前漢vs後漢vs唐vs宋vs明vs清について語る中国史・世界史スレ
最強とかキメェけど、どれも、社会制度、分度低い、蛮なんだよね。
そして制度として
明白に社会領土、明白に領土分担をきめれない。
国際条約を結べない未開
かつ権力機構が弱小であり、おそらくあくまで諸侯 日本でいうと地方大名
ないし子爵、男爵程度の小権力しか構成できない。
でくそ弱いんだよ。原則最強とほど遠い。
>朕の威徳は北宋太祖を遥かにしのいでおるな
実のところ、宋王朝が中国を治めるにあたり、太祖の徳性は非常に問題とされた。
要するに司馬炎や李淵などと比して、天子として立つ徳に欠けるものとされたのだ。
何となれば太祖趙匡胤は一代で立身したものであり、貴顕として代を重ねた事実がない。
言い換えるなら、太祖の家系は民に恩沢を施した実績がないということだ。
今にしてみれば趙匡胤は中国史上屈指の明君と考えられるけれども、
当時の儒教的な社会観からすると天子たるに相応しい人間ではなかった。
───さて、この価値観からすれば、中国史上もっとも帝徳に欠ける天子は誰であろうな。
>>272
>明て朱元璋の影が巨大すぎて他の歴代諸帝の影がくすんで見える。
単に朱元璋の影が大きすぎるから、他の天子の存在がかすむのではない。
実際に明の天子は暗君ばかりなのだ。他の時代に持ってゆけば明君たりうるような者もいない。
永楽帝はともかくとしても、宣徳以降の天子は目を覆わんばかりの暗君揃いだ。
>洪武帝・永楽帝の他にましな明皇帝て誰ですか?
おらん。───と、断言する。
まだしもマシと言われる宣徳や弘治といえども、その人物たるや暗愚の極みだ。
万暦や天啓のごとき世界史規模での屑と比較したところで意味はない。
>>275(同類相憐れむということで秦檜を弁護してみて下さい。ついでに岳飛を糞味噌に罵倒してみて)
同類相憐れむとは心外な。あんな者と一緒にされては堪らんというものだ。
───まあいい。秦檜に関しては、少なくとも後世に語られるような売国奴とは思っておらん。
確かに国を誤らせた姦臣には違いあるまいが、それをして中華第一とするのはやや行き過ぎか。
実際のところ秦檜の和平論にはある種の合理性があった。宋は中国のほぼ北半分を強取された訳だが、
華北と江南の経済格差からいって、江南の富が華北の経済活動を養っていたことは周知の事実だ。
言い換えれば金国は、宋の先天的に抱えていた負担を取り去ってくれたとも看做し得る。
岳飛については…、特段賞賛すべき点もないが、さりとて罵倒するにも及ばない。
忠誠無私でかつ一定の軍才を備えた武将は、私たち文臣にとっても政府にとっても
非常に便利な道具だ。私が秦檜の立場であれば上手に使いこなして華北を再奪取したであろう。
結局のところ秦檜は己の利益を図ることにのみ邁進して、大局を軽んじた。
私はまず為政者としての大局的な絵図を描いた上で、そこから私利を得る方法を講じた。
その点が私と秦檜の大きな違いであると思う。やはりあれは私の亜流に過ぎんのだ。
>>277(今まで名前が出てないのが不思議だけど蔡京さんは韓世忠はお嫌いですか?)
好きも嫌いもない。会ったこともないしな。
岳飛といい韓世忠といい、この南宋初期という時代に限って有能な武将が輩出されたことを
不思議に思う向きもあるだろうが、それは根本的な誤りだ。
彼らが金国を相手に一定の戦果を挙げ得たのは、その軍才や統率力が並外れていたからというより、
単に金軍が弱かったのだ。背景にある国力を考えれば当たり前の結果といえる。
なまじ晩年の精彩を欠いた童貫あたりと比較するから優れて見えるだけで、
本来高位の武将とはこの程度の能力は備えていて当然だ。
版図、人口、経済力は最大、
文化もそれまでの時代のものを蓄積しているわけだし。
その場合、トップは清、最下位は宋で決まりだけど。
2位は唐だろうが、明、前漢、後漢の比較がしづらい。
王莽専制時の前漢vs黄巾の乱後の後漢vs昭宗期の唐vs徽宗期の宋vs列強分割後の清でいいか?
>>昭宗期の唐
節度使の軍力は勘定してもいいですか?
とりあえず理由を述べてもらおうか?
>明の土木の変をどう捉えます?
