5分でわかる第二次ウィーン包囲
by
sekaishi1
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· 更新済み
オスマン帝国 |
VS |
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神聖ローマ帝国
ヨーロッパ諸国連合軍 |
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カラ・ムスタファ・パシャ |
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シュターレンベルク伯
カール・フォン・ロートリンゲン
ヤン・ソビエスキー |
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120000 |
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神聖ローマ帝国軍20000
ポーランド軍35000
その他85000 |
背景
1676年、カラ・ムスタファ・パシャがオスマン帝国大宰相に就任した。この野心家の大宰相はオスマン帝国の積年のライバルであるハプスブルク家の支配するオーストリアの都ウィーン攻略を夢見ていた。
その下準備として彼は1682年冬にスルタンのメフメト4世を擁してエディルネに、翌年4月1日にはベオグラードに赴いた。そこにスルタンを残した彼は出征の準備を始める。
1683年、北西ハンガリーで貴族たちによるハプスブルク家への反乱が起こり、彼らはオスマン帝国に援助を求め、オスマン帝国はオーストリアに攻め込む口実を得た。
5 月24日にウィーンの西に位置するラーブとコモルンの城砦制圧の命を受けたカラ・ムスタファはスルタンにウィーン攻撃の許可を得ると、120000の大軍を率いてウィーンに向かった。その際、ラーブ等を落としたクリム・ハン国(オスマン帝国の属国)のハンであるムラト・ギライなど歴戦の老将たちはウィーン攻囲は翌年の春に延期すべきだと冒険的な計画を描いていた総司令官を諌めたが、自軍の力を過信していたカラ・ムスタファは聞き入れることなくウィーンへ向かった。
経過
1683年7月14日、オスマン帝国軍ウィーンに到着。カラ・ムスタファはまず初めに降伏勧告をし、ウィーン防衛軍司令官シュターレンベルク伯に拒否の返事が来ると包囲に取り掛かり、攻撃に移った。
オスマン帝国軍は巨砲を用意しておらず、中小の砲だけの砲撃はさしたる効果を上げることができなかった。また、坑道を掘っての爆破作戦も失敗に終わり、攻めあぐねた。
262門(うち大型砲は130門)の大砲を擁し、士気も高かった20000のウィーン防衛軍は善戦したが、篭城が一月を越えると食料が不足しだし、戦闘によるダメージも蓄積してきた。
オーストリアの将軍カール・フォン・ロートリンゲン(ロートリンゲン公カール5世)と戦いに先立ちウィーンを脱出していた神聖ローマ皇帝レオポルド1世はこの異教徒との戦いに際して全キリスト教国に助けを求め、それに応えて総勢120000のヨーロッパ諸国連合軍が結成され、彼らはウィーンを目指した。 敵の大軍の接近を知ったカラ・ムスタファは、9月9日に軍を攻城部隊と迎撃部隊の二つに分け、自身は迎撃部隊を指揮した。
9 月12日、ついに連合軍がウィーン近郊に到着し、それを迎え撃つオスマン帝国軍と衝突した。午後二時、ポーランド王ヤン・ソビエスキー率いる連合軍左翼はオスマン帝国軍右翼を圧迫した。カラ・ムスタファは劣勢な右翼で敵を圧倒するのは困難であると判断し、左翼勝負を決めんと中央と右翼から兵力の一部を引き抜き、左翼に集中させ、攻勢をかけた。しかし、カラ・ムスタファの作戦は裏目に出て、手薄になった右翼は突破され、オスマン帝国軍中央を脅かした。
夕方には連合軍は後方のオスマン帝国軍の本陣に突入し、連合軍の勝利は決定的となった。カラ・ムスタファは反撃を試みるも失敗し、スルタンに授けられた聖旗を奉じ、敵の砲撃を背に受けながら退却した。それは大宰相の持ち物であった豪華な物品も巨額の軍資金も放り出しての退却だった。
迎撃部隊が退却した後の攻城部隊は連合軍と防衛軍との挟み撃ちにあって壊滅した。
敵の反撃を危惧したソビエスキーは追撃に転じようとしたロートリンゲン公を諌め、追撃は二日後になった。そのおかげでオスマン帝国軍はブダペストまで退却することができた。
その後
敗将カラ・ムスタファは再戦を目論んでいたが、この大敗の責を問われて処刑された。
この敗戦が決定的な契機となり、かつての栄光に翳りが見えてはいたものの一応軍事的優位を保っていたオスマン帝国とヨーロッパとのパワーバランスは覆った。それからというものオスマン帝国は敗退に敗退を重ね、1699年のカルロヴィッツ条約ではハンガリーの大部分をオーストリアに割譲した。 |