倭寇を語る中国史スレ・世界史スレ
いや、詳細はわかりきってるんだ。
あれ全部朝鮮、明海賊。
そして朝鮮寇だとわかりきってるのに、意図的にむこうが認めないだけ。
いわゆる倭寇謀略をかました、謀略方侵攻。
朝鮮寇の倭寇ブロパガンダ挿げ替え。なだけ。
後期に明の沿岸で活動していた連中は、
成分がかなり違っているだろう。
もっと前の前期、元朝の頃の倭寇ってのは実際どんな感じだったんだろう?
多分、九州の悪党と商人が結託してただろう。
兵を出してたっぽいしね。
いろんな連中がごっちゃになっていたと思うよ、倭寇って。
元朝末期頃の高麗ってぐだぐだだったみたいだし。
【日明戦争】文禄・慶長の役【万暦役】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1182128954/
何でもかんでも和冦って判定してたんだろな。
凶暴な倭人と名乗れば、それなりに威嚇効果もあっただろうし。
明の官の側だって、日本人ということにしておけば、
いろいろと処理しやすかっただろうし。
少林寺守護神・緊那羅王
『少林寺志』によると、緊那羅は元末明初の少林寺に実在した僧で、俗名を許那羅という。
普段は寺の炊事僧として働いており、誰の話題に上る事もないような目立たぬ存在だった。しかし元朝末期に起こった農民蜂
起軍である紅巾軍が、大挙して少林寺に攻め入り寺の財物を略奪しようとした時に、寺の衆僧で誰も敵う者がいないのを聞くと
棍を手にして飛び出し、見事これを撃退した。
後世、観音菩薩の化身・緊那羅王として神化され、現在でも当地の武術家によって「少林武術の守護神」もしくは「山門顕武
第一人」として奉られている。
月空和尚、倭寇を撃退す
西暦1551年(明嘉靖30年)、月空和尚を首領とする少林僧兵100余人は、中国南方沿岸部に出没しては猛威を振るってい
た倭寇を撃退するために出撃し、数度の戦闘で倭寇に壊滅的な打撃を与えた。しかし度重なる激戦で、月空をはじめとする僧兵
らも最後には全員戦死、寺に帰ることはなかった。少林寺の西にある搭林(歴代高僧の墓碑)には、月空和尚のための搭が今で
も残っている。
。真倭といわれた日本人は10~20%、偽倭、仮倭、装倭とよばれた中国人が
主力であった。
ネタ元 逆説の日本史9 鉄砲伝来と倭寇の謎 P83
空き城を倭寇が荒らし回ったって感じだったのかな?
当時の中国を支配していた明王朝が【海禁】つまり海外貿易禁止令を出した
からだ。これにより貿易業者は自動的に犯罪者にされてしまった。これは福
建省や広東省のような農業生産額が低く貿易しなければ食べていけない省に
とっては死活問題だった。彼らはやむなく官憲の目を逃れて密貿易をするか
武装して官憲に抵抗した。これが後期倭寇の正体である。ちなみに中国の歴
史家の中には『倭寇は全て日本人だ。中国人はいない』と主張するものもい
るが彼らの中で【海禁】のあと中国の貿易業者がどうしたのか説明出来るも
のはいない。
http://book.sina.com.cn/nzt/his/guoshishiliujiang/39.shtml
“海禁”与“倭寇”(2)
http://book.sina.com.cn/nzt/his/guoshishiliujiang/40.shtml
・・・・全部中国語・・・・要点だけでも和訳してくんない
経済のグローバル化とともに、海禁政策は時代に合わなくなってきた。
もともと朝貢貿易やってたんだけど、寧波事件で日本との貿易が制限された。
日本との貿易は儲かるので、沿海の人は勝手に商売をはじめた。
官が取り締まろうとすると、武装して対抗した。で、倭患と呼ばれた。
(2)
そもそも倭寇というのは、辞書では日本の海賊って書かれてるけど、日本人は少なかった。
ほとんど中国の商人とかだった。じゃあなんで倭寇と言われてるかというと、
