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当分の間は発掘を控えるらしいね。
後、高宗と武則天が合葬されている乾陵も未盗掘だっけ。
始皇帝陵、地下に巨大建築物=30メートルの「高楼」-中国
7月2日22時0分配信 時事通信
【北京2日時事】中国陝西省西安市郊外にある秦の始皇帝(紀元前259年~同210年)陵の地下に、土を打ち固めて
造った高さ30メートルの巨大な建築物が存在することが考古研究チームの調査で明らかになった。中国紙・北京日報
が2日報じた。
同紙によると、この「高楼」は下へ行くほど広くなる形で、9層の階段式となった4面の壁を持つ。陝西省考古研究院
の段清波研究員は「常人には考えもつかない建造物で、中国古代の墳墓史上、前例がない」としている。
2007年8月31日、陝西省西安市の始皇帝陵について、兵馬俑博物館の
曹ウェイ(ザオ・ウェイ)副館長は「遺跡の現状を長期的に維持するため、
当面いかなる発掘計画もない」と言明した。皇帝陵の地下には巨大地下
宮殿などの存在がすでに確認されているが、発掘による全容解明は
持ち越しとなりそうだ。
2002年、中国政府はまだ謎の多い始皇帝陵について、遠隔探査技術
などを利用した調査を実施。その結果、巨大な地下宮殿と墓室の存在が
確認された。しかし、本格的な発掘を始めれば遺跡の現状維持は難しく、
ダメージを与えることにもなりかねない。そこで将来、技術的な条件が
整うのを待って発掘するとの方針が固まった。
その時期について曹副館長は「少なくとも私が生きている間には
(発掘は)ないだろう」と、かなり先になるとの見通しを示した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070901-00000017-rcdc-cn
2007年9月13日、イギリス・ロンドンの大英博物館で中国秦代兵馬俑展が開催された。
今月11日、大英博物館で中国秦代兵馬俑展の開幕式が行われ、13日から一般に向け正式公開された。秦の
始皇帝の兵馬俑や楽俑のほか、秦代の青レンガや瓦当など、陝西省西安市の「秦始皇兵馬俑博物館」から2000
年以上前の中国文物が約120点展示される。
同展は中英の文化交流の一つとして、来年の4月6日まで開催される。兵馬俑展は1967年3月から海外出展を
始めて30年間、世界30か国以上で開催されてきた。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g11299.html
見つかり、考古学者らは秦朝(紀元前221-同206年)最後の王、子嬰
の墓ではないかとみて調査している。新華社などが29日までに伝えた。
墓は始皇帝陵を取り囲む外城の北西約500メートル付近で2003年に
見つかり、南北109メートル、東西26メートル、深さ15メートル余り。
規模や造り方、陪葬坑などの状況から、子嬰が埋葬された可能性がある
という。
中国紙、北京日報によると、歴史書などでは子嬰は第2代皇帝、胡亥の
兄の子とされる。秦王に即位して間もなく、漢朝を打ち立てた劉邦に投降
したが、その後殺害され、どこに埋葬されたか不明だったという。
ソース(イザ!・共同通信) http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/87448
項羽じゃなくて劉邦かいな
2007年9月16日、新疆ウイグル自治区アクス地区温宿県の医薬品工場敷地内から
ミイラが発見された。
16日、羊を放牧中の農民は、土手からにょきっと伸びている手を発見した。死体では
ないかと慌てに慌てて掘り起こしてみれば、出てきたのはなんとミイラ。体の各部は完
全な状態で、辮髪や髭も生前の状態を保っている。着ていた青と白の中国服もまだ色
鮮やかな状態だった。
通報を受け、ただちに公安局および文物部門が出動し、ミイラの鑑定にあたった。ミイ
ラが発見された土手には2基の墳墓が発見された。ミイラの身分、埋葬年代については
現在調査が進められている。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g12149.html
2007年11月14日、チャイナフォトプレスによると、湖北省武漢市にある文物保護施設・江夏二妃古墳群から、
保存状態の良好な明代の磁器24点が出土した。
江夏二妃古墳群の墓室は青レンガで彩られた長さ5.1mのアプローチから入る。奥行き5.8m、幅2.4m、
高さ2.3mの墓室内には石の棺があり、この南側から白磁、青磁などたくさんの磁器が出土した。なめらかで
柔和な光沢を持つ出土品は壺、湯飲み、碗、三つ足の香炉などで、龍の文様が施されたものもあった。
武漢文物考古専門家の許志斌(シュー・ジービン)氏によると、ここには湖北省のスポーツセンターを建設予
定のため、9月より緊急発掘調査が行われていた。そして江夏二妃古墳群の西側30mあまりの地点でも一組
