スパルタクス戦争
スパルタクス戦争 |
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項 目 |
内 容 |
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日付 |
BC73年頃 ~ BC71年頃 | |
場所 |
イタリア全土(主に南部とアペニン山脈の東側) | |
戦いの口実 |
ローマの支配者階層に虐待された奴隷たちの、自由を求める反乱。 奴隷たちを故郷に返すのが目的。 |
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参加軍 |
イタリア国内の奴隷 スパルタクス(トラキア出身) クリコス(ガリア出身?)他 |
ローマ共和国軍 クラッスス ポンペイウス他 |
軍の編成 |
最大時約12万人、延べ約20万人 ローマ軍の物資を奪って武装した。重装歩兵を中心に、軽装歩兵や斥候などを配備 |
約10万人 これに掃討戦でポンペイウス軍数万人が加わる。 東西での反ローマ闘争のため、終盤まで主力軍を投入できなかった。 |
勝敗 |
奴隷軍は意表を突いて数々の勝利を得るが、最終的にはローマ側の勝利。 | |
戦死者 |
20万人弱(ほぼ全滅) | 約?人 |
スパルタクス戦争
戦いの背景 ~ 蜂起
戦いの背景 |
ローマはカルタゴとの戦いに勝利し、地中海の覇権を手に入れ、イタリア以外の国々を属州に編入するようになった。しかし、ローマの属州民に対する搾取は苛烈であり、しばしば反乱を引き起こした。これらの反抗を、ローマは強力な軍事力によって押さえ込んでいたのである。 |
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蜂起 |
南イタリアには大規模な農場が多く存在し、そこで使役されていた奴隷の数も多かった。この地域はイタリアの穀倉地帯であり、穀物を安価に入手することが出来た。そのため、剣闘士養成所の数も多く、特にカプアには最古の闘技場などがあり、剣闘の中心地とも言える場所であった。 このような境遇で、奴隷が脱走を企てるのも無理からぬことであった。 ローマから派遣されたのは、プラエトルのクラウディウスと3000人の軍団であった。しかしそれは、「単なる」奴隷の脱走をさっさと鎮圧するために、急遽寄せ集められた軍団でしかなかった。クラウディウスは山頂に通じるたった一本の山道を封鎖し、奴隷たちが飢えるのを待った。この戦法が有効であることは、シチリアの奴隷蜂起の時に実証済みであった。 この緒戦での勝利は、単にクラウディウス軍が残していった武器や装備を奴隷軍にもたらしただけでなく、ローマ軍に勝利したという実績と自信を与えた。これにより、奴隷軍の士気は高まり、更なる奴隷の参加をもたらした。 |
スパルタクス戦争
カンパニアからルカニアへ
カンパニア |
ローマ軍の宿営から武器や装備を得た奴隷軍は、重装歩兵を中心に、軽装歩兵、斥候などを組織し、軍隊としての機能を整えていった。そしてウェスウィウス山の周辺のノーラ、ヌケリアを占領し略奪した。略奪品は奴隷たちに公平に分配され、金品は共有物とされた。この方法をとったことは、奴隷たちの間に公平間と仲間意識を芽生えさせた。また、農場で酷使されていた多くの奴隷たちを、スパルタクス軍に参加させることになった。 イタリアの穀倉地帯であるカンパニア地方に略奪の危険が迫ったため、元老院はプラエトルのウァリニウスを派遣した。兵力は12,000人であったと思われる。 カンパニア地方での略奪に一応の成功を収めたスパルタクス軍は,とりあえず差し迫った生命の危険からは解放された。そうすると今度は,次にどこを目指すか,また最終的に何を目標とするかが問題となった。 消極的ながら追跡してきたローマ軍を振り切って,ルカニア地方に到達した頃問題が発生した。 アンニ・フォルムを占領した頃には,スパルタクス軍は4万人になっていた。ここから二手に分かれ,スパルタクスは三万人を率いてメタポントゥムへ,クリコスは一万人を率いてコセンティアを占領した。