確かに少数ながら日本人がいたし、倭寇側も嘘の情報流して取締りを混乱させようとしていたし、
取り締まる側でも日本人だとしたほうが功績になるから、そう報告していた。
王直は海禁解除を要求してたんだけど、首斬られちった。王直死後、倭寇はますますひどくなった。
それから、倭寇はみんな中国沿海の人だとか、海禁の弊害とかが言われるようになった。
政策が転換されてから、倭寇はいなくなり、海上貿易は新たな段階に入った。
よくわからん。あとは中国語わかる人よろしく。
ありがとうございます。反日でもなければ親日でもない客観的な記述だと言うことは分かりました。
>>27
そうですね。むかしは国籍なんてなかったしそもそも一般庶民は自分の国の名前も
民族の名前も知りませんでした。18世紀、日本からシベリアに漂流した日本人が
『お前はどこの国から来た』と聞かれ『オレは江戸から来た』と答えたそうです。
彼は自分の住んでいる国が日本と言う名前なのを知らなかったんですね。
日本と中国沿岸、東南アジアなんかを往来していた人たちの中には、
日本人とも中国人とも呼べないような人たちだっていただろうしなあ。
上方の京都人なんかよりは、
江南沿岸の中国人の方が親近感があったかも知れないね。
海上には警察も裁判所もないから海は無法地帯でありそこに出る船は自衛のため
武装していた。そうした武装商船は商売が上手くいかなければ即海賊になった。
そして領主の要請があればいくさにも出た。この点当時の武士と似ていた。
当時の武士は平和な時は農場経営をし、いくさの時は戦い、さらにいくさでは
略奪暴行は当たり前だった。そしてこの略奪品が大事な収入源だった。当時の
屏風絵には逃亡する敵方の女性を捕らえる為わざわざ川べりに小船を待機させ
ておく大名が描かれている。
通行料を払った船には、航路の案内や護衛をつけるようなサービスをしたけど、
通行料を払わない船は、容赦なく襲っていたようだしね。
中国の長江とか太湖あたりで活動していた連中は、
どれぐらいの勢力があったんだろうか?
ずしも民衆から嫌われていなかったと言うことだ。なぜ民衆から嫌われないのか
と言うと中国の税制を見ていかなければならない。そもそも中国と言うのは基本
的に大陸国家であり広大な領土の割には海岸線が少ない。よって塩が取れるとこ
ろは限られてくる。この限られた製塩地を押さえ塩を官営にし高値で売れば莫大
な利益が上がる。そして人間は塩が無ければ生きていけないからどんな高値でも
買う。それでも原価の2,3倍程度なら民衆も我慢して買うだろう。しかし役人
の腐敗では世界的に有名な中国官僚の経営、値段は5倍10倍にも跳ね上がり、
さらに塩に砂や泥を混ぜて水増しするのも日常茶判事そこで官に抵抗する湖賊、
官の呼称では塩賊が登場する。彼らは官の半額程度の値段で良質な塩を売った。
官の半額でも原価の4,5倍だから利益は莫大だ。こうして湖賊ないしは塩賊は
大勢力を誇った。
腐敗の経営で5倍に跳ね上がったとは少々言いすぎ。
そりゃ塩の専売で私腹を満たした官僚いくらでも居るだろうが、
やはり塩専売は暦朝歴代の貴重な財源で、多くは政府に吸い取られた。
例えば今日本の煙草税を見てみろ、7割以上が税だといわれている。
ああいうものから税をたくさんとるものだ、政府は。
官がほとんど悪に近い存在なので、庶民の視点から見れば、
ヤクザ的な幇会組織も必ずしも悪とは限らない。
も同じだけ税を取るなんて』と言われるかもしれないが、そもそも近代以前は身
分の高い者は税金を払わなかった。それも税金をごまかして払わなかったのでは
なく合法的に税金を払わなくてもいい特権を持っていた。ところが塩税は王侯貴
族だろうと百姓町人だろうと関係なく塩を買う度に払うことになる。あくまでも
当時としてはだが良い税制だったんだ。
古代にも倭寇に類するような勢力の活動があったのかな?