の夫婦の墓が発見され、墓碑とともに磁器数点が出土した。考証を経て、埋葬時期は明代の成化7年(1471年)
と判明した。遺骨は見つかっていないが、埋葬されているのは明代初代皇帝・朱元璋の第6子である朱ジェン
の孫ということが墓碑銘からわかっている。このように製造時期を確定できる磁器は、今後の貴重な研究材料
となる。
最終更新:11月16日11時18分
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071116-00000005-rcdc-cn
2007年11月12日、江蘇省南京市の獅子山一帯で、先ごろ発見された春秋戦国時代(紀元前770~紀元前221年)
の大型墳墓の発掘作業が行われた。
南京市博物館考古部のスタッフが多数の労働者を伴ない発掘に当たっており、作業はすでに半月ほど行われてい
る。同博物館の考古学専門家によると、墳墓は高さ7.2m、幅54m。春秋戦国時代の貴族の墓だと見られている。
05年にも同省鎮江市などでもいくつか墳墓が発見されているが、ここまで大きい墳墓を発掘するのは南京では初め
てだという。
墳墓には3か所で穴が見つかっており、一番大きいもので直径2.6mもある。専門家の分析によると、これらの穴は
別々の時期に盗掘に遭った跡だという。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g12845.html
2007年11月26日午後11時40分、湖北省荊州市で2000年以上前の西漢時代の古墳から棺が取り出され、
荊州市博物館へと移送された。
輸送前、専門家によって一部を開けられた棺には浸水の形跡はなく、内部の良好な保存状態が期待される。
発掘作業の総指揮をとった王明欽(ワン・ミンチン)氏によると、棺の眠る安置室からは大量の貴重な文物が発
掘され、あとは棺の考証作業を待つばかりだという。棺の大きさは幅0.98m長さ2.56mで、内部にはさらに棺
が納められている。国家文物局も今回の発掘には大きな関心を示しており、局からも専門家が赴いて考証の
指導にあたる。
荊州市では1975年に、鳳凰山168号漢墓から墓主の遺体が発見されて話題となった。今回の発掘からも同
様の発見が見られるかどうか、期待されるところである。
荊州市は国家歴史文化名城に指定されており、かつては赤壁の戦いなど、多くの武将の戦いの舞台となっ
た。紀南城など楚時代の都市遺跡が5か所、文物が発掘された場所が73か所、800か所以上の墳墓が見つ
かっている。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g13188.html
2007年12月4日、清朝(1636年~1912年)第11代光緒帝(1875年~1908年)の謎に満ちた最期に関する
興味深い記事が、香港の総合雑誌「紫荊」に掲載された。中国のニュースサイト「中国新聞網」が伝えた。
「病死か?」「毒殺か?」、光緒帝の死にまつわる謎は100年後の今日、最新の科学技術によって解明され
ようとしている。1938年に埋蔵品のすべてを盗掘者に奪われてしまった光緒帝の墓陵「崇陵」。80年代に国家
文物部門が再調査した際に、光緒帝の遺骨と遺髪を発見した。今回これらを化学分析したところ、遺髪の一部
に通常の1000倍から2000倍のヒ素が確認された。毛髪全体にではなく一部分にだけヒ素が存在していたこと
から、急激な摂取による中毒死の疑いが濃厚になった。今後は胃の付近の微細骨を検査し、再度ヒ素が確認
されれば中毒死と断定されることになる。
歴史に名を残した西太后(1835年~1908年)に疎まれ幽閉された光緒帝。彼が崩御した翌日に、西太后自
身も崩御。「崇陵伝信録」や「清稗類チャオ」には、臨終の床についた西太后が自分の死後に光緒帝が権力を
握ることを恐れたため、人を使って彼を殺したとの記述がある。また「後功口述歴史」のなかに、光緒帝は死の
直前に西太后から賜ったヨーグルトを食べたとの礼部尚書(長官)の証言が残っている。「清実録」の中には、
生前の光緒帝の健康状態について「慢性病があったが、死の直前まで元気だった」と記されている。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g13391.html
道光帝陵が近世では未盗掘。
話では生前の道光帝は倹約家で知られ、盗掘する盗賊ですら
「アイツはドケチだからろくな副葬品もねーだろw」
とうそぶいたという。
順治帝陵は盗掘されたが崩御前に出家したと伝わる彼の陵には柩と生前愛用の扇子一本だけだったという話がある。
それ以前に紙にしろ布帛にしろ、よほど特別な保存状態でないと
(たまに虫干しするとかしないと)そのまんまじゃ唐代で古すぎてまず残ってない。
木・竹簡ならば辛うじて残ってるかもしらんけど。
蘭亭序がきちんと残っている可能性がわずかながらあるか?
