告した。
このとき、馬良が孔明からの書状を持ってきた。星が凶を告げているというのである。
ホウ統は劉備を励まし、さらに、ラク城へ進行する。
しかし途中、ホウ統の馬が暴れだし、ホウ統は落馬した。劉備は自分の馬をホウ統に
与えた。ホウ統は南の道を進んで行く。
山間の道でふと胸騒ぎを感じたホウ統は、地名を聞く。「落鳳坡」と言われ、驚く。
ホウ統の道号は鳳雛、すなわちそれが落ちるのだから不吉きわまりない。あわてて
後退させたが、敵(劉璋の軍)は白馬に乗っているのが、劉備だと思い込んでいた。
ホウ統はいっせいに矢を射かけられ落命した。まだ36歳だった。
関羽
関羽、字は雲長(前の字は長生)河東郡解県の人。
身長9尺、顔は棗のように赤く、唇は紅を差したよう。切れ長の目に蚕のような眉
髭の長さが2尺。「美髯公」とよばれた。武器は青竜偃月刀(せいりゅうえんげつとう)
薙刀の一種である。関羽は劉備たちと出会う前の経歴はよくわからない。
吉川英治の三国志では塾の先生、演義ではおたずね者である。
さて、桃園の誓いのあと、劉備とともに行動する。黄巾討伐では敵将・程遠志を真っ二つにした。
公孫サンのもとにいるときは、馬弓手をつとめた。董卓との戦いでは、自ら名乗り上げ
シ水関にて敵将・華雄を討ちとった。虎牢関では張飛に加勢をし、呂布と戦うがひきわけた。
のち、公孫サンと袁紹の戦いでは、公孫サンに加勢をした。北海の孔融が黄巾残党に
攻められたとき、劉備軍は加勢し、関羽は敵将・管亥を討ち取った。
曹操との呂布攻略で張遼と知り合い、関羽は呂布処刑のさい、曹操に張遼を斬るのを止めさせた。
のち、帝と曹操の巻狩りに劉備たちも同行した。曹操は帝の矢を取りその後も返そうとしない。
そのとき関羽は曹操に斬りかかろうとしたが劉備が止めた。曹操の態度に許せなかったのだった。
劉備は袁術をたおした。そのあと、劉備の留守中関羽と張飛は曹操の部下車冑が劉備をだまし討ち
にしようとしていることを知り、逆に関羽は車冑を討った。曹操は大軍で劉備を攻めたため、
徐州の近くの下ヒの城を守っていた関羽は、曹操軍に囲まれてしまった。張遼が関羽に曹操への降伏を勧めに来ので、関羽は3つの約束(1つ・漢に降伏するのであって曹操に対してではないこと
2つ・劉備夫人は丁重に扱い、指一本触れないこと 3つ・主の劉備玄徳が見つかったらここから
出て行くことを許可すること)を出し、曹操に降った。
関羽は曹操の元にいる間は金銀や美女には目もくれなかった。この時曹操は関羽に呂布の乗っていた名馬「赤兎馬」与えた。関羽は「これで兄者(劉備)が見つかったとき駆けつけられる」と喜んだ。曹操は後悔したのであった。
曹操と袁紹の戦いでは関羽は曹操の恩に報いるため、袁紹軍の顔良と文醜を斬った。
関羽は劉備が袁紹軍に居ることを知り、曹操の元を離れようとした。しかし曹操は関羽を手放したくないため、避客牌を下げて会おうとしない。仕方無く手紙を残し、出発した。
曹操はこれを知り、自分の度量の狭さに恥じて、関羽を見送りに出た。
さて、関羽は曹操の見送りの後、通行手形を持っていなかったので、5つの関6将をきった。
曹操の部下・夏侯惇が関で自分の部下が斬られたので、怒り独断で関羽に勝負した。
その最中、張遼が曹操の伝言を伝えた。「自分の配慮が足りなかった、関の将を斬った罪は
許す」というものだった。夏侯惇も仕方無く引き上げた。
後、周倉と出会う。数日後、古城で張飛と再会する。張飛は関羽が曹操の元にいたことを
知っていて、「裏切りものめ!」と切りつけてきた。後から来た曹操軍の追手を斬ることで
張飛の誤解を解かせた。劉備と会うため、関定という老人の世話になり、そこの息子、
関平を養子としてもらう。劉備が徐庶を味方にした時、関羽は樊城攻略で活躍した。