もう一人の指導者、オエノマウスは初期の戦いで既に戦死していた。 この冬営の間に,スパルタクス軍はローマ正規軍と同様の実力をつけるために,厳しい訓練を重ね,装備を整えた。武器を製造するためにトウリイに武器工場を建て,鉄工場などから逃げてきた奴隷たちが武器を製造した。奴隷たちを縛り付けていた鉄の鎖はここで武器に変貌し,自らを守るためのものに生まれ変わった。自分たちで作れないものは、海賊から購入した。それでも七万人に急増した兵すべてに、満足できる装備を整えることはできなかった。実力的には、未だローマ正規軍に及ぶべくも無かったのである。 |
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スパルタクス戦争
北上、故郷を目指して
奴隷たちが |
BC72年、蜂起した奴隷たちは冬営地のトゥリイで春を迎えようとしていた。 奴隷の指導者たちの急務は、これからの目標を決定することであった。これだけ の強大な軍隊を擁して、何をするのか、また、どこへ行くのか。 当然議論は紛糾し、諸々の意見が出されたことだろう。 |
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北上 |
軍備を増強し,北上を始めたスパルタクス軍に対し,ローマも手をこまねいていたわけではない。元老院はこの年のコンスルであるゲルリウスおよびレントゥルスの二人を、同時にスパルタクス軍鎮圧のために派遣することを決定した。このような措置は、国家が最も危険な状態に置かれたときにとられるものであり,ローマの支配者階級がスパルタクスをいかに恐れていたかがわかる。 ローマのコンスルは、それぞれ2軍団1万2千人ずつを率いて、ゲルリウスは南から追撃し,レントゥルスは北方でスパルタクス軍を待ち構えた。 後衛部隊を失ったスパルタクス軍は、直接腹背に敵を持つことになり,今まで以上につらい進軍を強いられた。しかし、イタリア中部に入ると、付近の大農場から逃亡した奴隷たちが,物資を持って大量に参加してきた。クリコスの敗北によって4万人にまで減った戦力が、徐々に回復されていった。スパルタクスは,アルプスへの道を開くためには,前後に分裂しているローマ軍を個別に撃破する必要があると判断した。まず、クリコス軍を殲滅するために軍を分けていたため、戦力が減少していた背後のゲルリウス軍に襲いかかった。ゲルリウス軍を撃破すると,帰す刀で前方をふさいでいるレントゥルス軍に戦いを挑んだ。 アペニン山脈を抜けてガリア・キスアルピナ地方に到達した頃には,スパルタクス軍は12万人に増大していた。彼らの前には、わずかにガリア・キスアルピナ長官のカッシウス率いる、一万人のローマ軍がいるだけだった。いかに強力なローマ軍といえども,10倍以上の敵にかなうはずも無く,スパルタクス軍に撃破されてしまい,カッシウス自身が逃げるのがやっとというありさまであった。 この勝利によって,スパルタクス軍とアルプス山脈の間には、ローマ軍はもはや存在しなくなった。あと一歩足を踏み出せば,あれほど懐かしみ、あこがれていた故郷に手が届くところまできていた。しかし、奴隷たちは直前になって、その一歩を踏み出すことをためらってしまったのである。 |
スパルタクス戦争
再南下、クラッスス登場
再南下の |
アルプスの前に立ちはだかった、最後のローマ軍を破ったスパルタクス軍は、ポー河を越えてアルプス越えを目指すかに見えた。この時まさに、彼らは故郷まで手の届くところにいたはずである。しかし、彼らはポー河を渡河することなく、苦労して北上してきた同じ道を戻り始めた。 奴隷たちの再南下の原因について,古代の史料は多くを語っていない。いくつかの史料に、度重なる勝利によって奴隷たちに奢りが生まれ、ローマ進軍を目指したとか、故郷に帰ることを望まない奴隷たちに強制されて、スパルタクスもイタリアに残る道を選ばざるを得なかった、などと記されている。 この再南下の原因の考え方によって,今後の奴隷たちの行動の意味や,蜂起そのものの位置付けなどが変化してしまうと思う。再南下の原因をあいまいにしたまま後半の記述を進めても、おそらく無味乾燥としたものになってしまうだろう。 |