そして紙自体がくっつかない様に別の吸湿性の高い紙と共巻きにして、密閉容器に収め
更に周りを蝋などで固めまた密閉容器に収めでもしてたら、観賞に耐え得る状態で残存するかもしれない。
だけど、紙の一番いい保存法は適宜な風通しと直射日光に当てない事。
太宗より少し下る楮遂良の蘭亭序の搨写が今尚残り観賞出来るのはそれ故。
しかし単に密閉空間に収められてただけでは、それよりも後の韓愈が批判した土中に収められてた法門寺の仏舎利供養の豪壮な衣服が
残存してても質は脆くなってたのを考えて頂ければ、更に材質の弱い紙が残るかどうかお分り頂けるかと。
如何に日本より乾燥してる大陸でも、土中では限界があるんですな。
よく保存されている可能性が高いかな。
中国の秦の始皇帝の兵馬俑(へいばよう)を展示しているとの触れ込みだったドイツ北部の展示会が
14日までに中止された。ドイツの業者が複製を納入していたことが発覚したためだ。
先月末から始まったハンブルクでの兵馬俑展では、8体の兵士と2体の馬などが展示され、約1万人が
来場した。しかし、関係者から「本物」ではないとの指摘が寄せられ、警察も捜査を開始。結局、独東部
の展示業者が独メディアに対し、中国から入手した複製であることを認めた。博物館側は来場者への
払い戻しを直ちに始めた。
独国内の専門家は今回の事態について、「ドイツの美術史上、最大の犯罪」と強く批判。中国の兵馬俑
管轄部局も「人々を欺く行為」と業者への提訴も辞さない構えだ。(ベルリン 黒沢潤)
(MSN産経 2007.12.14 21:02)
http://sankei.jp.msn.com/world/asia/071214/asi0712142102004-n1.htm
な文物が陳列されるなど、開館以来16年間で最大規模の改修になったという。新華社が伝えた。
改修に伴い、多くの貴重な文物が新たに陳列されることとなったが、特に話題をよんでいるのが「緑面跪射俑」。1999
年に発掘されたもので、膝をついた姿勢で弓を構えている人形だが、制作当時に塗られた色が比較的きれいに残ってい
た。興味深いのがなぜか顔の色が薄緑に塗られていたこと。兵馬俑の兵士のなかで唯一だという。
薄緑の顔はどのような意味を持っているのか、専門家の間でも議論となったが、いまだ定説は出ていない。一部では
「職人のいたずらではないか」との意見もあるほど。リニューアルした陝西歴史博物館を訪れた折にはぜひこの新たな
古代の謎に注目して欲しい。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g13996.html
2008年1月6日、重慶市●陵区(●は培の偏をさんずいに変えたもの)の遺跡「平安村墓葬群」から中国
国内最大となる長さ1m93cmの陶器製の棺が発見された。重慶商報が伝えた。
「平安村墓葬群」は長江のほとりにあり、三峡ダムの貯水が進めば水没してしまうため、緊急に発掘が
進められていた。6日、新たな墓穴が見つかり、陶器製の棺が発見された。棺のほかに大量の皿や壺、
陶器製の人形、鳥、犬などの副葬品も発見された。
同遺跡は約2000年前の前漢時代のもの。陶器製の棺は出土例が少なく、極めて貴重。これほど大きな
棺を作るためには専門の窯が必要で、埋葬者が富裕であったことがうかがえるという。
http://www.recordchina.co.jp/group/g14564.html
2008年1月7日、チャイナフォトプレスは10余年前に大規模な盗掘被害にあった、漢代の名君「宣帝」とその
皇后の墓である「杜陵」の現状のルポを配信した。
陝西省の古都、西安市はかつて1000年にわたって王朝として栄え、歴代皇帝の墓が多数残っている。中
でも「杜陵」は西漢時代(紀元前206年~紀元8年)の皇帝の中で最も埋蔵品が多い墓と言われている。その
ため盗掘犯にとってはまさに「お宝の山」。広大な敷地では殉葬者の墓も含めた一群が、どれも無残な穴と
化している。周囲一帯には瓦片が散らばり、掘り起こされたばかりの真新しい土の山も見える。
盗掘犯が狙っているのは、「瓦当」(がとう)と呼ばれる文字や模様が描かれた筒瓦の先の部分。魔よけや