諸葛亮が加わったとき、孔明ばかりかまう劉備を良く思っていなかった。
しかし、博望坡の戦いでの作戦の見事さに脱帽した。長坂の戦いでは江夏に援軍を求めに行って
間一髪で曹操軍を追い返す。赤壁の戦いでは、孔明に必ず曹操を斬ると言って出陣したが、
昔の恩(関羽が6将を斬ったが許された)がのしかかり、斬ることができなかった。
荊州南郡攻略戦では、長沙で黄忠と戦った。黄忠が落馬しても「馬を替えられい」と見逃した。
後、荊州では、ホウ統が死んだため孔明たちは劉備の応援にゆき、関羽は荊州の守りについた。
呉は、荊州の返還を関羽にもとめた。呉の魯肅は宴席上で返還を求めたが、関羽は応じず
、 魯肅をおどかして船に乗って去る。次に呉は、孔明の兄・諸葛瑾を使者にして、孫権の子と
関羽の娘の縁談をもちかけた。関羽は「虎の娘を犬の子にはやれない」と言いはなった。
呉は魏を動かした。孔明は関羽に曹操軍の樊城を攻めさせた。曹操軍はホウ徳と于禁を
援軍に出だした。関羽は于禁らを水攻めで破った。呉も、呂蒙が出陣していたが、荊州の
守りが堅いので、病気と偽っていた。孫権は若い陸遜を起用した。陸遜は商人と偽って
狼煙台を占拠し、無血で荊州城が落ちた。関羽の部下・傅士仁と糜芳が呉に降った。
関羽の陣では荊州が取られたといううわさが流れていた。しかし関羽は「流言だ」と否定した。
関羽は魏の徐晃と対峙した。徐晃は公私混同はしなかった。関羽と挨拶を済ますと、「関羽を
討ち取ったものには黄金千両をやるぞ」と言うや、得意の斧でうちかかる。関羽はたまらず
帰陣し馬良・伊籍を成都に遣わせた。関羽は麦城に立て篭り、劉封・孟達に援軍を求めたが
孟達は「救援に行っても死ぬようなものだ」として、援軍を出さなかった。
関羽は、なんとか成都に向けて逃げようとしたが、呉に捕われた。
孫権は関羽に降伏するように言ったが、関羽は聞き入れない。孫権の部下も
「曹操でも味方にできなかったのです、殺すしかないでしょう」といった。
孫権は考えたあげく、関平とともに首をはねた。219年冬12月、歳は58であった。
関羽は死んでからもその霊魂が出現した。あるお寺に現われたり、呂蒙は取りつかれたりした。
祝賀会で呂蒙は「碧眼の小児、紫髯の鼠輩」と罵るや、目、鼻、耳などから血を流して死亡した。
呉は関羽の首を曹操に送った。曹操が「雲長殿、お変りなかったか」と首を見ると
目が開き、ひげが逆立ったので、曹操は昏倒してしまう。蜀では、劉備の寝所にあらわれ
「兄者、私の恨みをはらしてくれ」と訴えた。
関羽は不思議なところが多すぎる。
関羽の場合は死んでからのほうがちょっとおっかないと思った。
関平
関平、関定という者の次男である。関羽が劉備との再会したとき、関羽の養子になった。
博望坡の戦いでは、劉封とともに、孔明の策に従い勝利をおさめた。
赤壁の戦いでは、父・関羽に従うが、曹操を見逃した。劉備が益州を手に入れるときも、
従軍し、フ水関では、敵将を捕え、魏延・黄忠の後詰めをし、敵の陣を奪う。
ホウ統が死んだとき、敵軍を防ぎ、孔明への使者となり、荊州に向かい、父・関羽
とともに荊州を守る。
襄陽の戦いでは曹仁と戦い、襄陽をとる。樊城では、ホウ徳と戦い、勝負が着かなかった。
関羽は水攻めで于禁を捕えたが、毒矢の傷を負ったので、名医・華佗をよび、
治療させた。
関平は、徐晃に対し偃城をかため、迎かえ撃つが背後を呉に攻められ、孤立して行く。
麦城に立て篭り、奮戦したが捕えられ、関羽とともに首をうたれた。
張飛
張飛、字は翼徳(正史では益徳)。劉備のもう一人の義弟。
身長8尺、豹のような頭に、まるまるとした目。燕のおとがい、虎のひげ。
声は雷のよう、荒れ馬の勢いがある。この人は寝るときまぶたを閉じない。
武器は1丈8尺の蛇矛。元は肉屋。