端緒となったのは、オイラートが朝貢使の員数を水増しして、明からの返賜を不正に受け取っていた
ことにあるが、これを明の側から戦端を開く理由としてしまったのは、明らかに外交政策のミスだ。
朝貢使への賞賜は、宋初以来、中国にとってある種の安全保障費なのであって、開戦の大義名分と
なすことは全く趣旨に反した迷走だ。これはほぼ中国史全体に共通することだけれど、
朝貢に絡むコスト負担が予算全体に占める割合は、極めて僅少なもので、何ら財政を圧迫しない。
また、仮に圧迫したとしても、拠出した資金は貿易黒字の形で再び中国国内に還元される。
つまり、土木の変は経済的な要因で生じた戦争でなく、中国側の国粋主義的感情が爆発したものだ。
そして、国家として統治能力が破綻したわけでないにもかかわらず、天子ひとりが捕虜となって
そのために看過しえぬ事件となった経緯は、北宋の靖康の変にも通じる愚かしさだ。
ただし、爾後の対処が比較的まともで、穏当な決着を見た点が大きく異なるとは言える。
>>8-9(南宋と金では、どちらが優れていましたか?)
優れていたか───と一口に言っても、本来ならそれは文化水準や経済力、軍事力など
様々なファクターを考慮したうえで比較せねばならないが、
こと南宋と金国とを比べてみれば、南宋が劣っている点などただの一つもない。
そもそも北宋時代に河南省が繁栄していたのは、そこに私たちの国都があったからに他ならず、
元来は生産力に乏しい純然たる消費都市だったのだ。
してみれば金国が河南を含め淮水以北の各地を支配したからといって、
江南からの交通が遮断されれば経済的には何らの意味をなさず、負荷を得たに過ぎない。
その一方で、南宋王朝は腐敗した手足を切り捨てることができた。
童貫が下らん失策を犯さなければ、女真族など歴史の表舞台に立つことすらなかったかも知れん。
>ついでに訊ねるが朕の取った海禁政策の是非を論じてみよ
少なくとも歴史の上での一大変革であるには間違いない。
海外貿易の関税収入で巨利を得ていた私たち宋代の人間の感覚からすれば驚くべきことだ。
実際上鎖国政策のデメリットは小さなものではなく、交通と文化流入の隔絶は
深くゆっくりと中国ないし東アジア全体を蝕み、ついには西欧社会に呑み込まれる事態を招いたが、
百年単位のスパンで未来を見通した政策を打ち立てることは殆ど不可能事といえる。
その意味では確かに明王朝ないし朱元璋にのみ責を負わすのは酷であるには違いないだろう。
単に明王朝樹立時の事情のみを考慮して海禁策の是非を論じるならば、
なるほど農本抑商型の社会を志向し、全て自給自足的な形で、万里の長城の内側においてのみ
経済を循環させるという政策の一環をなすものとして、明確な矛盾を指摘することはできない。
結局のところ朱元璋の過ちは政策の内部的矛盾ではなく、原理原則そのものの誤りなのだろうが、
そうした非難はすべて結果論に過ぎぬと言われれば沈黙せざるを得ない。
>>17(もしティムールが生きて中国遠征したら明は勝てましたか?)
時期にもよるか。史実の計画よりやや早く、靖難の変の混乱に乗じて中国に雪崩れ込めば或いは
勝利を得ることも可能だったかもしれん。戦闘慣れしている永楽帝を相手にしては難しかったろう。
ただ、いずれにしてもティムール王朝は蒙古帝国の亜流に過ぎない。
強力なのはティムール個人の「腕力」であって、彼の能力のみに依拠した脆弱な体制の政権だった。
仮に明朝を追うことに成功したからといって、長期にわたって中国を支配するのは困難だった筈だ。
都市を攻め立てて野放図に略奪を繰り返す原始的な政権が、そのままの形で中国を支配しても、
所詮は一時の混乱で終息したことだろう。後継者にも恵まれなかったからな。
軍事面ではちょっと悩むけど唐か清。
当時の世界で占めた比率となると、宋が経済力で最強になるのかな?
他の時代はどうなんだろう。
いろんな時代の世界のGDPと中国のGDPのデータがあればいいんだけどw
他に中国の統一政権に抗する規模の国家がなかった時代に、
中国の経済力が世界に飛び抜ける状況になるかな。
近代より前なら、経済力=人口規模でだいたいいけると思う。
唐の時代には、西にアッバース朝があった。
でも宋の時代は、西もそんなに巨大な帝国はないね。
前漢と後漢を比べてみてはどうだろうか?
具体的理由を述べよ。
18じゃないが、軍事力、経済力、版図といったあたりでは比較にならない
皇帝権力の弱体化と豪族の伸長、貨幣経済の衰退などが進んでいるから、どうしても王朝単位で見たらそう言わざるを得ない
やれやれ
困ったものだ
>>20(三国志時代の正統はやっぱ曹操の子孫たちなの?)