吉祥を意味する。その文字は「瓦当文字」と呼ばれ、今でも篆刻やはんこなどに好んで用いられるという。
現在、警備の方がどうなっているのか?「杜陵保管所」の職員は、「この広大な敷地を職員数人と2台の
バイクだけで見回るのは無理」と嘆く。しかも最近の盗掘犯はハイテク化しており、以前よりさらに捕まえに
くくなっているという。
盗掘犯はお目当ての「瓦当」だけを持ち去るために、貴重な歴史文化財である筒瓦をどんどん割っていく。
中国人すべての財産である「杜陵」を守る方法はないのか?とルポは悔しさをにじませている。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g14536.html
2008年1月10日、安徽省安慶市の源浦寺で清代高僧のミイラが公開された。死後すでに230年が経つが、
まったく損傷がなくまるで眠っているかのようだ。
このミイラ仏は清代の高僧・了真大師。1777年に96歳で死去したが、晩年に自身の遺体をミイラ仏にする
ように弟子に命じていた。以来230年間、戦争や自然災害など多くの災難を乗り越え、いまだに当時同様の
姿を保っている。もっとも危なかったのは1950年代に起きた事件で、迷信を打破しようとした群衆が槍でミイ
ラ仏を突き刺そうとしたが、直前で制止された。
源浦寺の住職・釈心広氏によれば、安慶市には多くのミイラ仏が存在するが、これほど完全な姿を保って
いるものはないという。同市の専門家は源浦寺のミイラ仏は死去後の年数で国内第3位となる貴重なものと
話した。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g14570.html
2008年1月12日、広東省仏山市の三水中医院(旧人民医院跡)工事現場で約400年前の墓が見つかり、棺の中からは
女性と見られるミイラが発見された。
建設作業員が土を掘り起こした際に発見した。墓の長さは約50cm、幅は約30cm。そばには木製の棺とふたが散らばっ
ていた。墓の前には白色の石灰類の物質が積まれており、専門家によると、これは墓の一番外側の保護層で、その中に
棺があった可能性が高いという。
19日、専門家らによって墓の掘り起こし作業が慎重に行なわれ、初歩段階の鑑定も実施された。鑑定によると、墓は今
から約400年前、明(1368~1644)か清(1644~1912)の時期に建てられたもの。棺の中のミイラは身長156cm程度で、
30歳前後の女性であると見られている。棺が精巧であることや衣服についていた物質などから、一般人ではなく、身分が
高い女性である可能性が高いという。
現在、棺や副葬品は同市内の博物館で保管されている。ミイラは広東省薬学院に運ばれ、今後さらに精密な鑑定が続
けられる。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g14990.html
日本以上に多そうだな。
古い街並みどんどんぶっ壊して
地下街や地下鉄作りまくり
なのに遺跡や遺構の発見報告がほとんどない。
>>28の言うとおりなんだろうな…
発見報告は相次いでるけど
近年は発掘ラッシュだよ
大体墓も平気で掘り返し、目印の木や埋蔵品は売り飛ばして跡地は田畑にしてしまうのが
古代からの中国民衆クオリティ。漢詩に詠まれる程だから。
誰の詩だっけ
しかし、完全保存技術が確立されるまで暴いてはならぬ、という偉い人の遺言があるとか。
本当か?
http://mirai660.net/castle/okamisanzaikofunjyoh_model.html
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彡彡彡
ミミミミ
ミミミミ
ノ σ ヽ
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( ( ( O ) ) )
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女性蔑視・軽視の吉川裕(東北大学大学院博士課程)を糾弾する
今はどうなってるの?