武田信玄を熱く語るスレ 日本史スレ
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1530059232/(2回目のスレ)
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1531135749/(前スレ)
現スレがもう容量オーバーしそうですので新しいスレを立てておきます。
繰り返しますが、【長文レスを繰り返して容量を圧迫するのはおやめください】。
【皆さん仲良く議論してください】
【自分の意見を他者に押し付けたり絶対みたいな発言はやめてください】
【一次資料だけでなく、二次資料や軍記を用いても仲良く議論してください】
【これまでは見逃していましたが、このスレから「××厨」と発言して人を愚弄するのはやめて下さい。これ以上愚弄する態度を続けるなら、管理者に通報いたします】
【皆さん、くれぐれも仲良くしてください】。
以上、お願いいたします。
>「××厨」と発言して人を愚弄するのはやめて下さい。
これは、織田側の人が、武田側に対して、ご当人ですら整合性をつけての説明をする事が
おできになられない、管沼なんたら認定とか、信玄〇とかいってるのは
当然含まれておられるのではございましょうか、
とは思われるのですが、これらの件に関しましては、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
ルールを守れないなら退場してくださいと>>1にあります。
それと、次スレは>>950が立てて下さい。
再度再度繰り返します。
他者を「××厨」と罵ったり、一次史料が全てのような発言はやめて下さい。
皆さん、ルールを守って仲良く議論してください。
ルールを守れず他者を罵った場合、管理者に通報します。
じゃあ、とりあえず、様子を考慮させてはいただきますかねえ。
で、とりあえずまたお尋ねしたい事としましては、
>一次史料が全てのような発言はやめて下さい。
とおっしゃられるのでございますれば、過去スレでも言われてましたように
信長は2次資料とか軍記とかで、例えば軍鑑とかで、寡兵の山県とか馬場に
敗北をしていたり、とかいろいろあるのですけれど、そういうのは
織田側の人ととかは、「そんなの史実じゃない!」とおっしゃられますわけで、
なら、なにをもって史実か?というのでしたら、
一次資料になるわけではございますが、一次資料を基にして語ろうとすると、
一次資料がすべてじゃない!というので、ございますれば、なにをどのように
語る事になるのではございましょうか、とは思うのですが、いかがなものなのでしょうかねえ。
繰り返します。
そのようにスレが気に入らないのなら、退場してくれて結構です。
とにかく、人に迷惑をかけず仲良くしてください。
これ以上、人を愚弄するような真似をするのなら、管理者へ通報することも考えます。
まずは、現在のスレを終了させることが先決ですので、これ以上新スレは使わないで下さい。
ですから、気に入らないとは言ってませんし、愚弄も特にしてなくて、
どのように議論をするのでございましょうか?とお聞きしているだけの話でしか
ないように思われるのですが、まじめに、>>5のような感じでどのように議論を
なさられようとなさられるのか、とは思うのですが、
とりあえず、現在のスレが終了するまで、待つ事にはしますかねえ。
長文やめろというルールからまずは守って下さい。
織田側の人も普通に長文レスとか書いているのですけれどねえ。
>>10
そもそも、何度も指摘をされている事のようには思われる次第ではございますが、
貴方こと必死な織田側の人さんが、
都合の悪い事柄などを必死にスルーしての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、に
ご狂奔なさられようとなさられないのであれば、
こちら側といたしましても、織田側の人さんが必死にスルーしようと
なさられておられます事柄などを、わざわざ提示しなくてよろしいはずなのですが、
これらの件に関しましての、ご回答の方などもよろしくお願いいたしますかねえ。
お前妄想でも見てるの?
お前が長文して容量パンクさせてるんたろいつも。
お前が消えたらみんな喜ぶよ。
>>5で無理やり織田擁護の人に責任押し付けるみたいな発言してるが、一番の元凶はお前だよ。
いやいやいや、そもそも、妄想をみておられるのは、
貴方の方なのではないかと思うのですが。そもそも、>>5の文章は、
「>一次史料が全てのような発言はやめて下さい。
とおっしゃられるのでございますれば、過去スレでも言われてましたように
信長は2次資料とか軍記とかで、例えば軍鑑とかで、寡兵の山県とか馬場に
敗北をしていたり、とかいろいろあるのですけれど、そういうのは
織田側の人ととかは、「そんなの史実じゃない!」とおっしゃられますわけで、
なら、なにをもって史実か?というのでしたら、
一次資料になるわけではございますが、一次資料を基にして語ろうとすると、
一次資料がすべてじゃない!というので、ございますれば、なにをどのように
語る事になるのではございましょうか、とは思うのですが、いかがなものなのでしょうかねえ。」
的な文章で、ふつうにどう議論を行うのか、を聞いているだけの話ではあるようには
思われる次第なのではございますが、これらにつきまして、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>18にもありますように、>>11にもありますように、
そもそも、何度も指摘をされている事のようには思われる次第ではございますが、
貴方こと必死な織田側の人さんが、
都合の悪い事柄などを必死にスルーしての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、に
ご狂奔なさられようとなさられないのであれば、
こちら側といたしましても、織田側の人さんが必死にスルーしようと
なさられておられます事柄などを、わざわざ提示しなくてよろしいはずなのですが、
これらの件に関しましての、ご回答の方などもよろしくお願いいたしますかねえ。
>>18にもありますように、>>11にもありますように、
そもそも、何度も指摘をされている事のようには思われる次第ではございますが、
貴方こと必死な織田側の人さんが、
都合の悪い事柄などを必死にスルーしての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、に
ご狂奔なさられようとなさられないのであれば、
こちら側といたしましても、織田側の人さんが必死にスルーしようと
なさられておられます事柄などを、わざわざ提示しなくてよろしいはずなのですが、
これらの件に関しましての、ご回答の方などもよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、何行からが長文なのかとは思いますし、
普通に織田側の人もこれまでにもいくつも長文の文章は書いてきましたし、
そもそも、>>20にもありますように、必死な織田側の人さんが、
都合の悪い事柄などを必死にスルーしての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、に
ご狂奔なさられようとなさられないのであれば、
こちら側といたしましても、織田側の人さんが必死にスルーしようと
なさられておられます事柄などを、わざわざ提示しなくてよろしいはずなのですが、
これらの件に関しましての、ご回答の方などもよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、何行からが長文なのかとは思いますし、
普通に織田側の人もこれまでにもいくつも長文の文章は書いてきましたし、
そもそも、>>20にもありますように、必死な織田側の人さんが、
都合の悪い事柄などを必死にスルーしての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、に
ご狂奔なさられようとなさられないのであれば、
こちら側といたしましても、織田側の人さんが必死にスルーしようと
なさられておられます事柄などを、わざわざ提示しなくてよろしいはずなのですが、
これらの件に関しましての、ご回答の方などもよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、このレスはこれでジャスト10行なわけでございますしねえ。
>>5月侵攻とやらで、ねえの言う通り織田軍3万数千で中身を考えてみよう。
いや、こちら側は織田側が美濃に集結させられる主力は2万数千から3万、的に述べているレスばかりのようには
思われる次第なのではございますけれどねえ。
>長島は不破方面から出るのをやめて長良川から進出するなら、実は一番岐阜城に近い。
何度も指摘をされている事のようには思われますが、「不破口からの侵攻策戦は1572年8月に行われそうになり、
長島衆もそれを行うのに都合のいい地所にまで進出していたものの、工作役の島氏がうまく工作を進める事ができなかった事から、
行われる事なしに終了した策戦であり、1573年5月からの5月侵攻とは直接の関係はなく、
重要なのは長島が普通に不破口からの侵攻に都合のいいところにまで進出していた事、
浅井や本願寺もそれが可能であると認識している事、の方である。」
的に述べておりますのに、なぜにそのようにおっしゃられますのか、につきまして、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
ルールを守れないなら、即刻退場してください!!
ぜ~~~ったぁぁぁーーーーーい、無理だから
だろうな。
ねえが湧く限り>>950は絶対無理。
今迄がそうだしな。1000円賭けてもいいよ。
ねえが湧く限り、950はいけないと。
こんなんもん他の板なら即消されている
とりあえず、今朝はここら辺で撤収させていただきたいと思う次第ではございますかねえ。(チラチラ)
織田厨も武田厨も関係なくな
織田厨かやったから自分もやっていいなんて小学生かよ
とりあえず、今朝はここら辺で撤収させていただきたいと思う次第ではございますかねえ。(チラチラ)
ルール全然守らないじゃん。
とりあえず、今朝はここら辺で撤収させていただきたいと思う次第ではございますかねえ。(チラチラ)
いやいやいや、まーたいつも通りに必死になって、
必死な織田ファンさんである貴方が、
いつも通りに捏造曲解やら、レッテル貼やら、
にご狂奔なさられておられるご様子ではありますが、
相変わらず、都合の悪い事柄などに関しましては、
必死にスルーなどをなさられようとしておられるご様子のように思われる
次第ではございますが、
聞かれている事柄などにつきまして、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>悔しかったら、他人が納得できるような説明をしてみろ。
そもそもの問題として、これまでにも何度も提示されておりますように、
こちら側が資料やら史実やらを基にしてのレスをして、
貴方こと必死な織田ファンの人に、資料やら史実やらを基にしてのご回答の方などを求めましても、
お答えになられておられない事例が過去ログにも膨大になっておられるように思われますし、
結局のところ、必死な織田ファンである貴方は、信長がシミュレーション上で不利になる事は、
とにかく資料やら史実やらによる反論をなさられる事がおできになられなくても、とにかく無理やりにでも否定しようとして
おられる、という話であるように思われますので、資料やら史実やらを基になさられましての、
具体的なるご回答の方などをなさられていただきたいと思いますので、
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。(10行)
そもそも、その菅沼なんたら、自体が、何度も指摘をされておりますように、
それを認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて、
貴方ですら、それに整合性をつけてのご説明をなさられる事が
一度もお出来になられない、という状況でございますのに、
今更なにをおっしゃっておられるのかと思う次第でございますので、
これらの件につきましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
とりあえず、今夜はここら辺で撤収させていただきたいと思う次第ではございますかねえ。(チラチラ)
5月美濃進攻論とやらよく読んでみると、「戦略的に優位に進めていける」
と言ってるだけで、「勝てる」とは言ってないんだよね。
そして勝てる方法、戦術の提示もまったくない。
つまり平たく言うと、「5月美濃侵攻計画なるものがあった」と言ってるだけなので、
まぁなんというか、「あぁ、そう」で終わる話でしかない。
だから放置でいいと思う。
「無理だ」「相当に難しい」と反論してくる相手に「そんなことはないと思われますがねぇ」と全レスしているのは「勝てる」と主張しているのと同じだよ
たしかに議論する相手ではないけどな
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを、必死になってスルーなさられようとしたり、
必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられようとしておられるご様子のようには思われる次第ではございますが、
そもそも、貴方のいう、「無理だ!」とか「相当に難しい!」とかおっしゃられます事などには、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご論証の方などをされておられないように思われる次第ではございますし、
これらの事柄などに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそもの問題として、貴方こと必死な織田厨さんのいう、
「地理的な推測」とやらが、
これまでにも、朝倉の越前から美濃への遠征が
過去に何度も行われていたのにも関わらず、「地理的に不可能!」
とかお喚きになられ、過去の事例などを提示されて発狂逃亡などをなさられたり、
信濃からの美濃への侵攻も、武田勝頼、徳川秀忠、反対方向からの織田勢、
という感じで、普通にいくつもの事例がありますのに、
「地理的に不可能!」的にお喚きになられ、 事例などを提示されて発狂逃亡などをなさられたり、
という感じのようには思われてもしまいます次第なのではございますが、これらの事柄などに関しましても
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
のレスを一部訂正
×織田厨さん
○織田ファンさん
修正させていだきますかねえ。
他にも、資料やら史実やらをこちら側が提示して、
こちら側がそれらに基づきましてのレスをしまして、
貴方こと必死な織田ファンさんにご回答の方などを求めましても、都合の悪い事柄などは
必死にスルーなさられようとして、必死にお喚きになられ、 という感じですのに、
地理的にどうたら、などなどというような感じなどなどでおっしゃられましてもねえ、とも思わる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめに具体的にご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに都合の悪い事柄を必死にスルーなさられようとして
おられるご様子のようには思われる次第ではございますが、
>「戦略的に優位に進めていける」
>と言ってるだけで、「勝てる」とは言ってないんだよね。
いや、ほぼ同義のようなものだとは思うのですけれどねえ。
少なくとも同じような戦略的な包囲策戦によって、
武田・北条は長尾上杉+関東諸侯の領域を制圧していき、
関東におけるパワーバランスを自身達の側に優位にして、
戦略的な勝利を得たわけなのですしねえ。
ただ、>>46 >>47にもありますように、史実におきましては、
普通に戦略的な包囲策戦をとった側が、普通に戦略的に勝利している事例がいくつもあり、
織田自身も、志賀陣で普通に降伏宣言和睦詐欺を行わざるを得ない程にまで追い込まれている事などを考慮しまするに、
これで十分に包囲網側は戦略的な勝利を得る事が可能なようには思われる次第ではございますし、
志賀陣で和睦詐欺を織田側からされている包囲網側が、再度受け入れる可能性などを考慮しますれば、
普通に包囲網側が戦略的な優位を維持したまま、戦略的な包囲策戦で徐々に織田側の領域を制圧していき、
織田側はそれ続く事によって、織田側の領域は押し詰められていく事になり、最終的に打ち倒される事になる、
という事にもなるように思われる次第なのではございますが、これらの事柄などにも関しましても、
論拠などを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが、
>>46 >>47にもありますように、史実におきましては、
普通に戦略的な包囲策戦をとった側が、普通に戦略的に勝利している事例がいくつもあり、
複数勢力で敵側の勢力の領土に侵攻し、その領域において、敵側主力軍がきた方面では守りを固め、
その他の方面の勢力が侵攻していく、的な戦いは、普通に戦国時代ではセオリー的に行われているように思われます、
戦略的な包囲策戦ではあるように思われますが、これらの事柄などに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
さらには、志賀の陣でも、同じような戦略的な包囲策戦によって、
織田を降伏宣言和睦詐欺をおこなわざるを得ない程に
追い込んでいるわけですしねえ。
そもそもの問題として、IFを論じるにおいて、戦略的な意味での優位か否か、を
論じるのがせいぜいではないかと思われるのですけれどねえ。
で、>そして勝てる方法、戦術の提示もまったくない。
とはおっしゃられてはおられますが、
まじめな話として、貴方はこれをIFの話として、完全に提示する事がおできになられる、と
おっしゃられるのでございましょうかねえ?
IFの話として、でありながら、資料やら史実やらを基になさられましての論拠やらなにやら、もご提示になられずに、
「武田勢は○○○の道を進み、□□□峠に織田勢を引き込み、朝倉・長島とも合流して、包囲殲滅して壊滅させる!
これが絶対!」的にいう事は、小説とかの話でならまだしも、史実的な事を語るのであれば、
まず無理があるように思われる次第ですのに、貴方はそれをお出来になられる、とおっしゃられますのか、という事について、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
織田自身も、同じような戦略的な包囲策戦のように思われます、包囲攻勢を志賀陣において、包囲網勢にしかけられ、
その志賀陣では織田側は普通に降伏宣言和睦詐欺を行わざるを得ない程にまで追い込まれている事などを考慮しまするに、
これで十分に包囲網側は戦略的な勝利を得る事が可能なようには思われる次第ではございますし、
志賀陣で和睦詐欺を織田側からされている包囲網側が、再度受け入れる可能性などを考慮しますれば、
普通に包囲網側が戦略的な優位を維持したまま、戦略的な包囲策戦で徐々に織田側の領域を制圧していき、
織田側はそれ続く事によって、織田側の領域は押し詰められていく事になり、最終的に打ち倒される事になる、
という事にもなるように思われる次第なのではございますが、これらの事柄などにも関しましても、
論拠などを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
例えば、>>34に書かれておりますような事柄の一例としましては、前スレなどで私が提示しました、
伊勢長島の不破口からの侵攻、などに関しましては、こちら側が何度も、「この侵攻は1572年8月に行われそうになり、
長島衆もそれを行うのに都合のいい地所にまで進出していたものの、工作役の島氏がうまく工作を進める事ができなかった事から、
行われる事なしに終了した策戦であり、1573年5月からの5月侵攻とは直接の関係はなく、
重要なのは長島が普通に不破口からの侵攻に都合のいいところにまで進出していた事、浅井や本願寺もそれが可能であると認識している事、の方である。」
的に述べておりますのに、貴方こと必死な織田ファンの人は、「長島が5月侵攻で不破口から侵攻する事になっている!」とお喚きになられ、
こちら側がこれまでに、10回近く上記のように、指摘をしておりますのに、なおも同じように捏造曲解などを行われておられます事などから、
貴方こと必死な織田ファンさんが、都合の悪い事柄などを必死にスルーして、意図的に捏造曲解などを行われようとしておられるようにしか
思われない次第なのではございますが、これらの事柄などに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
だから、お前みたいな荒らしには
菅沼遼太なんて立派な名前で呼んでもらう資格はないって言ってんだよ。
お前の呼び名はバカで十分。それでも返事が来るし、問題ないよな。
で、バカさんは何がしたくてここに来てるの?
バカさんが武田信玄の五月侵攻を披露したので、俺らはその妥当性を議論してるんだが、
自分の説を一切修正するつもりがないなら、他人の意見なんて必要ないだろ。
本当に史料に基づいてるのなら、その史料を正しく引用すれば、相手の誤解が解けるはず。
まさか、攻撃して反論がなくなれば自分の推測が正しい事になるとでも思ってんの?
バカだからそれじゃ意味ない事もわからないのかな?
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが、
そもそも、その菅沼なんたら、自体が、何度も指摘をされておりますように、
それを認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて、
貴方ですら、それに整合性をつけてのご説明をなさられる事が
一度もお出来になられない、という状況でございますのに、 今更なにをおっしゃっておられるのかと思う次第でございますので、
これらの件につきましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>俺らはその妥当性を議論してるんだが、 >自分の説を一切修正するつもりがないなら、
で、このようにおっしゃられてはおられるご様子のようには思われる次第ではございますが、
そもそもの問題として、貴方こと必死な織田厨さんのいう、 「地理的な推測」「現実的などうたら」とやらなどなどが、
これまでにも、朝倉の越前から美濃への遠征が過去に何度も行われていたのにも関わらず、「地理的に不可能!」
とかお喚きになられ、過去の事例などを提示されて発狂逃亡などをなさられたり、
信濃からの美濃への侵攻も、武田勝頼、徳川秀忠、反対方向からの織田勢、
という感じで、普通にいくつもの事例がありますのに、
「地理的に不可能!」的にお喚きになられ、 事例などを提示されて発狂逃亡などをなさられたり、
という感じのようには思われてもしまいます次第なのではございますが、これらの事柄などに関しましても
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
のレスを一部訂正
×織田厨さん
○織田ファンさん
修正させていだきますかねえ。
他にも、資料やら史実やらをこちら側が提示して、 こちら側がそれらに基づきましてのレスをしまして、
貴方こと必死な織田ファンさんにご回答の方などを求めましても、都合の悪い事柄などは
必死にスルーなさられようとして、必死にお喚きになられ、
発狂逃亡などをなさられようとしておられるように思われます事例などが、
過去ログなどに多数残っているように思われます、貴方こと必死な織田ファンさんが、
「現実から推測した事!」がどうとかお喚きになられましても、こちら側といたしましては、
困惑せざるを得ない、という次第なのではございますが、 いかがなものなのではございましょうかねえ。
正直な話、貴方こと必死な織田ファンさんのいう「地理的な推測」「現実から推測した事!」とやらは、
ただ単に「信長さまがシミュレーション上で不利になるから嫌じゃあああああ」
と貴方こと必死な織田厨さんがお思いになられておられる事を、
無理やりに、資料的、史実的な論拠とかもなしに、
無理やりに否定なさられようとしておられる、というだけの話のように
思われてもしまう次第なのではございますが、 これらの事柄などに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
ご回答の方などを、なにとぞおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
>本当に史料に基づいてるのなら、その史料を正しく引用すれば、相手の誤解が解けるはず。
なにをおっしゃっておられるのかとは思う次第ではございますが、こちらは普通に資料などをそのまんま的に基にしようとしております次第では
ございますし、誤解どうたら、と貴方はおっしゃっておられますが、こちら側が何度も指摘している事ではございますが、
貴方こと必死な織田ファンの人は、こちら側が提示した資料の内容などで、都合の悪い事柄などを、
必死に捏造曲解などをする事などにご狂奔なさられており、それらをこちら側が何度も具体的に指摘しましても、
必死になって同じような捏造曲解などをお喚きになられておられる、という事柄などからも、
明らかに恣意的に捏造曲解などを行われておられますようにしか、思われない次第なのではございますが、
これらの事柄などに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>まさか、攻撃して反論がなくなれば自分の推測が正しい事になるとでも思ってんの?
何度も指摘をしております事柄のようには思われる次第ではございますが、
資料やら史実やらをこちら側が提示して、 こちら側がそれらに基づきましてのレスをしまして、
貴方こと必死な織田ファンさんにご回答の方などを求めましても、都合の悪い事柄などは
必死にスルーなさられようとして、必死にお喚きになられ、 発狂逃亡などをなさられようとしておられるように思われます事例などが、
過去ログなどに多数残っているように思われます次第ではございますのに、
そのようにおっしゃられましてもねえ、とは思われる次第ではございますしねえ。
普通に、貴方こと必死な織田厨さんが、都合の悪い事柄を、必死にスルーしようとして、
ご回答の方などを求められておられます事柄などから、発狂逃亡などをなさられておられますように、
思われます次第ではございますので、そのようにおっしゃられますのでございますれば、これらの事柄などに関しまして、
資料やら史実やら、を基になさられましての、ご回答の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
武田信玄。岩村以外は平定していない。苗木はじめ東美濃の小城全て落とすのに半月から1ヶ月。ただ、東美濃の中でも要衝の鳥峰城を簡単に落とせるかは疑問。
朝倉義景は郡上八幡の遠藤が内通するなら、後はそこまで大した城はない。南下して岐阜城を突くなら実は朝倉義景が一番時間的環境的に見て恵まれている。
長島は不破方面から出るのをやめて長良川から進出するなら、実は一番岐阜城に近い。ただしまともな野戦を織田軍とする可能性がある。2万数千から3万の織田軍と敵地でまともに正面から野戦して勝てるのか? 勝てたなら、包囲網勢力の勝利は間違いなし。
ただ、どう見ても武田信玄は脇役で、朝倉義景か長島が岐阜城に先に到達しそうだ。これでは織田を滅ぼせてもすぐに領地の取り分めぐって争い起きそう。
岐阜城は朝倉義景や長島だって欲しいだろうし。
朝倉主力が5月10日頃まで敦賀に滞在したというのなら、朝倉にその5月作戦に呼応する
つもりがあったのなら、朝倉主力のその攻勢発起点は敦賀と見るのが妥当と考えられる。
ただ、朝倉景鏡あたりが越前大野に在国してるようならば別動隊として
油坂峠を越えて郡上遠藤と合流し武田の東濃侵攻の支援をする可能性はあると思われる。
朝倉景鏡も敦賀にいるようなら、朝倉の5月作戦に呼応する動きの対象は
武田の5月作戦に呼応して槙島挙兵するつもりだった?義昭への後詰か、
浅井の救出、いずれにしても近江方面となる。
朝倉としても、武田よりも先に動いては織田主力を誘引してしまうことになるので、
織田主力が武田のほうに行ったのを見てから、その隙に動くつもりではなかったのかなと。
朝倉としては、武田の支援よりも義昭への支援のほうに重きを置いたから
敦賀在陣だったのだろうと。
>>36
その朝倉、長島衆は「織田主力との野戦に勝てれば」という条件をクリアできれば
その通りなんだが、野戦で負けた場合はただの敗走程度では済まない
非常にリスクの高い作戦。
結局単独で敵地で織田主力と野戦しなければならないのだから。
逆に織田側は合流される前に内線の利を生かし各個撃破を狙うか、
朝倉が帰るであろう年末まで持久しその後決戦とかかなと。
朝倉、長島衆、武田と美濃に攻め込んでも合流しなければ、単独侵攻と
大きくは変わらない。郡上(中濃)、東濃、西濃と方角全然違うから連携するのもたいへんだと思うよ。
使者が朝倉行って長島衆行って帰ってで。1~3日は情報及び作戦要請、救援依頼等の
伝達誤差が発生すると思われる。
確かに、敵の本拠地で敗北したらただでは済まないからなあ。出雲を攻めた大内義隆、豊後を攻めた島津義弘、安芸を攻めた尼子晴久。みんな痛い目にあってるから。
朝倉が仮に二分するなら、織田にとって問題なくなることない? というか、朝倉義景とその大軍が来ないなら、遠藤が内通しないかもしれないし。
>>73にも書きましたように、別に包囲網側は一挙に決戦を行う必要性はうすいようには
思われる次第ではございますかねえ。
仮に朝倉が年末に撤収すると仮定しましても、年があけたらまた出陣してくるわけですしねえ。
長島とか武田とかは特に撤収する必要性もうすいようには思われますし、
一時的に仮に朝倉が年末に撤収したとしても、それまでに三勢力である程度それぞれの侵攻方向を制圧しておけば、
織田側は威信という意味で考慮しましても、領土的な勢力比などで考慮しましても、普通に苦しい状況になるように思われますし、
織田側も志賀陣の時に降伏宣言的な書状を出して和睦している事からも、織田側から普通に勢力的に苦しくなる可能性もあるように
思われる次第ではございますかねえ。まあ、そもそもの問題として、>>76にも書きましたように、同じような雪国の越後の上杉氏が、
普通に年末に関東とか北陸に出陣をしていたり、あるいはその予定で動いていたりする事などから考慮しましても、
本当に朝倉が年末に一時撤収する必要性があるのでしょうか、とも思われる次第なのではございますが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
×別に岐阜の半分だか三分の一だか、
○別に美濃の半分だか三分の一だか、
です。修正しておきますかねえ。
>>37
>朝倉の5月作戦に呼応する動きの対象は
>武田の5月作戦に呼応して槙島挙兵するつもりだった?
何度か指摘をされている事のようには思われますが、敦賀在陣の時には、小谷方面の普請を行っている事、
若狭への三千余の分遣隊を派遣して、焼き打ち侵攻を行わせ、拠点となる城の構築を行ってから撤収をさせております事、
馬場国平やら、多胡やら、の湖西方面の豪族達と連絡をとりあって、守りを固めさせている事などからも、
5月侵攻の為に、小谷方面、若狭方面、湖西方面の守りを固めさせている、と考慮する事も十分にできるように思われる次第ですかねえ。
>その朝倉、長島衆は「織田主力との野戦に勝てれば」という条件をクリアできれば
>朝倉、長島衆、武田と美濃に攻め込んでも合流しなければ、単独侵攻と大きくは変わらない。
何度も指摘をされている事柄のようには思われる次第ではございますが、別に包囲網側は無理に織田勢主力との決戦を行う必要性はうすいようには
思われる次第なのではございますが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
志賀陣の時には、朝倉浅井が織田側主力がきた時に守りを固めて対峙を続け、
結局は織田側を降伏宣言的な書状を出させるほどにまで追い込んでいるわけですしねえ。
武田・北条の戦略的包囲策戦におきましても、武田は北信濃・西上野・飛騨、北条は北武蔵・東上野・その他、
という感じで、それぞれ侵攻を行い、長尾上杉の主力軍が武田の方面に向かえば、武田が対峙戦に持ちこみ、
その間に北条が侵攻し、長尾上杉の主力軍が北条の方面に向かえば、武田が侵攻を進め、というのを繰り返して、
長尾上杉+関東諸侯の領土を徐々に制圧していったわけではございますしねえ。
で、>>73にも書きましたように、別に包囲網側は一挙に決戦を行う必要性はうすいようには
思われる次第ではございますかねえ。
仮に朝倉が年末に撤収すると仮定しましても、年があけたらまた出陣してくるわけですしねえ。
長島とか武田とかは特に撤収する必要性もうすいようには思われますし、
一時的に仮に朝倉が年末に撤収したとしても、それまでに三勢力である程度それぞれの侵攻方向を制圧しておけば、
織田側は威信という意味で考慮しましても、領土的な勢力比などで考慮しましても、普通に苦しい状況になるように思われますし、
織田側も志賀陣の時に降伏宣言的な書状を出して和睦している事からも、織田側から普通に勢力的に苦しくなる可能性もあるように
思われる次第ではございますかねえ。まあ、そもそもの問題として、同じような雪国の越後の上杉氏が、
普通に年末に関東とか北陸に出陣をしていたり、あるいはその予定で動いていたりする事などから考慮しましても、
本当に朝倉が年末に一時撤収する必要性があるのでしょうか、とも思われる次第なのではございますが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
>>74に書いた事の続きではございますが、上杉氏の事例で考慮しますれば、
普通に越前よりも緯度的に上の越後越中能登などで、普通に年末とかにも平気で活動をしておりますしねえ。
信玄西上の時期には、何度も指摘がされているようには思われますが、1572年9月くらいから北陸一向宗に対しての遠征を開始し、
いろいろあって、正月も普通にそのまま対陣して過ごし、最終的に越後に戻るのは4月の末近くになってからなわけですしねえ。
他にも、関東遠征の事例で考慮しましても、普通に年末年始に出陣したり、あるいはその予定で動いたり、とかを普通にしておりますし、
正直な話、朝倉が年末に絶対に撤収するか、は微妙なところもあるようには思われるのではないかとも
思われる次第なのではございますが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
まあ、そもそもの問題として、>>76にも書きましたように、
同じような雪国の越後の上杉氏が、普通に年末に関東とか北陸に出陣をしていたり、
あるいはその予定で動いていたりする事などから考慮しましても、
本当に朝倉が年末に一時撤収する必要性があるのでしょうか、
とも思われる次第なのではございますが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
>信玄が長生き設定で
これは当初からの予定ではあったわけですしねえ。
>兵站も問題ない
信濃から東美濃への侵攻は、武田勝頼、徳川秀忠、反対方向からの織田勢、
という感じで、普通にいくつもの事例があります事が、これまでにも
過去にも何度も指摘がされている次第ではございますしねえ。
>朝倉は冬に入っても撤退しない
>>76にも書きましたように、同じような雪国の越後の上杉氏が、 普通に年末に関東とか北陸に出陣をしていたり、
あるいはその予定で動いていたりする事などから考慮しましても、 本当に朝倉が年末に一時撤収する必要性があるのでしょうか、
とも思われる次第なのではございますが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
朝倉も普通に5月侵攻が行われて、武田・朝倉・長島、の三勢力で織田を戦略的に包囲していく策戦で、
戦略的に勝利を行える目算があるのであれば、普通に出陣拒否とかも起きないようには
思われる次第なのではございますが、これらに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>信濃、東美濃は北陸ほどではないにしろ積雪はある。3万近い人間の補給はどうするわけ?
これも何度も指摘がされているようには思われる次第ではございますが、
>>76にも書きましたように、雪国の越後の上杉氏が、 普通に年末に関東とか北陸に出陣をしていたり、
あるいはその予定で動いていたりする事などから考慮しましても、武田が撤収する必要性はあるのでございましょうか、
とも思われる次第なのではございますが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
>補給、地理が完全無視。
これに関しましても、>>105 >>106にもありますように、これまでにも
何度も指摘がされてきました事柄などを、貴方こと必死な織田厨さんが、
必死に都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられながら、資料やら史実やらの
ご提示などをなさられずにお喚きになられておられるだけのご様子のようには
思われる次第ではございますし、 これらの事柄などなどに関しまして、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などを
なにとぞおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
もたないのでしょうかねえ?
>>107 >>109にもありますように、普通に武田勝頼が
冬の時期に東美濃18諸城の攻略戦を行ったりしてますし、
>>76にも書きましたように、雪国の越後の上杉氏が、 普通に年末に関東とか北陸に出陣をしていたり、
あるいはその予定で動いていたりする事などから考慮しましても、武田が撤収する必要性はあるのでございましょうか、
とも思われる次第なのではございますが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
そもそも、信長も普通に越中を遠征中の謙信に11月末ごろに書状を出して、
北陸一向宗との戦いをひとまず辛抱して、武田領国に侵攻してほしい、とか要請してますし、
信長も普通に冬の時期に軍事行動は可能であると認識しているように思われますが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが、
そうやって抽象的にお喚きになられるのではなく、>>107 >>109にもありますように、普通に武田勝頼が
冬の時期に東美濃18諸城の攻略戦を行ったりしてますし、
>>76にも書きましたように、雪国の越後の上杉氏が、 普通に年末に関東とか北陸に出陣をしていたり、
あるいはその予定で動いていたりする事などから考慮しましても、武田が撤収する必要性はあるのでございましょうか、
とも思われる次第なのではございますし、資料やら史実やらを基になさられましての、具体的なるご回答の方などを
おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
>>107 >>109にもありますように、普通に武田勝頼が
冬の時期に東美濃18諸城の攻略戦を行ったりしてますし、
>>76にも書きましたように、雪国の越後の上杉氏が、 普通に年末に関東とか北陸に出陣をしていたり、
あるいはその予定で動いていたりする事などから考慮しましても、武田が撤収する必要性はあるのでございましょうか、
とも思われる次第なのではございますが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
そもそも、信長も普通に越中を遠征中の謙信に11月末ごろに書状を出して、
北陸一向宗との戦いをひとまず辛抱して、武田領国に侵攻してほしい、とか要請してますし、
信長も普通に冬の時期に軍事行動は可能であると認識しているように思われますが、
いかがなものなのではございましょうかねえ
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが、
そうやって抽象的にお喚きになられるのではなく、>>107 >>109にもありますように、普通に武田勝頼が
冬の時期に東美濃18諸城の攻略戦を行ったりしてますし、
>>76にも書きましたように、雪国の越後の上杉氏が、 普通に年末に関東とか北陸に出陣をしていたり、
あるいはその予定で動いていたりする事などから考慮しましても、武田が撤収する必要性はあるのでございましょうか、
とも思われる次第なのではございますし、資料やら史実やらを基になさられましての、具体的なるご回答の方などを
おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
それから、東美濃で行われた、とされている、上村合戦も、武田側と織田側が
東美濃で12月末に行った戦いであるとされておりますし、
>>76にも書きましたように、雪国の越後の上杉氏が、
普通に年末に関東とか北陸に出陣をしていたり、
あるいはその予定で動いていたりする事などから考慮しましても、
武田が撤収する必要性はあるのでございましょうか、
とも思われる次第なのではございますが、これらの事柄などなどに関しましては、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
上村合戦の場所わかってる?上矢作周辺だよ。そして大軍の合戦か?
ねえに地理尋ねても時間の無駄。
幼稚園児より酷いから。
そもそも策源地とか理解できてないから、上杉の関東遠征を例に出してる。こんな程度の知識では一生理解できないから時間の無駄だよ。
普通に信濃から通って軍勢を展開させて、冬真っ盛りの時期に戦闘を両軍ともに行っている事例として、
十分すぎるようには思われる次第ではございますし、
普通に勝頼が東美濃に1月から2月に1万5千で遠征した時のルートは、
後年に普通に織田側も主力の大軍をそこから侵攻させているルートですし、
数万の大軍が通るのに特に問題はないルートであると思われますし、
普通に信玄もそこを通ったと思われるルートで、兵站が問題になるとは
思われないのではございますが、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが、
関東がどうたら、という話だけではなく、普通に>>76にもありますように、
北陸での遠征におきましても、越前よりも緯度が高い、越中とか能登とかの遠征で、
年末とか、9月から4月までとか、平気で遠征していたりするわけでして、
普通に貴方のいう、「北陸大名は冬の時期に行動できない!」というのとは、
史実は普通に異なりまくっているように思われる次第なのではございますが、
これらについて、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
多少、のレベルでしょうかねえ?
普通に>>76にもありますように、
北陸での遠征におきましても、越前よりも緯度が高い、越中とか能登とかの遠征で、
年末とか、9月から4月までとか、平気で遠征していたりするわけでして、
関東への遠征におきましても、普通に一月末に平気で出陣したりしてて、
そもそもその前の月に北陸遠征から戻ってきて、関東諸侯に対して「本当は年末にも出陣するつもりだったんだけど、
北陸遠征で兵が疲れているから、年が明けたら出陣しますね。」的に書状で書いてまして、
本来なら、普通に12月まで北陸遠征をして、戻ってきたらそのまま関東に出陣をするつもりだった、
という事になるわけで、とても「多少」のレベルではないように思われるのですが、これらに関しましても、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
全国の積雪量調べてみたら? 豪雪地帯がどこなのか理解していない。
何度も指摘をされている事のようには思われますが、
そのように言われますのであれば、貴方が資料やら史実やら、あるいは論拠となる事柄を提示して、
それを基にして、ご自分の論旨を具体的にご説明なさられるのが筋であると思われますので、
おはやめに具体的にご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
抽象的にお喚きになられたり、wikiのリンクを貼られるだけで、なにをご主張なさられておられるのかと思われる次第ではございますので、
論拠を基になさられましての、具体的なるご回答の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
郡上遠藤氏と思われますかねえ。で、それらに関しましては、
兵糧補給が本当に不可能になるのでございましょうかねえ?
とは思われる次第なのではございますわけでございまして、普通に>>76にもありますように、
北陸での遠征におきましても、越前よりも緯度が高い、越中とか能登とかの遠征で、
年末とか、9月から4月までとか、平気で遠征していたりするわけでして、
関東への遠征におきましても、普通に一月末に平気で出陣したりしてて、
そもそもその前の月に北陸遠征から戻ってきて、関東諸侯に対して「本当は年末にも出陣するつもりだったんだけど、
北陸遠征で兵が疲れているから、年が明けたら出陣しますね。」的に書状で書いてまして、
本来なら、普通に12月まで北陸遠征をして、戻ってきたらそのまま関東に出陣をするつもりだった、
という事になるわけで、とても「多少」のレベルではないように思われるのですが、これらに関しましても、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
なめすぎ、と貴方がお喚きになられましても、実際問題といたしましては、
普通に>>76にもありますように、上杉氏などは、
北陸での遠征におきましても、越前よりも緯度が高い、越中とか能登とかの遠征で、
年末とか、9月から4月までとか、平気で遠征していたりするわけでして、 貴方的な理屈で考慮しますならば、
上杉勢は普通に全滅するのを繰り返していなければ不可思議な話、という事になるようには思われるのではございますが、
これらの事柄などに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
関東への遠征におきましても、普通に一月末に平気で出陣したりしてて、
そもそもその前の月に北陸遠征から戻ってきて、関東諸侯に対して「本当は年末にも出陣するつもりだったんだけど、
北陸遠征で兵が疲れているから、年が明けたら出陣しますね。」的に書状で書いてまして、
本来なら、普通に12月まで北陸遠征をして、戻ってきたらそのまま関東に出陣をするつもりだった、
という事になるわけで、とても「多少」のレベルではないように思われるのですが、これらに関しましても、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
そのような事を申されましても、普通に>>76にもありますように、上杉氏などは、
北陸での遠征におきましても、越前よりも緯度が高い、越中とか能登とかの遠征で、
年末とか、9月から4月までとか、平気で遠征していたりするわけでして、 貴方的な理屈で考慮しますならば、
上杉勢は普通に全滅するのを繰り返していなければ不可思議な話、という事になるようには思われるのではございますが、
これらの事柄などに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
関東への遠征におきましても、普通に一月末に平気で出陣したりしてて、
そもそもその前の月に北陸遠征から戻ってきて、関東諸侯に対して「本当は年末にも出陣するつもりだったんだけど、
北陸遠征で兵が疲れているから、年が明けたら出陣しますね。」的に書状で書いてまして、
本来なら、普通に12月まで北陸遠征をして、戻ってきたらそのまま関東に出陣をするつもりだった、
という事になるわけなのですが、これらに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
で、謙信率いる上杉勢はその越後から越中への遠征を、普通に9月から4月末近くまで、
普通に陣中で正月とかをむかえたりしながらも、普通に継続していった事が
普通に史実としてあるわけでございますし、他にも>>76にもありますように、
似たような事例はいくつもあるわけでございますが、これらの件に関しましても、
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などは、必死にスルーなさられようとして
おられるご様子のようには思われてもしまいます次第なのではございますけれども、
普通に>>76にもありますように、上杉氏などは、
北陸での遠征におきましても、越前よりも緯度が高い、越中とか能登とかの遠征で、
年末とか、9月から4月までとか、平気で遠征していたりするわけでして、 貴方的な理屈で考慮しますならば、
上杉勢は普通に全滅するのを繰り返していなければ不可思議な話、という事になるようには思われるのではございますが、
これらの事柄などに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
関東への遠征におきましても、普通に一月末に平気で出陣したりしてて、
そもそもその前の月に北陸遠征から戻ってきて、関東諸侯に対して「本当は年末にも出陣するつもりだったんだけど、
北陸遠征で兵が疲れているから、年が明けたら出陣しますね。」的に書状で書いてまして、
本来なら、普通に12月まで北陸遠征をして、戻ってきたらそのまま関東に出陣をするつもりだった、
という事になるわけなのですが、これらに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
で、当時の上杉の上野における領域は、東美濃の多くが北条に味方したりしてますのに、
とても20万石とかはないようには思われる次第なのではございますが、これらに関しましても、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
>地形や兵站の影響で進軍が遅くなっても構わないのじゃないのかな?