そもそも中国史を通観する上で、各王朝を正統非正統に分別すること自体が無意味だ。
後漢から直接禅譲を受けたことで魏を正統の王朝とするならば、
魏は晋に、晋は宋に、宋は斉に正統性を伝えたこととなり、
陳を最後に中国史における政権交代の正統性は断絶したこととなる。
実に馬鹿げた形式主義というより他ない。
むろん蜀漢正統論にも何ら客観的合理性は存しない。
東晋や南宋のような亡命政権が、存続上のアイデンティティを確立するために、
蜀漢に自己を投影して理想像に仕立て上げたというだけの話だ。
宋学の大義名分論にマッチしたという事情もあるが、
蜀漢のような取るに足らない小政権を「正統」視すること自体が惨めな有様だ。
三国時代は、古代社会の秩序が完全に崩壊した後に出現した不毛の時代だ。
文化面でも社会制度の面でも、優れた点は皆無に等しい。
であるからこそ後世の人間が恣意的な粉飾を重ねるには都合がよかったのだと言える。
>>33(何故、宋代では士大夫を処刑する例が少ないの?)
宋代の士大夫は天子の地位を脅かす存在ではなく、生かしておくこと自体が危険な
権臣が出現しなかったことや、科挙制度の整備が進んだ結果、官僚の採用が公平化し、
昇進にも一定の基準が完成して、イレギュラーな方法での権力獲得が困難になったため、
権力闘争に伴う暴力的な側面が後退した───というような説明も一応は可能だ。
とは言え、統治制度の変化や士大夫自身の政治的性格に原因を求めるよりも、
これはやはり宋代に特殊の慣習に基づいたものと考える方が素直ではある。
まあ、俗にいう石刻遺訓なるものが存在したかどうかはわからないが、
「言論を咎として士大夫を殺すべからず」という不文律はあった。
もともと宋は新興の支配階級ともいえる士大夫の関心を買うことで、
長期政権の基礎を確立したものだから、その一環をなす伝統であったと言えよう。。
>>35(万暦帝と似ているね、徽宗は)
奢侈に溺れて政治を省みず、天子として必要とされる指導力を欠いた結果、
ついに国を傾けるに至った───という点では共通する。暴主昏君の典型的な姿だ。
むろん徽宗は芸術面においては賞賛に値する事績を残しているものの、
万暦帝との比較でそこに言及しても無意味と思う。私に徽宗を擁護する義理はないしな。
国という大きな存在が動揺する原因を個人の行動に求めても仕方がないとは思うが、
徽宗にせよ万暦にせよ歴史上特筆すべき権力を有した中国王朝の皇帝である以上、
まったくその責任を否定するのはかえってナンセンスだ。
史上稀に見る亡国の暗主として、非難の対象になるのは当然の事だろうよ。
さて、久々になるが回答を行う。
>>138(朱元璋の軍師だった劉基をどう評しますか?)
一般に語られる劉基像はほとんど虚構に近いものと思われる。
明の大典を起草し、法を整備した文臣といえば李善長や宋濂の名がまず挙げられるべきで、
基の果たした役割はごく小さいものと考えるのが自然だ。
いわゆる「軍師」としての功績についてみても、基がおらねば朱元璋の大業は成らず
明王朝も存在しなかったであろう───と、まで断言しうる根拠はどこにもない。
むしろ粛清を受けず身を全うしたことを以て、基の無能の証としてもさほど不当ではあるまい。
強いて言うならば詩人としての業績を評価してもよいが、中国史全体を通じて高い評価を
受けるべき作品群を遺しているかといえば、やはりその点も疑問視せざるを得ない。
>>139(李化龍は李如松よりも有能ですよね?)
李化龍なる人物の名は初耳だ。調べてみたが、明末の将で、楊応竜の乱の鎮圧に功のあった
者としかわからん。李如松と同時代の人物とはいえ、資料が少なすぎて比較のしようがない。
ただ、楊応竜の乱にせよ、豊臣秀吉の乱にせよ、明朝がこれを鎮圧ないし撃退しえたのは、
将の有能無能に起因するものというより、未だ国力に余裕があったからだ。
落ちたりとはいえ、明王朝は当時の地球上で最大最強の政権であったろう。
その意味では単に戦績のみから、将の能力を計るというのは困難事とも言えよう。
>>163(北宋時代に花開いた中国のルネサンスが途絶えたのは何故ですか?)