それなりの強い影響力を持っていたことは、多分確実。
日本書紀・魏志倭人伝・隋書 東夷伝 ・宋書 夷蛮伝 ・三国史記 新羅本記・三国史記
百済本紀 中国政府外交部英国:オックスフォード大学・米国:コロンビ-ア大学・米国議会図書館…
これだけの歴史書や教科書が、一様に「-新羅や百済は倭(日本)の属国だった」と述べている。
・勾玉=材料となる翡翠が東アジアで日本の糸魚川でしか産出されない。
・全羅南道からは鹿角製刀装具や珠文鏡が出土していてこれも日本の原石から作られている
・土器=日本最古の土器(1万6500年前)がほぼ『世界最古』の土器。
・水田稲作=「①炭素測定法、②品種遺伝子」が日本が朝鮮に伝えた証拠。
・前方後円墳=日本のほうが古い。韓国の前方後円墳の出土物は日本の土器類に酷似。
・4世紀頃(391年、倭が海を越え襲来し百済や新羅を破って服属させた
「広開土王碑」)から7世紀(白村江の戦い)まで、朝鮮半島は九州などと同様に日本(倭国)の一部。
・百済の「武寧王」も、その父の「東城王」も、日本の九州で生まれ朝鮮半島に渡った。
・東城王(末多王)の百済王即位も日本(天皇)によって決められた。
・武寧王の子「純陀太子」は日本に人質とし
て来て、子孫もそのまま日本に住み着いた。
・「百済とは昔から日本(倭国)の一地方」だったため、百済の王は天皇が決めていた。
日本生まれの「東城王(末多王)」や「武寧王」等が朝鮮半島に渡って即位していた。
・インド発祥の仏教は中国を経て日本の一部である百済経由で日本本州伝来した。
新羅の王の、王冠の飾り(宝石)も日本産の素材。
全羅道で発見された日本式古墳の遺体のDNAを調べたら、
日本人と極めて近いって判明している。
古墳が日本式で日本の材料を使った装飾品、
王に日本生まれの倭人が出ている、家臣にも倭人が多い、
百済が滅ぼされたとき、半島で言葉が通じなくなって、
意思の疎通が困難になったなどなど。
高句麗も扶余系で 高句麗語も古代日本語との類似点が、
指摘されている。
言ってしまえば、古代の半島は日本系民族が治めていて、
後の朝鮮民族の元になる、新羅系に侵略されて、
半島南部を奪われたと言える。
時の中国を支配していた明王朝が【海禁】つまり海外貿易禁止令を出したから
だ。これにより貿易業者は自動的に犯罪者にされてしまった。これは福建省や
広東省のような農業生産額が低く貿易しなければ食べていけない省にとっては
死活問題だった。彼らはやむなく官憲の目を逃れて密貿易をするか武装して官
憲に抵抗した。これが後期倭寇の正体である。ちなみに中国の歴史家の中には
『倭寇は全て日本人だ。中国人はいない』と主張するものもいるが彼らの中で
【海禁】のあと中国の貿易業者がどうしたのか説明出来るものはいない。
ネタ元 逆説の日本史9 P83~P212 第二章 海と倭寇の歴史編
沿岸部の住民を全員強制移住させてしまう、極端なことしたしな。
2007年12月29日、中国のニュースサイト「中国新聞網」は南宋時代の沈没船「南海1号」が前日28日の午後4時頃、無事に
新居となる広東省陽江市にある「海のシルクロード博物館」内の巨大プール「水晶宮」に移されたと報道。
今から約800年前の貿易商船「南海1号」は、ほぼ完璧な姿で海底に沈んでいたため、船内には数万点にもおよぶ貴重な
文物が残されているとされ、その価値は3000億ドルに上るとの専門家の意見もあるほど。
記事ではさらに香港紙「文匯報」の報道として、今回の「南海1号」引き揚げ成功を受けて、当局は明の万暦帝時代(1573年
~1620年)に沈没した船を「南海2号」と名づけ、その引き揚げを来年中旬に計画していると伝えた。「南海2号」は船体長
約20m、船体はほぼ原型を保っており、船内には数万点の文物が残されている可能性が高いとのこと。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g14183.html
南海、すなわち南シナ海の海底にある沈没船ということ。
日本ではなく、東南アジアの方との交易船じゃないかな?
済州島に拠点を構えていたらしいな。
騎馬隊とかあったようだし、
明らかに日本人と違う。
済州島から出撃した騎馬軍団の倭寇って、多分モンゴル人だよ。
後に朝鮮を建国したのが李成桂。
阿只抜都はどう考えても日本人の名前ではない。
対馬や松浦の日本人も加担、
ってことはないか。
掲示板では「断固支持」との声が圧倒的だ
事件が発生したのは2008年1月15日午前11時25分ごろ。仕事で来日していたという中国人容疑者(43)が、靖国神社で80代の男性が持っていた日の丸(縦1メートル、横1.5メートル)を奪って脚で踏みつけ、さおを折った。
さらに、これを止めに入った40代の男性を殴るなどしたとして、警視庁麹町署に暴行と器物損壊の現行犯で逮捕された。調べに対しては黙秘した、という。
容疑者は自動車部品メーカーの副総経理(副社長)を務めたこともあり、自動車業界では影響力が大きい人物なのだという。
このような「重要人物」が、靖国神社で80歳の老人から日の丸を奪ってさおを折るという犯行に及んだというだけでも驚きだが、さらに驚くべきことに、この行為を「英雄的」などとして称賛する声が相次いでいるのだ。
安宅船みたいな、外洋では役立たずの船が中心だったのな
浅瀬や岩礁が多く、竜骨のある外洋対応船は逆に使いにくく、
平底の安宅船、関船が中心になった。
倭寇が使っていたのは八幡船などと呼ばれるジャンク船だけど、
沿岸部での活動には不向きだったから、
瀬戸内の村上水軍なんかは用いることがなかったんだと思う。
村上水軍なんかは水軍力としてはほとんど役立たずになるだろうな
むしろ松浦党とか、島津の水軍あたりがいいか
江戸時代に鎖国したから伝わらなかっただけで。
東日本の日本海側や、奥州には中世に栄えた港町が結構あって、
普通に上方と船を往来させているし。
東日本、北日本はどうだったんだろう?