>朝倉長島武田の同時進行は破たんしそうだ。
そもそも、遅くなるのかとは思われる次第なのではございますけれどねえ。
史実的に考慮をしますのでございますれば、
普通に勝頼が東美濃に侵攻して18諸城を攻略しました時には、
普通に岩村を経由して1月から2月に1万5千で遠征しておりまして、
後年に普通に織田側も主力の大軍をそこから侵攻させてますし、
特に策源地やらとを武田も織田も>>98の人がおっしゃられるような意味合いでは考慮はしていないように
思われる次第なのではございますし、
普通にこれらのルートは数万の大軍が通るのに特に問題はないルートであると思われます次第ではございますし、
>>141にもありますように、そもそも、上杉も>>98の人がご主張になられるような、
策源地的な意味合いでの拠点とかが特にない北陸遠征とか、
そもそも、北陸遠征と連続で関東遠征もこなそうとしていた時の上杉の東上野の領域は、
20万石もなく、東上野の多くが北条側になっている事なども指摘されているように思われる次第なのではございますが、
これらに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
そもそも、史実的に考慮をしますのでございますれば、
普通に勝頼が東美濃に侵攻して18諸城を攻略しました時には、
普通に岩村を経由して1月から2月に1万5千で遠征しておりまして、
後年に普通に織田側も主力の大軍をそこから侵攻させてますし、
特に策源地やらとを武田も織田も>>98の人がおっしゃられるような意味合いでは考慮はしていないように
思われる次第なのではございますし、
普通にこれらのルートは数万の大軍が通るのに特に問題はないルートであると思われます次第ではございますし、
>>141にもありますように、そもそも、上杉も>>98の人がご主張になられるような、
策源地的な意味合いでの拠点とかが特にない北陸遠征とか、
そもそも、北陸遠征と連続で関東遠征もこなそうとしていた時の上杉の東上野の領域は、
20万石もなく、東上野の多くが北条側になっている事なども指摘されているように思われる次第なのではございますが、
これらに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
とりあえず、一通りの返レスはしおえた次第ではございますので、
とりあえず、今朝はここら辺で撤収させていただきたいと思う次第ではございますかねえ。(チラチラ)
はて?いったいなんの事をおっしゃられておられるのかとは思う次第では
ございますが、私は昨日の>>148までは書き込みましたけれど、
それ以後は普通に今日は今にいたるまで、特に書き込みはしていないわけでして、
もしそれ以降に、管沼なんたらとか名乗られたり、
あるいは私の文章を改変したりして書き込んでいる書き込みなどがありましたら、
それは貴方こと必死な織田ファンさんのなりすましであるかのようには
思われる次第ではございますが、これらの事柄などに関しましての、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>73にも書きましたように、別に包囲網側は一挙に決戦を行う必要性はうすいようには
思われる次第ではございますかねえ。
仮に朝倉が年末に撤収すると仮定しましても、年があけたらまた出陣してくるわけですしねえ。
長島とか武田とかは特に撤収する必要性もうすいようには思われますし、
一時的に仮に朝倉が年末に撤収したとしても、それまでに三勢力である程度それぞれの侵攻方向を制圧しておけば、
織田側は威信という意味で考慮しましても、領土的な勢力比などで考慮しましても、
普通に苦しい状況になるように思われますし、
織田側も志賀陣の時に降伏宣言的な書状を出して和睦している事からも、
織田側から普通に勢力的に苦しくなる可能性もあるように思われる次第ではございますかねえ。
ゲームやり過ぎやろ。
年が明けたらまた出陣とか。
史実では朝倉には出陣拒否が発生してるのに。
武田は特に撤収する必要性も薄い。
信濃、東美濃は北陸ほどではないにしろ積雪はある。3万近い人間の補給はどうするわけ?
補給、地理が完全無視。
話にならないな。
神坂峠
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%9D%E5%B3%A0
神坂峠もけっこう勾配がきつくて、冬季は普通に積雪するし、スタッドレスでは
とても行く気はしない。4輪チェーン+4駆車でもその勾配ゆえ滑落の危険あるから行きたくない。
ジムニーとかの車重の軽い4駆でチェーンなら行けるかも、とは思う。
木曽谷も当たり前のように積雪するし、上矢作方面は一番積雪少ないけど、
信忠本隊が行軍に難儀したように難所であるのはかわりない。
兵站の問題から帰国せざるをえないと思うよ。
>その険しい道程から東山道第一の難所として知られ、
荒ぶる神の坐す峠として「神の御坂」と呼ばれた(「御坂峠」という別表記はここに由来する)。
神坂峠は、急峻で距離も長かったため、峠を越えられずに途中で死亡する者や、
盗賊が出ては旅人を襲ったとの記録が、いろいろな古典に書かれている。
後に、東山道(中山道)は神坂峠を避けて、木曾谷を通るようになったため、
神坂峠を越える者は減少した。
あのー、まずはですね、1574年に行われました、
武田勝頼の東美濃18諸城攻略戦に関しましては、
普通に1574年1月から2月にかけて行われておりまして、
普通に勝頼は5月侵攻が行われていれば、
信玄が通っていたと思われるルートを進軍して、1月から2月、という冬の時期に、
普通に東美濃18諸城を攻略しているわけなのではございますが、
これらの事柄などに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
何が言いたいの?信玄が東濃に進出した事実はないと思うが、
勝頼が1月に神坂峠を越えたと言いたいのか上矢作を北上して岩村に出たといいたいのか。
それとも木曽谷経由か?信濃駒場から木曽谷経由はありえんが。
運用する兵力の多寡と期間によって兵站の負担は違うが。
いや、普通になんでこの文章でわからないのか、が意味不明瞭なように思われるのではございますけれどねえ。
興奮でもなさられておられるのではございましょうかねえ。
「信玄が通っていたと思われるルートを進軍して、」としっかりと書いてありますし、
普通に勝頼が東美濃に1月から2月に1万5千で遠征した時のルートは、
後年に普通に織田側も主力の大軍をそこから侵攻させているルートですし、
数万の大軍が通るのに特に問題はないルートであると思われますし、
普通に信玄もそこを通ったと思われるルートで、兵站が問題になるとは
思われないのではございますが、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
じゃ上矢作からのルートならば兵15000を1ヵ月補給する程度はできる。
それでいいんじゃないの?
ただ1ヵ月だけの短期戦ではなく前年10月以来ずっと続いている。
兵は米を食うし物資の輸送もタダじゃない。米も銭も軍需品も無限ではない。
いや、ですから、別に勝頼も一ヵ月でこの戦いが終了するかは未知数だったわけですしねえ。
そもそも、後年に普通に織田側も主力の大軍をそこから侵攻させているルートですし、
織田側は武田攻めにかなりの時間がかかる事を想定していたわけで、
貴方がいうような、一ヵ月、という話には到底ならないようには思われる次第なのではございますが、
これらの件に関しましても、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ、
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが、
>年が明けたらまた出陣とか。 >史実では朝倉には出陣拒否が発生してるのに。
これは何度も指摘がされている事ではございますが、史実では、信玄が西上を続けていて、
5月侵攻策戦なども行われる予定がありました、1573年3月の出陣では、普通に出陣拒否とかも特になく、
朝倉勢は出陣をしているわけでございますしねえ。
で、何度も指摘の方などをさせていただいている事のようには思われる次第なのではございますが、
正直な話、貴方こと必死な織田ファンさんのいう「地理的な推測」「現実から推測した事!」とやらは、
ただ単に「信長さまがシミュレーション上で不利になるから嫌じゃあああああ」
と貴方こと必死な織田厨さんがお思いになられておられる事を、
無理やりに、資料的、史実的な論拠とかもなしに、
無理やりに否定なさられようとしておられる、というだけの話のように
思われてもしまう次第なのではございますが、
これらの事柄などに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
ご回答の方などを、なにとぞおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
朝倉氏研究の学者さんなどは、1572年末の朝倉の一時撤収は、正月は本拠地に戻って参賀を受ける、
という朝倉氏などの習慣に基づいたのではないか、的にも述べておられ、1572年末の一時撤収であれだけ非難を受けた事から、
今度は朝倉氏が対陣を続ける可能性もなくはないようにも思われれるのではございますが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
>>75
そんな大軍がどこにおられますのか、を資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などを
よろしくお願いいたしたいとは思う次第ではございますので、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>苗木はじめ東美濃の小城全て落とすのに半月から1ヶ月
東濃制圧とするなら短すぎだろ、その期間じゃ恵那郡制圧する程度では。
>朝倉義景は郡上八幡の遠藤が内通するなら、後はそこまで大した城はない。
郡上から美濃市までの20キロは完全に山で守りやすく攻めにくい道だよ。
出口にあたる美濃市周辺まで完全に内通してなければ割と小兵力で防衛出来る。
勝頼時代に、東美濃の武田勢力封じの為に、18諸城を普請して、兵力も増派して守りを固め、
としておりますのに、勝頼が一ヵ月で攻略しております事などから考慮しましても、
信玄の時期にはそれらがされてない事などから考慮しましても、
よりはやい速度で攻略・侵攻を行える可能性も高いようには思われますが、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
朝倉宗滴時代には、普通に赤坂とかにまで進出したりしているわけですしねえ。
>>41
普通に長生き設定ですから、普通に健康で、
少なくとも指揮をとるのに問題ないくらいの健康は維持している、
という仮定で進められているように思われますが、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
>ただ、どう見ても武田信玄は脇役で、朝倉義景か長島が岐阜城に先に到達しそうだ。
どうなのでしょうかねえ。普通に、史実でも、信長は武田勢を警戒しまくって、美濃にとどまっていたわけですしねえ。
金山城もそんなにすごい戦歴があるわけでもないように思われる次第ではございますしねえ。
>これでは織田を滅ぼせてもすぐに領地の取り分めぐって争い起きそう。 >岐阜城は朝倉義景や長島だって欲しいだろうし。
これに関しましては、何度も指摘をされている事のようには思われますが、別に長島衆やら、朝倉勢やら、が
岐阜城を制圧したとして、特に問題はないように思われるのですけれどねえ。当時の領土は普通に切り取り次第が基本とされておりますし、
織田が打ち倒されたのであれば、別に岐阜の半分だか三分の一だか、岐阜城だか、を朝倉だか、長島だか、が制圧したとしても、
武田は美濃の半分だか3分の1だか、を制圧した上に、尾張も半分か全域か、くらいは制圧できるでしょうし、
徳川領土は完全に武田側が制圧できることになるように思われる次第ではございますし、という感じですから、武田も別に岐阜城には
特にこだわる必要性もうすいように思われる次第なのではございますが、これらに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
元亀4年2月10日三河野田城攻略、その後武田主力は北上し
信濃駒場で4月12日信玄死去。
この動きを5月作戦実行のものとするなら武田主力は神坂峠を越えて東濃侵攻を
企図したものと見れる。
しかし一度岩村城で味方(秋山ら?)と合流するなら上矢作のほうから北上したほうが
近いように思えるが、どのルートで信濃駒場まで行ったのかよくわからないので保留とす。
で、この状況下で武田が元亀4年5月初頭、本格的に東濃侵攻したとしても、
年末に朝倉が帰国すれば武田も帰国する可能性はかなり高いと思う。
既に1年以上の遠征で武田の兵站は限界に達しているだろうし、
それを押してまで武田単独で美濃に留まり続けることはできないと思われる。
やっぱ包囲網側が美濃侵攻するなら短期戦指向でいくしかないと思うけどなぁ。
織田方は隙あらば各個撃破、だめでも長期持久、信長の性格だと虎視眈々と
各個撃破狙うような気がするけど。
年末と言っても、当時の雪の季節なら11月半ばには帰国しないと朝倉は越前に帰れないよ。油坂峠は現在では冬は全面通行止め。当時ならたぶん11月くらいから通行が厳しくなると思います。
短期決戦。それはつまり武田信玄が東美濃全域を1ヶ月で制圧し、その間に朝倉か長島が織田軍を野戦で破って岐阜城に追い込み、冬が来るまでに岐阜城と西美濃、尾張全域を制圧する、でいいのかな?
当時の雪の季節なら11月半ばにはって現在と当時の暦のズレ考慮した上での11月?
1573年は約一ヶ月ずれてるから、5月侵攻というのは現在の6月だし、
浅井朝倉が滅んだ8月後半は現在の9月後半稲刈りの時期。
第二次長島攻めで10月末に凍死者出るのも現在の暦に直すと11月末でほぼ冬だからだし。
暦のズレ考慮してないなら当時の暦だと10月には帰国すべきってこと?
野田城攻略とか、あれぐらいの速度と想定できる。
こんなんでは朝倉・長島衆も突出を嫌い、遅々とした進撃になると思われる。
上矢作の方って、道はどうなんですかね?
そこそこの軍勢は通れますか?
信長公記巻15 の信州討入の項には信忠本隊は岩村城から南下し
上矢作方面から伊那谷に入っているかんじに見える。
武田方は滝沢要害に期待してたみたいだね。
平谷村の歴史
http://hirayamura.jp/publics/index/130/
詳しくは「滝之沢城」あたりで検索すると出てくる。
そして2月頃までは越前から動けない
例年このパターン
他人装いなどをなさられておられる事は、
オープンでも信玄長生きスレのパート2スレでもパート4スレでもパート5スレでも、
普通にお認めになられておられますので、 こちらとしては色々と考慮をせざるを得ない、という感じでございますかねえ。
とりあえず、携帯とパソコンをはじめとする、複数の端末を同時に活用なさられば、その時点で
複数のIDは成立するわけでございますし、さらに申し上げますと、携帯とかスマホとかは接続しなおすたびに
IDが切り替わるそうなので、単発IDの量産に必死な織田厨さんは活用なさられておられるご様子のようで、
パート2スレとかでも、同じような事をして、こちら側から指摘をされて「IDが変わっているだけだ!何が悪い!」
と居直っているレスとかも普通にあるわけでございますしねえ。
の一部を訂正
×織田厨さん
○織田ファンさん
修正しておきますかねえ。
さらに申し上げますと、オープンの方でも、荒らしとしてスレへの書き込み禁止処置を必死な織田ファンさんが受けて
その端末では書き込みができないはずですのに、すぐにそのスレに、自身をそのご当人だと名乗りながら、
文体も行動もまったく同じで荒らし行為をはじめており、この時点で複数端末による複数ID自演を行っている事は
まず確定なわけでございますし、 ご当人もそれを指摘されたら、逆に居直って認めている、という次第なわけでございまして、
このように書くと「オープンのやつなどここには書き込みしていない!」と必死な織田ファンさんは喚きだしてきたものではございますが、
信玄長生きスレのパート4スレ666 パート4スレ670を読めばわかりますように、
普通にオープンにいた必死な織田ファンさんがここにいらっしゃる事は明確なわけでございまして、
オープンの時と同様に、ここでも必死な織田厨さんが、複数端末による複数ID自演を行われているのは明らか、という事になると思われますし、
現にご当人さんもパート3スレでもパート4スレでも、パート5スレでも、普通にお認めになられている次第でございますしねえ。
このように書きますと、
「IDを変えただけで自演はしてない!」的に必死な織田ファンの人は喚かれたり
なさられるものではございますけれど、
必死な織田ファンさんは、信玄長生きスレのパート2スレで、議論的に苦しくなったら、
口調とIDを変えて、必死にご自身の論旨を擁護して、都合の悪い相手側の論旨を封じようと
躍起になり、こちら側から「もう主張内容とかが、貴方が他人だといってる人ととまったく同じになってますよ。」
的に指摘されたら「IDが変わっているだけだ!何が悪い!」と喚かれておられた、というのが実情でございますので、
普通に複数端末による、複数ID自演やら、他人装いによる多数派装いやら、を常習的に行われている、
という事になられると思う次第でございますかねえ。
そもそもの問題として、
信玄長生きスレのパート4スレ627で書かれたレス(IDはM4M2vT9M)に対して、
パート4スレ635がレスをし(これもいつも通りに必死な織田ファンさんの複数端末による複数ID自演のような気がしなくもないわけではございますけれどねえ。)
パート4スレ636(IDはWvj/vAmq)でそのパート4スレ627に対してのレスに対する応答を、違うIDで必死な織田ファンさんがお答えになられている、
という時点で、普通に必死な織田ファンさんが、複数端末による複数ID自演を行われている、というのは
明らかになっているように思われるのですが、この件についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
西から織田が420万の大軍を
東から上杉が280万の大軍を
合わせて700万の超大軍が武田を1匹残らず踏み倒す
信玄もあっという間に御陀仏よwwwwwww
それしか穴山は考えてないからな
武田から穴山に支配者が変わった方が民衆は幸せだったろうな
織田も徳川も上杉も武田内部も足利将軍家も朝廷も納得だな
北条と小山田だけがゴネるな
穴山、サイコー!
武田版、本能寺の変が観たかったなwwww!
とりあえず、穴山は、信玄が生きている時には、普通に武田贔屓で、
武田信君とか署名するくらいに武田一門としての意識が強いですし、
勝頼時代も普通に一門衆として活動してますしねえ。
最後の最後の方で、武田氏内部での権力争いに敗北したとされます事などから、
織田徳川に内応する事にはなりましたけれど、信玄が生きていて、
普通に包囲網側と連携をしながら、戦略的に織田を押し詰めていくのであれば、
特に穴山関連に関しましては、特に問題はないように思われる次第ではございますかねえ。
とりあえず、一通りの返レスはしおえた次第ではございますので、
とりあえず、今夜はここら辺で撤収させていただきたいと思う次第ではございますかねえ。(チラチラ)
とりあえず、今夜はここら辺で撤収させていただきたいと思う次第ではございますかねえ。(チラチラ)
設定で、朝倉は冬に入っても撤退しない長期包囲殲滅作戦路線のようだ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが、
そもそも、その菅沼なんたら、自体が、何度も指摘をされておりますように、
それを認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて、
貴方ですら、それに整合性をつけてのご説明をなさられる事が
一度もお出来になられない、という状況でございますのに、 今更なにをおっしゃっておられるのかと思う次第でございますので、
これらの件につきましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いしたいと思いますので、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
美濃に攻め入るのを「たかが隣国」に攻め入るだけという始末。
補給の概念が無い。経済知識も無知。
「信長様が攻められると、なぜそこまで包囲網勢力が不利になるんじゃあああ!」とかほざいているが、自分からすれば、「武田信玄になったら、何故そこまで美濃に攻め入るのが容易くなるのか」を説明してほしい。
それから、何度も指摘されている事ではございますが、経済関連などに関しましても、
こちら側が資料やら史実やら、論説やら、を提示しているばかりなわけではございますし、
貴方こと必死な織田ファンさんは、それらをとくに提示しておられないように思われますし、
そのような様子も過去ログにはしっかりと残っているようには思われる次第ではございますし、
正直な話、貴方こと必死な織田ファンさんのいう「地理的な推測」「現実から推測した事!」とやらは、
ただ単に「信長さまがシミュレーション上で不利になるから嫌じゃあああああ」
と貴方こと必死な織田厨さんがお思いになられておられる事を、
無理やりに、資料的、史実的な論拠とかもなしに、 無理やりに否定なさられようとしておられる、
というだけの話のように思われてもしまう次第なのではございますが、
これらの事柄などに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
ご回答の方などを、なにとぞおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
翻って美濃侵攻する朝倉、武田に協力する地元土豪にそれを養えるだけの領地(米)
があるのかと。
それと朝倉、というより越前(北陸)の問題だが、雪で兵站線が途絶する、軍道通行不可になる、
という面が大きく、賤ヶ岳で柴田勝家が雪でなかなか出陣できなかったというのと同じ。
郡山遠藤氏、東美濃の遠山氏
石高、城の収用能力いずれも数千人が滞在するのが限界だよ
過去のデータや未来のデータがあるから地理、兵站は考慮しなくていいんじゃああ
朝倉や徳川とは状況が違い過ぎて参考にならない。
朝倉は土岐氏旧臣の半分近くが内通していた。
徳川はそもそも東美濃では戦ってすらいないのに、行軍だけであんなに遅延した。
徳川見た場合でわかるけど、あの辺りはやはり大軍が行軍するのは不向きすぎる。だから武田信玄も永禄期に信濃から美濃へ、なんてやらなかったんだろ。
いや、別に土岐の旧臣がそこまで味方していなかったと思われる時期ですら、
朝倉宗滴は普通に美濃の赤坂まで進出したりしているわけなのですが、
この件に関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
徳川秀忠に関しましては、過去スレとかで普通に指摘がされていた事などを、
いつも通りに必死になって都合の悪い事柄などを、必死になってスルーなさられようとして
おられるご様子ではございますが、秀忠の事例は上田攻めの最中に9月8日に9月9日に到着するように、という書状をうけとって、
全速力で美濃にむかいましたけれど、決戦には間に合わず、そのまま家康をおいかけて、
合流したのが近江の大津で9月20日。書状を受け取ってから、近江の大津まで12日で到達している事からも
そこまでもたついているとは思われないのですけれどねえ。あくまでも、書状を受け取るのが遅れた事から、
関ケ原本戦に間に合わなかっただけの話でございますしねえ。
これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、武田の事例でいいますならば、普通に東美濃遠藤氏を従属させ、
そこに武田勢を派遣して守りを固めたりしてもいますしねえ。
普通に勝頼が東美濃に1月から2月に1万5千で遠征した時のルートは、
後年に普通に織田側も主力の大軍をそこから侵攻させているルートですし、
数万の大軍が通るのに特に問題はないルートであると思われますし、
普通に信玄も5月侵攻がおこなわれたのであれば、普通にそこを通ったと思われるルートで、
兵站が問題になるとは思われないのではございますが、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
実際問題として、同じようなルートで、あるいは同じような、あるいはもっと厳しそうな状況などで、
普通に遠征をしている事例がいくつもありますのに、なにゆえに
「それをやられたら信長がシミュレーション上で不利になるように思われる時にだけ」
そこまで難易度がはねあがられますのではございましょうか、とも思われる次第なのではございますので、
これらの事柄などに関しまして、資料やら史実やら、を基になさられましての、ご回答の方などをなにとぞよろしくお願いいたしますかねえ。
正直な話、貴方こと必死な織田ファンさんのいう「地理的な推測」「現実から推測した事!」とやらは、
ただ単に「信長さまがシミュレーション上で不利になるから嫌じゃあああああ」
と貴方こと必死な織田厨さんがお思いになられておられる事を、
無理やりに、資料的、史実的な論拠とかもなしに、 無理やりに否定なさられようとしておられる、
というだけの話のように思われてもしまう次第なのではございますが、
これらの事柄などに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
ご回答の方などを、なにとぞおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
白川郷の家屋の屋根がなぜあんな形をしてるのか、
北陸の豪雪を舐めすぎ。
北条御館で雪降ったからって諦めんなよって思う。
もし、領内の市場を経済拠点とか言ってるとしたら、ねえは真正の基地外だな。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが、
仮に現在過疎化してたから、なんだとしか思われないのですけれどねえ。
現在は都会、都市部周辺などに移住する人間が増えていて、地方はあちこちで過疎化が進んでいるのが問題になっているくらいですのに、
貴方はなにをおっしゃられているのか、とは思いますし、こちらは普通に学者さんなどの論説などにおいて、
普通に経済拠点的に認められている所を提示させていただいた次第ではございますので、
貴方こと必死な織田ファンさんが妄想願望でお喚きになられましても、とは思う次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しましても、具体的に資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
越後40万石で兵力8000という余裕ある動員で、
山越えした先に東上野20万石ほどを策源地としてもっている
朝倉の場合は50万石で2万という無理ある動員に、
山越えした先の郡上は4万石ほどで、そこから更に山道
武田の場合は100万石強で2万5千という普通の動員だけど、
岩村だけじゃ数万石で、策源地としては少なすぎる、
東濃全て奪っても15万石ほどで上杉の負担とは比較にならない。
雪で移動が困難って言ってるのは山間部で平野部の移動が出来ないなんて誰も言ってないんだよな……
武田信玄の動員は普通じゃないよ。
上野の内藤、北信の高坂まで動員かけて、さらに北条氏政から2000を借りている。
文字通りの総動員だから。
西上の時の、信玄が率いた武田勢は軍鑑では三万余、とされておりますかねえ。
で、そもそも、前スレの序盤にも指摘がされていたようには思われる次第ではございますが、
武田家やら北条家やら、は軍役をしっかりと定める事によって、
通常軍役計算1万石=250人、よりも多くの軍役人数を招集する事に成功していたように思われる資料やら形跡が残っており、
例えば、武田家の一族である、武田信実は加増分として与えられたおよそ800石程の領地からの収入で、
28人もの軍役を務めるように指示がされている書状が残っておりまして、
800石で28人、という事になりますと、28÷8=3.5人、という事になり、
100石で3.5人、という計算になるわけで、単純に計算をしますと、一万石で350人を動員していた、という計算になるわけでして、
西上開始の時の武田の石高がおよそ110万石近く、という事を考慮しますと、武田勢の兵力は
軍役規定がされておらず、軍役人数をどれだけ連れてくるかが配下武将に任されていた、織田家とは異なり
一万石350人×110、で3万8千500人、という事になり、西上の時に信玄が率いていたとされる、
三万余(北条勢2千も含めて、とすれば2万8千程か。)岩村に派遣された2千程の兵力、
岩村遠山の兵力千程、の合計である3万3千程を、普通に余裕をもって動員する事ができた、
という事になりますように思われる次第ではございますが、これらに関しましては、いかがなものなのかとは思う次第ではございますが
いかがなものなのではございましょうかねえ。
久しぶりに来て見たらクッソワロタwww
菅沼お前信玄の最大領域120万石と主張してたのに何でしれっと110万石近く、に下方修正してんだよwww
まーたいつも通りに、必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、 捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
今まで聞かれている数多くの事柄などなどに関しまして、
資料提示などを行われましての、
ご論証の方などをなさられてはおられないように思われます次第ではございますのに、
必死になって他人装いをなさられながら、准教授などと名乗られながら、きかれている事柄などからは
発狂逃亡をなさられようとしておられるご様子のようには思われる次第ではございますが、
そもそも、その菅沼なんたら、自体が、何度も指摘をされておりますように、
それを認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて、
貴方ですら、それに整合性をつけてのご説明をなさられる事が
一度もお出来になられない、という状況でございますのに、
今更なにをおっしゃっておられるのかと思う次第でございますので、
これらの件につきましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それだけ人に偉そうなこと言うなら、自分も史実に基づいて美濃へ侵攻する朝倉義景や武田信玄のルートを説明しろよ。
それが出来ないなら、いちいち人を挑発するように質問を求めるな、カス!
http://imgur.com/e1Cypzo.jpg
越前から直接美濃に入るには越前街道から八幡城を目指す
一帯を支配してる遠藤は本願寺及び武田と通じていたけど、肝心の朝倉には過去侵攻された経緯があり相互に遺恨が残ってるのが不安要素
信濃からは後年勝頼が侵攻してきた岩村城、明智城、それから木曽川の対岸にある苗木城あたり
いずれも美濃中央部からは離れており行動を起こせば察知されるだろうし、信長側からしてみれば尾張の諸城と連携できるので入ってきたら圧倒的に信長優位
ねえの奴は、遠藤氏は朝倉義景とも通じていたと言ってるよ。
普通に郡上遠藤は武田だけではなく、朝倉にも内応していた事などは、
郡上遠藤が武田・朝倉の書状連絡の仲介を行っている事、
信玄が朝倉に対して、「郡上遠藤に対して鉈尾の砦を構築するように、
朝倉側からも指示をするように。」的に書状に書いている事からも
明らかなように思われますしねえ。
で、東美濃からの侵攻がそんなに容易に防げるなら、勝頼の時の東美濃攻防で織田がもっと優位でしょうし、
尾張の城との連携も特にされてないように思われますしねえ、史実では。
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
の下の方のレスアンカーは>>288宛です。修正しておきますかねえ。
>>222
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘をされている事ではございますが、「結果」を主に書いていて、行軍ルートとかは一々書いていない一次資料で、
なにをどうやったら、行軍ルートを明らかにできるのかとは思われる次第なのではございますので、
貴方がそのような事をおっしゃられるのでございますれば、一次資料を基にして、戦国時代の主な合戦を全て
行軍ルートを明らかになさらる事などからおはじめになられていただきたいとは思われる次第ではございますので、
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、そもそも、他にも貴方こと必死な織田ファンさんが聞かれていて、現在進行形で発狂逃亡中のようにおもわれます、
膨大なる事柄などなどに関しまして、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、まーたいつも通りに、必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、 捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
こちらが>>146で書いておりますのは、「西上開始時の」武田家の石高で、
信玄時代の最大石高が120万石、というのとは、まったく矛盾が生じていないわけなのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、貴方が現在進行形で発狂逃亡中の膨大なる事柄などなどに関しましても、
おはやめに資料やら史実やら、を基になさられましての、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしたいとは思う次第ではございますので、
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
とりあえず、一通りの返レスはしおえた次第ではございますので、
とりあえず、今夜はここら辺で撤収させていただきたいと思う次第ではございますかねえ。(チラチラ)
で、策源地がどうとかおっしゃられておられるご様子ではございますが、
史実的に考慮をしますのでございますれば、
普通に勝頼が東美濃に侵攻して18諸城を攻略しました時には、
普通に岩村を経由して1月から2月に1万5千で遠征しておりまして、
後年に普通に織田側も主力の大軍をそこから侵攻させてますし、
特に策源地やらとを武田も織田も貴方がおっしゃられるような意味合いでは考慮はしていないように
思われる次第なのではございますし、
普通にこれらのルートは数万の大軍が通るのに特に問題はないルートであると思われます次第ではございますが、
これらに関しましても、おはやめに具体的なるご回答の方などを、よろしくお願いいたしますかねえ。
地形や兵站の影響で進軍が遅くなっても構わないのじゃないのかな?
朝倉長島武田の同時進行は破たんしそうだ。
レイテ海戦みたいな結末にならなければよいが。
進軍が遅くなるのが問題なんじゃなくて、兵站がもたないのが問題なんだよ。
何度も指摘をされている事のようには思われますが、
そのように言われますのであれば、貴方が資料やら史実やら、あるいは論拠となる事柄を提示して、
それを基にして、ご自分の論旨を具体的にご説明なさられるのが筋であると思われますので、
おはやめに具体的にご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
抽象的にお喚きになられたり、wikiのリンクを貼られるだけで、なにをご主張なさられておられるのかと思われる次第ではございますので、
論拠を基になさられましての、具体的なるご回答の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
で、そのウィキでは、新潟の豪雪地帯は平均降雪量で、600とか900とか1300とか、
凄い雪量のがたくさん書いてあって、福井のは最大値で502みたいなのですが、
これでいったい貴方はなにをご主張なさられたいのでございましょうかねえ。
越後の方が越前よりも圧倒的に雪量が多い、という話になりそうに思われるのですが、
この件に関しましても、具体的にご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
自分の身長、160cm以上積雪してるような所で道と崖の判別できる?
そんなところ補給路としてして通らせるの?すごいね。
あぁこれ越前大野ね。
そうですねー、凄いですねー、で越中の事例でも積雪量200以上とかのが普通に書いてありますし、
越後の事例でいうのなら、積雪量200はおろか、300とか400とか、普通に書いてあるのですけれど、
それで、普通にこれらの中を、補給路などを通しつつ、
上杉勢は越後から北陸遠征を9月から4月まで継続したりしているのですが、
これらの件に関しましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
越中を制圧した状況下でも越後から兵站線を引かなければならない理由はないと思うが?
一方、郡上や東濃ではねぇ。
いやいやいや、なにを妄想願望なさられておられるのかと
不可思議には思われてもしまいます次第なのではございますが、
普通に謙信が9月から4月まで遠征した先は越中で、
戦った相手も、越中を領域とする、北陸一向宗の越中方面軍なわけですし、
この遠征の後も、普通に謙信は越中に遠征して、北陸一向宗と対峙をしたりとか
してもいるわけなのではございますが、これらの事柄などなどに関しましても、
資料やら史実やら、を基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>145
越後越中間なら海路もある。
信玄上洛時の越中攻めの時も越中の半分近く支配している上での長期遠征(途中帰ってるけど)で、
兵力も1万ほどでしかないし。
>>155
苗木城落としたってちゃんとしたソースあるの?
とりあえず、信長公記によりますならば、1月27日から開始され、
2月末で終了、という事になっておりますかねえ。
>越後越中間なら海路もある。
北陸で、冬の間で海路、というのも、中々に大変であるように思われますしねえ。
>信玄上洛時の越中攻めの時も越中の半分近く支配している上
半分も支配してますかねえ?現在の富山市にあたる「富山の地」の
守りを固めるように、信玄が一向宗門徒達に指示をしていますし、
上杉氏の研究者さんの、矢田氏も、1573年4月までの遠征で、
神通川の東側を上杉が制圧する事に成功した、と書いてますし、
普通に考慮すれば、半分どころか、せいぜい3分の1もなさそうには
思われる次第なのではございますが、これらに関しましては、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
>長期遠征(途中帰ってるけど)
いや、帰ろうとしたけれど、一向宗勢が反抗を開始したので、
再び戦闘を継続、という流れなわけですから、
帰った、というのは不可思議な話のようには思われる次第ではございますが、
これらに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
越中38万石の3分の1未満でせいぜい12万石くらいで、
策源地云々の話でもないように思われますしねえ。
そもそも、毛利とか大内とかも、
さらには関東遠征の時の長尾上杉も、
この北陸遠征の時の遠征よりも長期の遠征を普通にしているわけですしねえ。
こんな糞みたいな奴、いったい誰が興味持ってんだぁー
織田信長が天下取ったから今の日本がある
信玄なんぞが万が一、天下取っとったら今頃日本は朝鮮半島みたいになっとるわw
北朝鮮は武田のやり方そのものだしなwww!
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘がされている事のようには思われますが、
信長は普通に本能寺で死亡して、織田政権は崩壊する事になっているわけでは
ございますしねえ。信玄の統治とかは、別に北朝鮮とかとは
色々と異なるように思われますが、これらに関しましても、
資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
おぉっ、ねえ やないかぁー
ひっさしぶりやのうー
しぶとくまだ生きとったかぁ~
遠慮せんでええぞー、ほれ、お陀仏、御陀仏!
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
聞かれている事柄などなどに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
またその際に策源地の要素の考慮が必要。
戦争を語るなら兵数だけでなく地形や兵站も
重要な要素。
兵数だけで勝敗を決するなら一向宗が天下取ってる。
上矢作どうたらいっているのは、私とは完全に別人なわけですしねえ。
書き込み時間帯も口調も論旨もIDも文体もまるで別人ですのに、なにをいっておられるのかと思うのですけれどねえ。
>甲斐や信濃から美濃へ援軍送るのがどれだけ難しいか、それすら理解できないのかよ。
抽象的にお喚きになられるのではなく、資料やら史実やらを基になさられまして、
具体的にご提示になられていただきたいとは思いますので、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>152 宛続き
それから、越後から越中までも、普通に親不知の険とかありますしねえ。
>>151
で、武田・朝倉・長島、が侵攻すると思われるルートは、普通にいくつもの事例で、
普通に侵攻が行われているルートで、当時の人間も普通に侵攻可能であると想定しておりますので、
普通に可能、でFAかと思われますかねえ。資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
親不知の険って何?
親不知子不知だろ。
ホント無知だなあ。
だから、あんたが「普通にいくつもの事例」「普通に可能」と言うのなら、あんたが史実に基づいてそのルートを教えてよ。
いつもルートを聞いたら織田厨とか言って逃げ出してるだけだろ臆病者のねえ君。
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを、必死になってスルーなさられようとはしておられるご様子ではございますが、
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
相手側がいなくなったら、必死になって、煽り罵倒・捏造曲解・レッテル貼り、などにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
親知らずの険、とは普通にいいますしねえ。なにをおっしゃっておられるのかとは思いますので、
これらの事柄などなどに関しまして、貴方こと必死な織田ファンさんが、現在進行形で発狂逃亡中の、
膨大なる事柄などなどとあわせられまして、おはやめにご回答の方などを、よろしくお願いいたしますかねえ。
で、何度も指摘をされている事ではございますが、必死に都合の悪い事柄などを、必死にスルーなさられようとなさられながらの、
必死な捏造曲解やら、レッテル貼り、などに貴方こと必死な織田ファンさんなどはご狂奔なされようとしておられるご様子のようには思われます次第なのではございますが、
「結果」を主に書いていて、行軍ルートとかは一々書いていない一次資料で、
なにをどうやったら、行軍ルートを明らかにできるのかとは思われる次第なのではございますので、
貴方がそのような事をおっしゃられるのでございますれば、一次資料を基にして、戦国時代の主な合戦を全て
行軍ルートを明らかになさらる事などからおはじめになられていただきたいとは思われる次第ではございますので、
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
それでも朝倉は何度も越前から美濃に侵攻を過去に行っておりますしねえ。
武田は勝頼が1万5千で東美濃に普通に侵攻しておりますし、徳川秀忠も、信濃から東美濃を通過してますし、
逆方向からは織田の大軍も信濃に侵攻しておりますしねえ。
長島も普通に不破口からの侵攻などを行えるのに都合がいいと思われる地所などに、
普通に進出していたりしますし、岐阜から三里の所に砦を構築してもおりますし、
そもそも、岐阜から長島への逆ルートは織田が普通に侵攻しておりますし、という感じで
その逆ルートを普通に長島がそれを行えない理由はどこにもないようには思われる次第ではございますので、これらに関しましても、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを、必死になってスルーなさられようとはしておられるご様子ではございますが、
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
相手側がいなくなったら、必死になって、煽り罵倒・捏造曲解・レッテル貼り、などにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
親知らずの険、とは普通にいいますしねえ。なにをおっしゃっておられるのかとは思いますので、
これらの事柄などなどに関しまして、貴方こと必死な織田ファンさんが、現在進行形で発狂逃亡中の、
膨大なる事柄などなどとあわせられまして、おはやめにご回答の方などを、よろしくお願いいたしますかねえ。
で、何度も指摘をされている事ではございますが、必死に都合の悪い事柄などを、必死にスルーなさられようとなさられながらの、
必死な捏造曲解やら、レッテル貼り、などに貴方こと必死な織田ファンさんなどはご狂奔なされようとしておられるご様子のようには思われます次第なのではございますが、
「結果」を主に書いていて、行軍ルートとかは一々書いていない一次資料で、
なにをどうやったら、行軍ルートを明らかにできるのかとは思われる次第なのではございますので、
貴方がそのような事をおっしゃられるのでございますれば、一次資料を基にして、戦国時代の主な合戦を全て
行軍ルートを明らかになさらる事などからおはじめになられていただきたいとは思われる次第ではございますので、
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
それでも朝倉は何度も越前から美濃に侵攻を過去に行っておりますしねえ。
武田は勝頼が1万5千で東美濃に普通に侵攻しておりますし、徳川秀忠も、信濃から東美濃を通過してますし、
逆方向からは織田の大軍も信濃に侵攻しておりますしねえ。
長島も普通に不破口からの侵攻などを行えるのに都合がいいと思われる地所などに、
普通に進出していたりしますし、岐阜から三里の所に砦を構築してもおりますし、
そもそも、岐阜から長島への逆ルートは織田が普通に侵攻しておりますし、という感じで
その逆ルートを普通に長島がそれを行えない理由はどこにもないようには思われる次第ではございますので、これらに関しましても、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>で、武田・朝倉・長島、が侵攻すると思われるルートは、普通にいくつもの事例で、
普通に侵攻が行われているルートで、当時の人間も普通に侵攻可能であると想定しておりますので、
普通に可能、でFAかと思われますかねえ
勝手にFAとか言ってんじゃねーよ、何様だお前は。
朝倉が5月に2万で油坂峠を越えて美濃で越冬した事例、
武田が5月に3万で東濃に進攻して越冬した事例、
長島衆が5月に3万で美濃に侵攻して越冬した事例、
事例があるなら出せよ?
当時の人間も侵攻可能であると想定しており?誰それ?誰の事?
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを、必死になってスルーなさられようとはしておられるご様子ではございますが、
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
相手側がいなくなったら、必死になって、煽り罵倒・捏造曲解・レッテル貼り、などにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
何度も指摘をされている事ではございますが、「結果」を主に書いていて、行軍ルートとかは一々書いていない一次資料で、
なにをどうやったら、行軍ルートを明らかにできるのかとは思われる次第なのではございますので、
貴方がそのような事をおっしゃられるのでございますれば、一次資料を基にして、戦国時代の主な合戦を全て
行軍ルートを明らかになさらる事などからおはじめになられていただきたいとは思われる次第ではございますので、
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
油坂峠かどうかは、何度も指摘されておりますように、上記のように、そもそもわからないわけですしねえ。
それでも朝倉は何度も越前から美濃に侵攻を過去に行っておりますしねえ。
武田は勝頼が1万5千で東美濃に普通に侵攻しておりますし、徳川秀忠も、信濃から東美濃を通過してますし、
逆方向からは織田の大軍も信濃に侵攻しておりますしねえ。
長島も普通に不破口からの侵攻などを行えるのに都合がいいと思われる地所などに、
普通に進出していたりしますし、岐阜から三里の所に砦を構築してもおりますし、
そもそも、岐阜から長島への逆ルートは織田が普通に侵攻しておりますし、という感じで
その逆ルートを普通に長島がそれを行えない理由はどこにもないようには思われる次第ではございますので、これらに関しましても、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
少なくとも、信長は東美濃からの武田勢の侵攻を警戒しまくっておりますしねえ。
本願寺も浅井も長島衆が不破口から侵攻する事も可能、という風に想定はしてますから、
この計画自体は1572年8月に中止にはなりましたが、
長島から普通に北上するなら、
特に問題はないようには思われる次第ではございますしねえ。
なんと表現したらいいかわからない。
朝倉、武田、長島衆が美濃で食べる米の量は
いったいどれだけになるのかと。
小田原征伐より多少少ないレベル。
小田原征伐は、秀吉が大枚はたいて兵糧確保していたからな。しかしそれでも、箱根の難所が問題になり輸送できず、結構輸送に苦しんだからな。
当時の朝倉や武田にどんな凄い輸送力があるのかな?