ルネサンスそのものは古代文明の復興に過ぎず、中世的な価値観を克服する現象でしかない。
つまりルネサンスが発生してさらに何百年かを経れば、当然に産業革命が起こり、近代社会への
展開が見られるというわけではないのだ。むしろ近世から近代への転換が自然発生的に生じる
ケースはほとんど零に等しい確率しか伴わぬ奇跡とも言えよう。
例えば中国のルネサンスに科学分野での知識が欠けていたことを指摘する見解もある。
確かに私たちは天動説を信じていたし、地球が球体であることを知りつつも、証明はしなかった。
つまり文芸や哲学の分野に特化したルネサンスであったことが、発展性を内包せぬ証左と
いうことで、かかる理屈もあながち誤りではないかもしれぬけれど、そもそも西欧のルネサンスは
中国のそれよりも数百年後発であり、単純に両者を比較することにそれほどの意味があるとは
思えない。私個人の情緒的な見解としては、明清に至って中国が非常に内向的な社会を形成して
しまったことも原因とも考えるが、では明王朝が鎖国策をとらず、万里の長城も築かず、
他文化圏との活発な交渉を維持したまま発展していれば、西欧に先駆けて近代社会に突入
しえたかと言えば、やはりそこまで自信を持って然りとは言えん。蒙古の支配が終わった後に、
明のようなナショナリズムの濃厚な政権が誕生したことはある意味歴史の必然だ。
近代社会における中国の苦難をみると、ifを論じることは虚しい所業に思えてしまう。
劉秀「やれば洛陽を返していただけるんですね?」
劉邦「おう、考えてやるよ」
こんな感じになる。
そりゃ庶民は餓え死にするほど貧しい国はやばいが
国力という時点なら前漢のほうが高いはず
勝ち組なら豊かだったろうが、多数の負け組が勝ち組の踏み台になっている
負け組は勝ち組=豪族に隸属したり土地を捨てたり
前漢は負け組救済と豪族抑制が基本政策
ただしその分個々の民に要求される負担は大きい
どっちがマシかは各自の判断だと思う
やりすぎると経済が縮んで自分の首を締めることになっちゃうし、
結局大した効果はなかったんだろう。
軍事
清>前漢>唐>後漢>明>宋
経済
宋>清>明>前漢>唐>後漢
文化
宋>前漢>唐>清>明>後漢
日本人はどうしても唐を過大評価しがちだが
字際には唐は意外にショボい。
統一国家としての態をなしてなかった時期も多かったし、
国力では漢や明より劣るだろう。
鮮卑族王朝という出自ゆえに国際色豊かな帝国という点で唐に対する
評価が高いんだろうけど、唐の全盛期って短いもんな
×字際
○実際
でも最強とはどうしても思えないね。
ならどっちが勝つかな?
李世民は結局は貴族のお坊ちゃんだし、
最底辺から這い上がってきた朱元璋の配下には負けそうな気がする。
朱元璋ならどんなえげつない手でも使いそうだし。
では本日の回答を行う。
>>39(今の日本のように、他国に容易く金をやる国は、古今稀では?)
有史以来一貫して東アジアの雄であった中国は、外国との間に自由で
対等な通交関係を結ぶという思想がなかった。そのために中国は常に
外国に対し服従と貢納を要求する立場──すなわち朝貢関係を
築いてきたのだ。朝貢関係の実態は、中国が政治的安寧という利益を
享受する対価として、諸外国が希望する通りの経済的恩恵を与える
ものであったから、正に中国は「他国に容易く金をやる国」として
東アジアに君臨してきたのだ。漢・唐・元・明・清と細かい相違はあれど
みなこうした姿勢で外交威信を保持していたのだが、ひとつだけこの
方針に失敗した王朝がある。それが即ち私の北宋王朝に他ならない。
つまり来が>>40で述べている通りの屈辱的な外交を強いられたのだが、
実を言えば我が北宋王朝は、一般的に精強と思われている前漢・唐を
遥かに凌駕する軍事力を持っていた。それなのに北宋の外交威信が
大きく低下したのは、ひとえに中国の爆発的な経済発展が周辺諸国を
中世的社会から脱却する役割すら果たしたゆえであり、外交関係の
優劣を決する要因が複雑化したためと言える。また、北宋王朝は
強大な軍事力を有していても、それを円滑に運用できぬという構造的
欠陥があった。量的に満足されても質的に問題を抱えていたのだ。
59 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2003/11/12(水) 19:02 ID:h1BfEjLY
>>705 伯顔
よく来たな。確かに貴公の申すとおり、私が蒙古に対して否定的なのは
中華思想によるものも少なくはなかろう。これは私の経歴上仕方がない。
科挙の有無についても同様だ。ただし私は必ずしも科挙至上主義者では
なかった。胥吏(行政の末端運営に携わる民間人)に試験を課して、
官僚への途を開く制度を作ったのは私(と王安石)だしな。
しかし、元朝の官僚任用制度は実に素朴なもので、殆ど南北朝以前の
門閥主義に逆戻りしたものと言ってよい。蒙古至上主義をとったのは格別、
およそ蒙古人以外で元朝の宰相にまで上った者が片手で数えられるほど
しかおらぬというのも、驚くべき不均衡といえよう。
それと元朝の最も非難されるべきは、その経済運営だ。旧南宋の領土に
おいては両税法を維持したものの、華北における税制は全くの支離滅裂。
これは耶律楚材にも責任の一端がある。さらに元朝一代はすべて通貨を
紙幣をもって流通せしめ、これは高度の兌換性をもつものであったから、
その点驚愕するが、およそ農本主義の中華社会において循環経済を敷衍
せしめんとすれば、まず農民の購買力を育成することに重点を置くべきなのだ。
しかるに元朝においては土地の私有に制限なく、また制限を設けんと企図した
形跡すらない。土地の兼併は大いに貨幣経済を衰退させる方向に作用する
ものであり、この点でまず経済政策に整合性が見られない。
実際、宋代以来築き上げられてきた、現実に即する経済振興策は元代に
おいて殆ど水泡と帰し、さらに後継の明王朝も宋代の社会を範とすること
薄かった為に、中華社会を長く停滞せしめた。やはり蒙古の漢土支配は、
中華社会にとり不幸な出来事だった。異論もあるだろうが、私はそう考える。
名前はよく耳にするが、残念ながら杉山という学者の著作は一度も読んだことがない。
朱元璋暴君論というよりは、遊牧民族の挙動を主軸にした歴史解釈が斬新であると聞く。
私は基本的に遊牧民を過大評価しないので、おそらく見解を異とする点のほうが多いであろう。
>あえて耶律楚材論を尋ねるが、まさかこれも同じく?