義勇兵の高札を見ていた劉備に声をかけ意気投合した。
黄巾賊との戦いでは副将・トウ茂を討ち取る。官軍(董卓)を助けたときバカにされ、 怒る張飛だった。
劉備が安喜県の県令に就任したが都の勅使・督郵が賄賂を求めた。怒った張飛は 督郵を縛りつけ柳の枝で打った。
のち、董卓討伐軍に参加し虎牢関で呂布と戦ったが、引き分けた。
董卓討伐軍が解散し公孫サンと袁紹が戦う。この時、劉備軍は公孫サンに加勢。
趙雲と知り合う。この戦いの後、劉備は平原の相となる。
北海の孔融が黄巾の残党に攻められたとき、劉備は加勢に行き、関羽・張飛は賊を 蹴散らした。
次に、陶謙からの援軍の要請に答えて、徐州に加勢にゆき、劉備は陶謙の後を継ぎ、 徐州の太守となる。
やがて、袁術と戦うため、張飛に留守を任せるが、酒を飲みすぎ、曹豹に恨まれ、 呂布に徐州を取られた。のち、劉備は呂布と和睦したが、張飛が呂布の軍馬を 盗んだため、劉備は曹操の元へ身を寄せる。
曹操の元では張飛は特になにもしていない。劉備が曹操暗殺計画に参加したため、 劉備とともに農民のふりをする。
曹操は劉岱と王忠を使って徐州を攻めたが、張飛は夜襲をかけるとみせかけ、 敵の伏兵の外に兵を置き、劉岱を生け捕りにした。
やがて曹操の本隊到着。張飛は遠路疲れているので夜襲をかけてはとし、劉備も同意し たが、曹操軍も備えがあり、結局敗れ、劉備、関羽とはぐれる。
のち、関羽と再会したが、張飛は曹操に仕えていると思い込み、「この裏切り者」 と関羽に斬ってかかる。しかし、この時個人の感情で関羽を追ってきた曹操軍の 蔡陽を斬ったので、張飛も納得し誤解を解いた。
劉備と再会し汝南で力をためるが、曹操軍の夏侯惇に攻められ、荊州の劉表の元へいく。
荊州の江夏で発生した反乱で、張飛は陳孫を一突きにし、江夏を平定。
劉備は徐庶を軍師として迎え、曹操軍の曹仁との戦いでは、敵将・呂翔をうちとる。
また、曹仁の敗走に襲いかかり大勝。
徐庶は母を人質にとられ、曹操の元へいったため、劉備は諸葛亮の庵を訪ねる。
張飛は雪の日にでかけるのに文句をつける。しかも、孔明は留守。
春になり又庵を訪ね劉備に張飛は面白くない。孔明は在宅だったが昼寝しているのに 怒り、「もう許せん。裏に回り火をつけてやる」といったが、関羽が押し止めた。
張飛は朝から晩まで孔明、孔明の劉備に文句をいうが、劉備は「私が孔明を得たのは 魚が水を得たようなものだ」といって相手にしなかった。張飛はしばらくの間、 孔明のことを「水」と言った。しかし、博望坡の火攻めで夏侯惇に大勝。
張飛も関羽も孔明の才能を認めた。
やがて、曹操軍本隊が到着。劉備は南へ逃げるが、長坂で襲われる。
農民連れの劉備軍はどうすることもできない。阿斗を連れて帰ってきた趙雲と 長坂橋でバトンタッチ。張飛は橋の上から「我は燕人張飛。誰か勝負する者はおらんか!」 と大喝。
曹操軍は夏侯傑が落馬したのを合図に一斉に逃げ出した。
やがて、赤壁の戦い。張飛は曹操の退路を待ち伏せて攻撃した。
荊州南郡攻略では、零陵は張飛が張り切ったが、くじ引きで趙雲が役を果たす。
武陵では、こんどこそやらせてくれと誓紙を書き出陣。武陵太守・金旋は部下・鞏志が 降伏を勧めたが聞き入れなかったため、鞏志に矢で射殺される。張飛はほとんど 戦わなかった。
のち、ホウ統が県令をしてるとき、孫乾とともに視察にいって、ホウ統の才能を見せつけられる。
呉では、阿斗を人質にとり、荊州を返してもらおうとしたが、趙雲と張飛が阿斗を守る。
入蜀の戦いでは、夜襲をかけると見せかけて、厳顔を捕える。
張飛は厳顔の潔い態度に感服して敬意を表した。このため、厳顔はラク城までの兵を すべて降伏させたので、張飛は速く到着した。
次に西涼の馬超が現われた。張飛は馬超と戦うが夜になっても勝負が着かなかった。