そりゃ、分かってないから曖昧な返答が来るだろう
>普通に勝頼が東美濃に侵攻して18諸城を攻略しました時には、
>普通に岩村を経由して1月から2月に1万5千で遠征しておりまして、
>後年に普通に織田側も主力の大軍をそこから侵攻させてますし
勝頼が冬季に1万5千で1か月かかった18諸城を織田は何人の兵数で
どの時期に何か月かかって取り返したのか?
さあ?とりあえず、その時に攻略された18諸城は、
長篠の戦いの後で、信忠が岩村城を半年近くかけて、
最終的に騙し打ちをして攻略した時の
前だか後だか、に織田側にまた攻略されたとも、帰属しなおしたとも、
いわれている感じですから、わかるのはそれくらい、という感じのようには
思われる次第ではございますけれど、貴方はなにをお聞きになられたいのか、
につきまして、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
小田原の時は、結局のところ、遠征の距離と、20数万という超大軍が原因で、
兵糧問題がおこっているわけですのに、武田・朝倉の場合は隣国の美濃に、
そこまでの超大軍ではない兵力で、普通に攻め込んでいるだけの話なのですが、
貴方はなにをおっしゃられておられますのか、とは思いますので、
資料やら史実やら、を基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>154 >>155
あのー、なにを基にして語られておられますのか、とは思われる次第ではございますが、
信長公記には普通に「勝頼は岩村口に相働き、明知の城を攻囲した。」的に書いてありますのですが、
なにをおっしゃっておられますのか、とは思われる次第ではございますので、資料やら史実やら、のご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
遠征の距離。
あのさあ、秀吉は家康の領土の駿河を最初の策源地にしていたんだよ。
兵糧は東海道筋から大盤振る舞いして50万石を買い占め、それを駿河まで運んでいた。
ただ、箱根の難所はどう考えても超えるのがきつい。だから輸送力の問題が起こった。
ところで君が想定している美濃攻めだと、朝倉2万に武田3万弱、伊勢長島3万だから、8万と決して少数ではないんだよなあ。
で、この三軍の策源地は何処にあるの?
いや、実際に普通にまずは一次資料で語られるものだとは思いますしねえ。
まあ、それに気が付いていた、という2次資料がある、というのでございますれば、
それのご提示の方などもよろしくお願いいたしますかねえ。
>>214
>あのさあ、秀吉は家康の領土の駿河を最初の策源地にしていたんだよ。
具体的なる資料提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
普通に後方から運んでいる感じなのですけれどねえ。
>で、この三軍の策源地は何処にあるの?
それぞれ、別の方向から進軍するのですから、三軍まとめての策源地があるわけでもないでしょうに。
そもそもの問題として、策源地どうたら、は貴方がお喚きになられているだけで、
一度も資料提示とか史実とかを基になさられましてのご論証の方などが
されてはおられないように思われますので、まずはそれからご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
三軍纏めての策源地なんか聞いてない。
朝倉義景、武田信玄、伊勢長島の策源地は何処にあるのかを聞いてるんだよ。
てめえがいつ史料を基に議論してるんだよ。
全部てめーの妄想だろうが。
補給も地理も軍費も何もかも無視したてめーの狂った妄想だろうが。
バカかおまえは。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
相手側がいなくなったら、必死になっての捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子のようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘がされている事のようには思われますが,>>241をはじめとして、こちらが提示している事例ばかりのように思われる次第ではございますので、
きかれている事柄などに関しまして、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそもの問題として、その策源地どうたら、自体が資料やら史実やらを基にしてのご論証などなどに関しまして、
貴方こと必死な織田ファンさんが、おやりになられてはおられないご様子のようには思われる次第なのではございますので、
まずはこれらに関しまして、御回答になられる事などからおはじめになられていただきたいとは
思われる次第ではございますので、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、なんども指摘がされている事柄のようには思われる次第ではございますが、
そもそもの問題として、貴方こと必死な織田ファンさんのいう、 「地理的な推測」「現実的などうたら」とやらなどなどが、
これまでにも、朝倉の越前から美濃への遠征が過去に何度も行われていたのにも関わらず、「地理的に不可能!」
とかお喚きになられ、過去の事例などを提示されて発狂逃亡などをなさられたり、
信濃からの美濃への侵攻も、武田勝頼、徳川秀忠、反対方向からの織田勢、
という感じで、普通にいくつもの事例がありますのに、
「地理的に不可能!」的にお喚きになられ、 事例などを提示されて発狂逃亡などをなさられたり、
という感じのようには思われてもしまいます次第なのではございますが、これらの事柄などに関しましても
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
親不知子不知の話が出てたけど、あれでまさか上杉ができてるから朝倉義景や武田信玄もできるとか言ってるのかな? 君は?
少なくとも、北陸道最大の難所、を冬場に普通に通過して補給を行って
北陸遠征を普通に続けている、それも積雪量とかでいえば、明らかに越前とかよりも多いところが多い、
という条件でありながら、普通に上杉が遠征を続けている事例などを考慮しまするに、
貴方がそのようにおっしゃられましても、とは思われる次第ではございますので、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>275
>これで皆で多数決したらいい。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが,
朝も昼も夕方も夜も深夜も、必死にID切り替えとかをしながら、多数派装いをしておられる事が
明らかになっておられますように思われる、貴方こと必死な織田ファンさんが、ID分身とかをなさられる、というお話になるだけのようには
思われる次第ではございますので、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などを、
おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
>それも積雪量とかでいえば、明らかに越前とかよりも多いところが多い、
という条件でありながら、普通に上杉が遠征を続けている
これどこのこと言ってんの?具体的に地名出して。
多分上杉の北陸遠征と関係なさそうな場所のような気がするから。
あのですねえ、問題になっている、謙信の1572年9月遠征の前に
信玄が北陸一向宗に「富山の守りを固めるように。」的に指示を出しておりますし、
一時的にこの遠征は謙信は富山を制圧はしますが、謙信が撤収しようとしたら、
また北陸一向宗が富山を制圧して、謙信が軍勢を率いて反転して、という流れなのですけれど、
貴方はなにをおっしゃっておられるのかとは思うのですけれどねえ。
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
>自分こそ都合が悪くなると他人を罵倒して
これは完全に貴方の事であるように思われるのではございますが、
資料とか史実とかのご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>284
いや、基本的に明らかに新潟の大部分が福井よりも豪雪地帯のようには思われますが、
なにがどう関係なのかと思うのですが、まずはそこから
資料とか史実とかのご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>多数決も何も前スレで包囲網側が勝てるとまで言ってるのは一人だけって書かれてたぞ。
そもそも、必死な織田ファンさんが、>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますし、何度も指摘がされている事のようには思われますが,
朝も昼も夕方も夜も深夜も、必死にID切り替えとかをしながら、多数派装いをしておられる事が
明らかになっておられますように思われる、必死な織田ファンさんが、ID分身とかをなさられる、というお話になるだけのようには
思われる次第ではございますしねえ。
そもそもの問題としましては、>>289にも書きましたように、謙信はまだこの時期に富山とかその周辺とかを制圧してはおらず、
普通に北陸一向宗の領域なように思われる次第ではございますが、これらの事柄などなどに関しましても、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
で、それで貴方も普通に親不知とかの話とかwikiとかを出してきて、という話なのに、
今になってなにをいっておられるのかとは思いますので、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご論証の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
>>223 宛続きその2
他にも、資料やら史実やらをこちら側が提示して、 こちら側がそれらに基づきましてのレスをしまして、
貴方こと必死な織田ファンさんにご回答の方などを求めましても、都合の悪い事柄などは
必死にスルーなさられようとして、必死にお喚きになられ、
発狂逃亡などをなさられようとしておられるように思われます事例などが、
過去ログなどに多数残っているように思われます、貴方こと必死な織田ファンさんが、
「現実から推測した事!」がどうとかお喚きになられましても、こちら側といたしましては、
困惑せざるを得ない、という次第なのではございますが、 いかがなものなのではございましょうかねえ。
正直な話、貴方こと必死な織田ファンさんのいう「地理的な推測」「現実から推測した事!」とやらは、
ただ単に「信長さまがシミュレーション上で不利になるから嫌じゃあああああ」
と貴方こと必死な織田厨さんがお思いになられておられる事を、
無理やりに、資料的、史実的な論拠とかもなしに、
無理やりに否定なさられようとしておられる、というだけの話のように
思われてもしまう次第なのではございますが、 これらの事柄などに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
ご回答の方などを、なにとぞおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
自分で出していて認めないとか。
君、通報していい?
なにを通報するのかとはおもいますが、
それで貴方も普通に親不知とかの話とかwikiとかを出してきて、という話なのに、
今になってなにをいっておられるのかとは思いますので、
聞かれている事柄などなどに関しまして、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
>>287
なにを通報するのかとは思いますが、その日宮城自体が謙信の1572年9月遠征よりも前の、
6月の時点で北陸一向宗に攻略されておりますのに、なにをおっしゃっているのかとは思うのですけれどねえ。
そもそも、煽り罵倒・捏造曲解・レッテル貼り、では明らかに貴方こと必死な織田ファンさんが
圧倒的ですのに、いまさらなにをおっしゃっているのかとは思いますので、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
自分の長文のために、スレが容量オーバーしている自覚はないの? いつも人を挑発するような文から始まり多数の人に迷惑かけてる自覚はないの?
君の参加を禁止していたルールを定めたスレにまで参加して多数の人に迷惑かけたよね。これで非が無いとでも言いたいの?
煽り罵倒、捏造曲解、レッテル貼り、全部君のことだよ。
>煽り罵倒、捏造曲解、レッテル貼り、全部君のことだよ
いや、全部貴方の事だとは思うのですけれどねえ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
貴方こと必死な織田ファンさんが、上記のような事柄をなさられなければ、
こちらも上記のような事柄を提示する必要性はないわけですし、
そもそも、貴方こと必死な織田ファンさんが、こちら側の論旨とかを捏造曲解して、あおり罵倒レッテル貼り、
などにご狂奔なさられなければ、こちら側としても、貴方こと必死な織田ファンさんが
必死にスルーしようとしたり、捏造曲解をしようとしているレスなどを、いちいち提示する必要性もないわけですしねえ。
>君の参加を禁止していたルールを定めたスレにまで参加して
それは、貴方こと必死な織田ファンさんが相手側を禁止にしようとしながらも、
こちら側のあおり罵倒・捏造曲解・レッテル貼り、などにご狂奔なさられようとなさられましたので、
普通に呼び込んだも同然、という事になるのは自然と思われますしねえ。それをいいましたら、
前スレでは、こちら側への煽り罵倒などを禁止するスレ主さんの意向を、
スレ主さんを煽り罵倒して、普通にスルーして、あおり罵倒・捏造曲解・レッテル貼り、などに
ご狂奔なさられておられました事などが、普通に過去ログに残っておりますのですが、
これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
三里先の砦に織田側が気づかない。
ふーん。君が大好きな武田信玄が死んだ時、武田側は武田信玄の死を隠そうと必死になってたけど、わずか半月で山奥の飛騨の豪族に気づかれてしまったのは、何故なんだろうねえ。
それで三里先の砦が織田に気づかれてないと? すごい妄想だねえ。そんな秘術があるんなら、伊勢長島から信玄の死を隠す方法を学べば良かったのにねえ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが,
伊勢長島が普通に不破口からの侵攻などを行うのに都合がいいと思われる地所まで普通に織田側に気づかれる事もなく進出していたり、
さらには、長島の者とも類推をされている、「敵側の者」が岐阜城に普通に潜入していて、騒ぎになったり、
という事が普通におこっているわけですしねえ。基本的に軍役関係の具体的な指示書状などがろくにない事などから、
放任主義的な要素が強いようにも類推をされている、織田領国なわけですし、本城の岐阜城にも普通に
敵側の者が潜入している状況なのですから、三里の隠された拠点を察知していなかったとしましても、
特に不可思議な話でもないようには思われる次第なのではございますが、これらの事柄などなどに関しましても、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいやいや、完全に貴方こと必死な織田ファンさんだと思うのですけれどねえ。
「気づいていた」という一次資料がないのですから、あるというのでしたら、
ご提示の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
>>152
>小田原征伐より多少少ないレベル。
そんなわけがないでしょうに。その三勢力をあわせても、10万いくかどうかですのに、
小田原遠征の20数万の超大軍より多少少ない、になるわけがないと思われますが、
資料やら史実やら、のご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
気づいていた一次史料が無いから、気づいてないと判断。やはりいかれてるね。というか、何でも一次史料頼りかよ。
元亀三年
秋山3.000で岩村城包囲
元亀四年
馬場の部隊800が信長軍1万の兵を引かせる
天正二年
山県6000が信長軍6万の兵を引かせる
(明智城は直後に陥落)
天正三年
信長が岩村城を半年ほど補給線を絶って籠城兵3.000を飢餓状態に追い込む
岩村に15,000を駐留させたことがある
という事実はなく、収容限界人数はへいぜい数千で合ってる
侵攻ルートは以下の通り
木曽義昌が木曽路から中山道を南下、苗木城及び支城を攻略
勝頼本体は伊那口から侵攻して大平城を経由して明知城を包囲
山県昌景が岩村城から信長の救援部隊を迎撃して撤退に追い込む
大平城ということは、勝頼は上矢作、三河方面からですね。
おっしゃる通り東濃南部に隣接している三河です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%8D%B7%E9%A7%84
これ参考にすると、ざっくり兵3万だった場合、
駄馬約4645頭、口取り4645人、人夫約9560人、計駄馬4645頭と約14205人の荷駄隊で
6.6日分の食料輸送できる計算。
策源地を伊那谷の飯田と仮定して上矢作経由で岩村まで約59km。
荷駄隊の速度で急いで2日、山道考えれば3日かな? 帰りは2日かな。
荷駄隊自身の食料考慮すると、飯田発岩村行き荷駄隊4645頭&14205人+護衛足軽が
3日掛けて3万人約6日分の食料を配達、2日かけて飯田に帰着。荷積み、荷降ろし、休養1日
とすると、これくらいの人数でなんとか賄える計算かな?
飯田から先の分は考慮してないけど。
この前年に越前の朝倉、北近江の浅井を滅亡させており、
勝頼の東美濃侵攻の数ヶ月後に長島一向一揆を鎮圧
そして翌天正三年長篠の戦いの後、東美濃の武田勢力を一掃するという流れとなっており
単純に
浅井朝倉 > 長島本願寺 > 武田
の優先度で潰していく過程で勝頼の動きには取り合わなかっただけである
(天正二年には高天神城攻略も無視してやり過ごしている)
そもそも東濃岩村城の失陥がまず裏切りで行われてる。
岩村城は織田信長の息子でもある織田信房(勝長)を入れて
自分の叔母(遠山未亡人)含む岩村遠山氏に後見させることで支配していた。
ところが後見先の岩村遠山氏が裏切って武田家臣の秋山虎繁を迎え入れて
あまつさえ信房を人質同然に武田へ送っている。この状況で織田信長が救援に二の足踏むのは当然だろう。
誰が味方で誰が敵かも怪しい状態で救援するのは困難。
実際、その後の明知城も遠山友信が離反したことで陥落してる。
織田信長は岩村城を信忠に落とさせた後、武田方についた遠山氏に対しては尽く斬り殺しているから
この時点で信長が遠山氏に不信感と敵対心を抱いていたのは間違いない。
岩村城攻めで信長に味方した遠山は、信を取り戻したのか旧領安堵されているが。
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられようと
してはおられるご様子のようには思われる次第ではございますが、
そもそもの問題として、武田と織田の両属だった、岩村遠山を、
軍勢を派遣して反対派を粛清して、強引に併合したのが織田だったわけですしねえ。
それに反発した岩村衆が武田を引き入れた、という流れなわけですしねえ。
>誰が味方で誰が敵かも怪しい状態で救援するのは困難。
そんなわけないでしょうに。1574年の1月末に勝頼が侵攻を開始したのは、
上記のような流れで武田に味方した岩村遠山封じの為に、信長が普請を行って、
兵力込めも行った周辺の18諸城なわけなのですしねえ。
なんで信長が普請を行って、兵力込めまで行っておりますのに、敵か味方もわからない、とかいうような
話になられますのか、とは思いますので、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
勝頼はあの侵攻で馬鹿みたいに東美濃に戦線伸ばしてしまったんだよな。あんな地域、経済拠点としても戦略拠点にしてもハッキリいって石ころだから。
だから長篠で負けた後、支援を送れずじまいになったし。
まーたいつも通りに、必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、 捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
なら、なんで三好だけをあげたんですかねえ?普通に他の勢力の方が圧倒的に多数なんですから、
それらを含めてあげるのが普通ですのに、なんで三好だけをあげられましたのか、について、
具体的にご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
別に1574年の遠征で、そこまで圧倒的に戦線が伸びているわけでも、武田が困っているわけでもないように
思われますので、資料やら史実やらをご提示になられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
あんた恵那郡の地形知ってて、上矢作とか色々言ってたんじゃないのかよ? 甲斐や信濃から美濃へ援軍送るのがどれだけ難しいか、それすら理解できないのかよ。
そもそもの問題として、信長は別に救援に消極的だったわけでもなく、
信長公記にしっかりと、信長は救援にはきたけれども、
「武田勢に険路を抑えられ、進むに進めないでいるうちに
城を攻略されてしまったので撤収した。」的な流れがしっかりと書いてありますのに、
貴方はなにをおっしゃられているのか、とは思う次第ではございますので、
これらの事柄などに関しまして、資料やら史実やら、を基になさられましての、
ご回答の方などをおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
都合のいい部分は信長公記ですか。
まあ、岐阜城から三里先の砦が織田側に気づかれていなかったなんて頓珍漢なこという基地外にはお似合いだな、都合のいい部分だけは信長公記を採用するのは。
はて、こちらは信長公記を完全に否定した事とかは一度もないと思われますし、
桶狭間で今川勢4万5千、とか、志賀の陣で織田側大勝利、とか、
普通に資料やら史実やらなどから、学者さんなどによって普通に否定をされている事などを
普通に否定しているだけの話でしかないのですが、これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
いつも通りに都合の悪い事柄などは、必死にスルーして捏造曲解などにご狂奔しておられるご様子ではございますが、
実際に一次資料的には、普通に長島衆が美濃を動き回っていますし、岐阜城にも普通に敵側の者、が
潜入したりしてますのに、なにをおっしゃっているのかとは思うのですけれどねえ。
捏造してるのはあんただろ。
岐阜城からわずか三里先の伊勢長島の砦が織田に気づかれていなかったことを示す一次資料でもあるのか?
織田方は明智光秀の家中軍法で100石6人がまかり通っているから兵数的にも織田は武田の倍以上いると思ってくれていい。
菅沼遼太はこれが一番嫌で「織田はまともな軍役などないから兵数など適当」とかずっと言い続けているがw
要は織田信長に大軍を率いて欲しくないだけなのだw
なお、1600年の段階における当時の人口比率を戦国時代に大ざっぱに当てはめると
織田信長勢力圏:約120万(尾張+美濃+近江+伊勢)
徳川家康勢力圏:約30万人(三河+遠江)
武田信玄勢力圏:約80万人(甲斐+信濃+駿河+上野+飛騨)
全範囲含んでいるので実際は3者これよりは少ない
コレに加えて武田に味方するはずの三好は内乱で戦争どころではなく、
逆に信長の方は防衛網を着々と築いて潤沢な兵力を温存しいつでも反撃可能。
武田信玄が勝つなら少なくとも味方勢力含めて信長に敗北は一切できず、かつ織田信長との直接対決での勝利(しかも武田不利の状況で)が
必要なのに、そんな無茶な妄想をするのは菅沼くらいだw
越前から直接美濃に攻めこむのに拘るのも、
近江からじゃ史実で秀吉が防げたで証明済みだから、
無理矢理他のルートがあることにして誤魔化すためだしな。
余計にルートは厳しくなるんだがな。
越前、美濃間だから。
まーたいつも通りに、必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
普通に越前から美濃への侵攻は、朝倉が義景時代以前の当主の時代から
普通に何度も行っているルートでありまして、特にそこまで困難なわけでもないですし、
そもそもの根本的な問題でいいますれば、何度も指摘をされている事ではありますが、
信玄が出した朝倉宛の書状において、「郡上遠藤に鉈尾の砦を構築させるのを、
朝倉氏からも指示をするように。」的に書いてありまして、
普通に朝倉氏が(過去にもそうだったように)郡上遠藤の領域を通過して、
美濃に侵攻する事を想定されているように思われる、というのを
普通に何度も指摘がされているようには思われる次第なのではございますが、
これらに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに、必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、 捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
そもそも、その菅沼なんたら、自体が、何度も指摘をされておりますように、
それを認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて、
貴方ですら、それに整合性をつけてのご説明をなさられる事が
一度もお出来になられない、という状況でございますのに、
今更なにをおっしゃっておられるのかと思う次第でございますので、
これらの件につきましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>織田方は明智光秀の家中軍法で100石6人がまかり通っているから兵数的にも織田は武田の倍以上いると思ってくれていい。
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを、必死になってスルーなさられようとして、
必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられようとしてはおられるご様子ではございますが、
まず、明智軍法では、当時は貫高制だったのにもかかわらず、なぜだか石高制で語られている事などから、
不可思議に思われたりもしておりますしねえ。そもそもの問題として、その後の豊臣軍役ですら、
総合石高の中に役高を設定して、そこに100石で何人~、というのを計上するやり方でして、
通常軍役計算×総石高の一割増くらいですのに、なんだって明智が100石×6人で総石高でやるのを、
織田家が全部できていると思われますのか、につきまして、資料やら史実やら、を基になさられましての、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、>>198にありますような理由で、非常に疑わしいようにも思われる明智軍法ではございますが、
仮にこれを一万歩くらい譲って後世の創作でなかったとしましても、これが制定されたとされますのは、
1581年とされておりますしねえ。何度も何度も指摘がされているようには思われる次第ではございますが、
1580年に出された佐久間折檻状におきましては、普通に佐久間が与えられた領土でろくに人数を養おうとはせずに、
数年間を普通に非難される事もなしに過ごしていた事、他の領土でも同じような事をしていた事、などが記されておりますし、
それでも、他の項では、「力押しで無理そうなら、謀略で手柄をあげればよかったのに、それもしなかった。」とも書いてあるわけでして、
織田家では、ろくに軍役人数を養わなくても、率いていなくても、謀略などで手柄をあげるのであれば、
特に非難はされなかった事が示されているわけでして、少なくとも1580年に佐久間折檻状が出された段階までは、
明らかに織田家は軍役に関する規定が存在しなかった、という事が、信長による具体的な軍役指示の書状がろくに存在しない事などからも、
明らかなように思われる次第なのではございますが、これらに関しましても、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>コレに加えて武田に味方するはずの三好は内乱で戦争どころではなく、
?なぜに武田に味方するのが、三好だけ、という事になっているのでしょうかねえ?
三好は信玄西上くらいの時には、珍しく主要メンバーが反織田で一致してきている事、
なども過去スレなどで指摘がされているようには思われる次第ではございますし、
そもそも、武田の味方勢力としましては、朝倉、浅井、足利、本願寺、伊勢長島、北畠、六角、松永、
などなど、といった感じで、他にも多数いますのに、なぜに三好だけをあげておられますのか、につきましても、
資料やら史実などを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>逆に信長の方は防衛網を着々と築いて潤沢な兵力を温存しいつでも反撃可能。
何度も指摘をされている事のようには思われる次第ではございますが、
実際には、>>200にもありますように、他にも多数の包囲網側が
武田の味方勢力として存在しておりますしねえ。
相変わらず、都合の悪い事柄などに関しましては、
必死にスルーなどをなさられようとしておられるご様子のように思われる次第ではございますが、
信玄は5月からの朝倉・長島と連携しての美濃侵攻計画を計画しておりまして、
これらが行われますれば、三方向から美濃に侵攻をして、 普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、 普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、 朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますしねえ。
三好だけなんて何処にも書いてないが。
あくまで三好を一例に挙げてるのでは?
文章はちゃんと読めよ。
第3章 堺を制する者は天下を制す
「港」の価値は一国の税収に勝る。堺の港を手に入れた信長。その収益は百万石以上の価値がある
第4章 武田信玄が天下を取れなかった本当の理由
古くから「鉄砲」を活用していた信玄
武田軍の軍需ルートを押さえていた信長
念願の港を手にするも「西上作戦」で追い詰められていたのは信玄だった
武田の進軍が遅かった本当の理由
まーた抽象的に、その内容とか、活用されている資料とかもご提示になられずに、
お喚きになられておられるご様子のようではございますが、
それらに関しましての、具体的なご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
その著者さんは、歴史学の専門家さんではなかったように思われる次第でございますし、
それらの論旨で活用されている資料やら、それにおける論旨展開、などなどの方などを
ご説明していただかない事には、とは思う次第ではございますので、
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
ハンニバルのアルプス越えみたいに「武田信玄という名将ならどんな地形でも魔法のようにスイスイ通ることができる」と思ってるんだよ
極端な英雄崇拝が彼の正体
だから日本屈指の豪雪地帯でも、信玄が総大将として号令をかければ`朝倉でも´補給線を維持することはできなくはないと結論付けしちゃうわけ
ちょっと前には戦国時代には補給線なんか存在しないし必要無い。軍の規模にかかわらずすべて現地調達で賄えると主張するイタイ奴がいたけど、それが消えてねぇが出てきただろ。まず同一人物と見ていいだろう
つまり菅沼にも武田の経済力と組織力では補給が維持できず長期戦は無理ってことはもうわかってるんだよ
それでも英雄崇拝から脱却できない菅沼は、みんなに悪態をつくことで反論を引き出し知恵を貸してもらおうとしてんの
半年もしたらみんなの意見を都合よくパクって改変したコピペが登場するよ
まーたいつも通りに、必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、 捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘がされている事のようには思われますが、
そもそも、その菅沼なんたら、自体が、何度も指摘をされておりますように、
それを認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて、
貴方ですら、それに整合性をつけてのご説明をなさられる事が
一度もお出来になられない、という状況でございますのに、
今更なにをおっしゃっておられるのかと思う次第でございますので、
これらの件につきましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>それが消えてねぇが出てきただろ。まず同一人物と見ていいだろう
いつも通りに必死になって、論拠の提示やら、論証などもなさられずに、必死になって捏造曲解やら、レッテル貼りやら、
にご狂奔なさられようとしておられるご様子ではございますが、私は完全に貴方のいう人とは別人わけでございますし、
何度も指摘がされている事のようには思われますが、
そもそも、その菅沼なんたら、自体が、何度も指摘をされておりますように、
それを認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて、
貴方ですら、それに整合性をつけてのご説明をなさられる事が
一度もお出来になられない、という状況でございますのに、
今更なにをおっしゃっておられるのかと思う次第でございますので、
これらの件につきましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>ハンニバルのアルプス越え
いや、何度も指摘がされていますように、普通に朝倉氏は越前から美濃への侵攻を
歴史上において、何度も繰り返しているわけなのではございますが、
貴方こと必死な織田ファンさんにとっては、それらを行った朝倉家の武将達は
全員ハンニバル級なのでしょうかねえ、とは思うのではございますが、
これらに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>だから日本屈指の豪雪地帯でも、
何度も指摘をされている事ではございますが、普通に越後から越中とか、あるいは能登とか、の
越前よりも普通に雪が降りまくっている地域で、上杉氏が冬の時期に普通に遠征をしまくったり、
関東遠征をしたり、とか色々としているのですが、貴方的には上杉謙信はハンニバルを超越した超英雄、という事でよろしいのでしょうかねえ?
これらに関しましても、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などを、
おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
>武田の経済力と組織力では補給が維持できず長期戦は無理ってことはもうわかってるんだよ
貴方的には「地形的な問題」で補給ができないのではないのですかねえ?
これらの論旨的な矛盾に関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、何度も指摘がされている事のようには思われる次第ではございますが、
武田は大内が畿内10年遠征をした程の遠征を一度にしようというのではなく、
隣国の美濃に1年か2年程遠征するだけの話ではありますし、
そもそも、西上時の武田は、大内よりも経済的に勝るとはいわないが、
それなりに多数の経済拠点を領国内にもっていて、それなりに経済的に栄えているわけではありますし、
石高的には大内と同等かそれ以上くらいはあり、さらには、西上時の武田よりも、国力的に低い、
上杉謙信とか、北条早雲とかが、普通に西上以上の長期遠征をしているのに、武田が隣国に長期遠征をするのが、
なぜにできない事になられますのか、という事を資料やら史実やらを基にしての、ご説明の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>みんなに悪態をつくことで反論を引き出し知恵を貸してもらおうとしてんの
>半年もしたらみんなの意見を都合よくパクって改変したコピペが登場するよ
まーたいつも通りに、必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、 捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘がされている事のようには思われますが、 そのような事が、いったいいつあったのか、につきまして、
具体的にスレ名やら、レス番号やら、のご提示の方などをおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
普通に過去ログを参照しますれば、貴方こと必死な織田ファンさんが、こちら側が提示した資料とか史実とかで、
都合の悪い事柄などを、必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられている事例などが、
非常に多数残っているようには思われる次第なのではございますが、これらに関しましてのご回答の方などを、
なにとぞおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに、必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘がされている事のようには思われる次第ではございますが、
勝頼の東美濃侵攻も、結果として一ヵ月で終了しただけの話であって、
実際には勝頼が当初から一ヵ月で終了させようとしていたか、は
特に資料とかには書いてないわけではございますしねえ。
武田信玄は完全無敵、補給や地理なんか全く関係ねー、経済力は織田に勝る、朝倉義景や伊勢長島は武田信玄の領地裁定に忠実に従う、織田は大した抵抗すらしない、徳川はわずかな兵力で抑えられる。
どうせ結論なんか永遠に出ないから。
夢の中の話に史実持ち出してくるから
たちが悪いんだよね。
まーたいつも通りに、必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
>補給や地理なんか全く関係ねー、
私はこんな事は一レスも述べておらず、そもそもの問題として、
貴方こと必死な織田厨さんのいう、 「地理的な推測」「現実的などうたら」とやらなどなどが、
これまでにも、朝倉の越前から美濃への遠征が過去に何度も行われていたのにも関わらず、「地理的に不可能!」
とかお喚きになられ、過去の事例などを提示されて発狂逃亡などをなさられたり、
信濃からの美濃への侵攻も、武田勝頼、徳川秀忠、反対方向からの織田勢、
という感じで、普通にいくつもの事例がありますのに、
「地理的に不可能!」的にお喚きになられ、 事例などを提示されて発狂逃亡などをなさられたり、
という感じのようには思われてもしまいます次第なのではございますが、これらの事柄などに関しましても
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>経済力は織田に勝る、
こんな事も私は一レスも述べてはおらず、こちらが書いているのは、毎度毎度の事ではありますが、
「武田は大内が畿内10年遠征をした程の遠征を一度にしようというのではなく、
隣国の美濃に1年か2年程遠征するだけの話ではありますし、
そもそも、西上時の武田は、大内よりも経済的に勝るとはいわないが、
それなりに多数の経済拠点を領国内にもっていて、それなりに経済的に栄えているわけではありますし、
石高的には大内と同等かそれ以上くらいはあり、さらには、西上時の武田よりも、国力的に低い、
上杉謙信とか、北条早雲とかが、普通に西上以上の長期遠征をしているのに、武田が隣国に長期遠征をするのが、
なぜにできない事になられますのか、という事を資料やら史実やらを基にしての、ご説明の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。」
的なレスしかされてないと思われますので、上記のように、貴方こと必死な織田厨さんが、
現在進行形で発狂逃亡中のように思われます事柄などなどにつきまして、資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
>朝倉義景や伊勢長島は武田信玄の領地裁定に忠実に従う、
こんな事も特に書いてなくて、普通に当時の領土の決定は切り取り次第が基本ですから、
普通に朝倉だか、長島だか、が岐阜城を制圧しようと、それぞれ美濃の三分の一だかを
占領しようとも、武田は美濃の三分の一を制圧しながらも、
尾張の大部分と徳川領土全域を、織田を打ち倒してしまえば、普通に制圧できる事になりそうですから、
特に不満をいう必要もないように思われるのですが、的な事しか述べていないようには思われる次第ではございますが、
これらに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>織田は大した抵抗すらしない、
こんな事がどこのレスに書いてあるのか、とは思いますので、ご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
こちらが述べておりますのは、「別に包囲網側は無理に織田勢主力との決戦を行う必要性はうすいようには
思われる次第なのではございますが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
志賀陣の時には、朝倉浅井が織田側主力がきた時に守りを固めて対峙を続け、
結局は織田側を降伏宣言的な書状を出させるほどにまで追い込んでいるわけですしねえ。
武田・北条の戦略的包囲策戦におきましても、武田は北信濃・西上野・飛騨、北条は北武蔵・東上野・その他、
という感じで、それぞれ侵攻を行い、長尾上杉の主力軍が武田の方面に向かえば、武田が対峙戦に持ちこみ、
その間に北条が侵攻し、長尾上杉の主力軍が北条の方面に向かえば、武田が侵攻を進め、というのを繰り返して、
長尾上杉+関東諸侯の領土を徐々に制圧していったわけではございますしねえ。」
的なレスしか書いてないように思われる次第なのではございますが、これらに関しましても、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>徳川はわずかな兵力で抑えられる。
徳川は三方ヶ原の損害により、信玄が死亡した後の、長篠城再奪取の為の侵攻も、
三千余程の兵力で動いていますから、普通に武田側も数千程の兵力で徳川を抑える事が可能で、
その分は既に美濃にいる武田勢数千と合流する事で補充が可能、的な事しか述べてはいないようには
思われる次第なのではございますが、これらの事柄などなどに関しましても、
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘がされている事のようには思われますが、
そもそも、その菅沼なんたら、自体が、何度も指摘をされておりますように、
それを認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて、
貴方ですら、それに整合性をつけてのご説明をなさられる事が
一度もお出来になられない、という状況でございますのに、 今更なにをおっしゃっておられるのかと思う次第でございますので、
これらの件につきましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
お前はもう終わっている!
まーたいつも通りに、必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
とりあえず、現在進行形で貴方こと必死な織田ファンさんが
発狂逃亡中の膨大なる事柄などなどにつきまして、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
お家芸としか言いようがないな
宇喜多直家が継げば良かったのにな
一番向いてると思うわ
義信みたいなマジメ人間には向いてなかったな
実父が嫡子コロシってサスペンスそのものやな
信玄にしか出来ひん芸当やな、ほんま!
まーたいつも通りに、必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、 捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘がされている事のようには思われますが、
義信は病死とも自害ともいわれている次第ではございますし、
そもそもの問題として、信長も自身の一族を多数粛清しているわけではございますし、
信長の方が領国におきましての、離反・反乱・敵対、などは数多い事なども
これまでにも何度も指摘がされているようには思われる次第ではございますが、
これらに関しましての、ご回答の方などをおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
武田はたとえ領国防衛が機能してなくても織田が攻めてくることはまずないが(上杉が攻める可能性はある)
朝倉なんて領国の全兵力率いてきたら織田が別働軍回して終わりだわ。
前提条件からして朝倉がハードすぎる。史実でも織田が追撃開始したのが8月13日で織田が一乗谷焼き払ったのが同月18日。
朝倉の領国が空っぽなら織田は軍勢派遣した3日後くらいには一乗谷を火の海にすることができるだろうよ
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが,
朝倉は1573年3月の出陣の時に、まず小谷方面の普請を行ってますし、若狭方面にも分遣隊を派遣して、焼き打ち侵攻を行わせた後で、
拠点となる城を構築して守りを固めさせておりますし、湖西方面の馬場国平とか多胡とかの豪族とも連携をして、守りを固めるように指示をしておりますので、
普通に小谷・若狭・湖西、の方面の守りが固められているわけでして、そもそも、こちら側などから織田が攻め込めるだけの兵力自体がろくに
存在してないように思われますのに、どうやったら、3日で一乗谷を火の海にできるのではございましょうか、とは
思われる次第ではございますので、これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
信玄が遠藤氏に依頼してるのもあくまで連携の仲介で軍勢の駐留などではないし
後顧の憂いを考えても一旦近江に向かい浅井と連携していくのが正道
この形であれば美濃方面からの侵攻は遠藤が壁になるから考えなくていいし
馬場のは急襲戦ですし、山県のは険路をおさえての遅滞戦ですしねえ。
普通に拠点を抑えた上で濃尾平野にまで到達してしまえば、
普通に山岳どうたら、という話とは異なるようには思われるのですが、
これらに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>228
まーた都合の悪い事柄などを、必死にスルーなさられようとしておられるご様子ではございますが、
朝倉のは普通に湖西の豪族達に守りを固めるように指示を出していたり、
そもそも湖西方向に侵攻しようとはしていませんでしたしねえ。
普通に郡上遠藤は武田だけではなく、朝倉にも内応していた事などは、
信玄が朝倉に対して、「郡上遠藤に対して鉈尾の砦を構築するように、
朝倉側からも指示をするように。」的に書状に書いている事からも
明らかなように思われますし、この砦構築からも、軍事協力だった事が明らかなようには思われますので、
資料とか史実とかのご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
明らかじゃないでしょ
息を吐くように嘘をつくのね
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが,
資料やら史実やらのご提示をなさられずに、史実とは異なりがおありになりそうに思われます事などをお喚きになられたり、
必死になって相手側の論旨などを捏造曲解などをなさられる事などに、ご狂奔なさられておられますのが、
貴方こと必死な織田ファンさんのようには思われますので、これらの件に関しまして、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
普通に郡上遠藤は武田だけではなく、朝倉にも内応していた事などは、
信玄が朝倉に対して、「郡上遠藤に対して鉈尾の砦を構築するように、
朝倉側からも指示をするように。」的に書状に書いている事からも
明らかなように思われますし、この砦構築からも、軍事協力だった事が明らかなようには思われますし、
これだけ明らかなように思われます事を貴方こと必死な織田ファンさんが
必死にご否定になられたいとおっしゃられるのでございますれば、
資料とか史実とかのご提示の方などをおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
これは武田が山岳戦に慣れているというのもあるが、後年勝頼が木曽の成敗に大軍を出して惨敗したように、進軍に向いてない地形で守勢側が有利になるのは当たり前
東美濃を防衛するだけならいいが岐阜まで侵攻してくとなると、当然守る織田の方が有利になり東美濃から中央美濃まで出れず撤退に追い込まれる可能性が高い
ねえにとっては、山岳も平野も河川も全く同じ地形であり、武田とそれに味方する勢力にとっては何ら支障は無いという認識だから、説明するだけ無駄。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが、
何度も指摘をされているようには思われますが、こちらは普通に史実的にいくつもの事例があって、
特に問題がないと思われる事柄を提示している、という話ではございますし、
そもそもの問題として、貴方こと必死な織田厨さんのいう、 「地理的な推測」「現実的などうたら」とやらなどなどが、
これまでにも、朝倉の越前から美濃への遠征が過去に何度も行われていたのにも関わらず、「地理的に不可能!」
とかお喚きになられ、過去の事例などを提示されて発狂逃亡などをなさられたり、
信濃からの美濃への侵攻も、武田勝頼、徳川秀忠、反対方向からの織田勢、
という感じで、普通にいくつもの事例がありますのに、
「地理的に不可能!」的にお喚きになられ、 事例などを提示されて発狂逃亡などをなさられたり、
という感じのようには思われてもしまいます次第なのではございますが、これらの事柄などに関しましても
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
なら出したらいいんだよ。
お前が史実や史料に基づいて、相手にぐうの音も出ないくらい、地理的にルートを説明したらいいんだよ。
できないなら反論されて仕方がないわ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが,
>>241をはじめとして、こちらが提示している事例ばかりのように思われる次第ではございますので、
きかれている事柄などに関しまして、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>255
いやいやいや、こちらはこれまでに多数の資料提示とかを行っていますが、
貴方こと必死な織田ファンさんは抽象的にお喚きになられて、ろくに資料提示とかをなさられておられないのに、
そのようにいわれましても、としかおもわれませんので、資料とか史実とかの提示の方などを、
おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
>>253
いやいやいや、普通に武田・北条が順調に攻略していった事、
志賀陣で包囲網側が織田を降伏宣言的な書状を出させている事、などからも
十分に可能なように思われますしねえ。
いやいやいや、普通に信長自身が、降伏宣言的な書状を出して、和睦詐欺をして、
それをいっさい実行せずに騙し打ちにしたことを義景が憤る書状とかが残っている事も
これまでにも何度も指摘されていますので、資料提示とかの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
60年代終わりに積雪の三国峠を無理矢理突破したことがあったとは思うが。
志賀の陣で朝倉が冬に越前に帰ってるから、移動するだけなら、大軍でも何とかなるのだろうけど。
まあ主要街道だから何とかなっただけで、油坂峠みたいなとこは冬に大軍で移動は無理だと思うが。
佐々も冬の雪山越えるのに非常に苦労したみたいだし。
油坂峠は現代で冬季通行止めになります。
時期により積雪の差はありますが、やはり大軍では向いていないかと。そもそもそれができるなら、朝倉義景がなぜ、志賀の陣やその他の機会で近江に出兵しながら美濃へも別働隊を送るとかしないのかの疑問点があります。
この時間帯にも返レスをさせていただきますかねえ。
>>233
普通に、志賀の陣とかの時には、郡上遠藤とかがまだ織田側だった事とか、
(これが明確に武田・朝倉に内応しだすのは、
信玄の西上の少し前なわけですしねえ。)
そもそも志賀陣の時には、三好とかと連携して、織田を包囲する、というのが
戦略的な策戦だったわけですしねえ。
今日はお休み ×
毎日がお休み ○
日本語はきちんと使いましょう。
>>239
わからないのかな?