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再南下 |
BC72年夏,カッシウス軍を破ったスパルタクス軍の前には,もはやローマ軍は存在しなかった。確かに眼前には雨季を迎えて氾濫するポー河があり、冬には人を寄せ付けないアルプスがあったが,トゥリイからの行程の困難さを思えば,耐えられないものではなかった。 季節が夏から秋に変わった頃,奴隷たちにとって衝撃的な情報がもたらされた。それは、スパルタクスの故郷であるトラキアで、長年ローマに反抗していた諸部族が次々とマルクス・ルキウスに屈服してしまったというのである。トラキアがローマに下ったということは,小アジアのミトリダデスが共闘者を失ったということであり,反ローマ闘争全体に大きな影を落とすことになった。 シチリアを目標に定めたスパルタクス軍は,故郷に帰るという目標を捨て,再び南に進軍していった。これを見たローマ市民は慌てた。このまま彼らを北方に逃れさせることは,各地での反ローマ闘争を強化することになるし,ローマの対面を著しく傷つけることになる。しかし、ローマ市民の本音は次のようなものだったのではないか。「イタリア国内に残って領地を荒らしまわられたり、万一ローマ市を攻撃されたら元も子もない。できればこのままイタリアを出ていってくれ,そうすればとりあえず自分たちの身の回りは安全になる。」 ピケヌムとローマ市の距離は200km程であり,10日以内に到達できる距離だった。勢いに乗った奴隷たちが、このままローマ市に向かって来るのではないかと、ローマ市民の不安は最高潮に達した。このような恐怖は,ハンニバルがローマ市に8kmに迫ったとき以来のことである。軍事的な能力が無いとの烙印を押された二人のコンスルは、激怒した元老院に軍の指揮権を剥奪された。既に次年度のコンスルは決定していたが,彼らも軍事的な能力は並以下であった。スペインや小アジアでの反ローマ闘争のために、ローマの優秀な将軍や精鋭部隊はほとんど国外に出払っていたのである。 |
スパルタクス戦争
転機、シチリア渡航失敗
クラッススの |
ローマでは市民が大混乱に陥っていたが,スパルタクス軍はローマ市には目もくれずにアペニン山脈の東側を南下していった。新たに10軍団という大軍の司令官に任命されたクラッススは、穀倉地帯であるカンパニアを守るためにアペニン山脈の反対側を南下した。そして、カンパニア地方への入り口であるピケンティアに陣を構えた。その頃スパルタクス軍は,ピケンティアの南西にあるエブルムに到達していた。 クラッススは、命令に反して無残な負け方をしたムンミウス軍に厳罰を与えた。 兵たちに厳罰を与えて士気を取り戻したクラッススだったが,スパルタクス軍の聞きしに勝る強さに、自信を失ってしまった。そして、元老院に対して、自分が単独で奴隷軍を鎮圧することは不可能であるとし,ポンペイウス,ルクルスの早期の召還を依頼したのである。 |
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シチリア |
クラッススは,「十分の一刑」の復活によって自軍の士気を取り戻したが、スパルタクス軍との正面からの戦闘には慎重になっていた。まず優先させなければならないのは,ポンペイウス、ルクルスが帰還するまで時間を稼ぎ、奴隷蜂起の拡大を押さえること。次に、他地域の反ローマ闘争と結びつかないようにすることであった。 ところが、レギウムに到着したスパルタクス軍の前には、船は一隻も見えなかった。最後の最後に、キリキア海賊はローマに買収されてしまったのである。所詮奴隷たちの略奪品は、ローマの財力の敵ではなかった。BC72年も暮れようとしている12月末の荒波が,スパルタクスとシチリアを分かっていた。 緒戦での敗北以来、積極的な戦いを挑んでいなかったクラッススだが,スパルタクス軍がシチリア渡航に全精力を傾けている隙をついて、奴隷たちの封じ込め作戦を開始した。彼は,スパルタクス軍がブルッティウム半島の先端、レギウムにくぎ付けになっているのを確認して、ブルッティウム半島の中央部に包囲線を構築しようとした。4.5メートルの深さと幅を持つ溝を掘り,その上に城壁と柵を建てた。その長さは55キロに及び,ブルッティウム半島を完全に横断して,スパルタクス軍の退路を完璧に遮断してしまった。当然奴隷たちも妨害をしたが,シチリア渡航に力を注いでいたため散発的であり,完成を妨げることはできなかった。クラッススはこの困難な事業を、ごく短時間のうちに成し遂げてしまったのである。 |