あまり掠奪するほどの物産はなかったかも知れないけど、
それなりに水運は発達していたはず。
南西には大韓海峡の荒波が押し寄せる暗礁だらけの海岸に囲まれた人里離れた村だ。日本の民俗学者
が中世社会が残る場所とするほどに隔絶された場所だ。この人里離れた村のある神社に直径79センチ
にもなる大きな’青銅製高麗どら'(写真)がある。普通の高麗どらの直径は30~40センチ。
李ヤン放送通信大日本学科教授は、豆酘の高麗どらが倭寇研究に重要な糸口を提供すると考えている。
倭寇研究の最大の論点のうち、日本側の研究者たちは「倭寇=日本人」であることを立証する日本側文
献がないことにかこつけて、倭寇が高麗人と日本人の連合集団と言う主張を申し立てて来た。
「対馬豆酘多久頭魂(タクヅタマ)神社所蔵の高麗の金鼓と倭寇」という論文で李教授は、どらに刻
まれた銘文を再解釈する。どらには去る1245年製作当時刻まれた文が残っている。「禅源乙巳五月日、
晋陽府鋳成□福寺飯子一印」。「□福寺」を高麗の武臣政権の最高実力者だった崔忠献(チェ・チュ
ンホン)の願刹、昌福寺(チャンボクサ)と考えれば全体文章の解釈が可能だ。崔忠献の息子である
崔瑀(チェ・イ)が自分の願刹である禅源寺を建てた高麗高宗32年5月(1245年)、武臣政権の核心権力
機構である晋陽府で崔忠献の願刹に使うどらを作って捧げたという。
普通のどらより直径が倍以上大きい、そのように大事などらがどうして対馬の人里離れた村にあるの
か?どらが日本に伝わった1357年、追加でどらに刻まれた銘文に糸口が見える。大蔵スネダネという
人物が同僚たちの業報(ごうほう)を消滅させようとこれを奉納したという内容だ。当時、高麗と日
本両国の間にはモンゴルと高麗連合軍の日本侵攻以後、軍事・政治的緊張が高まった時期だった。
どらを高麗政府が簡単に日本に渡したはずはないだろう。
麗のお寺を最初に掠奪した記録が残っている。恭愍王の代に一番格が高いお寺だった興天寺侵奪だっ
た。昌福寺にあったどらが武臣政権の崩壊で国家に没収され、興天寺に移されてから倭寇たちが掠奪
し、対馬に持って行ったということだ。
大蔵スネダネは当時、北九州の実力者だった少弐頼尚(しょうに・よりひさ)旗下にあった者だった。
結局、倭寇が対馬に限定して活動した無意図的な海賊ではなく少弐頼尚の統制下に対馬を経て計画的
に侵攻した集団だった、という結論に至ることになる。
李教授の論文は今月19日、釜山大で開かれた韓国中世史学会と釜山大民族文化研究所が共同主催した
「中世韓日関係史の中の倭寇」主題の学術大会で発表された。
釜山日報(韓国語)「倭寇、計画的に韓半島侵攻した」対馬豆酘神社の「高麗どら」
http://www.busanilbo.com/news2000/html/2008/0222/060020080222.1025102605.html
いろいろ航路が成立していたんだろう。
堺から坊津あたりの港に航路が通っていたんだと思う。
だから、刀の生産が盛んな堺の商人が行き来していた。
四国のどっかに立ち寄りそうなものだけど。
だいたい阿波の湊に立ち寄ったあと、一気に土佐沖を通って日向大隈まで行くらしい。
堺から南九州へ向かう船の中継港にはならなかったんだろうか。
中継する必要がなければ、スルーじゃない。
土佐の港は、上方へ木材を積み出すのに使われていただろう。
個人的にはツングース系もしくはモンゴル系なきがするんだけど。
韃靼疾風録の前半みたいな感じで。
高麗に何か利権を持っていたモンゴル貴族の系統だろうな
少なくとも日本人ではないだろう
アキバツをアキハチロウ(安芸八郎?)の音写じゃないかって書いてたな
疑問なんですが、倭寇は海賊で出身地も様々ですよね。
倭寇という一つの大きな組織や統制機構や規律があったわけじゃない。
だとすれば倭寇同士の縄張り争いや利権抗争が倭寇の主な闘いになるはずですがそんな話はききません。
なにか秘密があるのですか?知らないだけですか?