謙信は東上野に拠点(20万石)があるから、越山して関東に出兵できるんだよ。厩橋がそもそも関東北部の要衝で重要な拠点であること知らないのかな?
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが,
それは完全に貴方こと必死な織田ファンさんの事であらせられるように思われるのですけれどねえ。
現に、上記のようにID切り替え、多数派装い、などを必死にやりながら、毎日のように
必死に朝も昼も夕方も夜も深夜も、必死になって書き込みをなさられておられまして、
ネット廃人的な生活をなさられているようにしか、思われない次第ではございますが、
これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、いつも通りに都合の悪い事柄を必死にスルーなさられようとはしておられるご様子ではございますが、
普通に謙信の東上野の領域は、北条に大部分を侵食されていて、
20万石どころか、10万石もあやしいと思われる状況でも、
普通に謙信は何度も関東に出陣を続けているのですけれど、これらに関しましても、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
越前から美濃に攻め込むなんて言ってる学者は一人もいないはず。
>>238
顕如が信玄に越後攻めはどうなったか聞いたりもしてる。
>>239
>1563年の閏12月に越山して、厩橋に入っている事例、
ソースは何、閏12月は和田城攻めた時では?
ネットで軽く調べても越山時期は11月12月とかあったりするのでそういう説もあるのかもしれないが。
>1573年の年末にも、本来なら関東に出陣をする予定だったけれど
その頃だと、織田徳川と協力して武田北条攻めるとも言ってるがな。
>>249
謙信の方は兵力も少ない。
10万石で1万養うのと同等としたいなら、朝倉2万なら20万石ぐらい必要ってことに。
>>275
多数決も何も前スレで包囲網側が勝てるとまで言ってるのは一人だけって書かれてたぞ。
>>285
越中は西側の方が石高高いので東半分で三分の一ぐらいになる。
朝倉関係に関しましては、>>326にも書きましたように、
実際問題といたしましては、まず平山氏がその著作の「武田信玄」におきまして、
普通に「(信玄は)武田軍が美濃に入ると同時に遠藤氏や伊勢長島の一向一揆が蜂起し」
「これらと朝倉軍が連携できれば信長を滅亡させる事が可能と考えていたらしい。」
と普通に書いておられますしねえ。
この書き方ですと、普通に朝倉軍も武田・長島・遠藤などによる美濃侵攻に、少なくない寄与をするものと、
解釈されるように思われる次第なのではございますが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
そして、その同著作の中では、このスレでもたびたび示されている、長島の岐阜から三里の砦の存在についても述べておられ、
「本願寺との連携による美濃侵攻は決して絵空事ではなかったのである。」と述べておられますかねえ。
これらは、普通に長島の美濃への北上戦略などを示している事が明らかなようには思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、
とおっしゃられましたのか、というご説明と共に、ご回答の方などを、なにとぞよろしくお願いいたしますかねえ。
普通に、資料的に考慮などをいたしますれば、信玄は、朝倉・長島、遠藤、その他、と連携しての、
美濃侵攻を戦略として計画していた事が明らかなようには思われる次第ではございますし、
そもそも、書状内容などからも、普通に「郡上遠藤に鉈尾の砦を築くのを、朝倉の方からも指示をするように。」
的に書いている事などからも、朝倉が普通に過去に何度もそこを通過して行っている、美濃侵攻を、
郡上遠藤に構築させる予定の鉈尾の砦を前線拠点として行うのは、非常に理にかなっているように思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしたいとはおもう次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、結局、顕如は信玄に西上の方を続けて欲しい、的に要請をしているわけですしねえ。
1563年閏12月のは、上杉氏研究者さんの矢田氏の著作に書かれておりましたかねえ。
で、その出陣はそのまま、1月からの小田氏攻めにつながった、的に書かれておりますかねえ。
>その頃だと、織田徳川と協力して武田北条攻めるとも言ってるがな。
結局、謙信が攻めたのは、北条の方だったわけですしねえ。
と、いいますか、武田北条、とはいいますが、
結局、関東諸侯を救援するために戦う対象である北条が入っているわけですしねえ。
>10万石で1万養うのと同等としたいなら、朝倉2万なら20万石ぐらい必要ってことに。
そもそも、これ自体が論拠がそもそも提示されておられないようには思われます、策源地どうたら論で
語られているようには思われるのですが、その遠征軍の兵糧を、出先からの収入のみでまかなっている、
という策源地どうたら論、はなにの資料やら史実やら、に基づかれておられますのか、とは思う次第ではございますので、
これらに関しまして、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
軍役に関しましては、基本的にはそれを率いてくる武将が、後方から自身の領土などから兵糧を補給するのが基本なわけですし、
信長が武田攻めの時に畿内の武将とかに「遠陣なので、兵糧が続くように、人数調整をしてくるように。
ただし、戦力は低下しないように、強い者をつれてきて奮戦するように。」とか指示を出していますし、
これは明らかに、信長が遠いと思われる距離に遠征をするにおいて、その畿内とかの配下武将達が兵糧を続かせる事ができるように、
人数調整をするように、と指示を出している、と考慮されるように思われますし、
策源地どうたら論で軍勢の兵糧を補給しているわけではないように思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
それから、冬季に通行止め、とはおっしゃいますが、
それをいいましたら、戦国時代とかに使われていたであろう、
越後から越中までの、親不知旧道、は現代では冬には普通に通交不可と
なっているわけなのですが、これをもって、謙信が史実で行っていて、
書状とか記述とかにしっかりと残っている、
冬の時期の北陸遠征は行われなかった、と
貴方はおっしゃられるのではございましょうか、
とは思われる次第なのではございますが、これらに関しましては、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
何の書状に残っているの?
ちゃんと説明してから言えよ。
冬の時期の謙信の遠征にしてもいつのことを言ってるのかはっきり書け。
毎度毎度の事ではありますが、なんで貴方こと必死な織田ファンさんは
ご自身でろくに一次資料をお出しになられてないのに、そんなに偉そうなのか、とは思いますし、
これまでにもきかれていて、貴方こと必死な織田ファンさんが現在進行形で発狂逃亡中の、膨大なる事柄などについて、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などを、おはやめによろしくお願いいたしたいとは
思いますので、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、一番ポピュラーな事例としましては、やはり信玄西上の時に出された信長から謙信に出された書状ですかねえ。
信長は1572年の11月の末に北陸に出陣中の謙信に対して書状を出し、北陸一向宗との戦いを一時辛抱して、
武田領土に侵攻して欲しい、と要請しておりますねえ。
で、謙信の方は色々あったものの、結局はこの要請をスルーして、北陸に在陣を続ける事になるのは、
謙信自身が1573年に現地から北陸遠征においての指示をしている書状などを出している事からも
明かなわけですしねえ。結局、謙信は普通に四月末まで北陸に在陣を続ける事になりますし、
そもそも、信長も冬の時期に武田領土の北信濃とか、西上野とかに普通に謙信が侵攻する事とかは、
十分に可能であると想定している事が、これらの流れなどからもわかるようには思われますが、
これらにつきまして、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが,
>>241をはじめとして、こちらが提示している事例ばかりのように思われる次第ではございますので、
きかれている事柄などに関しまして、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
実際、お前が書状の原文出したことあるか?
いつもあるある詐欺してるだけだろ。
お前>>235で
>戦国時代とかに使われていたであろう、
越後から越中までの、親不知旧道、は現代では冬には普通に通交不可と
なっているわけなのですが
と書いてるだろ?明治に作られた旧R8がなんの関係がある?
そもそもな、親不知自体は雪だろうが冬だろうが通行は可能なんだよ。
ではなぜ親不知が通行困難なのかまるでわかってないな。
>>244のリンク読めば中学生程度なら理解できるわ。
ですからあ、相変わらず都合の悪い事柄は、必死にスルーなさられようとしてはおられるご様子ではございますが、
明治でつくられた道の方が、少なくとも、それ以前の道よりは整備もされていると思われますしねえ。
といいますか、明治の旧道も、もともとあった道を基にはしているわけですしねえ。
普通に旧道と戦国時代の道の条件は同じ、といいますか、そもそも、それ以上に戦国時代の方が
条件が悪そうに思われますが、これらの件に関しましても、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
具体的にご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
一々、抽象的にお喚きになられてないで、ご自身でご説明になられる事を
よろしくお願いいたしますかねえ。
>>248
ですから、資料提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。書状番号とか年月日とかでもいいですしねえ。
で、結局本願寺が、北陸の方は増援するので、信玄は遠征を続けて欲しい、的にいっている、
という流れだったと思われますしねえ。
>>244のリンク読めばわかると言ってるのに読んでもわからないみたいだから要点をコピペ
してやるわ。
>天険トンネルができる以前は、「砥如矢如」が旧8号線で、
>明治16年に「砥如矢如」が開通する前は、
>「親不知の海岸線」が旧道であったのです。
道じゃなくて海岸、砂浜。雪も冬も関係ない。明治に作られた旧R8などまったく関係ない。
まぁ、冬は海水冷たいから少し難度上がるがな。
あのー、そのwikiにもしっかりと書いてありますように、
「断崖の下の海岸線を通る」「北陸道最大の難所」
「大波がくると洞窟に逃げ込む」「波にのまれるものも多かった」
「軍事的な要衝でもあった。」的に書いてありまして、
十分に難所で、補給をつなげるのは十分に大変なように思われますが、
史実で普通に上杉はこれを行っているわけですしねえ。
これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
雪の話してるのか冬の話してるのか親不知が通行可能かどうかの話をしてるのか
補給の話をしてるのか何の話をしてる?
それと旧R8が何の関係がある?
根本的な問題としては、北陸遠征においての、上杉の補給ルートも、
普通に十分過ぎる程に難所だったと思われ、旧道方面でいくなら、
それこそ現代では冬には通行止めとかになるような場所ですし、
親不知方面でいくなら、冬でさらに厳しい状況ですのに、
大波にのまれてさらわれそうな所を通って補給をしていた事になるわけでして、
どちらであれ、現代的には難所と思われるところを、普通に謙信は補給をしながら、
軍勢を遠征させている、という話になるわけなのではございますが、
これらに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
明治に作られた旧R8が戦国時代にあったとでも言うのか?
まったく関係のない例を出すな!
それから越中を制圧したのなら富山城をある程度は新たな策源地とすればいいだろ、
すべてをコスト、リスクの高い越後から持ってくる必要はない。
まーた都合の悪い事柄などを、必死にスルーなさられようとしてはおられるご様子ではございますが、
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
根本的な問題としては、北陸遠征においての、上杉の補給ルートも、
普通に十分過ぎる程に難所だったと思われ、旧道方面でいくなら、
それこそ現代では冬には通行止めとかになるような場所ですし、
親不知方面でいくなら、冬でさらに厳しい状況ですのに、
大波にのまれてさらわれそうな所を通って補給をしていた事になるわけでして、
どちらであれ、現代的には難所と思われるところを、普通に謙信は補給をしながら、
軍勢を遠征させている、という話になるわけなのではございますが、
これらに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
何度も指摘がされているようには思われますが、謙信が1572年9月から1573年4月まで遠征している事例では
富山とかは北陸一向宗の勢力圏でございまして、この当時の謙信の越中における領域は三分の一もあるかどうか、でしかないわけなのですが、
これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。そもそも、その策源地どうたら、に関しましても、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などがされておられないようにも思われる次第ではございますので、
これらに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
謙信は尻垂坂で富山城を奪い返しているよ。
日宮城まで支配権あるのに三分の一以下なんてあり得るかよ。そもそも神保か椎名のどちらかが常に上杉謙信に味方しているのに。
自分こそ都合が悪くなると他人を罵倒して長文で誤魔化すんだね。
えっと、何で親不知子不知の話が出てるの?
まずそこを説明してみてよ。
いや、普通に親不知はそもそも、貴方こと必死な織田ファンさん自身が>>244で
普通にwikiで出してきた事なわけですし、そのwikiでも越後と越中を往来する人々は
ここを通らねばならない北陸道最大の難所だった、的に普通に書いてあるから、
なのですが、そもそも、貴方ご自身が出してきた事ですのに、なにをおっしゃっているのか、とは
思う次第ではございますので、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
なに言ってんだ?お前が>>235で出してるだろ。
ああ上杉がやってるからできるとか言ってるのか?
越中守護代の神保と椎名は上杉に味方したり離反したりの繰り返しで、永禄年間には上杉は越中東部をほぼ領国化していたから親不知子不知は関係ないぞ。越中が拠点にできるし。
そもそも1572年に武田信玄が上杉を抑えるために越中の一向一揆を策動させた際、上杉謙信は日宮城に入って指揮をとってるし。
椎名は謙信の従弟を養子にしていたしな。
わざわざ越後から補給を考える必要がない。
だいたい、海路があるし。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘をされている事ではございますが、1572年9月からの謙信の北陸遠征に関しましては、
謙信が制圧していたのは、せいぜい越中の三分の一未満くらいですし、
そもそも越中を策源地とやらにした資料やら史実やらを一度もごていじになられておられませんのに
そのようにおっしゃられましても、とは思われる次第ではございますので、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
日宮城のあった場所を知ってて言ってるんだよね? それで人を罵倒するわけ?
通報していい? こっちもいつまでも君の長文や罵倒に付き合う必要はないよね?
1563年の閏12月に越山して、厩橋に入っている事例、
1565年11月末に関東に出兵している事例、
1569年の11月にも関東に出兵してますね。
1571年の11月にも関東に出兵してますね。
何度か指摘をされている、1573年の年末にも、本来なら関東に出陣をする予定だったけれど、
北陸遠征から戻ってきたばかりで、将兵が疲れているので、年が明けてから出陣する事にしますね、
的に関東諸侯に伝えたりもしてますね。
>>239にあげた事例は、「冬に越山している事例」ではありますが、
そもそもこの議論の本題としましては、「朝倉義景は冬も在陣をする事ができるか?」
という話ではございますので、普通に謙信が9月とか10月とかから遠征を開始して、
年明けをして関東で在陣をし続けている事例とかは、他にもいくつもあるわけですしねえ。
普通に謙信は冬に在陣し続けるのも、出陣するのも可能であった、
という事でよろしいのではないでしょうか、
とは思われるのですが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
足利義稙を利用して西の少弐資元、大友親治、北の尼子経久と和睦、味方にして本領を安全にしていた。
上洛後に管領、細川高国や将軍、義稙が大内氏の後ろ盾あって権力を確立していたため、彼らは大内氏の軍事力無しでは権力が維持できず、そのため足利、細川のバックアップを受けれた。また、大内義興は山城守護に任命されて畿内における拠点を保持していた。
島津氏の場合。
島津義弘が肥後口から、島津家久が日向口から豊後に攻め入る。冬とはいえ、この地方に雪の心配はない。また、日向口は山岳地帯だが、肥後口はマシだから補給可能。大友家臣にも離反者続出で橋頭堡がたくさんある。
ただし、義弘と家久が歩調を合わせれたかと言われたら全く合わせれていない。義弘は岡城の志賀親次に苦戦し、さらに珠洲郡の平定にも手間取り豊後中枢にすら進出できず。
家久は佐伯氏に苦戦し、佐伯を放置して北上し、戸次川で豊臣先遣隊を破り豊後府内にまで先んじて突出するが、臼杵などで苦戦してそれ以上北上できず。
しかも途上の城を放置してどちらも北上したから、兵站を脅かされてしまう。結局、豊臣本隊がやってきて現状維持すらできなくなり、敗走。
島津義弘、家久の一族軍ですら歩調を合わせれてないのに、朝倉義景、武田信玄、伊勢長島なら歩調を合わせられるのか物凄く疑問を感じる。
皆さんはどう思いますか?
>島津義弘、家久の一族軍ですら歩調を合わせれてないのに、
>朝倉義景、武田信玄、伊勢長島なら歩調を合わせられるのか物凄く疑問を感じる。
島津の場合は、歩調云々といいますよりも、普通に各地の城の攻略とかにてまどっているだけのようには思われますしねえ。
何度も指摘されている事のようには思われますが、
戦略的な包囲策戦によって、
武田・北条は長尾上杉+関東諸侯の領域を制圧していき、
関東におけるパワーバランスを自身達の側に優位にして、
戦略的な勝利を得たわけなのですしねえ。
さらには、志賀の陣でも、同じような戦略的な包囲策戦によって、
織田を降伏宣言和睦詐欺をおこなわざるを得ない程に
追い込んでいるわけですしねえ。 これらの件に関しましても、
資料やら史実やら、を基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
意味不明。
武田信玄、朝倉義景、伊勢長島が織田の城を順調に落とせる保証なんかどこにもない。
和睦詐欺に関してはあんたの妄想で、史料がない。以上。
信玄自身が越中の情勢が落ち着いたら甲府に帰還すると本願寺に充てた書状に書いてるからね
いや、ブラフっぽいですしねえ。結局は、本願寺の方から、出陣をそのまま続けて欲しい、と要請する事になってますし、
そもそも、信玄自身が1573年の2月の書状で、朝倉が再出陣してくる事を述べ、
「今こそ申し合わせた事を行うに及ぶべき時」的に書いていて、5月侵攻などの計画を
続けるつもりである事などが明確に示されているようには思われる次第ではございますが、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
一次史料には「甲府に帰還する」と書かれてる
ブラフというなら五月岐阜侵攻作戦の方がよっぽどブラフっぽいでしょ
具体的に何年何月何日の誰宛の書状ですかねえ。
とりあえず、確認の方をさせていただきたいですので、
武田氏書状集の書状番号でもよろしいので、ご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>244
明治でつくられた道の方が、少なくとも、それ以前の道よりは整備もされていると思われますしねえ。
といいますか、明治の旧道も、もともとあった道を基にはしているわけですしねえ。
普通に旧道と戦国時代の道の条件は同じ、といいますか、そもそも、それ以上に戦国時代の方が
条件が悪そうに思われますが、これらの件に関しましても、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
一つも書状を提示したことない癖によく言うわ
山梨県史 資料編5
いや、それただの収録資料名であって、書状自体を示すものではないように思われるのですけれどねえ。
その資料編5、とだけいわれましても、とは思いますので、
とりあえず、年月日と誰宛か、のご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
意味不明
越中を平定したら謙信が帰還してくる
その場合は自分も三河から甲信に帰って備える
ブラフもなにも当たり前の事でしょ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E4%B8%8D%E7%9F%A5
北陸の街道の難所と呼ばれた親不知について教えてください。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12132427397
親不知は道じゃないんだけどね。だから親不知は雪はたいして関係ない。
そして明治に作られた旧道の話しても意味がない。
武田信玄が長生きして、1573年5月に武田信玄が東美濃から、朝倉義景が越前から、伊勢長島が南からそれぞれ侵攻したら、織田信長を倒せるのかどうか?
これで皆で多数決したらいい。
期間は3日くらいで。
その前提を認めてないけどね
<岐阜に侵攻する意志があった>
朝倉に要請したのは五月まで陣を維持すること
これは普通に考えたら近江に在陣しておいてほしいということ
本願寺への要請は越中で謙信を一日でも長く引き付けておくこと
引きこもりの長島なんぞに期待してない
その上で信玄自身が美濃に侵攻する計画
<岐阜侵攻はブラフ>
家康領への侵攻が主目的
その間信長を引き付けるため浅井朝倉を捨てゴマにする
(そのため朝倉の陣払いに激怒した)
本願寺への要請内容は上と一緒
謙信に備えて三河を抑えたら甲府に帰還する
このどちらかだと思うよ
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられようとしておられるご様子ではございますが、
>朝倉に要請したのは五月まで陣を維持すること
>これは普通に考えたら近江に在陣しておいてほしいということ
信玄の書状にありますのは「5月に御張陣」
普通に出陣する、という事のようには思われますけれどねえ。
郡上遠藤への鉈尾の砦構築の指示も出すように、朝倉にもいってますしねえ。
>本願寺への要請は越中で謙信を一日でも長く引き付けておくこと
>引きこもりの長島なんぞに期待してない
義景への書状で一向宗を蜂起させる事、がプランとして書いてありまして、
特に長島に関しては伝える事がある、と信玄は書いておりまして、
普通にこれは長島の北上を示している、的に学者さんとかにも考慮されておりますしねえ。
朝倉は近江に展開させるっていうの鴨川氏の見解だよ
元亀年間の武田信玄
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/22/kiyo0022-05.pdf
武田信玄の「西上作戦」を研究する
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/25/kiyo0025-01.pdf
>ちなみに西上作戦に関する書状には偽書も多数存在してることを知らない人が多いと警告もされてますね
具体例の方などを、よろしくお願いいたしますかねえ。
>あなたのような結論ありきで語るタイプの人が一番引っかかると思われますが
ろくに一次資料などをご提示になられずに、妄想願望なように思われます事柄などを、
お喚きになられておられますように思われます、貴方こと必死な織田ファンさんなどが、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられながらに、そのようにおっしゃられましても、とは
思われる次第なのではございますが、これらに関しましても、なにとぞご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>296
平山氏などは普通に5月に武田と朝倉が連携策戦を行う事、と解釈しておられますしねえ。
リンク先の論文読めとしか言えないな
いやいやいや、普通に単なる書状の解釈の問題ですかねえ。
平山氏の著作に書かれてますかねえ。ちなみに、丸島氏も、この書状のこの部分は、
「朝倉氏に対して5月に出陣するように求めている。」と書いてますしねえ。
>>300
いやいやいや、結局のところ、鴨川氏も、普通に信玄が美濃に侵攻する計画だった、
的に述べておられますのに、そのようにおっしゃられましてもねえ、とは思う次第なのではございますが、
これらに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
いやーそんな必死にごまかしてもダメでしょ
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
単に2連投になってしまっただけの話ですしねえ。
とりあえず、貴方こと必死な織田ファンさんが、現在進行形で発狂逃亡中の、膨大なる事柄などなどに関しまして、
おはやめに資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>307
いや、必死にごまかそうとしておられるのが、貴方こと必死な織田ファンさんでしかないように思われるのですけれどねえ。
普通に鴨川氏以外の学者さんで、普通に5月に朝倉が出陣する事、と解釈している人が少なくとも二人いて、
実際に朝倉は1573年の3月に出陣してきているわけではございますしねえ。
といいますか、そもそも、貴方こと必死な織田ファンさんの出したリンクを読みましたら、
鴨川氏は「最初は徳川を倒そうとはしたけれど、それが信長と戦う事にもなるので、
中々決断はできなかった。」「10月に出陣した時には、明らかに標的は信長になっていた。」
的に書いてあって、信長を打ち倒す事が目標だったとしっかり書いてあるのですが、
貴方が>>300で書いてある事とは異なりがあるようなのですが、
これらに関しましても、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
国語できないんだね
かわいそうに
いやいやいや、まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、 貴方は>>300において、
「・元亀三年九月頃までは信玄は越中の後詰めで越後に侵攻するつもりだった
・信玄は当初信長と敵対するつもりはなかった
・信玄と家康の関係は悪化しており我慢の限界を迎えた
・本願寺、朝倉の要請で仕方なく遠江に派兵することにしたと信玄は繰り返し述べている
上記を踏まえて遠江に侵攻が開始されたとされている」
とは書いてはおられますが、>>309にも書きましたように、
鴨川氏は「最初は徳川を倒そうとはしたけれど、それが信長と戦う事にもなるので、
中々決断はできなかった。」「10月に出陣した時には、明らかに標的は信長になっていた。」
的に書いてあって、信長を打ち倒す事が目標だったとしっかり書いてあるのですが、
貴方が>>300で書いてある事とは異なりがあるようなのですが、
これらに関しましても、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
理論のすり替えがお粗末だよね
「朝倉氏に対して5月に出陣するように求めている。」と書いてる
鴨川氏も、普通に信玄が美濃に侵攻する計画だったと述べてる
誰もこれを否定していない
朝倉が越前から美濃へ直接侵攻すると考えてる歴史家はいない
長島本願寺の門徒が武田に呼応して岐阜城に侵攻してくると考えてる歴史家もいない
つまりセオリーがどうこう喚いていても、そんな戦略は歴史研究の観点であり得ないということ
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘をされている事のようには思われる次第ではございますが、
>朝倉が越前から美濃へ直接侵攻すると考えてる歴史家はいない
はて?貴方が別に全ての歴史家のご論旨を存じ上げられておられるとは思われない次第ではございますのに、
そのようにおっしゃられましてもねえ、としか思われない次第ではございますしねえ。
そもそもの問題として、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などを求められましても、
膨大なる事柄を発狂逃亡しておられますように貴方こと必死な織田ファンさんは思われる次第なのではございますが、
元々の話題といたしましては、貴方こと必死な織田ファンさんが、>>291におきまして、
>朝倉に要請したのは五月まで陣を維持すること
とおっしゃられておられますから、こちらは普通にこの書状の内容は、「朝倉に5月に出陣してもらう事」
という事を要請している内容だと解釈している、平山氏とか丸島氏の論説などを提示した、という流れなわけなのですけれど、
これらの件に関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>朝倉が越前から美濃へ直接侵攻すると考えてる歴史家はいない
>長島本願寺の門徒が武田に呼応して岐阜城に侵攻してくると考えてる歴史家もいない
で、実際問題といたしましては、まず平山氏がその著作の「武田信玄」におきまして、
普通に「(信玄は)武田軍が美濃に入ると同時に遠藤氏や伊勢長島の一向一揆が蜂起し」
「これらと朝倉軍が連携できれば信長を滅亡させる事が可能と考えていたらしい。」
と普通に書いておられますしねえ。
そして、その同著作の中では、このスレでもたびたび示されている、長島の岐阜から三里の砦の存在についても述べておられ、
「本願寺との連携による美濃侵攻は決して絵空事ではなかったのである。」と述べておられますかねえ。
これらは、普通に長島の美濃への北上戦略などを示している事が明らかなようには思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、貴方こと必死な織田ファンさんが、
>長島本願寺の門徒が武田に呼応して岐阜城に侵攻してくると考えてる歴史家もいない
とおっしゃられましたのか、というご説明と共に、ご回答の方などを、なにとぞよろしくお願いいたしますかねえ。
普通に、信玄は、朝倉・長島、遠藤、その他、と連携しての、
美濃侵攻を戦略として計画していた事が明らかなようには思われる次第ではございますし、
そもそも、書状内容などからも、普通に「郡上遠藤に鉈尾の砦を築くのを、朝倉の方からも指示をするように。」
的に書いている事などからも、朝倉が普通に過去に何度もそこを通過して行っている、美濃侵攻を、
郡上遠藤に構築させる予定の鉈尾の砦を前線拠点として行うのは、非常に理にかなっているように思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしたいとはおもう次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいやいや、まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘をされている事のようには思われる次第ではございますが、
普通にこちらは平山氏の著作、と普通に書いておりますしねえ。
>>326とかにも書いておりますしねえ。
そもそもの問題として、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などを求められましても、
膨大なる事柄を発狂逃亡しておられますように貴方こと必死な織田ファンさんは思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに、必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、 捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
必死になって都合の悪い事柄などを、必死になってスルーなさられようとなさられながら、
必死になってお喚きになられておられますようには思われる次第ではございますが、
>>326 >>327などにもありますように、普通に長島衆は美濃に攻め込む事になっている、的に
資料などを解釈している学者さんなども普通におられますし、実際にそのように資料などを解釈しますれば、
そのように考慮するのが自然、なようにも思われる次第ではございますしねえ。
朝倉も上記のような感じで、普通に武田の美濃侵攻策戦と連携した行動をとる事を想定している学者さんなども
普通に複数おられるわけではございますし、実際に資料などから考慮しましても、そのように考慮します事は、
普通に可能なようには思われる次第ではございますしねえ。そもそも、朝倉が過去に越前から美濃への侵攻を行う時におきましての、
通路にあたりました、郡上遠藤が、この時には普通に武田・朝倉に内応している、という状況ではございますしねえ。
そもそも、貴方こと必死な織田ファンさんなどは、策源地どうたら論とか、を
資料的やら、史実的やら、あるいは学者さんの論説などもなしに、お喚きになられましたり、
史実的にいくつもの事例がある、信濃から美濃への侵攻とか、
越前から美濃への侵攻が、資料的やら、史実的やら、あるいは学者さんの論説などもなしに、
不可能だとかお喚きになられましたり、という状況であらせられます事などなどが、
過去ログなどで普通に膨大に残っておられますようには思われる次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>387
いやいやいや、>>415にもありますように、普通に武田の美濃侵攻策戦と連携した行動をとる事を想定している学者さんなども
普通に複数おられるわけではございますし、実際に資料などから考慮しましても、そのように考慮します事は、
普通に可能なようには思われる次第ではございますしねえ。
そもそも、朝倉が過去に越前から美濃への侵攻を行う時におきましての、
通路にあたりました、郡上遠藤が、この時には普通に武田・朝倉に内応している、という状況ではございますしねえ。
で、ついでに長島が北上して美濃に侵攻する、的に解釈しておられる他の学者さんに関しましては、
朝倉氏研究社の松原氏なども、この信玄の書状の内容に関しまして、長島の項につきましては、義景に対して
「伊勢長島の蜂起を催促して美濃を攻撃する事を要請」的に書いておりまして、
普通に長島が美濃に侵攻する事が信玄の戦略であった、的に解釈しておられる次第なわけなのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、貴方こと必死な織田ファンさんが、
>長島本願寺の門徒が武田に呼応して岐阜城に侵攻してくると考えてる歴史家もいない
となにを論拠になさられまして、おっしゃられましたのか、というご説明と共に、ご回答の方などを、なにとぞよろしくお願いいたしますかねえ。
普通に、信玄は、朝倉・長島、遠藤、その他、と連携しての、
美濃侵攻を戦略として計画していた事が明らかなようには思われる次第ではございますし、
そもそも、書状内容などからも、普通に「郡上遠藤に鉈尾の砦を築くのを、朝倉の方からも指示をするように。」
的に書いている事などからも、朝倉が普通に過去に何度もそこを通過して行っている、美濃侵攻を、
郡上遠藤に構築させる予定の鉈尾の砦を前線拠点として行うのは、非常に理にかなっているように思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしたいとはおもう次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
平山氏などは普通に5月に武田と朝倉が連携策戦を行う事、と解釈しておられますしねえ。
ソースは?
にまともに回答できない時点で自分は適当な事言ってると自白してるんだよね
で、結局のところ、>>296にある鴨川氏の論文におきましても、
「検討してみると、信玄はやはり、信長そのものの打倒を考えていたようだ。」的に書いてあり、
普通に信長を打ち倒す戦略で動いていた事などは、普通に書かれているわけですしねえ。
あなたのような結論ありきで語るタイプの人が一番引っかかると思われますが
・元亀三年九月頃までは信玄は越中の後詰めで越後に侵攻するつもりだった
・信玄は当初信長と敵対するつもりはなかった
・信玄と家康の関係は悪化しており我慢の限界を迎えた
・本願寺、朝倉の要請で仕方なく遠江に派兵することにしたと信玄は繰り返し述べている
上記を踏まえて遠江に侵攻が開始されたとされている
で、貴方こと必死な織田ファンさんは、>>312=>>300のが確定で、
その他が「あくまでも鴨川氏の見解にすぎない!」とかお喚きになられようとして
おられるご様子のようには思われる次第なのではございますが、
それを言うのでしたら、>>312で貴方が「確定的」とおっしゃられている4つの事柄、に関しましても、
>・元亀三年九月頃までは信玄は越中の後詰めで越後に侵攻するつもりだった
これに関しましては、鴨川氏がその論拠の一つである、信玄による本願寺と織田の和睦仲介を
本当はやる気がなかった、と解釈する事も不可能ではない、的に述べておられ、異論が成立しうることを指摘しておりますし、
さらに、越後侵攻への書状に関しましても、「これは真意を隠しているのだ、という解釈はあり得よう。」的に書いてあり、
異論が成立する余地がある事を普通に述べておりますしねえ。
>・信玄は当初信長と敵対するつもりはなかった
これに関しましても、そもそものそれについて鴨川氏が論拠としてあげている一つが、
「最初は徳川を倒そうとはしたけれど、それが信長と戦う事にもなるので、
中々決断はできなかった。」という論旨なわけですし、鴨川氏は結局最終的には
「10月に出陣した時には、明らかに標的は信長になっていた。」
的に書いてあって、信長を打ち倒す事が目標だったとしっかり書いてあるわけなのですが、
これらに関しましても、いかがなものなのではございましょうかねえ。
とりあえず、この時間帯はここら辺で撤収させていただきたいと思う次第ではございますかねえ。(チラチラ)
・元亀三年九月頃までは信玄は越中の後詰めで越後に侵攻するつもりだった
・信玄は当初信長と敵対するつもりはなかった
・信玄と家康の関係は悪化しており我慢の限界を迎えた
・本願寺、朝倉の要請で仕方なく遠江に派兵することにしたと信玄は繰り返し述べている
上記を踏まえて遠江に侵攻が開始されたとされている
>・本願寺、朝倉の要請で仕方なく遠江に派兵することにしたと信玄は繰り返し述べている
>上記を踏まえて遠江に侵攻が開始されたとされている
これらに関しましても、包囲網側が延暦寺から信玄に僧正の位を送り、
信玄がそれにこたえるような形で動いている事も鴨川氏は指摘しておられますし、
反信長陣営から信長に対抗しうる存在として構想され、信玄がそれにこたえて動いている事からも、
信玄の標的が信長以外にはありえない、的にも述べておられるわけで、
少なくとも、これだけ明確な、鴨川氏の「10月に出陣した時には、明らかに標的は信長になっていた。」
的な論旨を貴方がいうように「鴨川氏の見解であって異論の余地あり!」的にいうのであれば、
貴方が提示している事柄などなども、十分に「異論の余地あり」という事になるように思われる次第なのではございますが、
これらに関しましても、ご回答の方などを、よろしくお願いいたしますかねえ。
徳川に攻め込む=信長に敵対することになる
や、信濃から美濃への侵攻が本流であった
はあくまで鴨川氏の見解に過ぎない
本人もその自説の裏付けを記載はしているが、自説と違う考え方もできるとしていて断定はしていないよ
いやいやいや、まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘をされている事のようには思われる次第ではございますが、
こちら側が資料やら史実やらを提示しての説明などを膨大にしておりまして、
貴方こと必死な織田厨さんが、資料やら史実やらを基になさられましてのご回答の方などを求められまして、
発狂逃亡などをなさられておられる、という事例が膨大になっておられるようには
思われる次第なのではございますが、そのようにおっしゃられましても、とは思う次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
都合の悪い部分は意図的に削除して論ずるしな。勢州軍記だったか?