やがて、馬超は孔明の策にかかり劉備に降伏。
曹操軍との戦い巴西の戦いでは、わざと酒浸りだとう情報を流す。
曹操軍の張コウは夜襲をかけたが、これは張飛の罠で敗北した。
瓦口関の戦いでも魏延と連係して張コウに大勝した。
劉備は皇帝になったが、関羽が帰らぬ人となった。
張飛は「おれ一人でも弔い合戦をしたい」と言って、呉の討伐を行う。
しかし、張飛は部下に「三日以内で全軍の白の服を整えろ」と無理な注文をつけたので その部下がもう少し時間を下さいとと言ったところ、張飛は50回鞭で打たせ、 「明日じゅうに用意しろ。できなければ首をはねる」と言ったので、 この部下は張飛が寝ているのを襲って、首を斬り、呉に走った。
張飛は55歳であった。
黄忠
黄忠、字は漢升。南陽の人。
元は、荊州の劉表に仕えていたが、後は、長沙の韓玄に仕える。
60を越えた老将で、「老いてますます盛んな人」で有名。
長沙で関羽と戦うが、馬がつまずき転倒したが、関羽は決着を
着けなかった。
翌日、黄忠は得意の弓で勝負したが、わざと弓を空打ちして、
最後の一本を関羽の兜に当てて昨日のお礼をする。
しかし太守の韓玄は黄忠を疑り、斬首しようとしたが、魏延がかけつけ
助けられる。その後、病気を理由に家に退き籠ったが、劉備がじきじきに訪れ、
ようやく降伏し、劉備軍となる。
劉備が孫権の妹との政略結婚のとき、劉備が荊州に帰る際、張飛らと、
周瑜を攻める。
入蜀戦では先鋒をつとめる。蜀の武将(冷苞、トウ賢)を捕え、
抜け駆けした魏延を助ける。魏延と交代で水攻めに警戒し、襲ってきた
蜀の呉蘭・雷銅を防ぎ進軍する。
落鳳坡でホウ統が死に、窮地にたった魏延を救い、孔明を待つ。
綿竹で李厳を降伏させ、成都へ入った。
葭萌関の戦いでは蜀の老将・厳顔とコンビを組み、敵将・韓浩を討ちとる。
次に、定軍山を取ろうとしたが、孔明は「老いているので心配だ」としたが、
逆に、黄忠はやる気を出し矢を孔明の前で折って見せた。
孔明は副将に法正を付けた。敵の夏侯淵は打ってこない。蜀軍では自ら戦いに出たい
と言っていた陳式が魏軍に捕まり、また、黄忠は魏の将・夏侯尚を捕虜にしていたので
人質交換を願い出た。その際、黄忠は夏侯尚の背中に矢を当てたため、夏侯淵との
戦いになる。法正の策で赤と白の旗を振り合い、敵を混乱させ、夏侯淵を討ちとる。
次に来襲した張コウとの戦いでは、趙雲と組む。黄忠は敵の兵糧を襲うが、
逆に囲まれた。しかし趙雲に助けら、魏軍を破った。
次に襲来した徐晃・王平戦では趙雲と組み、魏軍を破る。王平は蜀に降伏し、
蜀軍は曹操を追いつめ、漢中を取った。
劉備の関羽復讐戦では黄忠は先鋒をつとめる。
劉備は陣で「関興・張苞など若い者が役にたってきた」といったので、
黄忠は負けん気をおこし、呉軍に攻め入る。黄忠は呉の潘璋を攻める。
しかし黄忠は矢を受けてしまう。関興が助けに来る。
劉備は黄忠に「私の言葉のせいでこんなめにあわせてしまった」と謝ると、
黄忠は「私は貴方に仕えることができ、歳にも不足はありません。どうか
天下の統一を…」と言うと、息を引き取った。
魏延
字は文長。劉備が曹操に追われて、襄陽に来た時に門兵を斬って
劉備を入城させようとしたが、結局、長沙の韓玄のもとに落ちのびる。
黄忠が関羽と戦っていた時、黄忠が韓玄に疑われ、斬首されそうになった時、
黄忠を助け、関羽に投降した。
しかし、諸葛亮は魏延に謀反の相が出ているのを見て、斬首させようとしたが、
劉備のとりなしで助かる。
後に、入蜀で活躍。はじめは抜け駆けを行い、黄忠に助けられる。黄忠と組み、
蜀の将・張任を捕らえる。瓦口関では張飛と呼応して勝利を収める。
漢中攻めの南鄭での戦いで戦い、斜谷では矢で曹操の前歯を二本折る。
その後は、南征で活躍し、何度も孟獲を捕らえた。北伐にも参加。