一般的に語られる耶律楚材の功績とは、第一にチンギスに近侍してその蛮行を諌めたことに
あるとされるが、征服事業に伴う殺戮や略奪を戒める発想そのものは典型的で、
楚材の人間的高潔を示す証拠としてさほど説得的とまでは言い難い。
同じ立場であれば私でもその程度の進言はする。要は士大夫としてのたしなみのようなものだ。
かかる抽象的な功績よりも、むしろ楚材については財務官僚としての事績を論じるべきと思う。
何度か述べたが元王朝の税制は最初から極めて独自性の強いもので、
丁税に貨幣納(銀納)を法定した点と、土地の所有如何に関わらず田税を全人民に課した点が
大きな特色として挙げられる。かかる税制を採用した根拠がどこにあるかは今ひとつ不明だが、
少なくとも従前の中国には存在せず、士大夫である耶律楚材のする発想とは考えにくい。
元王朝の財政政策には楚材の意思が反映されたと思われる形跡が乏しい。悪人であったとは
考えられないにしても、具体的な功績を見出すのは難しいというのが私の率直な見解だ。
フビライの時代になると銀納すら廃されて、不換紙幣一本の幣制が採用されるが、
耶律楚材が生きていたらどういう反応を示したか興味深いところではある。
90 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2005/06/11(土) 18:52
>>40(明で名高い詩人が余り輩出しなかったのは何故でしょうか?)
明王朝が文化的な魅力に乏しいのは、鎖国を原因とするところが大きいと私は思う。
文化とは他の異質な文化に触れることで相乗的に発展するものだ。
異文化に接触する機会が限定されれば、自ずと過去に範をとり懐古主義に陥るよりほかない。
明詩が唐代の模倣に終始して後生の評価が高くないのは、まさにその典型的な事例と言えよう。
実際のところ李夢陽らの復古主義に対しては反動も見られたが、文化史的な評価は低い。
もっとも盛唐の詩を中国第一のものとするなら、そこに忠実であった李夢陽はそれなりの
賞賛を受けるべきとも思えるけれど、概括的な文化史を語る上でどうしてもオリジナリティーが
重要視される傾向は否めん。実は明代は中国史においてもっとも詩作の盛んな時代であった。
にもかかわらずその点がほとんど知られていないのは、凡作の多かったことを示すものだろう。
92 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2005/06/11(土) 18:54
>>50(中国の南北朝時代の皇帝ってDQNが多いイメージがある)
イメージだけではなく確固とした事実だ。
南北朝時代は中国社会が極限まで低迷し停滞した時代であり、中国史上もっとも悲惨な時代と
しても過言ではない。社会の生産性と活力の低下は、同時に社会秩序と道徳の後退をもたらす。
言い換えれば儒教が衰え怪力乱神が勢力を得たとも解釈しうる。中国社会の道徳を規律する
儒教が省みられず、社会全体が宗教的・神秘的雰囲気の中に置かれた、まさに中世的現象だ。
このような社会にあって個々人に合理性や道徳的態度を求めるのは困難だ。
政治権力の腐敗や、王侯貴族の紊乱を戒めるべき倫理や思想が説得力を有しないのだから、
暴君ばかり輩出されるのもある種やむを得ない現象であったと言える。
この暗雲が晴れ、中国社会が漢代以前の水準を取り戻すには、なお数百年の時を要した。
では本日の回答を行う。
>>781(中国史内で一番仕えてみたいと思っている皇帝は誰ですか?)
何と言っても神宗帝(北宋)の下で宰相を務め、新法の指揮を執りたかった。
王安石にはどうしても半端な面が多かったから、まだ若輩であった私としては
歯痒い思いをさせられたものだ。もっとも、神宗の科挙に応じて朝廷に入った
ことは事実なので、質問の回答としてはやや不適当か。
では、唐の太宗が良い。私の能力は長期安定政権の下でこそ、もっとも役に
立つものと考えられるからだ。税制の抜本的な改革や軍制ないし地方官制の
再整備など腰を据えて取り組みたいテーマも多い。
806 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/10/28 19:41:03
>中国史で「こいつだけは許せん」と云う人物は誰ですか?