いやいやいや、まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘をされている事のようには思われる次第ではございますが、
こちら側が資料やら史実やらを提示しての説明などを膨大にしておりまして、
貴方こと必死な織田厨さんが、資料やら史実やらを基になさられましてのご回答の方などを求められまして、
発狂逃亡などをなさられておられる、という事例が膨大になっておられるようには
思われる次第なのではございますが、そのようにおっしゃられましても、とは思う次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、そもそもの問題としましては、そもそも、その菅沼なんたら、自体が、何度も指摘をされておりますように、
それを認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて、
貴方こと必死な織田ファンさんですら、それに整合性をつけてのご説明をなさられる事が
一度もお出来になられない、という状況でございますのに、
今更なにをおっしゃっておられるのかと思う次第でございますので、
これらの件につきましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
で、同じ文句で、もなにも、そもそも、その菅沼なんたら自体が、上記のように、そう認定されている人々が膨大になって、
貴方こと必死な織田ファンさんですら、整合性をつけてのご説明をなさられる事が
お出来になられない、という状況ではございますのに、そのようにおっしゃられましても、
とは思われる次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそもの問題といたしましては、
何度も指摘がされている事のようには思われますが, >>51-55にありますような、
朝も昼も夕方も夜も深夜も、必死にID切り替えとかをしながら、多数派装いをしておられる事が
明らかになっておられますように思われる、貴方こと必死な織田ファンさんと同じように、
24時間スレに貼りつき続ける事は非常に困難なようには思われてもしまいます次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、勢州軍記に関しましては、貴方こと必死な織田ファンさんが、「勢州軍記で信長は人格的に高く評価されている!」
的にお述べになられ、信長の人格的評価について、批判的なように思われる文章がいくつも勢州軍記にはある事などなどを
こちら側から提示などをされまして、発狂逃亡などをなさられておられるご様子のようには思われる次第ではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、そのようにおっしゃられますのでございますれば、
資料やら史実やら、を基になさられましての、
ご回答の方などをよろしくお願いしたいとは思う次第ではございますので
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
スレ違いなんですけどねぇ
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘をされている事のようには思われる次第ではございますが、
普通に5月侵攻は当時の一次資料などから伺われる戦略なわけですしねえ。
必死に都合の悪い事柄などを、必死にスルーしようとして、きかれている膨大なる事柄などには
具体的にご回答になられずに、必死に捏造曲解やら、レッテル貼り、やらにご狂奔なさられようとしては
おられるご様子のようではございますが、聞かれている事柄などなどに関しまして、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
1次史料うんぬんは過去の例を述べているようですが、過去の状況と相違ない言い方が
レベルの低さを露呈してますねえ
極端に言えば、太平洋戦争の日本軍が桶狭間の戦いを例にとって雨中の奇襲を
米軍陣地に仕掛けて惨敗したとかありますし。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘をされている事のようには思われる次第ではございますが、
普通に5月侵攻は当時の一次資料などから伺われる戦略なわけですしねえ。
必死に都合の悪い事柄などを、必死にスルーしようとして、きかれている膨大なる事柄などには
具体的にご回答になられずに、必死に捏造曲解やら、レッテル貼り、やらにご狂奔なさられようとしては
おられるご様子のようではございますが、桶狭間と太平洋戦争の時代は400年近くの時代的な距離があって、
さらには、テクノロジーも非常に大きな異なりなどがあったわけですが、朝倉が義景時代より前の時代に越前から美濃への侵攻をしている事例とかは、
別にそこまでのテクノロジー差などは特にないようには思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
田んぼのシーズン到来だわw
実際には5月以降も普通に合戦をしている事例が
普通に戦国時代には多数あるわけですしねえ。
普通に武田・朝倉・長島らによる5月侵攻も、
普通にそれ以後も普通に行われるようには思われる次第なのではございますが、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
そんな記述で信玄の戦略の本流であったとするのは無理がありまくりですね
いや、研究者さんは、神さまでもなんでもないんですから、
資料を基にしての「仮説」しか述べる事はできないわけでして。
「これが絶対完全無欠の真実!」なんて主張するのは、
まず普通の学者さんには
おられないように思われますしねえ。
>>341
>都合の悪いことは散々無視しておられるようですが
まーたいつも通りにいわれて悔しかった事などを、必死に鸚鵡返ししようとなさられておられるご様子ではございますが、
>可能性はあったかも知れないが数多の書状を検証した結果、岐阜侵攻作戦なるものは結局はブラフだったということですね
そんな事、一言もいってないようには思われるのですけれどねえ。
信玄は普通に、それなりに本気でこの美濃侵攻策戦を行おうとしていた、的に普通に書いてありますしねえ。
とりあえず、貴方こと必死な織田ファンさんが現在進行形で発狂逃亡中の、膨大なる事柄などなどにおきまして、
おはやめに資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などを、よろしくお願いいたしますかねえ。
『あるいは信玄が信長を妥当するという歴史があったかも知れないが、畿内の情勢については彼の世界の外で起きたことであり、結局のところ信玄は関東の人だったということである』
本を読めばしっかりと書いてあるじゃないですか
可能性はあったかも知れないが数多の書状を検証した結果、岐阜侵攻作戦なるものは結局はブラフだったということですね
と信玄の有言不実行ぶりを批判しています
名著「武田氏滅亡」を拝読されることをおすすめしますよ
>平山氏の主張についても武田信玄の計画と行動の解離について言及しており、
具体的なご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まさかとはおもいますが、こちらにはさんざん提示をさせておきながら、
ご自身はそうやって抽象的にお喚きになられて、発狂逃亡をなさられようとなさられようとしておられる、
というわけでもないようには思われる次第ではございますので、こちら側にさんざん要求なさられましたように、
具体的なるご提示の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
だーれもそんな意見だしておられないようですがね
平山氏「朝倉と連携することができれば~」
普通に考えれば鴨川氏と同様、例年の如く近江に出陣させて信長を岐阜に閉じ込める戦略となります
>平山氏「朝倉と連携することができれば~」
>普通に考えれば鴨川氏と同様、例年の如く近江に出陣させて信長を岐阜に閉じ込める戦略となります
それは貴方がご主張なさられているだけの話でしかないように思われますしねえ。
そもそも、なんで岐阜に閉じ込めるのに、近江に出陣させる必要があるのか、とも思いますしねえ。
そもそも、都合の悪い事柄は必死にスルーなさられているご様子ではございますが、
貴方は長島が出陣するというのを主張している学者さんがいない!とお喚きになられてましたけれど、
こちらが普通に提示しましたら、それらを必死にスルーなさられようとしておられますが、
これらに関しましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
小学生レベルの国語力があればこの記述は
絵空事ではない=拠点があったという事実があった
となり、何の根拠もなく本願寺と連携すると考えていたわけではない
と解釈できます
そこから本願寺門徒が美濃に侵攻することができたというのは飛躍し過ぎでそれは無理があるという表現でもありますね
「絵空事ではない」
そこまで筆者が考えているとしたら
「実現できる」とか「十分可能」のような表現になります
明らかに妄想願望で無理やりに解釈しすぎだと思われるのですけれどねえ。
貴方はいつも通りに都合が悪くなると、必死になって都合の悪い事柄を
必死にスルーしたり、捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
こちらが普通に書きましたように、平山氏は
「(信玄は)武田軍が美濃に入ると同時に遠藤氏や伊勢長島の一向一揆が蜂起し」
「これらと朝倉軍が連携できれば信長を滅亡させる事が可能と考えていたらしい。」
的に書いており、普通に伊勢長島が美濃にともに侵攻する存在として述べておられる事などに関しましても
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
ついでに、上の方で普通に何度も書かれている事なのではございますが、
平山氏は著作の「武田信玄」の方では、
「(信玄は)武田軍が美濃に入ると同時に遠藤氏や伊勢長島の一向一揆が蜂起し」
「これらと朝倉軍が連携できれば信長を滅亡させる事が可能と考えていたらしい。」
的に書いており、という事は、こちら側は>>351をはじめとして、何度も書いている事なのではございますが、
これらに関しましては、いかがなものなのかとは思う次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>532
>「(信玄は)武田軍が美濃に入ると同時に遠藤氏や伊勢長島の一向一揆が蜂起し」
>「これらと朝倉軍が連携できれば信長を滅亡させる事が可能と考えていたらしい。」
そりゃ本当に美濃に侵攻して信長と戦う気なら、信玄や武田首脳はそんな風に考えていただろうよ。
軍鑑だと高坂が織田軍は総兵力十万だからそんな甘くないんじゃねって言ってるが、
高坂は織田の実力見抜いていたとする後付臭いし。
池氏も浦長瀬氏の論文も参考にして述べているようですねえ。
で、信長の撰銭禁止令の影響による市場の反発、的に述べているのは、
池氏、脇田氏、谷口氏、浦長瀬氏、など多数おられるわけですし、
池氏も述べているように、元々畿内で米を現物貨幣的に使う例はあったものの、
信長の撰銭禁止令の結果、むしろ畿内ではそれに対する反発が起きて、銭がほとんどつかわれなくなった、
的に浦長瀬氏の論文なども活用しつつ、書いておられますかねえ。
これに対して、池氏は信長の統制能力に対する不信があったのではないか、という指摘をしておられ、
これによって、信長は貨幣流通統制能力の限界をさらけだす事になった、としておられますかねえ。
の宛先を修正
>>578 ではなく
>>558 宛です。
修正しておきますかねえ。
>>559
>軍鑑だと高坂が織田軍は総兵力十万だからそんな甘くないんじゃねって言ってるが、
それ、2次資料特有の「敵側は大軍だったけれど、俺たちはそれに対して優勢(あるいは勝利)だったんだぜ!」
的な誇張パターンだと思うのですけれどねえ。
それ、たしか、軍鑑で、三方ヶ原の戦いの後で、武田側が浜松城を攻略しようとした時に、
「浜松を囲んでいる間に信長が8万の大軍で援軍に来ると思うから、西に進んだ方がいいのでは。」
的に香坂がいった、的な話だったように思うのですけれどねえ。
実際に、この後で軍鑑では、信長が土下座的な書状を送って信長に和睦を申し込んで拒否される記述が続きますし、
軍鑑では、その後も馬場美濃が800くらいの兵力で信長率いる織田勢一万を急襲して勝利したり、
山県が信長の率いる6万の大軍を6千で東美濃攻防で防いだり、と色々書いてあるわけですしねえ。
で、織田側の兵力の実数は、高天神救援の時に、2万5千で城を囲む武田勢に対し、北陸の抑えを残した結果、
勝てるかどうか微妙な兵力しか招集できなかったようで、進むに進めず、城を攻略されてしまったり、
長篠時は北陸の抑えまで動員して、やっと三万の兵力を招集して、という感じだったわけですしねえ。
軍鑑にあるような、上記のような2次資料特有の相手側の兵力誇張をのぞけば、当時の信玄をはじめとする武田氏の有力武将達は、
織田が10万いるとかは普通に思ってなかったでしょうし、実際に織田側には上記のような感じで、そこまでの大軍が存在していたわけでは
ないように思われる次第ではございますしねえ。
朝倉・長島・遠藤・本願寺・その他などなど、と連携して美濃に侵攻すれば、十分に戦略的に優位をとれる、と信玄をはじめとする
武田氏有力武将達が考慮するのは、特に不可思議な話でもないようには思われる次第なのではございますが、
これらに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
それは単なる文章上の紹介の問題の話のようには思われる次第ではございまして、
上の方で普通に何度も書かれている事なのではございますが、
平山氏は著作の「武田信玄」の方では、
「(信玄は)武田軍が美濃に入ると同時に遠藤氏や伊勢長島の一向一揆が蜂起し」
「これらと朝倉軍が連携できれば信長を滅亡させる事が可能と考えていたらしい。」
的に書いており、という事は、こちら側は>>351をはじめとして、何度も書いている事なのではございますが、
これらに関しましては、いかがなものなのかとは思う次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>555
何度も指摘がされている事のようには思われる次第なのではございますが、浅井は信玄西上の時期でも普通に
羽柴柴田の夜襲侵攻を単独で撃退したりとかをしている次第ではございますしねえ。
信玄西上にも浅井は非常に協力的で、信玄の西上軍にも家臣を観戦武官的に派遣して、
三方ヶ原の戦いなどを確認させて、その戦果を周辺に喧伝とかをしていたりもしますしねえ。
浅井は非常に信玄西上の時に積極的に協力している大名の一人であるようには思われる次第ではございますが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
>>348
明らかに妄想願望で無理やりに解釈しすぎだと思われるのですけれどねえ。
353 人間七七四年 2018/07/26(木) 07:04:46.75 ID:enZOajnB
無理やりに妄想願望的なように思われますご主張などを、お喚きになられておられるように思われますので、
366 人間七七四年 2018/07/26(木) 07:20:24.80 ID:enZOajnB
>>362
それは貴方の妄想願望のように思われますので、資料提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
372 人間七七四年 2018/07/26(木) 07:27:03.17 ID:enZOajnB
完全に貴方の妄想願望による、お喚きのように思われますし、
普通に織田を連携して打ち倒す、で解釈できるように思われますしねえ。
373 人間七七四年 2018/07/26(木) 07:30:14.05 ID:enZOajnB
>>370
それは貴方の妄想願望のようには思われますし、
普通に過去の朝倉の遠征も特にそのような事はしてないように思われますしねえ。
まともに回答できないときは全部妄想願望ということにして誤魔化す事しかできないようです
そうだね。それで決まり。単純明快なのが素晴らしい。
だらだら長文は、仮に正しい事書いてても、すっきりしない。
>>378
なるほど。不利な意見には何の反論もしてないのか。
それなのに、あんな勝ち誇ったような書き込みしてるのか。頭おかしいにも程がある。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘をされている事ではございますが、
>>404 >>405にもありますように、十分すぎる程に、それでは資料的・史実的、などなどで
考慮しましても、そのようにおっしゃられます事などは、非常に困難、という事が
いわれている次第ではございますので、これらの事柄などなどに関しまして、資料やら史実やら、
を基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを必死にスルーして、
必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
実際にはその後の文章などで普通に説明がされていたりもしますし、
貴方こと必死な織田ファンさんのご主張は、資料やら、史実やら、
を基にはなさられずに必死になって妄想願望のように思われます事柄などなどを
主体になさられようとしておられるご様子のようには
思われる次第ではございますので、そのようにご指摘の方をさせていただいて
おります次第ではございますので、聞かれている事柄などなどにつきまして、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などを、
なにとぞよろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘をされている事ではございますが、
貴方こと必死な織田ファンさんのご主張は、資料やら、史実やら、
を基にはなさられずに必死になって妄想願望のように思われます事柄などなどを
主体になさられようとしておられるご様子のようには
思われる次第ではございますので、そのようにご指摘の方をさせていただいて
おります次第ではございますので、聞かれている事柄などなどにつきまして、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などを、
なにとぞよろしくお願いいたしますかねえ。
必死にスルーしている多数の都合の悪い事実に一切反論できていないことからも説得力が無さすぎるのは明白です
いつも通りに都合の悪い事柄などを、必死にスルーなさられようとなさられたり、
必死に捏造曲解などをなさられようとして、必死にお喚きになられているご様子ではございますが、
こちら側が普通に指摘をしておりますように、貴方は都合の悪い事柄などや、
相手側の提示した文章などを、いつも通りに必死に捏造曲解して妄想願望をお喚きになられて、
こちら側から提示を要求されている数々の事柄などにつきまして、いつも通りにご回答になられずに、
無理やりに妄想願望的なように思われますご主張などを、お喚きになられておられるように思われますので、
こちら側から聞かれている数々のレスなどに対して、おはやめに具体的に資料やら史実やら論説などなどを基になさられましての
ご回答の方などをおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
(自身の本意ではないということ)
・信玄は仲介を受けたにも関わらず越後に出兵をしようとしていた
・その後も度々越中にいる謙信の動向を気にかけ甲府への撤退すると書状で書いている
・本願寺はそれを必死でなだめ、なんとか三河にもう少し滞在していてほしいと要請している
(早く岐阜に侵攻しろではなく三河に退陣してほしいと繰り返し要請している)
信玄自身が書状の中で、「信長を打ち倒す為に出陣した。」と述べたり
義昭にあてた書状で「信長を許してはならない。」的にも述べてますしねえ。
普通に貴方が必死に都合の悪い事柄などをスルーなさられようとしておられます、
鴨川氏なども信玄は10月の時には信長を標的としていた、的に
普通に書いておられますしねえ。
・最終的に信長を標的として侵攻を開始してますしねえ。
・その少し前の2月に義景の再出陣について書状で述べ、普通に「申し合わせた事をおこなうに及ぶべき時」と書いてますしねえ。
・上記の流れから、普通に本願寺の協力を引き出すためのブラフかと思われますかねえ。
10月の時に武田信玄が出した書状に信長云々なんてあったか? 10月22日付で出してる奥平道文宛の書状には「三ヶ年の鬱憤を晴らす」とあり、明らかに徳川家康を標的にしていたのが明白なんだが。
10月の時点でそうなっている、というのは鴨川氏がいっている事ではございますが、
信玄の書状でも、普通に11月以降とかに出されているのでは、信長を打ち倒す、的に書かれているのがいくつもあるわけですしねえ。
>>368
ですから、普通に連携して、信長を打ち倒す、という話になっているわけですしねえ。
完全に貴方の妄想願望による、お喚きのように思われますし、
普通に織田を連携して打ち倒す、で解釈できるように思われますしねえ。
>それと平山氏の最終的な主張
>「結局信玄にとっては畿内の情勢については最後まで他人事であった」に対する反論もまだのようですね
平山氏がどこでこんなことをいっているのか、につきましても、具体的にご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
鴨川氏ですら、こんなことはいっておられませんしねえ。
(五月にまた合流しましょうなど一言も書かれてないし、そもそも岐阜に侵攻するなら近江から退陣して怒る道理がない)
・信玄が三河に入った段階で将軍義昭が蜂起してしまっている
(岐阜に侵攻したわけでもないのに?)
・本来なら、朝倉の撤収はもう少し後になる予定であった、という事かと思われますかねえ。
そもそも、三月出陣の時も、最初は敦賀から若狭に分遣隊を派遣しておりますしねえ。
・これはよくわかりませんが。武田は朝倉・本願寺には5月侵攻は提案してますが、
義将はには特に述べてないわけですしねえ。
義将→義昭
>>356
ほぼすべて、なんていってますけれど、どれだけの学者さんの論説を
ご提示になられる事がおできになられるのでございましょうかねえ?
それぞれの学者さんで、普通に書き方も異なりますし、
貴方がいっているのは、鴨川氏の書き方でしかないですのに、
なにをいっておられるのかとは思うのですが、この件に関しましても、
具体的にご提示の方などをなさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
鴨川氏、平山氏、丸島氏、金子氏などの著作、論文を読んでいて誰も
「朝倉義景が越前から北美濃に侵入する計画だった」という記述と
「長島一向衆が岐阜まで遠征する計画だった」という記述をみたことないですが
あるのであれば詳しい箇所を教えていただけますか?
とりあえず、平山氏・丸島氏は岐阜から三里の所にある長島の砦を信玄が美濃に侵攻するにおいて、
長島が織田と戦う時の拠点的な解釈をしてもおりますし、
朝倉氏研究者さんの松原氏なども含めて、普通に長島が蜂起して、美濃を攻撃する、的に述べているわけですしねえ。
といいますか、他にも聞かれている事柄の数々などに関しまして、
おはやめにご回答の方などをよろしくおねがいいたしますかねえ。
そもそも5月に朝倉義景が美濃へ侵攻する気があるなら、敦賀に滞在しているのがおかしいんだよな。4月上旬の時点ではまだ武田信玄は生きてるんだから、普通は美濃へ侵攻するための前線拠点に移るのが筋なんだが。
朝倉義景はいつも通り、やる気なかったんだろうな。手紙出してるからって信用はできんよ。
それは貴方の妄想願望のように思われますので、資料提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
5月に御出陣をよろしく、的な要請からも、普通に朝倉の再出陣が想定されているようには思われますしねえ。
>>361 >>359
何度も指摘がされている事ではございますが、普通にこの時の義景は若狭・小谷・湖西の三方向の守りを
固めておりまして、美濃侵攻への布石であるようにおもわれますかねえ。
いやそれはない。
敦賀から美濃へ侵攻するとしたら、どれだけ距離があると思ってるんだ?
下準備はしてるの?
武田信玄ですら、岩村城に秋山入れたり、自分は病気ながらも長篠までには移動している。これはある意味の下準備。
朝倉義景にはそれがない。武田信玄みたいに病気でもないのに。朝倉義景には受ける気がないんだよ。
それは貴方の妄想願望のようには思われますし、
普通に過去の朝倉の遠征も特にそのような事はしてないように思われますしねえ。
>>371
ですから、蜂起して、岐阜から三里の砦、なども利用しつつ、
「美濃を攻撃する」というのは、普通に複数の学者さんが述べられている事のようには
思われる次第ではございますかねえ。
朝倉の史実の行動を普通に考えるなら、
5月まで敦賀いたのは武田と連携して近江に攻め込むつもりだったか、
武田が5月に出陣すると織田は武田の相手するので自分は帰陣して休めるのどっちか。
貴方には残念かもしれませんが、今日も実はお休みですかねえ。
>>359
>これは偽書の可能性も高いが
こんなことは鴨川氏も述べてないようにおもわれるのですけれどねえ。
資料的な論拠としては、何度も郡上遠藤との内容で出ているように思われますしねえ。
>これも根拠ゼロ
>学者の見解は信玄の侵攻に呼応して蜂起させるのみ
矛盾しまくっているように思われますけれどねえ。美濃で伊勢長島が蜂起するなら、
普通に長島が美濃に進出する事になりますし、そもそも、朝倉氏研究者のひとの例をあげて、
美濃を攻撃させる事を要請している、と想定している事も提示してますしねえ。
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
これは偽書の可能性も高いが事実ではある
・朝倉が美濃に攻め込む
これは根拠ゼロ
学者の見解は連携することができれば~のみ
・長島本願寺が美濃に攻め込む
これも根拠ゼロ
学者の見解は信玄の侵攻に呼応して蜂起させるのみ
そもそも朝倉義景が敦賀に滞在しているのを考えて、あり得るのは木ノ芽峠を南下して浅井長政と連携して近江の織田軍と戦うこと。
これなら日野の蒲生氏が朝倉義景と内通していたとする説にも十分根拠は成り立つ。
ただし、朝倉義景と浅井長政が近江の織田軍を抜けるかどうかは知らないけど。
退陣することなど想定してなかったでないとあそこまで怒らない
などといった拡大解釈でなく作者が直接表現している部分ですね
信玄が信濃から美濃に侵攻するというのは複数確認しておりますが、朝倉については「連携する」長島本願寺については「蜂起させる」という表現のみという認識です
それと平山氏の最終的な主張
「結局信玄にとっては畿内の情勢については最後まで他人事であった」に対する反論もまだのようですね
長島は尾張と伊勢の国境にあり、そこから岐阜城までは数十キロ以上離れてますし、道中信長の拠点となる城も多数存在しています
とりあえず、今朝はここら辺で撤収させていただきたいと思う次第ではございますかねえ。(チラチラ)
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘をされている事ではございますが、
貴方こと必死な織田ファンさんのご主張は、資料やら、史実やら、
を基にはなさられずに必死になって妄想願望のように思われます事柄などなどを
主体になさられようとしておられるご様子のようには
思われる次第ではございますので、そのようにご指摘の方をさせていただいて
おります次第ではございますので、聞かれている事柄などなどにつきまして、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などを、
なにとぞよろしくお願いいたしますかねえ。
信玄は帰還したがったが、本願寺から三河にもう少しだけ留まって欲しいと要請された
この二点で連合しての岐阜侵攻作戦などという事実はなかったという十分な証明になりますね
いやいやいや、何度も指摘をされている事のようには思われる次第ではございますが、
それは貴方の妄想願望のように思われる次第でございまして、
資料的な論拠などをご提示の方などを基になさられましての、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
義景の退陣は本願寺からも朝倉に非難の書状がいっており、
普通に当初の打ち合わせなどと異なる事柄であったことが明らかなわけですし、
三河どうたら、のは、本願寺から更なる協力を引き出すための信玄のブラフと
思われますし、何度もしてきをされておりますように、普通に信玄は2月の書状で
義景の再出陣について述べ、「今こそ申し合わせた事柄を行うに及ぶべき時」
的に述べているわけですしねえ。
>北条は上杉の抑えなど絶対しない
いや、北条が自身の関東制覇の為に関東諸侯に侵攻して、関東管領である上杉が
関東遠征をしてそれの救援を必死に1574年の末まで行っている、というのが史実なのですが、
これらの件に関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>高坂の上杉対策軍1万など存在すらしない
そりゃあ、それは長篠の時の話ですしねえ。
>上杉が本気で惜しみなく軍資金使えば越中の一向一揆は敗退する
いや、実際には1574年の末まで、史実では謙信は北陸一向宗と北条との相手をしながら、
東西奔走を繰り広げ続けるわけなのですが、これらの事柄などなどに関しまして、
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>武田は躍起になって家康の命を狙ってただけだよ、その方が徳川領を根こそぎ奪えるからな
いやいやいや、>>404 >>405にありますように、普通に信玄が信長を主敵として行動していた事などは、
数多く資料などから明らかなようには思われる次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などを
なにとぞおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
貴方がそもそも最初に言い出した、鴨川氏の論文でも、普通に信玄は10月の出陣の段階では、
信長を主敵にして動いている事などが明らか、的に書かれておりますし、
そもそも、美濃侵攻計画は、郡上遠藤に「武田勢が美濃に侵攻した後で、
織田に敵対をしてほしい」的に要請してますので、侵攻しないなら、
そもそも約束をする意味自体がないわけですしねえ。
他にも、そもそも長島一向宗やら、本願寺やら、とも打ち合わせをした上で、
美濃侵攻の戦略が練られているわけではござますので、
貴方のおっしゃられている事柄などは、資料やら、史実やらを基に考慮しましても、
非常に困難であらせられますようには思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しまして、資料やら史実やら、を基になさられましての、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそもの問題として、朝倉義景が一時撤収する前からも、
すでに信長は岐阜に戻っているわけではございますしねえ。
これらの事柄などに関しましても、
資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などを、よろしくお願いいたしますかねえ。
三ヶ年の遺恨がある家康を叩きたい
↓
充分に叩いたから甲府へ帰りたい
家康にちょっかい出すと信長が出てくるが、それは避けたい
↓
岐阜に侵攻するつもりだといって朝倉に引き付けていてもらおう
↓
口約束だけだと信用されないだろうから美濃国人も対応させて現実味持たせよう
朝倉義景が勝手に帰還する
↓
ちょ!近江が片付いたら信長こっち来るだろ!で激怒
どう関係するのかも説明してないね。
まーた都合の悪い事柄などを、必死にスルーなさられようとしてはおられるご様子ではございますが、
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
根本的な問題としては、北陸遠征においての、上杉の補給ルートも、
普通に十分過ぎる程に難所だったと思われ、旧道方面でいくなら、
それこそ現代では冬には通行止めとかになるような場所ですし、
親不知方面でいくなら、冬でさらに厳しい状況ですのに、
大波にのまれてさらわれそうな所を通って補給をしていた事になるわけでして、
どちらであれ、現代的には難所と思われるところを、普通に謙信は補給をしながら、
軍勢を遠征させている、という話になるわけなのではございますが、
これらに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
何度も指摘がされているようには思われますが、謙信が1572年9月から1573年4月まで遠征している事例では
富山とかは北陸一向宗の勢力圏でございまして、この当時の謙信の越中における領域は三分の一もあるかどうか、でしかないわけなのですが、
これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。そもそも、その策源地どうたら、に関しましても、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などがされておられないようにも思われる次第ではございますので、
これらに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
☆出来るわけない
もうどうにもならなくなった弱っちい勝頼を寄ってたかって全方向から・・・
☆だったら出来るわなw
相変わらず、都合の悪い事柄などに関しましては、
必死にスルーなどをなさられようとしておられるご様子のように思われる次第ではございますが、
信玄は5月からの朝倉・長島と連携しての美濃侵攻計画を計画しておりまして、
これらが行われますれば、三方向から美濃に侵攻をして、
普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、 普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
朝倉の本音「やっと武田に被害担当を押し付けられる。帰るべ帰るべ」
こんだけの話しに菅沼がわんぱく小僧の夢よりデカイ願望をのっけてるだけ
長文先生の3方向作戦は、武田に織田が主力で防衛に向かったら朝倉長島衆が進撃し、
朝倉に織田が防衛に向かったら武田長島衆がry長島衆に向かったら
武田朝倉がryという一次資料にも無い妄想願望論ですよね。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘をされている事ではございますが、
貴方がそもそも最初に言い出した、鴨川氏の論文でも、普通に信玄は10月の出陣の段階では、
信長を主敵にして動いている事などが明らか、的に書かれておりますし、
そもそも、美濃侵攻計画は、郡上遠藤に「武田勢が美濃に侵攻した後で、
織田に敵対をしてほしい」的に要請してますので、侵攻しないなら、
そもそも約束をする意味自体がないわけですしねえ。
他にも、そもそも長島一向宗やら、本願寺やら、とも打ち合わせをした上で、
美濃侵攻の戦略が練られているわけではござますので、
貴方のおっしゃられている事柄などは、資料やら、史実やらを基に考慮しましても、
非常に困難であらせられますようには思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しまして、資料やら史実やら、を基になさられましての、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、まーたいつも通りに、必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、 捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
そもそも、その菅沼なんたら、自体が、何度も指摘をされておりますように、
それを認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて、
貴方ですら、それに整合性をつけてのご説明をなさられる事が
一度もお出来になられない、という状況でございますのに、
今更なにをおっしゃっておられるのかと思う次第でございますので、
これらの件につきましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
かなり盛ってるな
家康脱糞もこの戦いではなかったしな
北条は上杉の抑えなど絶対しない
高坂の上杉対策軍1万など存在すらしない
上杉が本気で惜しみなく軍資金使えば越中の一向一揆は敗退する
そのような状況下で武田の上洛などありえない
上杉が使い物にならない勢力まで落ちこんでいたのなら、そんなもんとっくの昔に滅んどる
武田は躍起になって家康の命を狙ってただけだよ、その方が徳川領を根こそぎ奪えるからな
まーたいつも通りに、必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、 捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
>三方ヶ原の武田圧勝も作られてるな
徳川側の記録で戦死武将が50名近くに達した、という事が、
普通にそれらの戦死武将達の名前ともどもに記録されているわけなのですが、
この件に関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
戦闘時間 一刻未満
家康の軍勢 11,000
損害 500から1,000
徳川四天王含め重臣の損害はなし
(城持ちが一人戦死したのみ)
やりあって一蹴されたけど損害レベルは普通の合戦での負け戦とそう変わらない程度なんだよね
設楽ヶ原の戦い
戦闘時間 日の出から夕刻まで
勝頼の軍勢 15,000
損害 10,000以上(諸説あり)
一門衆を除く重臣がほぼ戦死した
まさに壊滅的な損害を出した
まーたいつも通りに、必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、 捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
必死になって都合の悪い事柄などを、必死になってスルーなさられようとなさられながら、
必死になってお喚きになられておられますようには思われる次第ではございますが、
三方ヶ原では徳川側の記録で戦死武将が50名近くに達した、という事が、
普通にそれらの戦死武将達の名前ともどもに記録されているわけなのですし、それらには奉行とかを重臣の一族とかも何人も入っておりますし、
城主クラスでも5人くらい入っている事などが、過去スレなどで指摘もされていたように思われる次第ではございますが、
この件に関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
三方ヶ原における徳川側の損害を2千余としている資料もあるわけですしねえ。
そもそも、長篠の損害も、武田側のを千余、的に書いている資料などもあるわけではございますが、
これらに関しましても、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>385
多数の城を武田側に攻略されて、自身の周辺の小さい砦とかで、それ以上には信玄死亡後もろくに攻略する事が困難で、
という状況でそのようにおっしゃられましてもねえ、とは思われますしねえ。
普通に、西上軍から数千の抑えをおいておけば封じる事ができますし、
その分は東美濃の武田勢と合流すれば補充できますしねえ。
これらに関しましても、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
自分とこの城が奪われているのに、武田は美濃へ行ったりするの?
読了
西上作戦前後の武田家の財政難について、そして攻城兵器でもあった武器・弾薬の欠乏について解説されていた
なぜ1,200人足らずが籠城する二俣城の攻略に二ヶ月、500人足らずで守る野田城の攻略に一ヶ月もかかったのか?
浜松城をなぜ無視して三河に向かったのか?
これらは武田軍の装備が不十分であり力攻めを「しなかった」のでなく「できなかった」ということ
浜松城が落とせないのだから当然清洲城や岐阜城など落とすことも絶対に無理というのが道理
うーむ。
では武田の財政は10月から半年かけた遠征でかなり苦しかったのでしょうか?
西上作戦の戦費についてはこれも既出ですが
「信玄公が西上作戦を企てたとき、軍資金のために後家役や妻帯役まで新設したにもかかわらず、七千両しか集まらなかった」
(甲陽軍鑑・品第五十三)
とあり二万貫相当集めて甲府を出立したようですね
三万人が半年の遠征であればそれだけだと不足する額ですが
7000両に、もともとの蓄えとかなかったのかな? もし7000両だけとしたら、半年の遠征はギリギリですね。
織田はそもそも資料がry
まあ、堺とか本願寺とかから、わざわざ敵対されてまで、矢銭を徴収している事からも、
それほど楽な経済的な状況というわでもなかったようには思われる次第ではございますけれどねえ。
>>394 >>395
まーたいつも通りに、もうずいぶんと何度も指摘をされているように思われます事柄を
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられようとなさられながら、必死になってお喚きになられておられるご様子のようには
思われる次第ではございますが、何度も指摘がされているようには思われますが、
その妻帯役とかは、本来は妻帯できないはずの僧侶とかが妻帯をするのであれば、税金を払うように、という役であって、
ふつうにその西上の時から20年近く前の甲州法度とかに、普通に書かれている、武田氏にとって馴染みの深い税金であって、
とうてい西上の時に新設されたとは考慮しにくい、というのが何度も指摘されているようには
思われる次第なのではございますが、これらの事柄などなどに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに、歴史の専門家でもないライターさんのお書きになられた本を
必死にあげようとしておられるご様子ではございますが、
何度も指摘をされておりますように、それの論旨に使われている資料とかを
ご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
過去に何度も指摘されておりますように、二俣城は土塁が高すぎて、
長篠の後で家康が武田勢主力の救援がない状況でも、半年近くかけても攻略できず、
結局城主城兵の助命を条件に撤収してもらった、という程の城でして、
それを2か月で攻略してるなら、むしろ凄い事になると思いますし、
野田のは普通に信玄が病気だったから、とされますし、
そもそも、それ以前の西上の侵攻戦では、普通に城を攻略しまくってますけれど、
いったいいつからいつに武田勢がどのようにそのようになったとご主張なさられておられますのか、
をその論拠として提示されている資料などをお示しになられながらのご説明の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>389
上記のように、史実的に考慮しますれば、むしろ武田勢が2か月で二俣城を攻略しているのは、
むしろ凄い事柄に属するように思われます次第ではございますしねえ。
これで装備がどうとかおっしゃられるのでありますれば、上記のように長篠後の徳川勢とか、
武田の三倍くらいに装備が不十分、とかいう話になりそうに思われる次第なのではございますが、
これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、>>417にもありますように、過去に何度も指摘されておりますように、二俣城は土塁が高すぎて、
長篠の後で家康が武田勢主力の救援がない状況でも、半年近くかけても攻略できず、
結局城主城兵の助命を条件に撤収してもらった、という程の城でして、
それを2か月で攻略してるなら、むしろ凄い事になると思いますし、
野田のは普通に信玄が病気だったから、とされますし、
そもそも、それ以前の西上の侵攻戦では、普通に城を攻略しまくってますけれど、
いったいいつからいつに武田勢がどのようにそのようになったとご主張なさられておられますのか、
をその論拠として提示されている資料などをお示しになられながらのご説明の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>397
いや、普通に撰銭が行われていただけの話で、ほかより悪い、的な話ではなかったようには
思われる次第なのではございますが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
信長みたいに撰銭禁止令とかをだしたりしましたら、大衆側がそれに反発して、
信長領土みたいに銭の使用そのものが否定されて、米とかの現物貨幣が主流になる、という事態になっていたと思われます次第ではございますしねえ。
棟別銭の課税について家臣や国人が強く反発したと「妙法寺記」に記載
その内容として当初は本家のみに対して百文、春と秋の二回徴収
その後税収不足を補うため新家にも五十文の課税
(信玄死後に百文に加増)
片家や空家にまでもその対象を広げている
それでいてしばしば前倒しでの徴収まであったとのこと
永禄五年には甲斐国鮎沢郷において翌年の秋分の税の一部を年内に納めるように支持した記録が残っている
他国でも棟別銭はあったが年間五十文から百文が相場で、武田領が飛び抜けて重税だったのは間違いないですね
最も民衆から多額の税を集めていたという根拠なので武田家の銭が欠乏していたという話ではないけれど
甲斐信濃は鐚銭の流通割合が他よりも高いと言うのに精銭払いだっけ?
>>393
武田北条みたいに臨時税なのに毎年支払わせてるわけじゃなく、
織田家の棟別銭は臨時税のままでは?
つまり織田にはそれだけ余裕があるということですか? 経済力に?
武田攻めの際、武田側の百姓が織田軍に協力を申し込んだりもしているし、やはり織田のほうが税は安いと思われていたのかなあ。
信長は農民からは年貢以外の税を極力取らない方針
米をしっかり集めて銭は寺社、市、座、そして港の交易などから集めるという方針
そんな事は特にないとは思われますけれどねえ。
普通に織田領国で大衆の一揆とか反乱とかが普通に起きている事などからも、
普通にそれなりの重税だったとは思われますしねえ。
まあ、そもそも織田は資料がry、
まあ、堺とか本願寺とかから、わざわざ敵対されてまで、矢銭を徴収している事からも、
それほど楽な経済的な状況というわけでもなかったようには思われる次第ではございますが、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
織田領国で大衆の一揆。
まさか一向一揆のこと言ってないかこいつ。
反乱ってまさか家臣の反乱じゃないだろうな。
まず、自分の妄想ではなく、どの資料、史料にあるのか、いつ、何処で起こったのかを書いて下さい。
確かに一揆も反乱も起きてるけど
本願寺が裏で手引きしてるか、伊勢、美濃、近江で信長によって駆逐された武家の残党が率いてるのどちらかですね
信玄のように領民から減税について大量に嘆願書が届いたなんて史料は皆無
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、>>460にもありますように、
普通に一向宗とかが関係なしに、普通に一揆とか反乱がおこっている事例がいくつもあるようには
思われる次第なのではございますが、これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>信玄のように領民から減税について大量に嘆願書が届いたなんて史料は皆無
そもそも、武田領国は基本的に武田氏に従う国人やら配下武将達やら、の領土内での問題、に関しましても、
甲府に裁判所が設けられ、そこで訴訟を行う事ができる、という中央集権制による訴訟システムを有しておりまして、
だからこそ、領国全体の中で、それを「上意様」である信玄に訴える領民も出てくる、という話なわけですしねえ。
具体的な軍役指示とかも、それぞれの配下武将に任せられているような、基本的には放任主義なように思われます、信長領国におきましては、
普通に信長に訴える、というシステムやら習慣やら、自体が存在しなかっただけのようにも思われる次第ではございますが、
これらに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
のレスは
>>434 宛です。修正の方をしておきますかねえ。
>>435
ですから、それらを具体的に提示なさられる事と、それを基にして、
貴方がおっしゃられたような、武田が装備不十分、とかいう論旨についての
ご説明の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
結局のところ、家康が長篠後に武田勢主力の救援がない状況でも、
半年近くかけても攻略できなかった二俣城を2ヶ月で攻略した、という
むしろ凄い事のように思われる事と、信玄が病気で一ヶ月かかった、とされている
野田城、の事例だけで貴方の論拠なのではございましょうか、
とは思う次第なのではございますが、これらの事柄などなどに関しまして、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
矢銭徴収しているから、楽な経済状況というわけではない。
貴方自身の妄想、予測はやめて史料、資料を出すか、このような説を述べている専門家は誰かを提示して下さい。
別に堺だけじゃなく他の都市からも矢銭は出させてるし、出させることで自治を認める代わりに屈服させるという統治手段なんだよね
そして安全保障の見返りとして銭を収めさせて自身の経済基盤とする
寺社に関しても同じスタンス
農民からは年貢を取り、銭(税)は持ってるところからしっかり集める
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが、
資料やら史実やらをこちら側が提示して、 こちら側がそれらに基づきましてのレスをしまして、
貴方こと必死な織田ファンさんにご回答の方などを求めましても、都合の悪い事柄などは
必死にスルーなさられようとして、必死にお喚きになられ、
発狂逃亡などをなさられようとしておられるように思われます事例などが、
過去ログなどに多数残っているように思われます、貴方こと必死な織田ファンさんが、
そのようにお喚きになられましても、とこちら側といたしましては、
困惑せざるを得ない、という次第なのではございますが、
この件に関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
で、本願寺は「信長から何度も難題をいわれて、もう我慢の限界。」的に書状でかいて
反信長戦争に蜂起する事になっておりますし、
堺も普通にそれを拒否して抵抗しようとし、それで屈服させられた後も、
要求された課税などが大きすぎて10人の代表が信長に陳情をしにいき、
それらのうち8人がとらえられて死亡する事になり、2人がなんとか逃げ帰る、
という状況になっておりますのに、これでさも当然のようにいわれましてもねえ?と。
普通に信長も戦費を調達するために、堺とか本願寺とかが敵対しようとも、
それを要求した、という事になるように思われますが、これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、そもそもの問題として、こちらにばかり、資料やら学者さんの論説やら、を
ご要求になられておられるご様子ではございますが、そもそもの問題として、
何度も指摘をされておりますように、資料やら史実やらをこちら側が提示して、 こちら側がそれらに基づきましてのレスをしまして、
貴方こと必死な織田ファンさんにご回答の方などを求めましても、都合の悪い事柄などは
必死にスルーなさられようとして、必死にお喚きになられ、
発狂逃亡などをなさられようとしておられるように思われます事例などが、
過去ログなどに多数残っているように思われます、貴方こと必死な織田ファンさんが、
そのようにお喚きになられましても、とこちら側といたしましては、
困惑せざるを得ない、という次第なのではございますが、
この件に関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
そのように、おっしゃられますのでございますれば、まずは貴方が>>464のような状況ではございますのに、
織田領国が経済的に楽であった、という資料なり論説なりのご提示をなさられるのが筋ではないかと思われますので、
まずはそれをご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそもの問題として、何度も指摘をされている事柄のようには思われる次第ではございますが、
そもそも、貴方こと必死な織田ファンさんなどは、策源地どうたら論とか、を
資料的やら、史実的やら、あるいは学者さんの論説などもなしに、お喚きになられましたり、
史実的にいくつもの事例がある、信濃から美濃への侵攻とか、
越前から美濃への侵攻が、資料的やら、史実的やら、あるいは学者さんの論説などもなしに、
不可能だとかお喚きになられましたり、という状況であらせられます事などなどが、
過去ログなどで普通に膨大に残っておられますようには思われる次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>398
経済的に余裕があるって可能性もあるだろうけど、
恒常的な税にするだけの権限やそれまでの積み重ねや慣習が無いって方が大きいと思う、
守護代ですらないし。
>>401
土地柄は大きいと思う、で、その土地柄に合わせてまず今川が制度整えて、
それを武田北条徳川が参考にして自家と自領に合わせてアレンジしていったのだと思う。
織田の軍制に関しましては、普通に信長が具体的に軍役の指示をした書状がろくに残っていない事などなどや、
佐久間折檻状に普通に佐久間が与えられた領土で人数をろくに養わずに、
その収入を自身でため込む、的な事などを、複数の領地で、何年も特に非難をされる事もなしにして普通にすごしており、
それでも佐久間折檻状の別の項で「力押しで無理そうなら、謀略などで手柄をあげればよかったのに、
それもしなかった。」的に書いてあったり、という感じで、領土からの収入などで、
軍役人数をろくに養わなくても謀略などで手柄をあげていれば、
特に織田家的には問題がなかったように思われる事などが示されている事などなどからも、
普通に軍役がそれぞれの配下武将達に任せられていた、でFAなようには思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
今川の偉大さが際立つ
駿河、遠江という甲斐と似たような小国を本拠地として三河を屈服させ尾張に攻め込むって意外と難しいよね
政策も軍制も他国に参考にされるほど質が高い
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
そもそも、武田領国がそこまで豊か、ともこちらは特に書いてないようには思われるのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>織田信長が今川義元を始末してくれたから南下できたんだから。
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを、必死にスルーなさられようとなさられながら、
必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられようとしてはおられるご様子ではございますが、
普通に信玄は義元が死亡してから、駿河攻めのあった年まで、基本的には今川との同盟継続路線だった、
という事が、これまでにも何度も、資料やら史実やら学者さんの論説やら、こちら側が提示して説明をさせていただいておりますし、
過去ログなどにもしっかりと残っている次第ではございますが、これらに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>440
義元が優秀である事は、特に否定はしませんが、駿河遠江で40万石くらいはありますし、
20年くらいかけて、三河一国+尾張の一部で40万石くらい、が獲得領土ですから、
信玄・氏康などと比べて、そこまで圧倒的とも思われない次第なのではございますが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
武田、徳川、北条あたりが重税が伝わってるからとちが
まーたいつも通りに、もうずいぶんと何度も指摘をされているように思われます事柄を
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられようとなさられながら、必死になってお喚きになられておられるご様子のようには
思われる次第ではございますが、何度も指摘がされているようには思われますが、
>他国でも棟別銭はあったが年間五十文から百文が相場で、武田領が飛び抜けて重税だったのは間違いないですね
まーたこの棟別銭の額「だけ」で比較して、武田は超重税!とかいう無理やりな論旨をお喚きになられておられるご様子ではございますが、
何度も指摘がされておりますように、武田は棟別銭を主体にして銭納の税をまとめてとるスタンスの大名で、
棟別銭の額「だけ」で武田に比べて軽税とかいわれている北条とかは、
北条家は棟別銭は35文ではありますが、正木棟別銭、本反銭、懸銭、その他、などで複数から税をとるシステムで、
総合的な税額は武田家とそこまで変わりがない、的な事も指摘をされておりますし、
実際に北条領国では、飢饉の影響やら、税金の影響やら、で、普通に国中の百姓などが地元から脱出したりする事態が
普通におこっているわけですしねえ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが、
>課税に反発する国人
結局、普通に払う事になっておりますしねえ。
>信玄に税が払えないと届け出にくる領民たち
>(信玄公は一切取り合わなかったという記述付き)
>税が払えず村を捨てる人々
>撰銭の影響で銭不足に陥る甲信の様子
これらは普通に>>418 >>419にもありますように、
棟別銭「だけ」の比較で武田よりも軽税のイメージをもたれている、
北条領国とかでも、普通におこっていた事柄なわけですしねえ。
戦国時代なのですから、基本的にはどこも重税なのは基本のようには思われますしねえ。
>反面景気の良い話は全く無い
まーた都合の悪い事柄などは、必死にスルーしてお喚きになられようとして
おられるご様子のようではございますが、平山氏などは、貴方があげたような事柄を指摘しつつも、
たとえば妙法寺記などにおきましては、
天文22年以降はそういった記述がきえていく事などを、普通に指摘しておられますしねえ。
天文23年には、普通に「世間が富貴になった。先代にはなかった事だ。」と普通に書いており、
武田領国のそういった問題は、信虎時代から普通に続いていた事で、信玄時代に信濃方面の侵攻が順調にいきはじめた事で、
富貴になっていた、的な事がこのような記述などからも、普通に伺えるようには思われますが、これらの事柄に関しましての、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、他にも武田勢が信濃での戦いで勝利を得て、その戦果や戦利品などを妙法寺記の記述で祝われたり、
「売買いずれも安し」という記述が、普通に各年にでてくるようになっていく事などなどに関しましても、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>→武田、徳川、北条は重税として知られていてその中でも一番酷いのが武田の領内
これらは普通に>>418 >>419にもありますように、 普通に北条の方が
トータルの税額では上のように思われますが、これらに関しましての、具体的な資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、その3大名が重税として知られ、って誰に知られてるんですかねえ?