しかし、度重なる北伐に戦果が上がらず、自分の「子午谷から長安を攻める」という
策が諸葛亮に聞き入れてもらえず、次第に不満を言うようになってくる。
孫権は、そんな魏延の性格を見事に見抜いていた。
諸葛亮は胡盧谷の戦いで司馬懿親子とともに魏延を始末しようとしたが、
大雨が降り、司馬懿も魏延も助かった。
諸葛亮の寿命を伸ばす祈とう中、魏延は燭台を倒してしまう。
諸葛亮は自分の死後の魏延の処理を楊儀に託した。
諸葛亮没後、魏延は自分の頭に角が生える夢を見た。
趙直に大吉だと言われて喜ぶ。
後、魏延は姜維たちが退却したのを知り、怒って蜀の桟道を焼いてしまう。
やがて、漢中で楊儀・姜維と対峙。
しかし、諸葛亮の策で味方だと思っていた馬岱に斬られてしまった。
馬超
馬超、字は孟起。西涼の太守・馬騰の長男。顔は冠の玉のよう。 十七歳で父・馬騰と董卓の残党李カク・郭シらを討つべく、攻めのぼった。
迎かえ撃ってきた王方らを蹴散らしたが、途中で食糧が尽き、敗走した。 このとき、馬超は後詰めをし父を守った。 後、父が曹操に呼ばれたので、馬超は全軍で許昌を襲おうと進言したが、父に 説得され、西涼の守りにつく。 しかし、馬超は夜に自分が雪原で虎に襲われる夢をみたため、ホウ徳に夢占いをしてもらった。結果は凶だった。それからすぐ、逃げ帰った馬岱から父や弟が殺されたと聞かされた。 馬超は韓遂と協力し曹操を攻め、ついに潼関をおとした。 曹操は馬超の勇猛さに舌を巻いた。 馬超は曹操をもう少しのところまで追い詰めるが、槍の先が木に刺さり曹操を逃してしまう。 (このとき曹操が派手な恰好をしていたので、西涼の兵たちは「赤いひたたれを着けているのが曹操だ!」と言った。曹操がひたたれを脱ぎ捨てると「ひげが長い奴が曹操だ!」 と言われ、今度はひげを剣で剃り落した。しかし、今度は「ひげが短いのが曹操だ!!」 と言われ、顔を覆い隠し逃げる曹操だった。これほど馬超のほうが有利だったのである) 曹操は氷の城を築いた。馬超は許チョとの一騎打ちに挑む。馬を替え、許チョは鎧・兜を 脱ぎ、裸で馬超に挑む。しかし両軍が入り乱れての戦いとなり、引き分けた。 曹操は賈クの進言で、韓遂・馬超の離間の策を行う。所々塗り消した手紙を韓遂に 届けた。馬超をそれをみて、見られて都合の悪い部分を消したと信じ、曹操と 通じているのではないかと疑念を抱く。韓遂は立場が悪くなり、本当に曹操に通じた。 曹操が押し寄せ、乱戦となり、馬岱やホウ徳とはぐれるが、後に合流して隴西の臨トウ めざして落ちのびた。そして、漢中の張魯に身を寄せることになった。 葭萌関に劉備軍が押し寄せてきたので、馬岱と馬超は葭萌関の守りにつく。 張飛は馬超に一騎打ちを申し込むが夜になっても勝負が着かない。見かねた劉備は 二人を止めた。 そして、劉備は馬超が「錦馬超」とよばれるにふさわしい働きをみて気にいる。 孔明の策で馬超と張魯の仲が裂かれ、蜀の武将・李恢(りかい)に説得されて、 劉備に降る。 馬超は、曹操の息子・曹彰との戦いで活躍する。その勢いで曹操の陣へも斬り込み、 敗走する曹操軍を追撃した。 劉備が漢中王になり、馬超は「五虎大将」に任じられた。 馬超の配下であったホウ徳は東川で別れてから、曹操に降って、関羽攻めの先鋒を つとめていた。 さて、劉備は関羽を助けなかった劉封と孟達をいずれ処刑するつもりで太守に任じたが 真意を知った孟達の親友である彭ヨウは書面で孟達に知らせようとしたが、 この使者が馬超の兵に捕まり、馬超は酒を酌み交わし、彭ヨウの真意をうまく聞きだし 劉備に報告した。 劉備が関羽の仇討ちを行う際は、漢中を守った。南征では趙雲の守っていた陽平関の 守りに着く。 孔明が南征から帰ってくると、馬超が病死していることが説明されている。