王黼や李鋼など個人的に恨みがましい人間はいるが、小物に過ぎて質問の答え
としては不適当かも知れない。中国の一士大夫としては、フビライ汗や朱元璋に
許しえぬ憎悪を感じるな。特に朱元璋は、明代以降の中国社会を停滞せしめ、
文化的ないし経済的な発展を阻害する重要な役割を負った天子であると言える。
ただ、一つの社会が衰退する原因を長期的なスパンで捉えたとき、その責めを
個人に負わせるのは酷であり、史学的な解釈方法としても妥当性を欠くだろうな。
となると、単に個人的な好き嫌いの問題だ。ああいった品のない男は好かん。
175 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/11/25 20:06:20
>>145(蔡京さんが権勢を振るっていた時期の北宋では金に勝つことは
不可能だったのでしょうか?)
不可能ではなかった。堕ちたりとはいえ宋王朝は、当時の地球上において最強の
国家だったのだ。局地的な戦闘に敗れはしても、経済力・人口・兵力のすべてに
おいて女真族の政権を圧倒していた。宋の朝廷が南渡してなお百余年存続し、
金王朝よりも長くその命脈を保ったことがなによりの証左だ。
まあ現実に北宋は滅亡して徽宗も欽宗も虜になったのだから、今さらIfを論じても
詮無きことだろうけれども、率直に申して、女真族の入寇はかなり無謀なもので、
むしろ徽宗をはじめ童貫・蔡攸らの自滅するに乗じたとするのが妥当と思える。
この当時の北宋の朝廷の右往左往は目を覆わんばかりの惨状だ。
徽宗の無責任ぶりは言うに及ばぬが、後を襲った欽宗も優柔不断の極みと言える。
もっとも───この時期私は半ば失脚状態にあったので、貴公の問いに対する
答えとしては不適当かも知れない。「権勢を振るっていた時期」とは言えないからな。
しかし私が宰相として権勢の絶頂にあった頃は、そもそも女真族などまだほとんど
知られていなかったし、敵対する理由もなかった。
178 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/11/25 20:11:46
>>159(南宋が金に勝つ事は不可能でしたか?)
南宋が経済力・人口・兵力の全てにおいて金に勝っていたことは間違いない。
金は熙宗・海陵王の出現により中華王朝としての体裁をある程度整えて、
一定の中央集権的な統治体制を確立したものの、経済的に貧しく、文化的にも
南宋にはるか劣後した脆弱な政権だった。よって、金が南宋を滅ぼし中国の
全土に覇権を確立することは、一時期を除けばほぼ不可能事だったのに対し、
南宋が金を倒して失地を回復することは、理論上いくらでも可能だった筈だ。
しかし、南宋は軍閥の台頭を恐れるあまり積極的な外征策を放棄し、国境線を
維持するための養兵そのものに予算のウエートをおくアンバランスな財政を
採った。つまり兵員の数量にのみ注目し、軍隊としての質的向上を怠ったのだ。
専守防衛───というとかなり語弊があるが、少なくとも失地回復・北伐主義を
積極的に採用しなかったのは確かだ。だが、かかる国策とは別にして、一般の
世論は北地回復を望む傾向が強かった。強硬な攘夷論を唱える朱子学の
出現は決して偶然ではありえない。世論を反映していたからこそ偉大な学問と
なりえたのだ。惜しむらくは朱子学的見解と朝廷の方針が合致しなかった事で、
こうした目に見えない軋轢も南宋の国力を低下させた原因だろう。
>>140(宰相は天子になろうとする意識さえなかったようですが、ある意味忠臣なのかね)
「意識さえなかった」というところがポイントだ。
科挙制度の確立は単に統治制度上の進展ではなく、中国社会の実質的な支配者層である
私たち士大夫の意識をも根底から革新せしめた。
私たちの地位はすべて天子の恩賜によるもので、天子の権力の下で位人臣を極めることが
唯一の社会的成功だった。この観念はまさに宋代以降に現れた中国史の大きな特長だ。
私たちは貴族でも諸侯でもなく、試験によって選抜された官僚だ。
天子の地位を脅かすほどの武力も資本も持ち合わせない。簒奪はいわば不可能事なのだ。
天子と人臣の間の観念的な距離が、埋め難いほど隔絶したとも言えるだろう。
すなわち中国史は宋代以前と以降とではっきりと分けて考える必要がある。
なにせ宋代以降の王朝交代はほとんど外的な要因による支配民族の交代であって、
内部的な簒奪に成功したのは永楽帝朱棣と、あとは袁世凱くらいではなかろうか。
原因は洛陽奠都による、三輔地域における軍事拠点確保の軽視と思われる
劉秀のこういう点は責められて然るべきだと思うんだが
北宋と同じ国防上の問題を抱えていた時代じゃない、後漢
劉基のような聡明な軍師もいるため、隙らしい隙も見当たらないな。
これに対抗できるのは何となく運がやたらと強そうな劉邦軍団なんじゃない。
では本日の回答を行う
>>43(隋の文帝て過小評価されてますが本来ならもっと評価されてもいい名君では?)