貴方だけにしられているわけではないですよねえ?なんか当時からのそういう呼称なりなんなりが
あったのか、につきましての、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
戦国時代は、基本的に各地との戦いを行う関係から、どこも基本的には重税のように思われますしねえ。
>→上記の通り徳川も財政難は同じような状況で装備の不足も織田に頼るくらい厳しい
まーた妄想願望で資料的な論拠などをご提示になられずにお喚きになられておられるご様子ではございますが、
資料提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>武田、徳川は城攻めに必要な装備を揃えていないという根拠にしかならない
長篠の後で、武田勢主力の救援が困難な状況におきまして、徳川が二俣を攻めている最中に、
織田も普通に岩村城を攻囲してますが、これまた徳川と同様に半年近くかけても攻略できずに、
結局、騙し打ちで攻略する事になっているわけなのではございますが、これも貴方的には織田が装備が充実してなかった、
という話でFAなのでしょうかねえ。装備の充実した大名っていったいどこの大名の事であらせられますのか、につきまして、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>二ヶ月あれば織田は越前を丸ごと攻略してるし甲信も攻略してる
まーた都合の悪い事柄などを、必死にスルーして妄想願望などをお喚きになられておられるご様子ではございますが、
北陸一向宗が相手の時は、既に北陸一向宗内部で争いが起こっていた事と、
甲信攻略とかいうのも、勝頼が長篠の敗北による損害と、御館からの外交失敗によって
織田・徳川・北条、の三方向を敵に回してしまい、数年間の多方面策戦を行った事によって疲弊した結果、
というのを必死でスルーして、なにをおっしゃっておられるのかとは思う次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>浜松城も攻略できない武田が岐阜城を落とせないという指摘の
ですから、これが資料的な論拠とか、それに基づいた論証とかがされてない、
貴方こと必死な織田ファンさんの妄想願望であらせられるように思われてもしまいます次第ではございますので、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご論証の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
浜松城はそもそも、鴨川氏、平山氏、丸島氏、などが指摘をしておりますように、
普通に美濃に侵攻するのが戦略でしたから、普通にスルーをしているように思われる次第ではございますし、
そもそも根本的な問題として、>>470にもありますように、長篠の後で、
武田勢主力の救援が困難な状況におきまして、徳川が二俣を攻めている最中に、
織田も普通に岩村城を攻囲してますが、これまた徳川と同様に半年近くかけても攻略できずに、
結局、騙し打ちで攻略する事になっているわけなのではございますが、これも貴方的には織田が装備が充実してなかった、
という話でFAなのでしょうかねえ。装備の充実した大名っていったいどこの大名の事であらせられますのか、につきまして、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
何度も指摘をされている事のようには思われる次第ではございますが、
インフレどうたら以前にこれらは普通に>>418 >>419にもありますように、
普通に北条の方がトータルの税額では上のように思われますが、
これらに関しましての、具体的な資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>552 >>553
そこに家康を恩賞として秀吉は移してますし、家康の力を削ぐどうたら、は実際の史実を考慮しますれば、
明らかに強める事にしかなってないわけですしねえ。
そこまで悪くいわれる土地とは思われない次第ではございますかねえ。
それをいいましたら、そもそも、貴方こと必死な織田ファンさんなどは、
資料やら史実やらに基づかれずに、必死に信長持ち上げ、他の大名貶め、的な
妄想願望論旨などをお喚きになられておられるご様子ではございますが、
それで池上氏を叩かれようとなさられるのは、いかがなものなのかとは思うのですけれどねえ。
毎度毎度思うのではございますが、貴方こと必死な織田ファンさんなどは、
貴方こと必死な織田ファンさんの信長持ち上げ、他大名貶め的な論旨などについて、
都合が悪いように思われます論説とか、史実の提示などなどに関しましては、
やたらと池上氏のせいにしようとしすぎなようには思うのですが、
これらに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
馬鹿だねえ。
家康の場合は、上方の豊臣に臣従してるんだから、当然、物流は上方から流れてくるんだよ。そこが上方の織田と敵対した武田信玄との差。
徳川家康は茶屋、今井ら商人を保護してるし、内政官に信玄旧臣の大久保長安もいた。徳川家康の手腕と上方と通じていたからああいう繁栄が可能だったんだよ。
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを必死にスルーしながら
お喚きになられておられるご様子ではございますが、
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
貴方のいう、信玄領で物資が不足どうたら、
って徳川が半年近くかけても攻略できなかった二俣城を2か月で攻略したり、
信玄が病気で一ヵ月かかったとされる、
野田城攻めを無理やりに根拠にあげておられるだけのお話のようには
思われる次第ではございますしねえ。
何度も指摘をされていますが、
長篠の後で武田勢主力が援軍を送るのが困難な状況でも、
織田も普通に岩村城を攻めるのに、半年近くかけても攻略ができずに、
結局最終的には騙し打ちで攻略しているわけなのではございますが、
貴方的なご論調では、織田も物資が不足していた、という事で
よろしいのではございましょうかねえ、とは思う次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しまして、おはやめにご回答の方などを
よろしくお願いいたしますかねえ。
で、そもそも何度も指摘をされている事のようには思われる次第ではございますが、
信玄時代の武田領土でも、普通に多数の経済拠点が存在し、武田領土内の商人・職人は
武田氏の保護と支援を受けて、活動していた事なども、これまでにも何度も指摘されていて、
いつも通りに必死になって都合の悪い事柄などは、必死にスルーなさられようとしておられるご様子ではございますが、
これらの事柄などなどに関しまして、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、前スレでも普通に提示がされていたようには思われる次第ではございますが、
試みに、北条家の税額のトータルを、平均的な農家さんを基にして導出してみますと、
江戸時代では、基本的に自作農は10反=1町、の田を保有しているのが平均的であった、とかされておりますが、
とりあえず、江戸時代初期のデーターで、「小農」の事例として
田5反、畠5反、という事例がございますので、これらを基にさせていただきますと、
北条家では田1反を500文相当、畠1反を165文相当とし、それに各種の税金の税率をかけていく方式をとっておりましたので、
これに基づきますと、上記の小農さんの資産は田2500文相当、畠825文相当、という事になりますねえ。
で、まず棟別銭は35文で固定。正木棟別銭が20文。
本反銭は田の収入の8%、とされておりますので、2500×8%、で200文、
懸銭は畠収入の6%、とされておりますので、825×6%、で49.5文、
合計で300文以上、という事になるわけで、武田の税金は基本的に棟別200文でまとめてとり、
基本的に年貢と一緒におさめる形式だったとされる田役とかとあわせましても、
明らかにトータルでは北条の方が多いようにも思われる次第なのではございますが、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
北条領国で百姓とかの地元脱出がおこっているのも、むべなるかな、という気がしなくもないような気がするように思われたりも
するのではございますが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
まーたいつも通りに資料提示もなさられずに、妄想願望のように思われます事柄などを
必死になってお喚きになられておられるご様子ではございますが、
普通に>>419にもありますように、北条の方がトータルでは重税のようには思われる次第ではございますし、
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを、必死になってスルーなさられようとして
おられるご様子ではございますが、>>616で
>額面はともかく武田の方が実質負担は重いです
とおっしゃられのでございますから
そのような妄想願望のように思われます事柄をご主張になられるのでございましたら、
資料提示の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
妙法寺記にあるとかいってたのですから、具体的に何年に、どのような記述でそのような事が
示されているのかを、具体的にご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
ですからあ、武田が重税であるか、という事と、
それが他の北条とか他の戦国大名と比較してそこまで圧倒的な重税であるか、という事と、
そもそも、必死な織田ファンの人がお喚きになられているような、
>京都では永楽銭一枚で精銭一枚換算なのが信玄の領国では永楽銭一枚で精銭四枚換算にもなる
というのが、史実的に正しいのか、というのとは、まるで異なる問題であるように思われる次第ではございますしねえ。
戦国時代は基本的にはどこも重税ですし、武田の税金は基本的には棟別200文でまとめてとる形式で、
それに臨時税の過料銭とかが加わる事もありますが、これらは基本的には武田氏となんらかの被官関係にある者は免除がされておりましたしねえ。
隣国の北条は>>419にもありますように、トータルでは普通に武田領土よりも重税のようには思われますし、
銭不足がどうたら、とはおっしゃいますが、織田領国は銭自体の否定がおこってしまっていて、
米とかを現物貨幣とする状況になっていますのに、なにをおっしゃっているのかとは思うのですけれどねえ。
貴方的には織田領土は銭が否定されているから、武田領土を圧倒的に上回る超重税、とかいう話になりそうなのではございますが、
これらの事柄などなどに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに都合の悪い事柄を必死にスルーなさられようとして
捏造曲解などにご狂奔なさられようとしてはおられるご様子のようには思われる次第ではございますが、
>>419やら>>507やら>>508やら、で
普通にこちらは資料などを提示させていただいておりまして、普通にそれらを基にしての
レスなどをさせていただている次第なのではございますのに、
そのようにおっしゃられましても、とは思う次第ではございますし、このような捏造曲解のように思われます事柄などなどと、
そもそもの問題として、貴方こと必死な織田ファンさんは、
結局、妙法寺記に交換レートなどの記述がある、と貴方こと必死な織田ファンさんは
おっしゃられてはおりましたが、そのご提示の方などは、いかがなさられましたのでは
ございましょうか、とは思う次第なのではございますので、
これらの事柄などなどに関しまして、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
あのですねえ、>>677にも書きました事ではございますが、
世界史的にも、悪銭を無理やり流通させようとしたら、貨幣自体の否定がおこる、
というのは普通にいくつも事例がある事のようには思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
実際問題としましては、史実的には中国の事例におきましても、董卓が質の悪い貨幣を鋳造して、
無理やりに流通させようとした結果、貨幣自体の否定がおこり、その後、魏の明帝期くらいまで、
華北では現物貨幣が主流となる、という事になっているわけですしねえ。
普通に歴史的に考慮しますれば、悪銭を無理やりに流通させようとしますと、貨幣自体の否定が起こり、
現物貨幣が主流となる、というのは普通に事例がある、という事なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しまして、資料やら史実やらをもとになさられましての、ご回答の方などを
なにとぞよろしくお願いいたしますかねえ。
北条の重税に関しましては、>>419にもありますように、普通にトータル額では武田よりも重税なようには
思われる次第ではございますし、災害やら飢饉などが起きた時などに、国中の百姓が地元から脱出し、北条がそれの呼び戻しに躍起になったり、
という事が普通に史実としておこっているようには思われる次第ではございますので、
北条が重税ではない、というのは、色々と苦しいようには思われる次第なのではございますが、
いかがなものなのではございましょうかねえ。まあ、戦国時代においては、基本的にはどこも重税だとは思われるのですけれどねえ。
(そうしないと安定して戦費を捻出できない)
天文二十年には更に未亡人にも対象とした例があります
どうやって払ってたんですかね?
払えなくなったら逃げるんでしょうが
過料銭に関しましても、都合の悪い事柄などを、必死にスルーなさられようとしては
おられるご様子のようではございますが、
これは「主を持たないものに課する」的に書かれておりまして、
普通に武田領国において、武田配下の武将達などとなんらかの被官関係を結んでいる人々、
さらには軍役衆に属する人々、あるいはその一族、関係者、などには課されなかったようで、
ようはこれによって武田氏は、領国民に対して、武田氏、あるいはそれに属する武将達となんらかの被官関係を結ぶかの
選択を求めたのではないか、的に類推をされているわけですしねえ。
未亡人関係に関しましても、確か、それは軍役を務めている当主とかがいない家とかに課せられていたものでありましたようには
思われる次第ですので、普通に軍役を務めるべき子息とかがまだ幼年とかで、軍役をつとめられない場合とかは、
その分の役を払う、的な感じだったと思われますし、当時は家社会で、それらを要求されるのはそれ相応の資産とかはもってますから、
軍役のかわりの税、と考慮しますれば、普通に特に不可思議な話でもないようには思われる次第なのではございますが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
>>420
はて?普通に武田の美濃侵攻とあわせて長島が美濃に侵攻する事とかは普通に
複数の学者さんに想定されているわけではございますしねえ。
朝倉に関しましても、普通になんらかの連携策戦を信玄が5月に美濃に侵攻するのとあわせて取る事は
想定されているわけですしねえ。
そもそも、朝倉が過去に越前から美濃への侵攻を行う時におきましての、
通路にあたりました、郡上遠藤が、この時には普通に武田・朝倉に内応している、という状況ではございますしねえ。
そもそも、貴方こと必死な織田ファンさんなどは、策源地どうたら論とか、を
資料的やら、史実的やら、あるいは学者さんの論説などもなしに、お喚きになられましたり、
史実的にいくつもの事例がある、信濃から美濃への侵攻とか、
越前から美濃への侵攻が、資料的やら、史実的やら、あるいは学者さんの論説などもなしに、
不可能だとかお喚きになられましたり、という状況であらせられます事などなどが、
過去ログなどで普通に膨大に残っておられますようには思われる次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
当時の城攻めでは既に大砲、鉄砲の充実が不可欠であり、守勢側が揃えていて攻城側が不足している場合は力攻めで落とすのは相当難しくなる
武田軍も当然鉄砲隊は持っていたけれど弾薬の不足はどうにもならなかったと
信玄が冨士夫御室の神主に鉄砲の弾にするため悪銭の提供を要求した例や、穴山梅雪が自国の商人に敵の商人から鉄、鉄砲を敵方のふりして購入してくるよう支持している例などなりふり構っていられない状況だった
これらの原因は伊勢、草津、大津、堺と西日本からの流通ルートを全て信長が押さえてしまっており、
硝石、鉄を全て調達してしまうので武田領では結果的に入手できない状況になったと
まーたいつも通りに、歴史の専門家でもないライターさんのお書きになられた本を
必死にあげようとしておられるご様子ではございますが、
何度も指摘をされておりますように、それの論旨に使われている資料とかを
ご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まじめに、そうやって信長を無理やりにもちあげる系のライターさんの論説とかって、
「それを示す資料はないが」とか「それを示す資料はすくないが」とかが登場するのが
様式美のようには思われる次第なのではございますが、これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、そもそも、当時の城攻めには、特に大砲はそれほど使われてはおりませんし、
そもそも、武田勢は1575年に長篠城を攻める時に鉄砲による攻勢をしかけまくって、
城のあちこちが穴だらけになった、的な話が普通に残っているわけですしねえ。
まじめに、それらをその本のライターさんが主張されている論拠って、二俣に2ヶ月と、
野田に1ヶ月かかった、というだけなのでしょうかね?この件に関しまして、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
お前が武田知弘をどう考えているかは知らんが、お前よりはマシだろう。
何なら、平山や黒田に武田領国は織田領国より豊かですよね、と確認のメールでも送ってみたらどうだ?
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
その著者さんの著作に関しましては、普通にその著作一覧とかを確認してみますれば、
普通に近現代史が主な人のように思われますしねえ。
そもそもの問題として、こちらよりどうとかおっしゃられて、権威がどうとかおっしゃられます割には、
貴方こと必死な織田ファンさんは、これまでにも、数多くの貴方こと必死な織田ファンさんの
信長持ち上げ他大名貶め妄想願望論旨的な論旨にとって、都合の悪い資料やら史実やら、あるいは学者さんの論説やら、を
こちら側などから提示されましても、必死にスルーして捏造曲解に狂奔なさられようとなさられるか、
必死にお喚きになられて、それらを否定なさられようとしておられました事などなどが、
普通に過去ログなどで膨大なる事例などで残っておられるご様子のようには思われる次第ではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを、必死にスルーなさられようとしながら、
必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられようとしてはおられるご様子ではございますが、
> 武田領国は織田領国より豊かですよね
こんな事も私は一レスも述べてはおらず、こちらが書いているのは、毎度毎度の事ではありますが、
「武田は大内が畿内10年遠征をした程の遠征を一度にしようというのではなく、
隣国の美濃に1年か2年程遠征するだけの話ではありますし、
そもそも、西上時の武田は、大内よりも経済的に勝るとはいわないが、
それなりに多数の経済拠点を領国内にもっていて、それなりに経済的に栄えているわけではありますし、
石高的には大内と同等かそれ以上くらいはあり、さらには、西上時の武田よりも、国力的に低い、
上杉謙信とか、北条早雲とかが、普通に西上以上の長期遠征をしているのに、武田が隣国に長期遠征をするのが、
なぜにできない事になられますのか、という事を資料やら史実やらを基にしての、ご説明の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。」
的なレスしかされてないと思われますので、上記のように、貴方こと必死な織田厨さんが、
現在進行形で発狂逃亡中のように思われます事柄などなどにつきまして、資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
あわれだな
史実って案外そんなもんだよな
いやいやいや、そういってるのは徳川側の一部の本だけで、
一次資料でも、その他の多くの2次資料などなどでも、
普通に信玄は病死とされておりますので、
普通に信玄は病死であるとは思われる次第なのではございますが、
これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
2次資料には射殺もあるんだがな。
よく嘘が当たり前のように吐けるな。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが、
資料やら史実やらをこちら側が提示して、 こちら側がそれらに基づきましてのレスをしまして、
貴方こと必死な織田ファンさんにご回答の方などを求めましても、都合の悪い事柄などは
必死にスルーなさられようとして、必死にお喚きになられ、
発狂逃亡などをなさられようとしておられるように思われます事例などが、
過去ログなどに多数残っているように思われます、貴方こと必死な織田ファンさんが、
そのようにお喚きになられましても、とこちら側といたしましては、
困惑せざるを得ない、という次第なのではございますが、
この件に関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
>>433
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
こちらは>>429で>そういってるのは徳川側の一部の本だけで、
と書いて、その本の事を指摘しておりますのに、そのように必死に捏造曲解なさられようと、
必死になってお喚きになられましても、とは思われる次第なのではございますし、
実際問題として、貴方のいってる徳川側の一部の本以外には、多くの一次資料(敵である信長も普通に信玄は病死した、的に
書状に書いておりますしねえ。)が信玄が病死した、と書いておりますし、
多くの2次資料でも普通に信玄は病死した、と書いてありますのに、そのようにおっしゃられましても、とは
思われる次第なのではございますが、これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが、
資料やら史実やらをこちら側が提示して、 こちら側がそれらに基づきましてのレスをしまして、
貴方こと必死な織田ファンさんにご回答の方などを求めましても、都合の悪い事柄などは
必死にスルーなさられようとして、必死にお喚きになられ、
発狂逃亡などをなさられようとしておられるように思われます事例などが、
過去ログなどに多数残っているように思われます、貴方こと必死な織田ファンさんが、
そのようにお喚きになられましても、とこちら側といたしましては、
困惑せざるを得ない、という次第なのではございますが、
この件に関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
で、一揆に関しましては、まず信長公記にもありますように、
1570年に信長が越前遠征から撤収する時に
普通に一揆が発生して、その通行を妨害しようとする動きをしておりますね。
この時はまだ一向宗とは特に敵対はしておりませんので、普通の一揆かと思われますし、
1573年の信玄西上の時にも、今日とで土一揆が発生している事などを、平山氏がその著作で述べておりますねえ。
で、1582年の武田侵攻のすぐ後に、信濃で勝頼時代にもなかった、8千もの対織田の大規模な一揆が普通に発生しておりますし、
本能寺の後には、甲斐でも信濃でも、反織田の蜂起が発生し、河尻は死亡する事になり、
他の織田の武将達もなんとか脱出する、という状況になっておりますしねえ。これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
とりあえず、今朝はここら辺で撤収させていただきたいと思う次第ではございますかねえ。(チラチラ)
信玄ほど行き当たりばったりの武将も珍しい
西上作戦も計画自体が幼稚だしな
幼稚というか、何がしたいのかわからないね。
武田信玄は二兎を追う者は一兎をも得ず、を知らなかったのかな?
一言でまとめるなら強欲だった
これに尽きる
金が欲しい、女が欲しい、領土が欲しい、権威をもって認められたい
信濃に侵攻したのは豊かな土地と女(側室)を求めて
上野に侵攻したのは上杉が撤退したが北条がまだ支配しておらず狙い目だったから
駿河に侵攻したのは長男、同盟国を切り捨てても念願の港と海を手に入れるため
よく西上野に進出して、北条氏康は武田信玄に文句を言わなかったな、と思う。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
>信濃に侵攻したのは豊かな土地と女(側室)を求めて
土地を求めるなんて、信長をはじめとして、普通に戦国大名としては当たり前ですしねえ。
側室って、諏訪姫の事ですかねえ?そもそも、諏訪攻略までは意識すらしてなかったと思われるのですけれどねえ。
>上野に侵攻したのは上杉が撤退したが北条がまだ支配しておらず狙い目だったから
まーた必死になって都合の悪い事柄をスルーしてお喚きになられているご様子ではございますが、
丸島氏のは「きっかけとしてそうだったんじゃないか。」的な話で、そもそも、上杉謙信は西上野の救援の為に
主力軍勢を率いて何度も襲来しておりますし、西上野攻略戦争は結局5年にわたって続くわけですし、
そもそも、武田が西上野を本格侵攻を開始してから、一年以上たった後に、武蔵北部の武蔵松山城を、
北条氏康の要請で、武田・北条で共同して攻略し、それによって北条が武蔵北部を制圧するのを確定させ、
東上野への北条の侵攻も確定していく、的な流れのように思われますのに、そのようにおっしゃられましてもねえ、とは
思われる次第ではございますので、これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>駿河に侵攻したのは長男、同盟国を切り捨てても念願の港と海を手に入れるため
まーた必死になって都合の悪い事柄をスルーしてお喚きになられているご様子ではございますが、
必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられようとしてはおられるご様子ではございますが、
普通に信玄は義元が死亡してから、駿河攻めのあった年まで、基本的には今川との同盟継続路線だった、
という事が、これまでにも何度も、資料やら史実やら学者さんの論説やら、こちら側が提示して説明をさせていただいておりますし、
過去ログなどにもしっかりと残っている次第ではございますが、これらに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
駿河攻めやる3年前に武田と織田が婚姻関係を結んだのと、義信とその家臣団を弾圧したのは、どう説明するわけ? この時点で名目上はさておき、実質的には今川との関係は破綻してるだろ?
そもそもこれでも同盟継続路線言うなら、かつて諏訪頼重が上杉憲政と単独で和睦結んだのを何で信玄は責めたんだ、と言いたくなるわ。
武田信玄は勝手すぎる。外交での汚いやり方は信長より酷い。
これももう、まじめに何十回も過去スレなどでの指摘がされているようには思われる次第ではございますが、
1565年の織田との同盟は、元々東美濃で武田と織田の勢力が偶発的に衝突し、
織田が武田に婚姻同盟を申し込み、当時は武田は西上野・北信濃・飛騨、で、長尾上杉と戦争中だったので、
織田と敵対を続けるのであれば、西方面にも敵を抱える、という両面作戦になってしまう、という状況だったわけですねえ。
武田が今川に義理立てをして、織田と結ばない、というのであれば、最低でも今川には対織田戦線に参戦して、
武田が長尾上杉と戦いながら、織田と敵対するにおいて、
織田の主敵くらいの役割はしてもらう事が条件になるようには思われますが、
当時の今川は内乱中で、織田どころか、独立した三河の徳川にも勝つことが困難、という状況で、
とうてい武田が織田と戦う場合のたすけとなるようには思われなかった事などから、
鴨川氏なども指摘をするように、「安全保障の問題として」
信玄は織田との婚姻同盟を受け入れたのだろう、的にいわれているわけですしねえ。
で、義信はこれに反発したのか、義信事件を起こしはしますが、(これの原因ははっきりとは不明。)
信玄にとらえられる事にはなるわけですが、信玄は義信をその後も死なせようとはせず、
2年近くにわたって生きながらえさせる事になるわけで、その死亡も病死とも自殺ともいわれているわけですしねえ。
で、義信が死亡した後に、今川は義信夫人の返還を求めますが、武田は「義信夫人は返すけれど、
武田と今川はこれからも同盟関係だ、という誓約書を書いて欲しい。」と要請して書いてもらっておりますねえ。
で、今川はこれを書いて義信夫人を自国に戻しながらも、長尾上杉と組んで武田を包囲する交渉を進めていく事になるわけですねえ。
それからも色々ありはしますが、最終的に武田は1568年5月ごろに
今川に「共に徳川を攻めて三河を分割しよう。」と提案するものの、これも拒否され、
それからは武田も織田徳川と組んで今川領土を分割する方向で動いていくようになり、
信長の1568年7月以降の書状とかで、「信玄との間に和睦が成立した。」とか、
「今川領土に関しての協議がされた。」的な文言が出るようにはなるわけですねえ。
で、それ以降、両国の関係はますます緊迫していくようになり、
最終的に武田が先手をうって1568年の12月に駿河に侵攻する、という流れになるわけではございますが、
これらの流れなどに関しましてはいかがなものなのではございましょうかねえ。
諏訪氏の場合は、勝手に山之内上杉側と領土分割協定を結んで、
芦田郷などを勝手に自領土に編入してますしねえ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
なんども指摘がされている事のようには思われる次第ではございますが、
相変わらず、西上策戦などなどに関しましては、都合の悪い事柄などに関しましては、
必死にスルーなどをなさられようとしておられるご様子のように思われる次第ではございますが、
信玄は5月からの朝倉・長島と連携しての美濃侵攻計画を計画しておりまして、
これらが行われますれば、三方向から美濃に侵攻をして、
普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、 普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、
レッテル貼りやら、を必死になって
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
何度も指摘がされている事のようには思われますが、
普通に信玄は戦略的に領土を広げていき、上杉謙信・北条氏康といった
同時代の経験豊富な有力な大名達からも領土を獲得している事などからも、
当時から評判が高かった大名なわけですしねえ。
>タイムが終わったようだな
そのように、24時間365日でネット廃人的な生活をなさられながら、
5chにお貼りつきになられておられる事などを、必死になられて
そこまで誇示なさられようとなさられなくても、
よろしいようには思われてもしまいます次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、相変わらず、西上策戦などなどに関しましては、都合の悪い事柄などに関しましては、
必死にスルーなどをなさられようとしておられるご様子のように思われる次第ではございますが、
信玄は5月からの朝倉・長島と連携しての美濃侵攻計画を計画しておりまして、
これらが行われますれば、三方向から美濃に侵攻をして、
普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、 普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
課税に反発する国人
信玄に税が払えないと届け出にくる領民たち
(信玄公は一切取り合わなかったという記述付き)
税が払えず村を捨てる人々
撰銭の影響で銭不足に陥る甲信の様子
などなど
反面景気の良い話は全く無い
他国から甲府に連れてこられた労働者(奴隷)を使役した
川の反乱を鎮めるため大規模な治水を行なった
など甲府が元々人不足だったり荒地が多く地理的にも恵まれていないというのを証明する記述ばかり
そもそも武田信玄って織田信長がいないと詰んでただろ。
織田信長が今川義元を始末してくれたから南下できたんだから。
→武田、徳川、北条は重税として知られていてその中でも一番酷いのが武田の領内
徳川も城攻めに時間をかけている。二ヶ月で攻略してるのはむしろ凄い
→上記の通り徳川も財政難は同じような状況で装備の不足も織田に頼るくらい厳しい
武田、徳川は城攻めに必要な装備を揃えていないという根拠にしかならない
二ヶ月あれば織田は越前を丸ごと攻略してるし甲信も攻略してる
侵攻速度の差は歴然だし、浜松城も攻略できない武田が岐阜城を落とせないという指摘の反論にもなっていない
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを、必死にスルーなさられようとなさられながら、
必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられようとしてはおられるご様子ではございますが、
普通に信玄は義元が死亡してから、駿河攻めのあった年まで、基本的には今川との同盟継続路線だった、
という事が、これまでにも何度も、資料やら史実やら学者さんの論説やら、こちら側が提示して説明をさせていただいておりますし、
過去ログなどにもしっかりと残っている次第ではございますが、これらに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、義元時代から、普通に信玄は対等外交とかを今川としておりますし、北条と今川の仲裁とかを普通にしておりますしねえ。
浅井もそもそも亮政時代には、朝倉と普通に戦ったりしているわけではございますしねえ。
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
これもある意味信長の過大評価か。
いやいやいや、普通に近年でも、当たり前に信長の撰銭禁止令の結果、
畿内大衆の反発を招き、畿内では銭が使用されなくなり、
米などを現物貨幣とするようになった、的な論は普通にいわれているように思われますが、
貴方はなにをおっしゃっておられるのかとは思う次第ではございますので、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>446
とりあえず、普通に第一次駿河侵攻の時には、一ヵ月余で普通に駿府までを攻略して、
今川氏真を遠江に脱出をさせたりしておりますしねえ。
そもそも、信長が一気に敵を滅ぼして~的に言おうとしてるのではございましょうけれど、
越前一向宗の時は制圧するまでに敵対から2年近くかかっておりますし、
1582年の武田攻めも、1575年の長篠以降、7年近くもかかって、
その間に武田領国が勝頼の外交失敗による多方面策戦などで疲弊した事によるもの、的な事は
何度も指摘されているようには思われる次第ではございますが、これらの事柄などなどに関しましても、
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
当時は明らかな格下の徳川家康ですら、時間かかりまくりだし。三方ヶ原では家康撃てない、浜松は攻めない。
何やりたかったんだ信玄は?
単に三遠が欲しかっただけかと
三方ヶ原で勝ったはいいが織田の援軍が接近中とゆー誤報を真に受けて
家康を追撃できなかった
普通に、鴨川氏、平山氏、丸島氏、などが指摘しておりますように、
普通に美濃侵攻を想定しておりました事などから、
普通に徳川勢力を減少させ、その動きを封じる武田勢力の領域をつくり、
その上で美濃侵攻を行って、織田を朝倉・長島・本願寺・遠藤・その他などなどと
連携して打ち倒す事を戦略的な目標にして行動していただけのようには
思われる次第なのではございますが、これらに関しましても
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
全然話についていってないな。
誰も美濃侵攻の話なんかしてない。
ひとりで勝手にやって何得意になってんの?
いやいやいや、まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
元々の話としましては、>>446で貴方こと必死な織田ファンさんが、
信玄が浜松を攻めなかった事について、お喚きになられまして、それで、「三遠が欲しかっただけ!」と
発狂しながらお喚きになられておられるご様子ではございます次第のようには思われる次第ではございますので、
こちら側が>>480にありますように、複数の学者さんが指摘をしているように、
美濃侵攻が信玄の戦略でしたから、信玄はそれに基づいて浜松を攻めなかっただけ、
という事を指摘させていただいているだけの話ではございまして、議論の流れ的に、
まったく問題のないように思われます流れのようには思われます次第ではございますが、
これらの事柄などなどに関しましての、ご回答の方などを、なにとぞおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
まぁ当時の城は多くは川沿いに立てられているので川に沿って侵攻していったのか、侵攻していったら結果的に自然と川に沿うようになったのかは微妙ですけどね
そういう意味では>>453のいう
単に三遠が欲しかっただけかと
と同じ意見になります
普通に、鴨川氏、平山氏、丸島氏、などが指摘しておりますように、
普通に美濃侵攻を想定しておりました事などから、
普通に徳川勢力を減少させ、その動きを封じる武田勢力の領域をつくり、
その上で美濃侵攻を行って、織田を朝倉・長島・本願寺・遠藤・その他などなどと
連携して打ち倒す事を戦略的な目標にして行動していただけのようには
思われる次第なのではございますが、これらに関しましても
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
信濃から天竜川、豊川沿いに進行し途中、太田川周辺を経由して野戦
浜松でなく野田城を攻めとったのも豊川沿いの占有が目的だった
これで信濃から豊川、天竜川、太田川といった河川を確保できる
西上作戦時に力押しで落としている城は全てが河川敷きの城というのがポイント
河川敷きの経済圏を取ることが信玄の狙いというのは明らかで、川中島(犀川と千曲川)を巡って村上、上杉と争ったのと同じ理由です
水運を重視していた信玄らしい作戦だと思います
しかし税はそれで納めなければならずデフレを加速させてしまった
それに対して信長の撰銭令は宋銭、永楽銭を基準銭としてそれ以外の悪銭を半額、何分の一とレートを固定することにより流通量を増やそうとした政策
通用を認めなかった劣悪な私鋳品は全て廃棄するが、撰銭の実施にかこつけての諸物の代価を高値になおすことは禁止する
領民の反発もあり実施後半月もたたずに追加条々が出されており、その第一状が
「八木をもって売買停止のこと」
米による物品の売買が禁止された
銭不足の現状を更に悪化させ自らの懐を暖めたのみの信玄と、根本的な解決方法とはならなかったものの、銭の流通を増やすという意味で一定の成果が見られた信長
信玄の領国って金山結構あるのに、何らかの対策やらなかったのかな? 甲州金って大抵敵将の買収や味方への褒美には使われているが。
甲州金って江戸時代以降に価値が認められて貨幣制度の礎になるくらいなのに、当の信玄は諏訪大社など有力寺社への寄付や、家臣への褒美、敵将の買収くらいにしか使われてなくて一般に流通されてなかったという皮肉
信玄の意識が一般大衆の方を向いてないってことなんだろうね
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
甲州金は武田氏、地頭層、有徳人、寺社、武田氏家臣、といった人々が普通に活用していたとされてはおりますしねえ。
そもそも、貴方こと必死な織田ファンさんが>>448でお喚きになられておられます事柄などは、
普通に>>477にもありますように、信長の政策とやらを、普通にそれをスルーして、畿内の大衆達は銭を使用する事はやめて、
現物貨幣として米などを使用していく事になり、信長の撰銭禁止令は普通に成功しなかった政策であると
評されている次第なのではございますが、これらに関しましても、資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
当時で撰銭をしていたのは、大衆を含めたほぼすべての人々だったわけですしねえ。
で、信長のように撰銭を無理に禁止しようとしますれば、上記のように、普通に銭自体の使用に反発がおきる、という事になり、
米などを現物貨幣とする、的な流れになる、という話であるようには思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
きかれている事柄などなどに関しましては、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、なんども指摘がされている事のようには思われる次第ではございますが、
>銭の流通を増やすという意味で一定の成果が見られた信長
まーた都合の悪い事柄などを、必死にスルーしての、捏造曲解やら、妄想願望などにご狂奔なさられておられるご様子のようでは
ございますが、普通に近年でも、当たり前に信長の撰銭禁止令の結果、
畿内大衆の反発を招き、畿内では銭が使用されなくなり、
米などを現物貨幣とするようになった、的な論は普通にいわれているように思われますが、
貴方はなにをおっしゃっておられるのかとは思う次第ではございますので、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>米による物品の売買が禁止された
普通にそれをスルーして、畿内の大衆達は銭を使用する事はやめて、
現物貨幣として米などを使用していく事になり、信長の撰銭禁止令は普通に成功しなかった政策であると
評されている次第なのではございますが、これらに関しましても、資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
当時で撰銭をしていたのは、大衆を含めたほぼすべての人々だったわけですしねえ。
で、信長のように撰銭を無理に禁止しようとしますれば、上記のように、普通に銭自体の使用に反発がおきる、という事になり、
米などを現物貨幣とする、的な流れになる、という話であるようには思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
織田は今現在にも通用する近代思考
これだけは覆しようのない事実
頭痛くなるくらいの大差であった
武田は滅んで時代の肥やしとなった
どう転んでも信玄が信長に勝つことなどありえない
あまりにも実力が違い過ぎる
特に経済力!
信長の方が信玄よりはるかにお金持ってたし
信玄如きの経済力ではどうにもならんよ
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
なんども指摘がされている事のようには思われる次第ではございますが、
具体的な軍役指示とかも、それぞれの配下武将に任せられているような、基本的には放任主義なように思われます、
信長領国におきましては、 そのように近代どうたら、とかおっしゃられましても、とは思う次第ではございますし、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
人も少ない
耕地も少ない
周辺国の荷止めで簡単に流通が止まる
という条件がまず大きいし
駿河で念願の港を手に入れても肝心の諸外国、西日本との流通経路だった大阪湾、伊勢湾、琵琶湖まで信長に抑えられてしまって鉄砲弾薬すら満足に調達できないままという不運
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
なんども指摘がされている事のようには思われる次第ではございますが、
具体的な軍役指示とかも、それぞれの配下武将に任せられているような、基本的には放任主義なように思われます、
信長領国におきましては、 そのように近代どうたら、とかおっしゃられましても、とは思う次第ではございますし、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
相変わらず、都合の悪い事柄などは、必死にスルーなさられようとはしておられるご様子ではございますが、
実際には何度も指摘がされておりますように、普通に荷止めどうたら、
はろくに資料的な論拠とか論証とかは提示されておられないようには思われますので、
これらに関しましての、資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
前にも普通に書かれておりますように、武田は西上の時に徳川側の城を多数攻略しておりますし、
勝頼の時代におきましても、普通に長篠城を攻める時に、鉄砲を大量に活用して、
城が穴だらけになった、的な話とかも普通に残っておりますしねえ。
徳川が半年近くかけても攻略できない二俣城を、武田が2か月で攻略したのと、
信玄が病気の時に野田城に1ヶ月をかけた、というのが、
なぜか城攻めの装備不足とかいう不可思議なように思われる、という話をなさられるのでございますれば、
長篠の後に織田が岩村城を半年近くかけても攻略できずに、結局は騙し打ちで攻略している事などからも、
普通に織田は装備不十分という話にもなってしまいますようには思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などを、
なにとぞ資料やら史実やらを基になさられまして、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
「長篠城で鉄砲を大量に活用して、城が穴だらけになった」
こんなの初めて聞いたぞ。何の史料にあった?
おかしいな、長篠城を落とせなかったのは、長篠城側が鉄砲を大量に入れていて、そのために武田軍は苦戦した。
軍艦の記述を信頼するなら、馬場が敵の鉄砲に撃たれるのを覚悟し犠牲上等で長篠城を力攻めで落とし、長篠城に勝頼本隊を入れて、馬場や山県ら頭の軍勢が豊川に進出して織田信長と対峙する、とあるんだが。
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを、必死にスルーしてお喚きになられようとしてはおられるご様子ではございますが、
なんで武田側が相手側の鉄砲を警戒したからといって、武田側に鉄砲がない、っていう話になると思われるのか、
につきまして、おはやめに資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
鉄砲で穴だらけ、に関しましては、戦後に家康がそれを見聞した時の話として残っておりますかねえ。
で、いつも通りに都合の悪い事柄などは必死にスルーなさられようとしておられるご様子ではございますが、
指摘されている、貴方こと必死な織田ファンさんの捏造曲解などに関しましての
ご釈明やら、ご回答、などなどと合わせましての、ご回答の方などを、
おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
とりあえず、今夜はここら辺で撤収させていただきたいと思う次第ではございますかねえ。(チラチラ)
そういう状態をデフレっていうんだけど知らないのかな?
甲信は深刻なデフレに陥っており経済が冷え込んでしまったという証拠を自分から出しちゃってますよ
とんだマヌケですね
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
まーたいつも通りに必死になって相手側から出された資料とかで、
貴方こと必死な織田ファンさんの捏造曲解などなどを指摘されましたら、
必死になって、無理やりに相手側の提示した資料を無理やりに捏造曲解しようと
躍起になられておられるご様子のようではございますが、
実際には貴方が必死にスルーなさられている「世間が富貴になった。
先代にはなかった事だ。」という記述もありますし、
その後に、「売り買いは共に安い。しかし、銭が不足している。」と
「書かれている年もあり」、(まーたこう書くと、
貴方こと必死な織田ファンさんは「全部がそうなんだあああああああああああ!」
的に発狂しながらのたうち回られながら、
捏造曲解などにご狂奔なさられるようには思われる次第ではございますので、
一応「」書きで書かせていただきますかねえ。)このような、
「売り買いは安いのだけれど、銭が不足している。」という書き方からは、
この二つは関連はあっても異なる問題であり、本来的には売り買いが共に安いのは、世間的には悪くない事柄である、と解釈されているようには思われる次第なのでは
ございますが、これらに関しましても、資料やら史実やら、を基になさられましての、ご回答の方などを、なにとぞよろしくお願いいたしますかねえ。
自分が発狂してるだけだろ。
誰が「全部そうなんだあああ!!!」なんて言ってるんだ?
武田擁護者は幼稚な奴が多いなホントに。
こういういらない書き込みするのが武田擁護の奴らなんだな。
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを、必死にスルーしてお喚きになられておられる
ご様子ではございますが、これまでの数々の事例で、貴方こと必死な織田ファンさんが、
こちら側が提示した資料やら、史実やら、あるいは論旨やらを、捏造曲解して
煽り罵倒・レッテル貼り、などにご狂奔なさられてこられました事などは、
それこそ過去ログに膨大に残っている次第なのではございますが、これらに関しましての
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
こちらとしても、上記のように膨大な事例が存在します以上は、普通に指摘の一つもしておこう、
的な気持ちにはなるわけなのではございますが、これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、平山氏も指摘するように、天文23年以降からは、普通に妙法寺記に
「世間が富貴になった。先代にはなかった事だ。」的に
武田領国における経済的な安定がはじまっている記述が出てきますし、
先ほどもあげましたような、「売り買いは安いのだけれど、銭が不足している。」的な記述は、
天文23年以降の妙法寺記の記述の前半においては、しばしば登場しはするものの、
天文23年以降の妙法寺記の後半の方からは、「銭が不足している。」的な記述も特になくなり、
普通に「売り買いは共に安い。」
と書かれていくようになるわけですしねえ。最初の方で述べましたように、売り買いが安い、
というのは妙法寺記の筆者さんにとっても好ましい状況とされているようですので、
これで武田領国が苦しんでいた、というのでしたら、それらに関しましての、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご論証の方などを、
よろしくお願いいたしたいとは思う次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しまして、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
平山の何の著書でそんなこと言ってるんだ?
