5分でわかるワグラムの戦い
by
sekaishi1
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公開
· 更新済み
フランス帝国・ザクセン王国
バイエルン王国・イタリア王国 |
VS |
オーストリア帝国 |
ナポレオン1世 |
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カール大公 |
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150000 |
|
160000 |
背景
1808年、フランスで外相タレーランが警察大臣フーシェと組んだナポレオンに対する陰謀が元で罷免された。しかしフーシェはその有能さを惜しんだナポレオンに許された(タレーランも優秀なんだけど)。それを恨んだタレーランはオーストリアにフランスの情報を流し、オーストリアにナポレオンを討たせようとした。軍備を整えるオーストリアに対し、ナポレオンも軍備を整えたが、その中身は三分の一が新兵、もう三分の一がザクセン・バイエルン・ポーランドの外国人部隊というものだった。
1809年4月10日、オーストリア軍がナポレオンに服属していたバイエルンに進撃する。それにナポレオンも応じ、オーストリア軍司令官カール大公をエックミュールの戦い(4/21~22)にて破って後退させる。
なおもナポレオンは進撃を続け、5月13日には再び首都ウィーンを落とす。カール大公はドナウ川を挟んだウィーンの対岸に布陣してフランス軍を待つ。
5月21、22日のフランス軍の渡河戦であるアスペルン=エスリンクの戦いは渡河の妨害に成功したカール大公の勝利に終わった。この戦いで、ナポレオンを長きに渡り支えてきたランヌが両足に負傷し、治療のための片足の切断後の傷口が暑さにより化膿し、それがもとで死んだ。
7月4日午後10時、ナポレオンは再び渡河を企てた。今回は暴風雨の日であり、カール大公の不意を突いた形となり、翌日には無事完了した。
経過
7月5日の夜、ナポレオンはイタリア軍を率いるウジェーヌ麾下のマクドナルド将軍にワグラム高地の奪取を命じる。しかし、それ夜中だったので、ベルナドット率いるザクセン軍の軍服とオーストリア軍の軍服がどちらも白色だったため、誤ってマクドナルドは味方のザクセン軍を攻撃してしまった。カール大公はそれを見逃さず、そこへ攻撃を仕掛けた。フランス軍(混成軍だけど、便宜上以降は「フランス軍」と書く)は2000の損害を出しつつも何とかそれを撃退し、その日の戦闘は終わる。
翌日の戦闘は朝のカールオーストリア軍の攻撃から始まった。フランス軍右翼のダヴーがオーストリア軍左翼を撃退したものの、中央ではベルナドットが押され、左翼20000を率いるマセナ元帥も三倍もの敵に苦戦を強いられ、エスリンクまで後退する。これにより、一時アスペルンをオーストリア軍に占領された。
それに対し、ナポレオンはベシェール元帥をマセナ援護に回す。ベシェールは奮戦するも、彼自身股を負傷するなど依然として苦戦していた。そこでナポレオンは近衛兵の砲兵隊を敵前400メートルと大きく前面に押し出して、何とか敵を食い止めるのに成功する。
一方、中央ではマクドナルドがオーストリア軍中央に対し攻勢に回っていた。そこでナポレオンはダメ押しにとベシェール騎兵隊の一隊を率いるナンスティー将軍に敵中央への突撃を命じた。しかし、臆したのかナンスティーの動きは緩慢であった。
午後4時、負け戦を悟ったカール大公はその隙を突いて撤退を開始する。既にワグラム高地をダヴーが占領していたにもかかわらず、フランス軍はオーストリア軍を取り逃がしてしまった。
この戦いは激戦であり、両軍共に多くの兵士を失った。フランス軍は27000人の死傷者を出し、5人の将軍が戦死し、37人が負傷した。一方のオーストリア軍は25000人の死傷者と12000人の捕虜を出した。
その後
この敗北が決定的敗北となり、オーストリアは再度ナポレオンに屈した。7月12日、両国は停戦し、14日にはシェーンブルン条約に調印。オーストリアは8500万フランの賠償金の支払い義務を負い、イリリアをフランスに、ザルツブルクをバイエルンに、ポーランド領をワルシャワ大公国に割譲した。この領土割譲によりオーストリアは全人口の6分の1に当たる400万人を失った。
また、このたびの戦功によりマクドナルド、マルモン、ウーディノが元帥に昇格し、参謀総長ベルティエがワグラム大公、(戦いには参加していないものの)フーシェがオートラント公爵に叙せられた。 |