隋の文帝は中国史上もっとも容易に天下を奪うことに成功した人物───と言われるが、
比較的明確なビジョンに基づいて王朝の創建を果たした有能な天子ではあった。
豪民抑制と兵権集中を柱として君主権の強化をはかり、
北魏の均田制を継承しつつ、貨幣経済の進展を促すような政策も見られる。
ただ、こうした統治観は息子の煬帝にもほぼそのまま受け継がれており、
実のところ文帝と煬帝それぞれの治世は、さほど性格の異なるものではなかった。
隋が短命に終わった原因を煬帝個人の失政に求める見解は、
それ自体は誤りではないとしても、基本的には実力を超えた強権に基づく統治が
もたらした結果で、仮に文帝がもう少し若くして隋を建てていたとすれば、
隋は彼の存命中に滅亡した可能性もある。結局のところ隋も西晋も統治基盤の
脆弱な中世の王朝という点では変わらず、どんな人物がリーダーだったにせよ限界があった。
76 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/12/01(金) 00:43:39
>>72(隋の天下統一が易々と行われたのはなぜ?)
この頃既に江南の経済力は華北を上回っていたと考えられるが、
南朝の貴族社会は常に分裂拮抗の傾向にあり、政治的統一が進まなかった。
そのため、北周と陳という二つの政権を比較すれば、前者のほうがはるかに
効率的な運営が為されていたといえる。これがそのまま南北両朝の実力差だった。
そこにたまたま佗鉢可汗の死による突厥内部の混乱があり、
隋の文帝は北方を省みることなく、南征に専念することが可能だったのだな。
ま、陳がもともと支配領域の狭い弱小な政権であったことを考慮するとしても、
やはり文帝は幸運に恵まれた人物だったと言えよう。
むろん好機を正しく捉えて適切な行動をとるのも才幹のひとつではあるが。
168 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2007/02/08(木) 03:46:35
>>94(唐の名君指数で言うと太宗>武則天>>>玄宗>>>>その他ですか?)
「太宗>>>>>>その他」としてしまっても、あながち不適切ではなかろうと思う。
唐は中国史全体の中では脆弱な部類に属する政権であるとはいえ、南北朝時代のような
ある種典型的中世社会から出現した王朝としては、不自然なほどに強大であった。
太宗の偉大なる点は、極めて脆弱な統治基盤に基づいて長期政権の基礎を
確立したところにあり、他の時代に類例をみない出来事であったといえる。
これは多分に太宗個人の実力に依拠していた。中国史上最高の名君と称される所以だ。
武后や玄宗も確かに水準以上の能力を備えた天子ではあったし、
個々には明君と評しても差し支えない。
しかし、太宗との比較で考えればあまり賞賛するべき点がない。
なぜなら武后も玄宗も、巨視的には太宗の余光を負って唐室の権威を維持したに留まり、
均田制や府兵制の崩壊による国家支配の実力低下を食い止めるには至らなかったからだ。
むろん均田制も府兵制も一種の建前にすぎず、太宗の代から既に実態と乖離していたとの
指摘も可能だが、当面の繁栄に甘んじて弥縫策に終始した責を何者かに負わすとすれば、
時系列的に考えて、太宗よりも武后・玄宗を挙げるのが妥当だろう。
持久力も必要なわけで、その点において劣る。
それと清朝の満州族はそもそも遊牧民と言うよりは狩猟採集民だし。
あまり戦争で正面から叩き潰したという感じではない。
政治
経済
文化
この4部門でそれぞれ10点満点で評価し、総合点を競えばよい。
政治は名君多いし経済力は初めて人口1億突破させたし文化なんて時代が進むほどよくなるものだし
一つ前の時代に比べての進展具合で評価するべきかな。
経済は、農業や商業の繁栄度合いに、
当時の世界全体に占めた存在感を加味した感じ?
漢代にはペルシアやローマがあったし、
唐代はちょうどぴったりイスラム世界の勃興期にあたる。
明清の時代にはムガールやオスマン帝国が繁栄していたし、
清代には西欧が物凄い勢いで発展して恐らく乾隆末頃には国力で西欧に抜かれてる。
宋代は世界の他の地域がパッとしない時代であった。
イスラム世界は中だるみ状態で沈滞していたし、
ローマはマケドニア朝の繁栄時代が終わり、
西欧は文明がほとんど途絶えた状態だった。
そんな条件だったから、宋は世界の富の半分を占めていたのだ。
同時代と比べての繁栄度なら前漢だと思う
イスラムは中だるみと言ってるけど、北宋期は強力なセルジューク朝の全盛期
確かに南宋時代のイスラムは不振だけど、南宋自体が弱体だしね
あと漢の時代の強力な国にペルシアを挙げてたけど
ぺルシアはアケメネス朝にしろ、ササン朝にしろ、前漢後漢の時代には存在すらしてないぞw
前漢の時代にはまだローマも共和制だったし、やっぱり同時代の繁栄度なら前漢が一番だと思う
何にせよ、軍事的に弱体な宋が他の中国王朝より圧倒的に、同時代で繁栄してたってのは無いと思うよ
宋の時代は、遼が意外なほど、特に大陸西方に対して、
影響力があったりするしな。
北宋と南宋では、どちらの経済力が上なんだろう?