著書名を出してくれ、確認するから。
平山氏の著作では「川中島の戦い」で天文22年以降は景気が好転していく事などが
妙法寺記に書かれている事などが、普通に指摘されているわけではございますかねえ。
で、それ以下の文章は、こちら側が妙法寺記を確認しまして、その内容について
レスをしている内容ではございますので、これらに関しまして、>>508のレスなどで
指摘されている、貴方こと必死な織田ファンさんの捏造曲解などに関しましての
ご釈明やら、ご回答、などなどと合わせましての、ご回答の方などを、
おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
×天文22年
○天文23年
です。
修正しておきますかねえ。
>>485 >>486 >>487
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
なんども指摘がされている事のようには思われる次第ではございますが、
貴方がそのように資料やら、史実やら、のご提示によるご論証などをなさられずに、
妄想願望でそのようにおっしゃられましても、とはこちら側としましては、
不可思議に思わざるを得ない次第ではございますので、そのようにお喚きになられるのでございますれば、
資料やら史実やらのご提示によるご論証の方などを、なにとぞよろしくお願いいたしたいとは思われる次第ではございますので、
おはやめにご提示の方などを、よろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに、相手側がいなくなった後にだけ、こそこそと出てきて、
資料やら史実やらを基になさられましてのご論証のほうなどは、
いっさいご回答になられずに、妄想願望だけでお喚きになられる事にご狂奔なさられて
おられます、必死な織田ファンさんであらせられます貴方が
必死になって捏造曲解やらレッテル貼りやら、にご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
貴方は経済がどうたらおっしゃられる割には、上記のように、具体的に資料やら史実やらをご提示になさられましての
ご回答の方などを、ろくにおやりになられておられない、というのが現状ではございますので、
相手側がいない時にだけ、こそこそでてきて必死に捏造曲解などにご狂奔なさられようとなさられるばかりではなく、
きかれている資料やら史実やらのご提示の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
で、相変わらず、都合の悪い事柄などは必死にスルーなさられようとはしておられるご様子のようではございますが、
>>508のレスなどで指摘されている、
貴方こと必死な織田ファンさんの捏造曲解などに関しましての
ご釈明やら、ご回答、などなどと合わせましての、ご回答の方などを、
おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
>売り買いが安いことが好ましいのは農民達にとってですか?
>それを記録した人達にとって農民から搾取できる状況が好ましいだと意味は変わってきますね
>農民階級にとっての世間は一般庶民ですが、支配階級にとっての世間は武士階級の事です。
>商人や寺社にとっての世間はそれぞれ違います
まーたいつも通りに資料やら史実やらのご提示もなさられずに、必死になって妄想願望などをお喚きになられておられるご様子ではございますが、
妙法寺記は甲斐の大衆、侍、出家の老若男女が信虎の追放を喜んでいるのを世間の声として紹介しておりますし、
天文23年以前の記述では、「(不作で)この秋は世間が一向に悪い」とかいう記述が普通にあったりしますし、
その年のその後の記述で農民などの大量の人々が餓死している記述とかがあったりしますので、
妙法寺記における「世間」とは普通に農民とかも含めた、世間一般の事を示しているというようにしか
考慮できないようには思われる次第ではございますし、
普通に貴方こと必死な織田ファンさんが必死になって資料やら史実やらをご提示になられずに、
必死になって捏造曲解をなさられようとなさられておられるのとは、異なりがあるように思われる次第なのではございますが、
相変わらず、都合の悪い事柄などは必死にスルーなさられようとはしておられるご様子のようではございますが、
>>508のレスなどで指摘されている、
貴方こと必死な織田ファンさんの捏造曲解などに関しましての
ご釈明やら、ご回答、などなどと合わせましての、ご回答の方などを、
なにとぞおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに資料やら史実やらのご提示もなさられずに、必死になって妄想願望などをお喚きになられておられるご様子ではございますが、
妙法寺記は甲斐の大衆、侍、出家の老若男女が信虎の追放を喜んでいるのを世間の声として紹介しておりますし、
天文23年以前の記述では、「(不作で)この秋は世間が一向に悪い」とかいう記述が普通にあったりしますし、
その年のその後の記述で農民などの大量の人々が餓死している記述とかがあったりしますので、
妙法寺記における「世間」とは普通に農民とかも含めた、世間一般の事を示しているというようにしか
考慮できないようには思われる次第ではございますし、 何度も指摘をしている事ではございますが、
普通に妙法寺記とかでも、普通に天文23年以降とかは、「世間が富貴になった。先代にはなかった事だ。」
とかいう記述がでてきたり、「売り買い共に安いが、銭が不足している。」的な記述の、
「銭が不足している」という部分自体が、天文23年以降の後半からは、普通になくなっていくわけではございます次第ではございまして、
普通に貴方こと必死な織田ファンさんが必死になって資料やら史実やらをご提示になられずに、
必死になって捏造曲解をなさられようとなさられておられるのとは、異なりがあるように思われる次第なのではございますが、
相変わらず、都合の悪い事柄などは必死にスルーなさられようとはしておられるご様子のようではございますが、
>>508のレスなどで指摘されている、
貴方こと必死な織田ファンさんの捏造曲解などに関しましての
ご釈明やら、ご回答、などなどと合わせましての、ご回答の方などを、
なにとぞおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
で、普通に妙法寺記とかでも、普通に天文23年以降とかは、「世間が富貴になった。先代にはなかった事だ。」
とかいう記述がでてきたり、「売り買い共に安いが、銭が不足している。」的な記述の、
「銭が不足している」という部分自体が、天文23年以降の後半からは、普通になくなっていくわけではございます次第ではございまして、
普通に貴方こと必死な織田ファンさんが必死になって資料やら史実やらをご提示になられずに、
必死になって捏造曲解をなさられようとなさられておられるのとは、異なりがあるように思われる次第なのではございますがねえ。
相変わらず、都合の悪い事柄などは必死にスルーなさられようとはしておられるご様子のようではございますが、
>>508のレスなどで指摘されている、
貴方こと必死な織田ファンさんの捏造曲解などに関しましての
ご釈明やら、ご回答、などなどと合わせましての、ご回答の方などを、
なにとぞおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
武田領では深刻な銭不足となっていた
京都では永楽銭一枚で精銭一枚換算なのが信玄の領国では永楽銭一枚で精銭四枚換算にもなる
これはつまり織田領では銭がよく回っていて価値が安定しているのに対して、信玄の領国では銭が不足しており銭の価値が高騰してしまっている状態
正確には精銭不足では?鐚銭は大量に出回っていたんじゃ
あと永楽銭は京では価値が低く、関東で価値が高いだった気が
>>497
高値であるなら誰かが売りに来て値下がりするはずだから、
精銭ではデフレ状態で、鐚銭ではインフレしているんじゃ、
で米価の異常な高価は鐚銭含むことによる価格なのと、
米があまり取れない関税高いで米が入ってこないの複合かと思う
まあ浦長瀬氏の論文が正しいこと前提だけど
>>498
流石に米が採れないわけじゃない、全国平均と比べると田の比率かなり低いから、
武士など上位層プラス戦場用と他国から物買うようで大半が使用されるのだろうけど
あとこの時代は絹じゃなく綿になってしまっているはず
>>501
蒲生は内通するのか?山県の書状で蒲生が内通するかもとは言っているが
秋山を岩村に入れたのは、
3月6日の書状で信長が東濃に出兵したらしいので秋山を岩村に入れるとかあったはず
当の信長は3月7日の書状で東は守り固めるよう申しつけたので
とか言ってるので信長が出兵と言うのは誤報だろうが
というかひょとしてこの時信長は佐和山か?
そもそも、そんなに甲斐が米の値段が異常に高いのか、
というのが非常に疑問に思われる次第ではございますけれどねえ。
何度も書きますけれど、普通に妙法寺記では、天文23年以降は売り買いともに安し、
的な記述が多数出てきているわけですしねえ。
「世間が富貴になった、先代にはなかった事だ。」的な記述も普通に書かれているわけではございますしねえ。
さすがに佐和山、というのはないようには思われる次第なのではございますけれどねえ。
その書状の中でしっかりと、「謙信が武田領土に侵攻したら、
武田はそちらの方に対処をして、こちら側に対する圧力が減少するだろうから、
自身は畿内に上洛して存分にしたい。」
的な事を書いているわけなのですし、
信長公記にも信長の美濃出陣は3月25日、とありますのですから、
普通に美濃にいたようには思うのですけれどねえ。
>というかひょとしてこの時信長は佐和山か?
これって何か根拠あるの?
この手のスレいくつか見てるけど初めて見た。
>>625
>論理が飛躍し過ぎて、意味がわからん。
同意。いきなり意味不明の結論に飛んでるようにしか見えない、
この手のコピペは何度も見てるけど、元ネタのどっか大事な文章抜かしてるんじゃないか?
>>628
北条が重税かはわからない、何故なら北条ほど記録が残っている大名がいないから。
そもそもの問題として、銭不足どうたら、は上にもありますように、
平山氏も指摘するように、天文23年以降からは、
普通に妙法寺記に「世間が富貴になった。先代にはなかった事だ。」的に
武田領国における経済的な安定がはじまっている記述が出てきますし、先ほどもあげましたような、
「売り買いは安いのだけれど、銭が不足している。」的な記述は、天文23年以降の妙法寺記の記述の前半においては、
しばしば登場しはするものの、天文23年以降の妙法寺記の後半の方からは、
「銭が不足している。」的な記述も特になくなり、普通に「売り買いは共に安い。」
と書かれていくようになるわけですしねえ。
最初の方で述べましたように、売り買いが安い、というのは妙法寺記の筆者さんにとっても
好ましい状況とされているようですので、これで武田領国が苦しんでいた、というのでしたら、
それらに関しましての、資料やら史実やらを基になさられましての、ご論証の方などを、
よろしくお願いいたしたいとは思う次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しまして、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、根本的な問題といたしましては、織田領国におきましては、
信長の撰銭禁止令の結果、大衆の反発を招き、畿内では銭の使用がおこなわれなくなり、
米とかを現物貨幣とするようになっている、というのが何度も指摘されてはいるようには思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましてのご回答の方などを、
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、税額どうたら、に関しましても、いつも通りに資料やら史実やら、
を基になさられてのご論証などもなさられずに、
妄想願望などをお喚きになられておられるご様子ではございますが、
そのような事はこちら側といたしましては、非常にどうでもいいように思われる次第ではございますので、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご論証の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
こういう物が安くしか売れなくなる状態をデフレといいます
信玄の撰銭と信長の撰銭禁止令
どちらが有効に機能していたか一目瞭然ですね
肝心な事を書いてなかった
米を売っても安値で買い叩かれてしまうのだから、仮に信長領と信玄領で同額の税を納める場合、信玄領の農民は四倍の米を提供しなければ同額の銭を入手できないということになります
これが悪名名高い武田の重税の実態
銭の額面の比較だけしても意味無いんですよ
米価全国と比べると異常に高いんだし。
確か他の十倍ぐらいしたはず、まあインフレせずに米が高い可能性もあるけど。
そこが信玄の政策の残念なところですね
商人としては安く買い叩いた米を甲府では売らない
京の方まで運んだ方が高く売れるんだから
安く仕入れて高く売り捌くという商売の基本
必然的に信長領には米がどんどん入ってきて商取引も活発化する
信玄領には銭も米も不足していくという構図になる
(もっとも厳しい年貢と税を課した信玄の懐だけは潤ってる事になりますが)
甲信は米不足も深刻で信玄は度々”蔵出し”を行って領民に提供させられる羽目になってますね
京都の方が米価安いから、甲斐で米売る方が儲かるんじゃ?
この状態で米が甲斐に入って来ないなら、関税がやたら高いか、甲斐の貨幣基準が鐚銭とかで貨幣価値が低いからか。
甲府は深刻な銭不足にも関わらず領民は精銭で税を納めないといけない
まず年貢を納め、さらに税として納めるための銭を入手するために二束三文でも米を取引して銭に変えてもらう
→それを税として納めてしまうので手元には米も銭も残らない
米不足ということもあり、自分たちは”ほうとう”などを食べて暮らす
商人たちは安値で仕入れた米、特産品を他国に運んで商売する
(甲府では米も銭も不足していて商いが成立しない)
こんな感じですね
今で言ったら先進国へ輸出するために農場で働いてる後進国の農民みたいな状態です
どれだけ働いても搾取されるだけの存在
それだと、甲斐での米価は全国並み程度には下がるはず、
米価が高いなら農民の米の売値も上昇するのが普通だし、
米価も甲斐に購買力無いなら、高値である必要性ない、まあ安くてもほとんど売れないけど。
となると、半強制的に米を取り扱ってるか、関税輸送費が高過ぎなのか。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
なんども指摘がされている事のようには思われる次第ではございますが、
貴方がそのように資料やら、史実やら、のご提示によるご論証などをなさられずに、
妄想願望でそのようにおっしゃられましても、とはこちら側としましては、
不可思議に思わざるを得ない次第ではございますので、
そのようにお喚きになられるのでございますれば、
資料やら史実やらのご提示によるご論証の方などを、
なにとぞよろしくお願いいたしたいとは思われる次第ではございますので、
おはやめにご提示の方などを、よろしくお願いいたしますかねえ。
貴方は毎度毎度のように、そのように資料やら史実やら、
に基づかずに妄想願望のように思われます事柄などをお喚きになられまして、
資料やら史実やらのご提示によるご論証の方などを求められましたら、
発狂逃亡などをなさられておられる、
という事例が過去ログなどにも膨大になっておられるご様子のようには思われますが、
これらに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましての、
ご論証の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、>>489の人は資料やら史実やらをご提示になさられましての、
ご論証の方などを行われておられないようには思われる次第なのではございますが、
これらに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
なんども指摘がされている事のようには思われる次第ではございますが、
貴方がそのように資料やら、史実やら、のご提示によるご論証などをなさられずに、
妄想願望でそのようにおっしゃられましても、とはこちら側としましては、
不可思議に思わざるを得ない次第ではございますので、そのようにお喚きになられるのでございますれば、
資料やら史実やらのご提示によるご論証の方などを、
なにとぞよろしくお願いいたしたいとは思われる次第ではございますので、
おはやめにご提示の方などを、よろしくお願いいたしますかねえ。
貴方は毎度毎度のように、そのように資料やら史実やら、
に基づかずに妄想願望のように思われます事柄などをお喚きになられまして、
資料やら史実やらのご提示によるご論証の方などを求められましたら、
発狂逃亡などをなさられておられる、
という事例が過去ログなどにも膨大になっておられるご様子のようには思われますが、
これらに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましての、
ご論証の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
ほう。それは興味深いお話ですねえ。
資料やら史実やらのご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
とりあえず、妙法寺記などにおきましては、
普通に天文23年以降は「売り買い共に安し。」
的な記述が続くようになるのですけれどねえ。
>朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
>長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、
>そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
複数の学者さんたちが論じてるって言ってますが、具体的に誰がこの戦略絵図を
描いているのか教えてよ。
それ聞いたら、いつも書状に具体的に書かれていないから、想像で物を言いたくないと逃げる。あるいは、遠藤氏の書状があるから美濃侵攻はできると考えられていたんだー! と言うだけ。
美濃侵攻は平山とかが言ってるみたい。ただし状況証拠ばかりで具体性は皆無です。
ってことは、長文さんが云ってる三方向戦略は個人の想像ってことですか?
平山さんが包囲殲滅で信長撃破したかもって云ってる論文があるのかな?
平山の著書「武田勝頼」に美濃侵攻に関する記述はある。
朝倉や伊勢長島と連携し、遠藤氏や加治田城、蒲生氏と内通し、徳川家康は三河の勝鬘寺に一向一揆を起こさせて抑え、さらに美濃や尾張、近江でも一向一揆を起こさせて信長を追い込む手はずだった、とある。
ただし、信長をこれで殲滅できる、とは言ってない。平山は信長の反撃を懸念して秋山を岩村城に入れた、とも書いている。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
こちらが書いておりますのは、
「はて普通に武田の美濃侵攻とあわせて長島が美濃に侵攻する事とかは普通に
複数の学者さんに想定されているわけではございますしねえ。
朝倉に関しましても、普通になんらかの連携策戦を信玄が5月に美濃に侵攻するのとあわせて取る事は
想定されているわけですしねえ。
そもそも、朝倉が過去に越前から美濃への侵攻を行う時におきましての、
通路にあたりました、郡上遠藤が、
この時には普通に武田・朝倉に内応している、という状況ではございますしねえ。」
的な事しか書いていないようには思われる次第なのではございますが、
なにをどのようにして、そのように捏造曲解などをなさられようとしておられますのか、につきましても、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、相変わらず、都合の悪い事柄などは、必死にスルーなどをなさられようとは
しておられるご様子ではございますが、
そもそも、貴方こと必死な織田ファンさんなどは、策源地どうたら論とか、を
資料的やら、史実的やら、あるいは学者さんの論説などもなしに、お喚きになられましたり、
史実的にいくつもの事例がある、信濃から美濃への侵攻とか、
越前から美濃への侵攻が、資料的やら、史実的やら、あるいは学者さんの論説などもなしに、
不可能だとかお喚きになられましたり、という状況であらせられます事などなどが、
過去ログなどで普通に膨大に残っておられますようには思われる次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
こちらが書いておりますのは、
「はて普通に武田の美濃侵攻とあわせて長島が美濃に侵攻する事とかは普通に
複数の学者さんに想定されているわけではございますしねえ。
朝倉に関しましても、普通になんらかの連携策戦を信玄が5月に美濃に侵攻するのとあわせて取る事は 想定されているわけですしねえ。
そもそも、朝倉が過去に越前から美濃への侵攻を行う時におきましての、
通路にあたりました、郡上遠藤が、この時には普通に武田・朝倉に内応している、という状況ではございますしねえ。」
的な事しか書いていないようには思われる次第なのではございますが、なにをどのようにして、
そのように捏造曲解などをなさられようとしておられますのか、につきましても、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、相変わらず、都合の悪い事柄などは、必死にスルーなどをなさられようとは
しておられるご様子ではございますが、
そもそも、貴方こと必死な織田ファンさんなどは、策源地どうたら論とか、を
資料的やら、史実的やら、あるいは学者さんの論説などもなしに、お喚きになられましたり、
史実的にいくつもの事例がある、信濃から美濃への侵攻とか、
越前から美濃への侵攻が、資料的やら、史実的やら、あるいは学者さんの論説などもなしに、
不可能だとかお喚きになられましたり、という状況であらせられます事などなどが、
過去ログなどで普通に膨大に残っておられますようには思われる次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
織田が持久戦に持ち込んだら包囲網なんて持つわけないでしょうに
時間がかかればかかるだけ包囲網側がアタフタするだけ
そのうち皆~んな帰るわなw
いやいやいや、朝倉浅井などをはじめとする包囲網勢が普通に同じような戦略的な包囲策戦で、
織田を普通に志賀陣で押し詰め、織田に降伏宣言和睦詐欺、
的なように思われます書状を普通に出させるまでに追い込んでいる次第なのではございますのに、
そのようにおっしゃられましても、とは思う次第ではございますし、
武田・北条も、より広い戦略的な範囲・長期的な期間、における戦略的な包囲策戦によって、
長尾上杉+関東諸侯の領域を制圧していって、という感じなわけですしねえ。
相変わらず、都合の悪い事柄などに関しましては、
必死にスルーなどをなさられようとしておられるご様子のように思われる次第ではございますが、
信玄は5月からの朝倉・長島と連携しての美濃侵攻計画を計画しておりまして、
これらが行われますれば、三方向から美濃に侵攻をして、
普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、 普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、
そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、
如何なものなのでございましょうかねえ。
納税の四割が絹糸…
貧乏で精魂ド腐れっぷりがわかる
部下にしたくない県民上位レジェンドやし信玄の訓戒がいまもいきとるはw
まぁ貧乏だから心に余裕がなく文化が育たなかったのはしゃーない
いや、普通に朝倉やら遠藤やら、その他やら、とも連携する戦略であった事などは、
普通に数々の書状などで明らかになっているようには思われる次第なのではございますが、
これらに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそもの問題として、信玄自身も書状で書いておりますように、
そもそも対信長戦線への参戦を武田に要請したのが、朝倉と本願寺なわけですしねえ。
>>503
何度も指摘がされておりますように、信長の武田攻めの前の畿内とかの配下武将達に対しての
「遠陣だから人数調整をしてくるように。」的な指示からも、普通に兵糧はそれぞれの
配下武将の領地から、
後方補給のような感じで輸送するものであるようには思われる次第ではございますが、
これらに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
そもそもの問題として、岐阜城にも長島の者と類推をされている「敵側の者」が普通に潜入していて、
騒ぎになったりもしている次第ではございますしねえ。
北条の場合は軍が三国峠越えれたとしても兵站が続かないだろ
坂戸城周辺まで制圧していれば何とかなったかもしれないけど
>>151
>>221
仮に10万近い兵力が美濃一国に集中したら、現地調達も困難になりそう
小牧並に兵站整えないと長期戦は面倒になるだろう
長島や西美濃方面は物流が集中しているから割と何とかなりそうだけど
>>210
気づかれずに放置されてるような砦に意味あるんですかね
情報収集の拠点とかならともかく軍事的にはほぼ無価値なのでは?
>>232
だいたい毎回11月のそこそこ雪も積もった時期に三国峠越えて春になって雪解けしたら帰るだから
5回?
74年は珍しく帰国時が冬だったと思う
>>282
謙信が入ったのは新庄城、神通川の西の日宮城は落ちている
まあ新庄城は富山城から数キロ神通川からでも4キロないから
神通川以東はほぼ上杉領って考えていいと思うが
>・信玄が三河に入った段階で将軍義昭が蜂起してしまっている
でもあの段階で蜂起しなかったら浅井朝倉他は夏までに終っていたんじゃ?
将軍に遠慮して、何とか追放せずに政治的に穏便に済ませようとしたから、
軍事的に追放しようと覚悟決めるまでの半年ほどの時間が稼げたのだと思う
>>397
>甲斐信濃は鐚銭の流通割合が他よりも高いと
浦長瀬氏の論文か、確か出羽もだったな
>>436
>>438
矢銭求めたのが財政難とするなら極論禁制ださせたのは財政難だからになるしな
とはいえ幕府の復興、幕政のための費用、朝廷関係と金はいくらでもかかるから
上洛直後は初期費用で金銭にそこまで余裕があったとは思わないな
>>445
池上裕子氏だっけ?
他にもいた気がするけど、貨幣史の専門家は信長原因説は否定してるな
京銭も使われてるらしいし
>>448
米による売買停止や鐚銭での支払いを認めるのは飢饉対策という説もある
>>482
他国と比べて安くないんじゃ意味ない気が
>でもあの段階で蜂起しなかったら浅井朝倉他は夏までに終っていたんじゃ?
さすがにそれはないようには思うのですけれどねえ。普通に1573年の3月から5月まで、
普通に朝倉は出陣拒否とかも特におこらずに出陣をしてますしねえ。
実際問題として、こちらが何度もこれまでにも書いてきましたように、本願寺は
「信長から何度も難題をいわれて、もう我慢の限界。」的に書状でかいて
反信長戦争に蜂起する事になっておりますし、
堺も普通にそれを拒否して抵抗しようとし、それで屈服させられた後も、
要求された課税などが大きすぎて10人の代表が信長に陳情をしにいき、
それらのうち8人がとらえられて死亡する事になり、2人がなんとか逃げ帰る、
という状況になっておりますのに、これでさも当然のようにいわれましてもねえ?と。
普通に信長も戦費を調達するために、堺とか本願寺とかが敵対しようとも、
それを要求した、という事になるように思われますが、これらに関しましても、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいやいや、信長の撰銭禁止令は、畿内大衆の反発を受け、普通に現物貨幣が主流となっていった、的な論は、
池氏やら、その他の学者さんやら、が近年でも普通に述べておりますしねえ。
といいますか、貴方達のような、必死になって信長を擁護しようとしたりする人、
って信長に都合の悪い論説などは、なんでも池上裕子氏なんですかねえ?
これらに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
実際は畿内の大衆は普通にスルーして、米などを現物貨幣としていった事などが指摘されておりますようには思われますが、
これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
少なくとも、甲斐に住んでいる妙法寺記の著者さんは、
普通にいいことのように書いているわけではございますしねえ。
いやいやいや、まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
そこまで圧倒的に豊かともいいませんけれど、資料やら史実やらを考慮しまするに、
貴方こと必死な織田ファンさんが資料やら史実やらを基になさられずにお喚きになられるのとは
異なりがあるように思われる、というだけの話ではございまして、
指摘されている数々の事柄などにつきまして、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、>>489の人は資料やら史実やらをご提示になさられましての、
ご論証の方などを行われておられないようには思われる次第なのではございますが、
これらに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
>>498
その要領でいうのでしたら、そもそも、
貴方こと必死な織田ファンさんの妄想願望論旨のように思われます、
>>489の論旨などが、論旨的な矛盾などをおこすようには思われる次第なのではございますが、
これらに関しまして、資料やら史実やらをご提示になさられましての、
ご論証の方などを行われましての、ご回答の方などをなにとぞよろしくお願いいたしますかねえ。
>>499
いや、甲府商人がどうであるか、
と貴方がこと必死な織田ファンさんの妄想願望論旨のように思われます、
>>489の論旨などが、資料的・史実的に正しいと思われますのか否か、
に関しましては、まったく異なる問題であらせられるようには思われる次第ではございますので、
資料やら史実やらをご提示になさられましての、ご論証の方などを行われましての、
ご回答の方などをなにとぞよろしくお願いいたしますかねえ。
とりあえず、今夜はここら辺で撤収させていただきたいと思う次第ではございますかねえ。(チラチラ)
新スレ立てないと、ねえが他スレに伝染してそのスレが汚染される。隔離のために新スレ立てないといかん。
そのために他国よりも相対的に割高な税負担となっているという指摘について、全く触れられてないのは
ですからあ、それは何度も何度も指摘がされているようには
思われる次第なのではございますが、
それを貴方がお喚きになられておられるだけの話で、
こちら側が何度も提示を要望しております、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご論証の方などが、
いままでにろくに行われておられないようには思われる次第ではございますので、
貴方こと必死な織田ファンさんがお喚きになられておられます、
それらの事柄などなどに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましての、
ご論証の方などを、よろしくお願いいたしたいとは思う次第ではございますので、
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
何度も指摘しておりますが、畿内は精銭どころか、信長の撰銭禁止令の結果、
銭自体の否定が起こっている状況でして、普通に米とかが現物貨幣となる事態に
なっておりますのに、なにをお喚きになられておられますのか、とは
思う次第ではございまので、これらの事柄などなどに関しまして、
資料やら史実やらを基になさられましての、
ご論証の方などを、よろしくお願いいたしたいとは思う次第ではございますので、
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
銭だろうが現物取引だろうが国内の流通が活発化する事が望ましい
そのおかけで畿内は東国である武田領に比べ精銭相場も安定しており
信長領と武田領で搾取する側とされる側の関係を形成してしまっているということです
→精銭のレートが他国より上がってしまう(京の四倍!)
他国では米一に対して精銭一を入手できるところを信玄領の農民は米四出さないと精銭一を入手できないということ
棟別銭をはじめとする税制について額面の金額も高い上に実質の負担割合も非常に厳しいのが武田領ということです
ですからあ、それは何度も何度も指摘がされているようには
思われる次第なのではございますが、
それを貴方がお喚きになられておられるだけの話で、
こちら側が何度も提示を要望しております、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご論証の方などが、
いままでにろくに行われておられないようには思われる次第ではございますので、
貴方こと必死な織田ファンさんがお喚きになられておられます、
それらの事柄などなどに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましての、
ご論証の方などを、よろしくお願いいたしたいとは思う次第ではございますので、
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
何度も指摘しておりますが、畿内は精銭どころか、信長の撰銭禁止令の結果、
銭自体の否定が起こっている状況でして、普通に米とかが現物貨幣となる事態に
なっておりますのに、なにをお喚きになられておられますのか、とは
思う次第ではございまので、これらの事柄などなどに関しまして、
資料やら史実やらを基になさられましての、
ご論証の方などを、よろしくお願いいたしたいとは思う次第ではございますので、
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
畿内のレートについては信長の撰銭禁止令の条文より、武田領の精銭レートは甲陽軍鑑、妙法寺記より参照できますよ
>史料も何も精銭のレート換算については複数の史料で裏付けされた事実ですからね
ですから、それをおはやめに具体的にご提示になられての、ご論証なり、ご回答の方なりを、
おはやめによろしくお願いいたしたいとは思う次第ではございますので、
おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>信長の撰銭禁止令の条文 軍鑑
具体的にご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
軍鑑に関しましても、具体的に何品のどのような記述でありますのかを、
具体的にご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>妙法寺記より
非常に興味深いお話のように思われますので、妙法寺記の何年のどこらへんに
そのような記述がございますのか、を具体的にご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそもの根本的な問題といたしましては、その信長の撰銭禁止令の結果、銭の使用自体が
畿内の大衆の反発を受けて、現物貨幣に変わられる事態になっておりますのに、そのようにおっしゃられましても、とは
思う次第ではございますので、これらの事柄などなどに関しまして、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
わざわざ
銭不足の現状を更に悪化させ自らの懐を暖めたのみの信玄と、根本的な解決方法とはならなかったものの、銭の流通を増やすという意味で一定の成果が見られた信長
と前置きしておいたのですが
売り買いが安いことが好ましいのは農民達にとってですか?
それを記録した人達にとって農民から搾取できる状況が好ましいだと意味は変わってきますね
農民階級にとっての世間は一般庶民ですが、支配階級にとっての世間は武士階級の事です。商人や寺社にとっての世間はそれぞれ違います
>ここまで信玄領の「農民階級」が苦しかった内容しか指摘していないのは気付いていますかね?
いや、普通に妙法寺記にもありますように、世間一般の景気動向の事が書かれていて、
売り買いが安いとか、世間が富貴になっている、とか書かれているわけで、
無理やりに区分けをしようとなさられるなさられるで、資料やら史実やらのご提示の方などを、
おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
>銭不足の現状を更に悪化させ自らの懐を暖めたのみの信玄と、
>根本的な解決方法とはならなかったものの、銭の流通を増やすという意味で一定の成果が見られた信長
>と前置きしておいたのですが
ですから、これ自体が普通に何度も否定されている状況で、貴方こと必死な織田ファンさんは、ろくに資料提示とかも
なさられておられない、という状況でございますのに、そのようにおっしゃられましても、とは
思う次第ではございますので、おはやめに資料や史実やらをご提示になられましての、ご論証の方などを、
おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
何度も指摘がされている、都合の悪い事柄などなどを、
必死にスルーなさられようとはしておられるご様子ではございますが、
そもそもの根本的な問題といたしましては、その信長の撰銭禁止令の結果、銭の使用自体が
畿内の大衆の反発を受けて、現物貨幣に変わられる事態になっておりますのに、そのようにおっしゃられましても、とは
思う次第ではございますので、これらの事柄などなどに関しまして、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
ただしその全ては自分が潤う事に向けてのみ考えられており、領民のためのものでは無かったため甲信の民は貧しいままでした
家康は江戸時代に信玄の政策を参考にした結果、日本全体が貧しくなりました
信玄領で一揆が少なかったのは農民階級が日々の生活に満足していたからではありません
一揆を扇動する支配者階級を手懐ける政治を信玄が行っていたからです
信長の領内で反乱ないし一揆が発生するのは信長の政策が支配者階級にとって都合が悪いからであり、彼の生真面目さや馬鹿正直な一面が引き起こしているのです
農民からは重い税を取り、領内の関所では重い関税をかけて商人の利益をむしとるのです
いっぽう過料銭を支配階級には課していない例も出されてますが、検地についても遠隔の国衆の土地はノータッチ
隠田の類も認めており支配階級の優遇が顕著です
信長の政策は逆で一般庶民は税を免除して有力商人、寺社に重い税を課します
(そのため反発も多い)
堺の商人と揉めたり、本願寺が銭について不満を持ってる例をあげて信長も庶民を苦しめたと反論したいようですが、とんだ検討違いです
国内の寺社、国衆をはじめとする有力者を優遇して農民をよく支配した(苦しめた)のが信玄の政策
国内の流通が活発化するように関所を廃止したり税を免除して、既得権益を保持していた寺社、国人から利益を奪いにいくというのが基本方針の信長の政策
どちらが優れていたのかは判断する人の感性に委ねられると思いますが、結果として経済大国となったのは信長の方でしたね
まーたいつも通りに資料やら史実やらのご提示もなさられずに、必死になって妄想願望などをお喚きになられておられるご様子ではございますが、
妙法寺記は甲斐の大衆、侍、出家の老若男女が信虎の追放を喜んでいるのを世間の声として紹介しておりますし、
天文23年以前の記述では、「(不作で)この秋は世間が一向に悪い」とかいう記述が普通にあったりしますし、
その年のその後の記述で農民などの大量の人々が餓死している記述とかがあったりしますので、
妙法寺記における「世間」とは普通に農民とかも含めた、世間一般の事を示しているというようにしか
考慮できないようには思われる次第ではございますし、 何度も指摘をしている事ではございますしねえ。
>信玄の経済政策は「弱いものからなりふり構わず徴収する」です
>農民からは重い税を取り、領内の関所では重い関税をかけて商人の利益をむしとるのです
>いっぽう過料銭を支配階級には課していない例も出されてますが、検地についても遠隔の国衆の土地はノータッチ
>隠田の類も認めており支配階級の優遇が顕著です
まーたいつも通りに資料やら史実やらのご提示もなしに、必死になって妄想願望などをお喚きになられておられるご様子のようではございますが、
実際には、何度もこちら側が資料やら史実やらで提示している事ではございますが、
普通に武田領国では多数の経済拠点が存在して商人・職人達が武田氏の保護と統制を受けて活発に活動をしておりましたし、
関所に関しましても、こちら側が何度も指摘をしている次第ではございますが、
武田氏では普通に関所収入の一部を知行替わりにあたえている事例が複数ありまして、
武田氏の関所収入は、知行替わりとできる程に、恒常的な収入がえられるものであり、
それは武田領国を頻繁に移動する多数の商人・職人などの存在を示していると思われる次第なのではございますが、
これらに関しましても、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
さらに検地に関しましても、貴方のその妄想願望とは異なり、実際には信濃とか上野とかの、
明らかに貴方がいうところの遠隔地の、明らかにこの人達、武田の中枢の人達じゃないよね、的な豪族の人達に対しましても、
普通に槍兵~人、弓兵~人、鉄砲兵~人、といった具体的な軍役指示をしている書状が多数残っている次第ではございまして、
軍役の書状にも「国法にのっとるように。」的な指示がされているのもあり、明らかに明確な基準が定められている事がわかるわけなのですが、
これらに関しましても、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
どうでもよろしいとは思う次第ではございますので、貴方こと必死な織田ファンさんが
現在進行形で発狂逃亡中のように思われます、膨大なる事柄などなどにつきまして、
資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
>>545 宛続きその3
>信長の政策は逆で一般庶民は税を免除して有力商人、寺社に重い税を課します
>「(そのため反発も多い)
まーたいつも通りに資料やら史実やらのご提示もなしに、必死になって妄想願望などをお喚きになられておられるご様子のようではございますが、
何度も指摘をされている事ではございますが、普通に信長領国でも普通に一揆とかがいくつも起きているわけではございますし、
それも本願寺系とかではないと思われる、普通の一揆がいくつも起きているわけなのではございますが、
これらの事柄などなどに関しまして、おはやめに資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などをおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
>堺の商人と揉めたり、本願寺が銭について不満を持ってる例をあげて信長も庶民を苦しめたと反論したいようですが、とんだ検討違いです
まーたいつも通りに資料やら史実やらのご提示もなしに、必死になって妄想願望などをお喚きになられておられるご様子のようではございますが、
何度も指摘をされている事ではございますが、普通に信長領国でも普通に上記のように、本願寺とかは特に関係のない一揆も
普通にいくつも起きているわけなのではございますが、これらに関しまして、資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
>国内の寺社、国衆をはじめとする有力者を優遇して農民をよく支配した(苦しめた)のが信玄の政策
まーたいつも通りに資料やら史実やらのご提示もなしに、
必死になって妄想願望などをお喚きになられておられるご様子のようではございますが、
実際には、何度もこちら側が資料やら史実やらで提示している事ではございますが、
普通に武田領国では多数の経済拠点が存在して商人・職人達が武田氏の保護と統制を受けて活発に活動をしておりましたし、
関所に関しましても、こちら側が何度も指摘をしている次第ではございますが、
武田氏では普通に関所収入の一部を知行替わりにあたえている事例が複数ありまして、
武田氏の関所収入は、知行替わりとできる程に、恒常的な収入がえられるものであり、
それは武田領国を頻繁に移動する多数の商人・職人などの存在を示していると思われる次第なのではございますが、
これらに関しましても、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
さらに検地に関しましても、貴方のその妄想願望とは異なり、実際には信濃とか上野とかの、
明らかに貴方がいうところの遠隔地の、明らかにこの人達、武田の中枢の人達じゃないよね、的な豪族の人達に対しましても、
普通に槍兵~人、弓兵~人、鉄砲兵~人、といった具体的な軍役指示をしている書状が多数残っている次第ではございまして、
軍役の書状にも「国法にのっとるように。」的な指示がされているのもあり、明らかに明確な基準が定められている事がわかるわけなのですが、
これらに関しましても、資料やら史実やらを基になさられましての、ご回答の方などをおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
>国内の流通が活発化するように関所を廃止したり税を免除して、
>既得権益を保持していた寺社、国人から利益を奪いにいくというのが基本方針の信長の政策
まーたいつも通りに資料やら史実やらのご提示もなしに、
必死になって妄想願望などをお喚きになられておられるご様子のようではございますが、
何度も指摘をされている事ではございますが、普通に信長領国でも普通に一揆とかがいくつも起きているわけではございますし、
それも本願寺系とかではないと思われる、普通の一揆がいくつも起きているわけなのではございますが、
これらの事柄などなどに関しまして、おはやめに資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などをおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
>どちらが優れていたのかは判断する人の感性に委ねられると思いますが、結果として経済大国となったのは信長の方でしたね
上記のように、貴方こと必死な織田ファンさんが喚いておられる事柄が、資料やら史実やらが提示されておられない、
貴方こと必死な織田ファンさんの妄想願望であらせられるようにしか思われない次第なのではございますが、
これらに関しましての、資料やら史実やらを基になさられましての、ご論証の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
そもそもの問題として、>>545の人は、>>575にもありますように、
明らかに資料やら史実やらをご提示になられてのご回答を求められましたら発狂逃亡をなさられて、
資料やら史実やらをご提示になられずに、妄想願望で史実とは異なる事柄などをお喚きになられておられるようにしか、
思われない次第なのではございますが、これらに関しましては、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
なんども指摘がされている事のようには思われる次第ではございますが、
貴方がそのように資料やら、史実やら、のご提示によるご論証などをなさられずに、
妄想願望で>>545のようにおっしゃられましても、とはこちら側としましては、
不可思議に思わざるを得ない次第ではございますので、そのようにお喚きになられるのでございますれば、
資料やら史実やらのご提示によるご論証の方などを、
なにとぞよろしくお願いいたしたいとは思われる次第ではございますので、
おはやめにご提示の方などを、よろしくお願いいたしますかねえ。
甲乱記によると、織田徳川の武田攻めの際、武田側の百姓が連合軍に味方した際、「勝頼は新たな税、労役を課すばかりではなく、年貢を納められない者は磔にし、重罪を犯しても金銭を納めれば許した」なんて言ったらしい。
勝頼の時代はどれだけダークだったんだろうか?
いくらリアルタイムで記された一次史料と言っても鵜呑みにするのはどうかと
内容も滅ぼされた領主を貶める典型的なパターンだし
織田信長、徳川家康、北条氏政に囲まれてあちこちを転戦し、長篠以降の自軍の再建費用、さらに拠点を韮崎に移して築城。
どう考えても、武田120万石でやれる許容量をはるかに超えてるわ。
だからといって他国よりも税が安いとまで主張する気はないが。
江戸が世界一の人口を抱える消費都市として繁栄したのは江戸時代後期だしな。当時は関東や甲信はど田舎。
甲斐なんか江戸時代でも山流しの場所だし、信濃も流刑先にされること多かったしな。大した土地ではなかった。
武田信玄の美濃侵攻について。
美濃郡上八幡の遠藤胤基、慶隆が武田方に靡く。
近江日野の蒲生賢秀が朝倉義景に内通の意思を示す。
伊勢長島や三河の一向一揆が武田軍に協力する意思を示す。
三方ヶ原の戦勝で石山本願寺、浅井氏、朝倉氏が勢いづく。
足利義昭が信長と断交し、反信長で挙兵。
必ずしも東美濃に攻め込むとか、5月に美濃に侵攻するとかは書いていない。
浅井に関しては滅亡はどう転んでも時間の問題だったように思うわ
3年間も囲まれてて疲弊しきってるからな
勢いづくゆとりが全くない
カラ元気くらいかな
畿内近江の米価がインフレしてることなど調べて石高制に移行してることから、信長の撰銭令が失敗だとしたのも浦長瀬氏。
池上氏は自身が貨幣について調べたのではなく↑の浦長瀬氏の論文参考にして、
信長の撰銭令は失敗したと記しただけ、脇田氏鈴木氏なんかも同じで信長のせいで混乱したとしている、はず。
否定論はこんな感じなんだけど本多氏黒田氏らが論文で京銭が使われていること示して、
石高制も信長以前から畿内近江は石高制だったこと、コメを通貨代わりに使用していたことも示した。
で根本的な原因は、明との貿易途絶、明が銅銭を使わなくなったこと、経済規模の拡大、交易の増加などとしている。
ちなみに信長の出したコメの通貨としての使用禁止に対しては
本多氏は八木の禁止を米の通貨使用による混乱を防ぐため、
高木氏黒田明伸氏黒田基樹氏はその手の撰銭令が飢饉時に出てることから、
コメを通貨として使用することにより食糧供給の渋滞を防ぐため、
鐚銭での支払いを認めることでの貧民救済策としている。
信長の鐚銭の交換比率に関しては中島氏はそれまでにも市場に置いて鐚銭が精銭の数分の一として使用されていることから、
単に現状を追認しただけのものとしている。
何度も指摘をされている事のようには思われる次第ではございますが、
織田は軍役指示とかも、具体的には行っておらず、配下武将達に任せているような状況ですから、
仮にそういう事例があったとしても、そもそも信長に訴える習慣自体がないだけのようにも
思われる次第なのではございますが、これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などを
よろしくお願いいたしますかねえ。
何度も指摘をされている事ではございますが、羽柴が浅井の攻勢を撃退しているのを、そこまで大仰におっしゃられるのであれば、
浅井が単独で羽柴・柴田の夜襲攻勢を撃退している事なども、同様に評価されてしかるべきなようには思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
基本的には米などを主体とする現物貨幣が主流になっている、というのは、
>>556の人のレスも、結局は同様なようには思われる次第なのではございますが、
これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>556の人が書いているのは、信長が原因だったか、それ以前からそうだったか、
というのの違い、という感じのようには思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
城に夜襲をかけることの難易度がわからないバカ。ましてや城は堅固な小谷城なのに。
撃退してるから力がある。撃退で手一杯だろ。そんな力があるなら何で秀吉不在の間に付城落とさんのだ?