朝鮮寇
・そもそも、倭寇という字をプロパガンダ的に使うが、朝鮮寇である。
・記述には過去7世紀からの朝鮮寇、新羅、高麗海賊のことが書いてある。
・逆に、記述性あやしく、また当時記録としての倭寇の記録がない。一切ない
・当時九州北部と朝鮮南部のGDP、単純な石高生産量のひらきが3倍あり、また朝鮮南部は事実上ほぼ農業が普及してないため、当時状況として、朝鮮が襲撃する可能性が高い。
・14世紀の足利の失敗はブロパガンダにはめられたに近い
・また、チョンが、事実上朝鮮南部の朝鮮海賊の襲撃にあるか、もしくは記述がはっきりしないため倭寇だという証拠がない。
・そもそも、日本のほうがGDPが根本高く、あの区域にたいして商業船舶がないため、その襲撃を必要としない。
・また、朝鮮が明白に朝鮮海賊と迎合してる。これをもって朝鮮寇といえる
・また、高麗史(資料)そのものが記述性あやしく、偽証性もあるため、偽書の可能性がある。ないし掃討レベルの低い、資料にならない、妄想見聞である
・もしくは自分の朝鮮寇を自分で処理できないで、人のせいにするキチガイといえるだろう。
・露梁海戦で朝鮮海賊が全滅するとぴたり海賊が止まってる。その後、あの海域の商船とか海商増えたのにw
・さらに、多数襲撃で朝鮮寇がないとはいえない。
朝鮮寇である。
・さらに、それ移行の各種研究wはクソ朝鮮機構の資料でも証拠でもならない、ただの妄想のすげかえ記録なため資料でも証拠でもならない。
・過去1300年にわたって襲撃してるのである。朝鮮寇
むかついたんで書いた。
ぶっちゃけ足利は、当時日本が大変な混戦、混乱状況なため、見事にはめられた、だまされたよね。
そして、日本側資料だと、当時資料でも朝鮮寇の資料はでてくるのに、倭寇の資料はでてこない。
瀬戸内海賊は別。瀬戸内海賊は旧ちょうそかべとかの朝鮮系海賊wなんだけどw
宣祖実録の記録と、小西行長とその将兵から聞き取りしたフロイスの記録に残る、
日本人に成りすまして、略奪暴行する朝鮮人の記録↓(今も昔も変わらないね)
唐武陣 文禄・慶長の役の偏り2 民衆の騒乱
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcvk4n5gd
元のフビライカンに朝鮮人が日本遠征を進言
フビライカンその気になって、高麗王へ造船を命じ日本遠征(文永の役)。
第2次日本遠征(弘安の役)。高麗王自ら名乗りを上げ日本遠征を志願。
松浦党(倭寇j海賊)の根拠地壊滅。
松浦党復讐のため高麗遠征、海賊行為。
高麗があまりの被害に音を上げ懐柔策をとったため、倭寇の侵略対象が中国(明)へ。
倭寇の被害を散々言ってるけど言ってみれば自業自得。
歴史を忘れるな。朝鮮。
アベノミクス以前、日本の中央銀行がデフレ志
向で金融緩和しなかったからだ。日本と韓国は
輸出構造が似ていて、家電、自動車が輸出の主
力商品。商品の内容、性能も似ているので、最
終的には価格競争力がものをいう。日本が金融
緩和せずに円高傾向だったので、韓国ウォンは
相対的に円にくらべて安く、その分韓国の価格
競争力に寄与したのだろう。その結果、数年前
までは韓国が国際市場において有利だったの
だ。
それが最近は円安なので、日本の自動車・家電
業界は復活し、韓国の自動車・家電は不振に
陥っている。これは国内のデフレ化を防ぐため
に金融政策をどれほどやったかの差であり、為
替競争とはいえない。金融政策をうまくやるか
どうかで、天国と地獄の差がでてしまうという
ことだ。
間違いなく日本人である
真倭であった。
そこに中国沿岸部の
反中央的な海の民たちが
合流して膨れ上がっていったのだ。
色白の女の顔が見えるものがある
彼女は何者なのか。慰安婦でも帯同させていたのだろうかと、今でも気になっている
海人族 和邇
和人は海人族。天皇家。
和食さとへ行け