スパルタクス戦争
脱出、最後の戦い
脱出! |
クラッススの構築したブルッティウム包囲線に封じ込められたスパルタクス軍は、かつて無い窮地に陥った。シチリア渡航が失敗し、それでなくても意気消沈しているところに,食料の補給の道が断たれてしまったのである。このままでは、戦わずして飢え死にしてしまう。帰るべき故郷を失い,シチリアへ渡ることもできなかった奴隷たちは,戦う目標を失っていた。ただ彼らには、降伏は許されないことだけは判っていた。 クラッススは、スパルタクス軍に対して優位にたったために、逆に気持ちに迷いが出ていた。自分の力で圧倒的に有利な状況を作ったのに,後からやってくるポンペイウスに手柄を横取りされてはたまらない。なんとかポンペイウスが帰還する前に,スパルタクス軍を壊滅しなければならない。 |
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クラッスス |
ブルッティウム包囲を脱出したスパルタクス軍は,再び北に向かって進軍した。明確な目標を失った奴隷たちは,ただその日を生き抜くために,略奪と逃亡を続けるのであった。このような状態が続く中で,指導者としてのスパルタクスの求心力も衰え,別行動をとる部隊が出てきた。ガリア人およびゲルマニア人を中心とする一隊は,スパルタクスの指示に従わず、本隊から離れてルカニアの湖に宿営した。これを見たクラッススは、各個撃破の好機と考え,この分離部隊を急襲した。意表を突かれた分離部隊は混乱をきたして壊滅寸前となったが、近くにいたスパルタクス本隊が迅速に戦場に駆けつけ,何とか崩壊を食い止めた。しかし、この戦いで6千人の奴隷が戦死した。 分離部隊を再び結集したスパルタクスは,北東に向かって進んだ。そして追撃するローマ軍と対峙するためカマラトゥルム付近で,スパルタクス本隊と、カストゥス、カンニクスの指揮する別働隊の2隊に分かれて陣をはった。クラッススは,慎重に2つの部隊の切り離しを図り、今度こそ各個撃破を行おうとした。 |
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最後の |
スパルタクスは、このときどこを目指していたのだろうか。歴史家たちは、故郷に帰る目的を捨てていなかったと考えているようだ。ある人は再び北に向かってアルプスを目指したと言い,ある人は海路バルカン半島を目指したと言っている。しかし、一度諦めたアルプス越えを前回より不利な状況で行うことはかなり困難であろうし,だからと言って南イタリアのどこかの港に9万人もの大軍を運べる船があったとも思えない。 スパルタクス軍がタレントゥムの近くまでたどり着いた頃、偵察に出していた斥候が恐るべき情報をもたらした。タレントゥムの西方に位置するブルンディシウムに、ルクルス率いるローマ軍が上陸したというのである。スパルタクス軍は,ローマの精鋭部隊であるルクルス軍と、執拗に食い下がるクラッスス軍に完全に挟み撃ちにされてしまった。常に冷静で的確な判断によって、幾多の困難を乗り越えてきたスパルタクスだったが、このことを聞いた瞬間にすべてのことに絶望してしまった。 今やスパルタクスに残されたのは,ローマ軍を撃滅して奴隷たちの国家を作る道だけであった。そのためには、今までのようにローマ軍を敗走させて進路を確保するだけでは無意味であり,彼らを殲滅する必要があった。このときのスパルタクスに残された選択肢は,クラッススとルクルスのどちらと戦うかだけであった。行動が遅くなると、あっという間にローマ軍に挟撃されてしまう。 プルタルコスによるとスパルタクスは、「先ず、馬を自分のところに引いてこさせると、剣を抜いて言った。戦いに勝てば敵の立派な馬がたくさん手に入るし,負ければ馬など必要でない,と。そう言い放って、馬を殺した。」まさに、この戦いにすべてを掛けていたのである。 |