高天神城や岩村城、二俣城と同じ。防衛はできても攻勢能力はない。もう限界なのがわからないのかよ。
いや、夜襲の方が攻略しやすいと思ったからこそ、羽柴柴田で夜襲侵攻してますのに、
なにをおっしゃっているのかとは思うのですけれどねえ。
そもそもの問題として、羽柴不在がどうたら、というのは義昭の第一回めの挙兵の時の事ですよねえ?
この時は、信長自身がダッシュで和睦して、ダッシュで美濃に戻っている、という状況ですのに、
そのようにいわれましてもねえ、とは思われる次第ではございますしねえ。守備兵もそれなりにいるでしょうしねえ。
>>663
結局、それが出された後で米などの現物貨幣が主流となっていく、あるいはその流れをとめる事に成功できなかった、とされている、
信長の選銭禁止令の条文ですよねえ?
で、これが、
>京都では永楽銭一枚で精銭一枚換算なのが信玄の領国では永楽銭一枚で精銭四枚換算にもなる
をどう示しておられますのか、について、資料やら史実やらを基になさられましての、
ご説明の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
結局、それが出された後で米などの現物貨幣が主流となっていく、あるいはその流れをとめる事に成功できなかった、とされている、
史料の提示をしないんですか?
いや、ですから、それの資料提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
結局、妙法寺記にそれの記述がある、と貴方こと必死な織田ファンさんは
おっしゃられてはおりましたが、そのご提示の方などは、いかがなさられましたのでは
ございましょうか、とは思う次第なのではございますので、
これらの事柄などなどに関しまして、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>667
池氏などをはじめとする、多数の学者さんの論説ではございますかねえ。
そもそもの問題として、貴方こと必死な織田ファンさんは、
結局、妙法寺記に交換レートなどの記述がある、と貴方こと必死な織田ファンさんは
おっしゃられてはおりましたが、そのご提示の方などは、いかがなさられましたのでは
ございましょうか、とは思う次第なのではございますので、
これらの事柄などなどに関しまして、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
そこに書かれている価格が精銭なのか、鐚銭込みなのかわからないので、
実質的に高いのか安いのか。
畿内近江の米価のインフレは1566年から始まってるし、近江のインフレも浅井の撰銭令から始まっていて、
信長が京を直接支配する74年ぐらいから価格が安定するので、
これも信長に原因求めてるのはどうかと思う。
あれ、何でも信長をsageて逆に顰蹙買いまくっていたし。
中には安倍晋三が織田信長とか的はずれなことも言っててお話にならない。
逆に信長を批判する人って、こんなにレベルが低いんだなあと感じました。
通信手段が手紙くらいしかないこの時代に
そんな大規模な連携なんざ出来る訳ない事くらい
信玄も武田首脳も分かってただろうに
遠藤に至っては素知らぬ顔してる有様だし
まーたいつも通りに都合の悪い事柄を必死にスルーしてお喚きになられようとしておられるご様子ではございますが、
何度も指摘をされているようには思われる次第ではございますが、
同じような戦略的な包囲策戦によって、志賀陣では朝倉浅井をはじめとする包囲網勢が
織田を降伏宣言和睦詐欺をせざるをえない程にまで追い込んでいる次第ではございますしねえ。
武田・北条もより長期的でより広い範囲での戦略的な包囲策戦によって、長尾上杉+関東諸侯の領域を徐々に制圧していって、
戦略的な勝利をえているわけではございますしねえ。普通に戦国時代におけるセオリー的な戦い方のようには思われる次第ではございますし、
これらは何度も何度も指摘をされている事のようには思われる次第なのではございますが、
これらに関しましての、ご回答の方なども、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
志賀の陣で追い込んだ。
志賀の陣も包囲網連携できていない。
朝倉や浅井は京都は落とせない。
石山本願寺は織田と単独で和睦した。
三好は織田の背後は突けない。
何処が連携しているのかね?
まーたいつも通りに都合の悪い事柄を必死にスルーなさられながら、お喚きになられようとしておられるご様子のようには思われますが、
普通に信長領国でも本願寺系とかとは特に関係のない、普通の一揆とかが普通にいくつもおこっているわけではございますしねえ。
武田領国で、妙法寺記での「世間が富貴になった。先代にはなかった事だ。」という記述とか、
妙法寺記の世間、はふつうに農民とかも含めた世間一般の事だと、何度も書かれてますのに、
これらに関しましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>592
その「出来てない!」とかいう相手に、信長自身が、降伏宣言和睦詐欺的な書状を出して、
和睦を申し込んでいるわけなのですが、これまでにも何度も指摘をされているようには思われますが、
これらに関しましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
実施すると論述してるのかな?
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
こちらが書いておりますのは、
「はて普通に武田の美濃侵攻とあわせて長島が美濃に侵攻する事とかは普通に
複数の学者さんに想定されているわけではございますしねえ。
朝倉に関しましても、普通になんらかの連携策戦を信玄が5月に美濃に侵攻するのとあわせて取る事は
想定されているわけですしねえ。
そもそも、朝倉が過去に越前から美濃への侵攻を行う時におきましての、
通路にあたりました、郡上遠藤が、
この時には普通に武田・朝倉に内応している、という状況ではございますしねえ。」
的な事しか書いていないようには思われる次第なのではございますが、
なにをどのようにして、そのように捏造曲解などをなさられようとしておられますのか、につきましても、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、相変わらず、都合の悪い事柄などは、必死にスルーなどをなさられようとは
しておられるご様子ではございますが、
そもそも、貴方こと必死な織田ファンさんなどは、策源地どうたら論とか、を
資料的やら、史実的やら、あるいは学者さんの論説などもなしに、お喚きになられましたり、
史実的にいくつもの事例がある、信濃から美濃への侵攻とか、
越前から美濃への侵攻が、資料的やら、史実的やら、あるいは学者さんの論説などもなしに、
不可能だとかお喚きになられましたり、という状況であらせられます事などなどが、
過去ログなどで普通に膨大に残っておられますようには思われる次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
生き当たりばったり
究極の一向宗本願!
寧ろ武田は運が良かった
万が一にも美濃に入った時点で信玄が倒れて死んでたら、流石に甲府のボロ小屋に家臣団は帰れなかっただろうな
その場で今川義元越えの武田家壮絶滅亡劇が信長の采配によって行われていただろう
長篠くらいでは済まされなかったということだ
>自分が倒れて死ぬ計算が出来てない信玄の戦略は幼稚そのもの
自分がいつ死亡するのか、なんて現代でも完全にはわからないわけですしねえ。
>究極の一向宗本願!
いやいやいや、普通に何度も指摘がされておりますように、本願寺やら、朝倉やら、が
武田に出陣を要請して、信玄の西上が開始され、的な流れなわけなのではございますしねえ。
そんな事は特にないようにも思われる次第なのではございますけれどねえ。
長篠の後で、岩村城を攻略するのにも、織田側は半年かけても攻略できずに、
最終的には騙し打ちにして攻略しているわけなのではございますので、
普通に岩村城をたてにして、普通に撤収するだけのようにも思われる次第なのではございますが、
これらにかんしましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそもの問題として、このスレは
信玄が健康で長生きしたら、という仮定に基づいているスレなわけではございますしねえ。
信玄は5月からの朝倉・長島と連携しての美濃侵攻計画を計画しておりまして、
これらが行われますれば、三方向から美濃に侵攻をして、
普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、 普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、
そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、
如何なものなのでございましょうかねえ。
関ヶ原ですら、徳川家康(下野)、佐竹義宣(常陸)、伊達政宗(白石)、最上義光(山形)、堀秀治(津川)らはほとんど連携できていない。伊達政宗が突出しているだけ。
何で武田信玄なら出来ると断言できるわけ?
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを必死にスルーしながら
お喚きになられておられるご様子ではございますが、
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
それらは戦っている場所も目的もろくにされておらず、そもそも打ち合わせとかもろくにされてないわけですしねえ。
5月侵攻は普通に打ち合わせとかがされているわけではございますしねえ。
で、いつも通りに都合の悪い事柄を必死にスルーなさられようとしてはおられるご様子ではございますが、
何度も指摘をされているようには思われる次第ではございますが、
同じような戦略的な包囲策戦によって、志賀陣では朝倉浅井をはじめとする包囲網勢が
織田を降伏宣言和睦詐欺をせざるをえない程にまで追い込んでいる次第ではございますしねえ。
武田・北条もより長期的でより広い範囲での戦略的な包囲策戦によって、長尾上杉+関東諸侯の領域を徐々に制圧していって、
戦略的な勝利をえているわけではございますしねえ。普通に戦国時代におけるセオリー的な戦い方のようには思われる次第ではございますし、
これらは何度も何度も指摘をされている事のようには思われる次第なのではございますが、
これらに関しましての、ご回答の方なども、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
で、そう書かれてはいますけれど、実際には織田側は
武田領土において、搾り取りまくったようで、「織田の暴政」として後世に語り継がれ、
本能寺の後ですぐさま甲斐衆とか信濃衆が蜂起して、河尻とか織田側の武将とかを
襲撃する事態になっているわけなのですが、これらに関しましても、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>他国での政策と同じように庶民の税負担を下げ、国人が持っていた既得権益の解体を行なった
他国と同じかは明記されてないですし、そもそも、実際は上記のような感じですしねえ。
>(信長の年貢については生産量のおよそ三割程度と言われている)
資料提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>要するに今まではそれぞれが関税を高く取っていたり、領主以外にも年貢税負担の多重取りする事を認めていたが
>(当然信玄が上前を吸い上げる)
>信長の統治下では庶民を苦しめるそれらの政策を認めないということ
なんどもいいますが、実態は上記のように、織田も絞りまくっていて、本能寺の後ですぐさま蜂起がおきてますし、
織田領国でも本願寺とかと関係ない一揆は普通にいくつもおきてますしねえ。
>こういった既得権益を奪われる事に反発した有力国人衆が一揆を扇動し信長領となった甲州で暴れまわるようになるのである
本当に大衆がそれで喜んでいたなら、既に織田に制圧されていた国人衆のいう事に扇動されたりもしないようには
思われますしねえ。
>これが信玄の治世では一揆が起こらず、信長の統治下になって一揆が頻発するようになったカラクリ
資料提示とかの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
は
>>590 宛です。修正しておきますかねえ。
>>612
ですから、それは資料提示とかのされていない、貴方の妄想願望ですよねえ?
実際には織田領国でも普通に関所は残っておりますしねえ。
貴方のいう、信玄領で物資が不足どうたら、
って徳川が半年近くかけても攻略できなかった二俣城を2か月で攻略したり、
信玄が病気で一ヵ月かかったとされる、
野田城攻めを無理やりに根拠にあげておられるだけのお話のようには
思われる次第ではございますしねえ。
何度も指摘をされていますが、
長篠の後で武田勢主力が援軍を送るのが困難な状況でも、
織田も普通に岩村城を攻めるのに、半年近くかけても攻略ができずに、
結局最終的には騙し打ちで攻略しているわけなのではございますが、
貴方的なご論調では、織田も物資が不足していた、という事で
よろしいのではございましょうかねえ、とは思う次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しまして、おはやめにご回答の方などを
よろしくお願いいたしますかねえ。
>>614
ですから、少なくとも大衆の間ではなく、ある程度の立場のある人間の間では活用された、という事だと思いますしねえ。
でないと、貰った側としても、置物にしておくわけにもいかないのですから、
もらってもしょうがない、という話になるわけですしねえ。
>問題は金のやりとりがあったか?ではなくそれによって銭不足が解消に向かったのかどうか?
信長領国は普通に現物貨幣が主流になってますのに、必死にスルーなさられようとなさられましても、
としか思われないのではございますけれどねえ。
とりあえず、今夜はここら辺で撤収させていただきたいと思う次第ではございますかねえ。(チラチラ)
必死な織田ファンさんなどは、
きかれている数々の事柄などなどに関しまして、
資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
信玄はせっかくの甲州金を流通貨幣として採用せずせっせと寺社や国人に配っていた
のみであった
それはなぜか?
そういった連中 だけ を優遇しておけば一揆を引き起こされないから
(寺社関係者ないし有力な者が手引きしない限り庶民だけの一揆は成立しないため)
連中の中間搾取を認めており、それでも税収を潤すために他国より重い税を庶民にかける必要があった
まーたいつも通りに妄想願望をしながら、レッテル貼りなどにご狂奔なさられようとしておられるご様子ではございますが、
具体的にどこで提示をなさられているのかを、具体的にご提示の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>610
ですから、貴方の妄想願望のように思われます事などは、非常にこちらにはどうでもよろしいようには思われる次第ではございますので、
資料提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>>589
>本来デフレの抑制のために支配者が信用ある貨幣を新たに発行して銭不足を解消するというのは非常に有効な政策である
信長の領国では普通にそれが成功しなくて、現物貨幣が主流になってますよねえ。
武田領土は織田領土と異なり、単に銭の否定にまでいたってないだけのようには
思うのですけれどねえ。
>連中の中間搾取を認めており、それでも税収を潤すために他国より重い税を庶民にかける必要があった
何度もいいますように、北条領の方がむしろ税金は多いように思われますし、
織田領国でも本願寺とかと関係ない一揆は普通にいくつもおきてますしねえ。
北条は武田と並ぶほど重税です
額面はともかく武田の方が実質負担は重いです
いや、普通に北条領土の方が多いように思われるのですが。
>額面はともかく武田の方が実質負担は重いです
ですから、そのような妄想願望のように思われます事柄をご主張になられるのでしたら、
資料提示の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
妙法寺記にあるとかいってたのですから、具体的に何年に、どのような記述でそのような事が
示されているのかを、具体的にご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
とりあえず、今日からしばらく外出する予定とはなっておりますので、
必死な織田ファンさんなどは、
きかれている数々の事柄などなどに関しまして、
資料やら史実やらを基になさられましての、
ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>信玄は検地を実施していますが加地子名主の否定をしておらず、
>否定するどころか彼らの分の税を免除するような優遇までしていました
まずは資料提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>彼らは額面以上の年貢を名主に要求されても力もなく逃げる事しかできません
>(一揆を起こすのは彼ら上級農民階級)
これもまた資料提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
上級農民階級だけで、信長時代に、信濃の一地域だけで起きた8千人規模もの一揆とか
まず無理なように思われる次第なのではございますので、
これらに関しまして、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>武田の重税はその税率以上に信玄の厳しい締め付けが民衆を苦しめていたんですよ
ですからあ、貴方こと必死な織田ファンさんの資料提示もなさられない、妄想願望のように思われますご主張は、
こちら側といたしましては、非常にどうでもよろしいようには思われる次第なのではございますので、
資料提示の方などをおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを、必死になってスルーなさられようとして
おられるご様子ではございますが、>>616で
>額面はともかく武田の方が実質負担は重いです
とおっしゃられのではございますから、
そのような妄想願望のように思われます事柄をご主張になられるのでしたら、
資料提示の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
妙法寺記にあるとかいってたのですから、具体的に何年に、どのような記述でそのような事が
示されているのかを、具体的にご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
の4段落目を修正
なんだか文字化けがおこっているようではございますかねえ。
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを、必死になってスルーなさられようとして
おられるご様子ではございますが、>>616で貴方こと必死な織田ファンさんは
>額面はともかく武田の方が実質負担は重いです
とおっしゃられているのではございますから
そのような妄想願望のように思われます事柄をご主張になられるのでございましたら、
資料提示の方などを、おはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
妙法寺記にあるとかいってたのですから、具体的に何年に、どのような記述でそのような事が
示されているのかを、具体的にご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
・甲州を往来する際に持ち込んだ物品に対して高い関税をかけてはならない
・農民は年貢のみを納めればよくそれ以外の税を廃止する
・地元の有力者にはよく配慮すべきであるが、必要以上に優遇することはしない
他国での政策と同じように庶民の税負担を下げ、国人が持っていた既得権益の解体を行なった
(信長の年貢については生産量のおよそ三割程度と言われている)
要するに今まではそれぞれが関税を高く取っていたり、領主以外にも年貢税負担の多重取りする事を認めていたが
(当然信玄が上前を吸い上げる)
信長の統治下では庶民を苦しめるそれらの政策を認めないということ
こういった既得権益を奪われる事に反発した有力国人衆が一揆を扇動し信長領となった甲州で暴れまわるようになるのである
これが信玄の治世では一揆が起こらず、信長の統治下になって一揆が頻発するようになったカラクリ
支配のための政治を行なった信玄と
庶民のための統治を行なった信長
あのー、人が書いた後で、それをそのままお述べになられようとするのは、
いかがなものなのかとは思うのではございますが、これらに関しましては、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
少なくとも、当時の情勢において書かれた資料などを基にして、
まず史実的に無理がなさそうな事柄を集めまして、類推の方などをしますだけでも、
志賀陣やら、武田・北条が長尾上杉+関東諸侯に対して行ったような、
戦略的包囲策戦を行って、織田を押し詰めていく事が可能、的なようにシミュレーションを
行います事も、十分に可能であるようには思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましては、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
あのー、なんども指摘をされている事のようには思われる次第ではございますが、
>>590の人はそのご主張の基になられると思われる資料などのご提示の方などを
なさられてはおられないようには思われる次第なのではございますが、
それでそのようにおっしゃられましても、とは思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、なにとぞご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
→国内に多数の関所があり高い関税を取られるので高価な金品を持ち込めないから
何故信長領では銭も米も物資も豊富に溢れているのか?
→国内の関所を廃止させて人の往来を活発化させたから
>>595 >>594
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを必死にスルーしながら
お喚きになられておられるご様子ではございますが、
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、
捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
貴方のいう、信玄領で物資が不足どうたら、
って徳川が半年近くかけても攻略できなかった二俣城を2か月で攻略したり、
信玄が病気で一ヵ月かかったとされる、
野田城攻めを無理やりに根拠にあげておられるだけのお話のようには
思われる次第ではございますしねえ。
何度も指摘をされていますが、
長篠の後で武田勢主力が援軍を送るのが困難な状況でも、
織田も普通に岩村城を攻めるのに、半年近くかけても攻略ができずに、
結局最終的には騙し打ちで攻略しているわけなのではございますが、
貴方的なご論調では、織田も物資が不足していた、という事で
よろしいのではございましょうかねえ、とは思う次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しまして、おはやめにご回答の方などを
よろしくお願いいたしますかねえ。
→国人の既得権益として関所で関税を取ることを認めており見返りとして上納金を要求していたため
こういった政策は国人衆にとって旨味があるので信玄になびき調略もしやすくなる
こいつ警告なんか完全無視してる。
こいつの相手するのはレベルが同じ馬鹿だからやること。
相手にするな、関わるな。
次スレの方でも普通に書かれている事ではございますが、
なんだって貴方こと必死な織田ファンさんが、資料やら史実やらをご提示になられずに、
都合の悪い事柄を必死にスルーして、多数派装いとかをなさられながら、
煽り罵倒・レッテル貼り、などにご狂奔なさられようとしておられる、
というのが普通に残っておりますのに、こちら側はそれを指摘したり、反論したりするのを否定されようとしなければ
ならないのか、とは思いますしねえ。
そもそもの問題として、前々スレとかにおきましては、
普通にそのスレを立てた人が、こちら側に対して煽り罵倒などを禁止する取り決めを
しようとした事がありましたが、必死な織田ファンの人は、
それらをスルーするどころか、そのスレ立てをした人に対して、煽り罵倒・レッテル貼り、
をなさられる事にご狂奔なさられ、こちら側に対する煽り罵倒・レッテル貼り、を行う事に執着している、
という流れが、しっかりと過去ログに残っているわけなのではございますが、それでそのようにおっしゃられましても、
とは思われる次第なのではございますが、これらに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
明らかに、都合の悪い論旨やら史実やら資料やらを提示する側に対して、煽り罵倒・レッテル貼り・捏造曲解などなどまで行われての、
必死な追い出しをやろうとなさられておられるように思われますのは、必死な織田ファンさんの側である事などが、
過去ログに明確に残っているようには思われる次第なのではございますが、これらに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
高額取引には金銀を使うこと
金十両に対して銅銭十五貫目
銀十両に対して銅銭二貫目
「中近世日本通貨流通史」より
信玄と違い信長は金銀を貨幣の替わりとして活用することにより銭不足の状況を改善させた
実際にはそこまで金銀の使用は本格化しなかったようですし、
信長領国は信長の撰銭禁止令の影響もあって普通に米とかの現物貨幣が主流になってますしねえ。
武田氏も普通に金は使用しておりますしねえ。
>>601
まーた都合の悪い事柄は必死にスルーなさられようとしておられるご様子ではございますが、
普通に信長領国でも本願寺系とかとは特に関係のない、普通の一揆とかが普通にいくつもおこっているわけではございますしねえ。
武田領国で、妙法寺記での「世間が富貴になった。先代にはなかった事だ。」という記述とか、
妙法寺記の世間、はふつうに農民とかも含めた世間一般の事だと、何度も書かれてますのに、
これらに関しましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
使い方が違うんですよ
頭の悪さが発言に滲み出てます
信玄の使い方は賄賂、進物、褒美として気を引くためだけのものであり、もらった側が財産として抱え込んでおしまい
信長は貨幣と交換できる決まりを定め新しい貨幣を発行したに等しい発想の転換を図ってる
同時に米取引を禁止することにより米の供給が不安定にならないようにとケアもしている
金銀は普通に商取引で使われていましたよ
当時の記録でも不動産の取引に金で支払われた例など多数存在してます
まーたいつも通りに妄想願望をしながら、レッテル貼りなどにご狂奔なさられようとしておられるご様子ではございますが、
>もらった側が財産として抱え込んでおしまい
矛盾をしているとは思わないのですかねえ。
使えない、使わないんだったら、そもそも財産にならないでしょうに。
そもそも、使うからこそ、わざわざ金に対しての度量衡が定められているわけですしねえ。
>同時に米取引を禁止することにより米の供給が不安定にならないようにとケアもしている
ですから、何度も指摘されてますように、普通に大衆はそれをスルーして、米で取引をしているのですけれどねえ。
事例提示の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
資料提示もよろしくお願いいたしますかねえ。
>>607
上記のように、普通に使われてますしねえ。
その辺は結構論文出てるよね
ただ信長以前にも一貫文越えるような取引に金使ったりとか普通にあるけど
義昭の元服の衣装代?とか
>>601
信玄だって中間層の排除はしたかったと思うが
信長も中間層の排除は勧めてたけど、秀吉家康の時代と比較するとまだ途中って感じ
>>614
京都で金(きん)を貸すことで利子取る金融業が出来てるぐらいだし
十分流通していて、貨幣がわりにはなっているんだろう
あのー、そもそもの問題として、>>600の人が述べているのは、
金銀を信長が一般に流通させた、とかおっしゃりたいようではございますが、
その>>600の人がいっている、本の著者さんは高木氏だとは思うのではございますが、
この人は、信長領国においての金の使い道は、兵糧料とか、朝廷への献上とか、
公家への贈与だとか、家臣への褒美だとか、他大名への贈与だとか、であって
銀も名物の徴発やら、褒美だとか、贈与だとか、であって、
これらは武田の金の活用法とほぼ同じような感じのように思われますし、
そもそも、高木氏は織田領国において、高額支払いなどであっても、必ずしも
金銀支払いが一般化していない事なども、普通に指摘しているようには
思われる次第なのではございますが、これらの事柄などなどに関しましては、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
そして、高木氏は天正7年におきましても、京都や近郊において、
庶民レベルでも金銀の蓄蔵が行われていたかは微妙、的に述べておられるようには
思われる次第なのではございますが、これらの事柄などなどに関しましては、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
あのー、そもそもの問題として、何度も指摘がされているようには思われる次第なのではございますが、
>>601の人は、そのご主張の基となるように思われます資料のご提示の方などを
なさられてはおられないようには思われる次第なのではございますが、それでなぜにいきなり前提となられますのか、
というのに関しまして、なにとぞご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、具体的な軍役指示がろくに残っておらず、配下武将任せなように思われます織田領国が、
なぜだかそういった把握が行われ、具体的な軍役指示などが行われておりました、武田やら北条とかよりも、
中間層の排除ができていた、とご主張なさられる所以はいったい奈辺にございますのではございましょうか、とは
思う次第なのではございますが、これらの事柄などなどに関しましての、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
どんなものなのではございましょうかねえ。
そもそも、必死な織田ファンさんが元々、
論拠としていいだされました本の著者さんであらせられます、
高木氏ご自身が、天正7年におきましても、京都や近郊において、
庶民レベルでも金銀の蓄蔵が行われていたかは微妙、的に述べておられるようには
思われる次第なのではございますが、これらの事柄などなどに関しましては、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
さらには、高木氏は、信長領国においての金の使い道は、兵糧料とか、朝廷への献上とか、
公家への贈与だとか、家臣への褒美だとか、他大名への贈与だとか、であって
銀も名物の徴発やら、褒美だとか、贈与だとか、であって、
これらは武田の金の活用法とほぼ同じような感じのように思われますし、
他の大名同じような使い方をしていた事なども指摘しておられるのですが、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
そもそも、高木氏は織田領国において、高額支払いなどであっても、必ずしも
金銀支払いが一般化していない事なども、普通に指摘しているようには
思われる次第なのではございますが、これらの事柄などなどに関しましては、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
信玄が存命中は利害で結ばれた強固な家臣団を形成していたが、一度信玄がいなくなってしまったら何も残らない空虚なものでもあった
もちろん反発もあり、それと戦う羽目にもなったが民衆の暮らしを安定させ経済を発展させて後の世に続く安定の礎を作っていた
自分の利益だけのための使い方しかできなかった残念な結果に終わったものばかりです
また信長が甲州を攻略した後に関所を撤廃させた
これらは全て事実ですが意味を理解するには背景を理解する必要があります
そこでかかる関税は誰の懐に入るのか?
関所が多くあると人々はどのような動きになるのか?
それらを考えれば信玄領が人の往来が少なくなっていき物資が不足していく
反対に信長領には様々なものが入ってきて栄えていくというのは突然の流れです
金なので効果なものには違いありませんが信長のように相場を定めることで初めて貨幣の替わりとして機能するのです
問題は金のやりとりがあったか?ではなくそれによって銭不足が解消に向かったのかどうか?
そして信玄の甲州金が庶民まで渡ることもありませんでした
手にしたのは寺社関係者か武家階級のみです
銭不足の中で貨幣を必要としている民衆の問題解決にはなんら関係のない使われ方でしか無かったということですね
そのしわ寄せはどこにいくのか?
更に弱い民衆です
彼らは額面以上の年貢を名主に要求されても力もなく逃げる事しかできません
(一揆を起こすのは彼ら上級農民階級)
武田の重税はその税率以上に信玄の厳しい締め付けが民衆を苦しめていたんですよ
甲斐ほどではないですが東国はどこも貧しいですからね
畿内の信長領と貧富の差が生まれてしまうのは仕方のないことでした
これが理解できないから単純に武田は何文で北条は何文だから北条の方が重税だ!となってしまうんですね
国語力だけじゃなく社会の学力も不足しているみたいで、これ以上やさしく説明するのは難しいですねえ。
まーたいつも通りに必死になって、都合の悪い事柄などを、必死にスルーなさられようとしながら、
相手がいなくなった途端に、必死になって都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられようとしながら、
必死になって捏造曲解やら、レッテル貼り、などなどに必死になってご狂奔なさられようとしておられるご様子のようではございますが、
>京都では永楽銭一枚で精銭一枚換算なのが信玄の領国では永楽銭一枚で精銭四枚換算にもなる
この交換レートの資料の方を、おはやめにご提示の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
妙法寺記に書いてある、とかお喚きになられていたのではございますから、
具体的に何年に、どのような記述でそのような事が
示されているのかを、具体的にご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
貴方がご主張になられている事は、まずこれに関しましての資料提示が行われ、それが妥当であるのか、を
具体的に資料やら史実やらを基になさられましてのご論証の方などを行われない限りは、
そもそも論としての成立などなどがなさられてはいないようには思われる次第ではございますので、
これらの事柄などなどに関しまして、おはやめに資料やら史実やらを基になさられましての、
ご論証の方などをなにとぞおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが、
資料やら史実やらをこちら側が提示して、 こちら側がそれらに基づきましてのレスをしまして、
貴方こと必死な織田ファンさんにご回答の方などを求めましても、都合の悪い事柄などは
必死にスルーなさられようとして、必死にお喚きになられ、
発狂逃亡などをなさられようとしておられるように思われます事例などが、
過去ログなどに多数残っているように思われます、貴方こと必死な織田ファンさんが、
そのようにお喚きになられましても、とこちら側といたしましては、
困惑せざるを得ない、という次第なのではございますが、
この件に関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
そもそもの根本的な問題といたしましては、>>620の必死な織田ファンさんは、
>>648にもありますように、そもそも、ご自身がおっしゃられておられます事柄の基となられますように思われます、
資料やら史実やらのご提示をなさられておられない、という状況なのではございますのに、
それでそのようにおっしゃられましても、とは思う次第なのではございますので、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
資料を提示したら為替レートの関係で甲信が経済的に搾取される側だったと認めるということでよろしいか?
いや、その資料が妥当であるのか否か、をまずは検討しないといけないと思いますしねえ。
そもそもの問題として、>甲信が経済的に搾取される側
これもまたことなる問題であるようには思われる次第ではございますしねえ。
とりあえず、必死な織田ファンの人は、妙法寺記にあるとかおっしゃられてはおりましたけれど、
妙法寺記には特にそのような事は書かれていないようには思われる次第なのではございますが、
具体的に何年に、どのような記述でそのような事が
示されているのかを、具体的にご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
為替レートが弱い方が物資を大量に安く奪われていくというのは経済の常識だよね?間違ったこと言ってる?
ですからあ、その交換レート、とやら、が一体なにで示されているのか、についてを
資料提示などを基にして、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まずは、それをしていただかないと、議論にそもそもならないようにも
思われる次第なのではございまして、これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
とりあえず、必死な織田ファンの人は、妙法寺記にあるとかおっしゃられてはおりましたけれど、
妙法寺記には特にそのような事は書かれていないようには思われる次第なのではございますが、
具体的に何年に、どのような記述でそのような事が
示されているのかを、具体的にご提示の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
基地街タイムの、始まり始まりー。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが、
資料やら史実やらをこちら側が提示して、 こちら側がそれらに基づきましてのレスをしまして、
貴方こと必死な織田ファンさんにご回答の方などを求めましても、都合の悪い事柄などは
必死にスルーなさられようとして、必死にお喚きになられ、
発狂逃亡などをなさられようとしておられるように思われます事例などが、
過去ログなどに多数残っているように思われます、貴方こと必死な織田ファンさんが、
そのようにお喚きになられましても、とこちら側といたしましては、
困惑せざるを得ない、という次第なのではございますが、
この件に関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
そもそもの根本的な問題といたしましては、>>620の必死な織田ファンさんは、
>>648にもありますように、そもそも、ご自身がおっしゃられておられます事柄の基となられますように思われます、
資料やら史実やらのご提示をなさられておられない、という状況なのではございますのに、
それでそのようにおっしゃられましても、とは思う次第なのではございますので、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、何度も指摘がされている事のようには思われますが、
資料やら史実やらをこちら側が提示して、 こちら側がそれらに基づきましてのレスをしまして、
貴方こと必死な織田ファンさんにご回答の方などを求めましても、都合の悪い事柄などは
必死にスルーなさられようとして、必死にお喚きになられ、
発狂逃亡などをなさられようとしておられるように思われます事例などが、
過去ログなどに多数残っているように思われます、貴方こと必死な織田ファンさんが、
そのようにお喚きになられましても、とこちら側といたしましては、
困惑せざるを得ない、という次第なのではございますが、
この件に関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
そもそもの根本的な問題といたしましては、>>620の必死な織田ファンさんは、
>>648にもありますように、そもそも、ご自身がおっしゃられておられます事柄の基となられますように思われます、
資料やら史実やらのご提示をなさられておられない、という状況なのではございますのに、
それでそのようにおっしゃられましても、とは思う次第なのではございますので、
これらの事柄などなどに関しましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
で、そもそも、その菅沼なんたら、自体が、何度も指摘をされておりますように、
それを認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて、
貴方ですら、それに整合性をつけてのご説明をなさられる事が
一度もお出来になられない、という状況でございますのに、
今更なにをおっしゃっておられるのかと思う次第でございますので、
これらの件につきましても、おはやめにご回答の方などをよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そして、ねえの相手をする奴もねえと同レベル。
ねえには触るな、寄るな、関わるな。
確かに農村の駆け落ちとか逃散みたいな庶民の疲弊は織田領では特に聞かないな
70年に山城で徳政一揆起きたけど、あれも織田領とはいいがたいし
都市に出てきた人間に農村に戻るよう命じてるのもあるけど、征服直後の例が多いから
農村から出てきた理由が織田領以前の領主や征服過程の混乱にありそうだし
>>555
秀吉引き付けとくことさえ出来なくなってるぐらいだし
単独じゃ小谷城守るぐらいしか出来ないと思う
>>556
そもそも貫高でインフレとその後の米価の安定がわかると言う時点で
その後も銭が使用されているとわかると思うの
>>559
池氏も浦長瀬氏の論文使ってるから根拠は微妙
>>560
連携もだけどみんなして誇張して書くものだから敵味方の実情もわかりにくい
>>590
国人層の不満とその下の庶民の不満は別物だからな
秀吉の統一過程でも一揆頻発してるけど、主体は国人層だし
そもそも、それに関しましての資料提示の方などがされておられないようには
思う次第なのではございますが、これらに関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。
論理が飛躍し過ぎて、意味がわからん。
まーたいつも通りに必死になって、資料やら史実やらを基になさられてお述べになられるのではなく、
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
実際問題としましては、史実的には中国の事例におきましても、董卓が質の悪い貨幣を鋳造して、
無理やりに流通させようとした結果、貨幣自体の否定がおこり、その後、魏の明帝期くらいまで、
華北では現物貨幣が主流となる、という事になっているわけですしねえ。
普通に歴史的に考慮しますれば、悪銭を無理やりに流通させようとしますと、貨幣自体の否定が起こり、
現物貨幣が主流となる、というのは普通に事例がある、という事なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しまして、資料やら史実やらをもとになさられましての、ご回答の方などを
なにとぞよろしくお願いいたしますかねえ。
「これらと朝倉軍が連携できれば信長を滅亡させる事が可能と考えていたらしい。」
ってあくまで信玄はそう思っていたって書いてるだけか?
信玄の想定が正しいか間違っているかには言及してなくて
長篠で勝てると思った武田だから、それぐらい想定甘くてもおかしくないな
まーたいつも通りに必死な織田ファンさんであらせられる貴方が、
>>51-55にありますような、多数派装いなどをなさられながらの、
都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられましての、捏造曲解やら、レッテル貼りやら、を
おやりになられておられるようには思われる次第なのではございますが、
そもそもの問題として、まだ行われずに終了した策戦やら、戦略やら、を
「これで絶対に勝てる!これで確定!」なんて断言ができるわけもないようには
思われる次第なのではございますが、
これらに関しましても、ご回答の方などを
よろしくお願いいたしますかねえ。
まあ、平山氏は別の著作では、「この当時、情勢は、(中略。長いので。まあ、要は
郡上遠藤が武田につき、蒲生が朝倉に内通の意思を明らかにし、伊勢長島やら、三河一向宗やら、が
武田軍に協力する意向を示している事などをあげ、)信玄に有利であった。」と述べておられたりもしますしねえ。
そもそも、長篠では普通に重臣達は撤収か、あるいは防御策の方を献策してはいたとされておりますしねえ。
A:吉良義定室系
武田信虎→定恵院→今川氏真→吉良義定室→吉良義弥→吉良義冬→吉良義央→上杉綱憲
B:今川範以系
武田信虎→定恵院→今川氏真→今川範以→吉良義弥室→吉良義冬→吉良義央→上杉綱憲
ねえと同類、同レベルって多いんだな。
同レベルが同レベルを呼ぶ。
この時代情報伝達手段限られている上みんなして大本営発表してるから。
まあ確かに。
川中島の後に武田信玄も上杉謙信も大本営発表しまくってるからな。
滋賀の陣で浅井、朝倉から信長に詫言、停戦申し入れたなんて朝倉、本願寺からは武田に言わないだろうしね
将軍の仲介を延暦寺がゴネて受け入れなかったというのもメンツが潰れるから外に漏れる話でもない
結局朝倉が本当は勝っていたのに信長に停戦詐欺されたーなんて話を信じて織田弱いなーと思ってしまったと
どこかの誰かさんと同レベルの情弱っぷり
そもそも遠藤氏と武田信玄って1573年は全然連絡取り合ってないし。
大本営というか自分たちが撤退するための理由付けじゃないかと思う
5月だと上杉は越中一向一揆との戦いに一区切りつけて越後に戻っているくらいの時期
(史実だと8月に再出陣して越中の大半を押さえている)だし、徳川も三方が原
から4か月たっていてある程度体勢を立て直してる
背後に危険が迫っている状態なので、織田ばかりに注力できないかと
まあ書いてある通りに進むなら織田に少なくとも一撃を加えるチャンスだし、
そうでなくても、いやー俺はやる気あったけど周りがこれだとちょっと厳しいなー、
という感じで撤退したかった
包囲網側と遠藤の連絡は朝倉が送った1月初めの書状が最後かな。
よーし!なら三千人くらい討ち取った事にしちゃろ!せや!キャッチフレーズはとぶ長(信長)なんてどやろ!?www」
当時のそれなりの地位の人はある程度割り引いて情報受け取ってるとは思うけど、
謙信、家康から三方ヶ原で勝ったって報せを聞いてか、それを他に(佐竹だったか?)伝えてるとかもあるし。
この場合は謙信は真に受けたのか、ハッタリと気づいたけど、
武田が不利だという噂を流したいため徳川が勝ったという情報のまま流したのか?
アレがいるだけで毎回無駄に地べたからのスタートになるから迷惑
毎度、山の中の武田に織田や三好、大内に勝る経済力があるのか?なんて血迷ったトコから話しを始めさせられるんだから
他ならぬ武田領に残ってる記録で米がない、銭が不足している、また増税だと残ってるんだし
それに信玄領が貧しくても信玄の評価を下げるものでも無いでしょ
むしろ地理的な不利があるにも関わらず勢力拡大してるんだから有能な根拠になる
この絶対にあがれない菅沼スゴロクはどうやったら終わるのやら
また基地街タイムの始まりか。
逃げよ逃げよ。
※四天王寺文書
永禄十二年三月一
一、ころ、せんとく、やけ銭、下々の古銭 以一倍用之
一、うちひらめ、なんきん、以十増倍用之此外不可撰事
一、段銭、地子銭、公事銭幷金銀、唐物、絹布、質物、五穀以下、此外諸商売如有来、時の相場をもつて定の代とりかはすへし
信長の貨幣政策が失敗したって説の根拠が畿内のインフレなのに対し
その畿内のインフレ見て信長関係ないって話で
同じ史料使ってるのに相手の史料否定しちゃ
自分で自分を否定するようなもの
甲州金は流通貨幣ではないよ
そんなとこゴネても歴史は変わらないから
いや、ゴネているのは、貴方こと必死な織田ファンさんのようには
思われる次第なのではございますけれどねえ。そもそも、貴方が元々、論拠としていいだされました本の著者さんであらせられます、
高木氏ご自身が、天正7年におきましても、京都や近郊において、
庶民レベルでも金銀の蓄蔵が行われていたかは微妙、的に述べておられるようには
思われる次第なのではございますが、これらの事柄などなどに関しましては、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
さらには、高木氏は、信長領国においての金の使い道は、兵糧料とか、朝廷への献上とか、
公家への贈与だとか、家臣への褒美だとか、他大名への贈与だとか、であって
銀も名物の徴発やら、褒美だとか、贈与だとか、であって、
これらは武田の金の活用法とほぼ同じような感じのように思われますし、
そもそも、高木氏は織田領国において、高額支払いなどであっても、必ずしも
金銀支払いが一般化していない事なども、普通に指摘しているようには
思われる次第なのではございますが、これらの事柄などなどに関しましては、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
そのようにおっしゃられますのでございますれば、資料提示やら、それに基づかれましての、
ご論証の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
>公家への贈与だとか、家臣への褒美だとか、他大名への贈与
重要なのはレート定めて貨幣としての価値も持たせたことで、
高額資産と高額貨幣の使い道が似たような感じになるのは当たり前じゃ
>高額支払いなどであっても、必ずしも金銀支払いが一般化していない事
つまり普通に金銀支払いはされている
>庶民レベルでも金銀の蓄蔵が行われていたかは微妙
当たり前、庶民にどんだけ期待してるんだ
上げ足どりに終始しても意味ないと思うんだが