スパルタクス戦争
戦いの後
奴隷たちの |
スパルタクス軍が壊滅した「最後の戦場」から、運良く逃れられた奴隷の数は約2万人だった。しかし、彼らの多くはその後も戦いを続けなければならなかった。捕虜になった6千人の奴隷たちが磔にされたことを見ている以上,降伏が受け入れられないことは明白だった。彼等は,既に破れていたクリコス軍、カストゥス、カンニクス軍の残党を糾合して、頑強に反抗を続けた。その勢いはなお侮りがたいものが有り,ブルッティウム半島を一時的に支配下においたほどであった。 当時のイタリア本土の人口は600万~750万といわれ、そのうち奴隷の人口は200万~300万といわれている。奴隷人口を200万とした場合、農業や牧畜などに従事した農奴は120万、都市に住み手工業労働に従事したり、家内で召使として使用されていた都市奴隷は80万と推定されている。 では、後に残った100万人の農奴たちはどうなったのだろうか。 |
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ローマの |
スパルタクス軍を破ったのはクラッススであり,それは誰もが認める事実だった。しかし、その功績を半分以上ポンペイウスの物にされるのを阻止できなかった。ポンペイウスは、スパルタクス死後の困難な掃討戦を効率良く終結させたからである。ポンペイウスが元老院に送った手紙には,「表立った戦いではクラッススが逃亡奴隷を破ったが、戦争の根を絶ったのは自分である」と書かれていた。 BC70年、奴隷残存軍の掃討戦が続く中,クラッススとポンペイウスが揃ってコンスルに就任した。法律的には、ポンペイウスには立候補する権利すらなかったのにである。ローマ市民が如何にスパルタクス軍鎮圧を重視していたかがわかる。また、それでなくても中小農民の没落によって荒廃していた農地が,スパルタクス戦争によって壊滅状態になってしまった。ローマ軍の基礎を支えていた中小市民の無資産化によって、ローマ軍は一部資産家の財力によって保たれるようになる。その代表がクラッススであり,ポンペイウスであった。ローマは共和制の基礎と精神を徐々に失い,ローマ軍は権力者の私兵となっていく。 クラッススは他の二人に対して、軍事的な功績が劣っていることを不名誉であると感じていた。後に、シリアの統治権を得たクラッススは,喜び勇んでパルティアへの遠征を行った。しかし、その遠征はあまりにも安易であった。 |
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スパルタクスの |
古代の歴史家は,奴隷たちの蜂起とスパルタクスの名前を恐怖と驚きを持って書き記した。しかし、中世の暗黒の中で彼の名前は忘れ去られてしまったいた。そして18世紀に入り、啓蒙主義の登場と,支配者と被抑圧者間の闘争の活発化により、スパルタクスの名は自由を求める闘士の代名詞として復活した。 スパルタクスは,困難な戦いの中で最後まで公正さを保ちつづけ、冷静で的確な判断によって多数の奴隷をまとめあげた。そして何よりも、その人間として最も根源的な戦争目的によって、多くの人々の共感を呼び起こす。ほとんどの戦いは,欲望や見栄によるものであり,民衆にとっては戦争によって生じる悲惨さとつりあう物ではない。このため、戦争を起こすこと自体が批判の的になる。しかしスパルタクス戦争では,道具として扱われ自らの意思さえも抹殺された奴隷たちが,人間として最も基本的な自由を目指して起こした絶望的な戦いであり,おそらく現代においては批判を加える者はいないだろう。 |
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