南宋は、面積で半減したとは言え、ある意味経済効率の悪い地域を、
切り捨てた格好にも見えるし。
安定期の宋だな
雍正年間の清朝なんかの方がまだいいかも。
固定された階層が形成されるまでの期間なら、
庶民層でも官になれる可能性のあった北宋は
それなりに活力に富んでいた。
しかしどの時代、国でも権力者が富の集積に走ると、
必ず社会の階層化が進み、貧富の差が強くなり
また、さらに収奪も強くなる悪循環がある。
亡国の要因もその辺で、活力なき国は外圧にあっさり潰えてしまう。
だから、そうなる前の北宋は、庶民にとってまぁまぁ住みやすかったといえるんじゃないかな。
中国の場合、地域によって環境が大違いなわけだし。
英語のキャセイ、ロシア語のキタイは、契丹が由来。
唐が由来となった呼び名もある。
日本は長い間、唐とか唐土と呼んでいたね。
発祥、源流が中原とは言いがたい国。
少なくとも都市国家発祥とは見えないね。
中原は当時すでに貧しい地域になってたんだし。
そして江南は世界で最も豊かな地域の一つだ。
鄴都も河北一の大都市。
金陵も、杭州も福州も一応、北宋の領土なんで
そんなに悪くはなかったと思うな。
では本日の回答を行う
>>67 朱元璋
確かにそうなのだが、もう語り尽くされた感もある。
しかし、明代史に詳しい者がわりと多いという事実にまず驚いたものだ。
日本人は殊に明王朝への興味が薄いようで、戦前の研究では朱元璋を中国歴代の
天子の中でも凡庸で特長に薄い人物と考える向きも多かったらしい…
ま、文化史的なものに重点を置けば、明王朝は特筆するべき個性に乏しい面がある。
その創始者たる朱元璋も、自ずと似たような評価を受ける羽目になったのだろう。
>>>647(晋の国について、教えて下さい。いい国だったのでしょうか?)
司馬氏の晋は、中華史上最も弱体な統一王朝だ。そもそも三国時代末期は
中華社会が経済的にも政治的にも、どん底まで落ち込んだ時代であり、
一時とはいえ中国全土を統一した王朝が出現したことそのものが、
ひとつの奇跡であったと言える。晋の天子は大土地所有者(=貴族)の中で、
第一人者の地位を保っていたに過ぎず、経済問題に直結する土地制度の
諸問題につき、手を打つ力が全くなかった。民衆にとっては明日をも知れぬ
暗黒社会であり、いい国であったかと問われれば、はっきり否とする他ない。
この王朝の二代目である恵帝は、中国史上最悪の暗君とも言われるけれど、
そもそもどんな明君が君臨したとて、晋朝の構造的問題を是正し、強国に
生まれ変わらせしむのは不可能であった筈だ。中国史の中で重要な位置を
占める王朝ではないため忘れられがちだが、もっとも類似するのはやはり
唐王朝だ。王朝交代の流れから見れば晋の系統は南朝の終焉とともに
絶えるが、政治制度的には晋の延長線上に唐があると言って差し支えない。
>>>647 (晋の国について、教えて下さい。)
三国分裂の結果と見られがちだが、本来晋は魏の後期には既に司馬家の
独裁政権として半ば完成されていた。禅譲はその結果に過ぎぬ。
仲達殿のクーデターの段階で魏の政治軍事権を握った時点で王朝の基礎が
固まったと言えるが、当時の士大夫や貴族豪族にとっては単に頭が代わる
のみの事だったかも知れぬ。
良い国であるかは問題外だろう。収奪を元とする古代王朝である以上
民間の生活は期待は出来ぬし、何より貴族の力が強大すぎた。
王朝の優劣度でも下位に属するのも致し方ない。
>>67(唐と宋ってかなり違うんですか?)
最大の違いは経済力じゃ。農業においては自作農と、荘園で小作に従事する
「佃戸」とがあったのは唐代と相違ないが、佃戸の地位が宋代においては上昇し、
半奴隷的な色彩は完全に払拭された。当然それにより生産性も高まった為、
佃戸の中には、零細な自作農より生活の楽な者も多かったのだ。
さらに商工業も唐代と比して飛躍的に発展し、都市の商工業者が新たな階級として台頭した。
北宋の都が、交通の要衝たる?京(開封府)に置かれたのも、その現れじゃな。
唐王朝に対し華やかな印象を持つ者も多いかもしれぬが、経済大国の宋のほうが
一般庶民の生活水準も高く、軍事的に脆弱であっても文化的活力があった。
さらにもう一つ付け加えよう。>>71で来が述べておる事と関連するが、唐末から五代の
動乱を経て門閥貴族が一掃され、皇帝権が著しく伸張した。
このことは皇帝と人臣の間の実力格差が、埋めようもなく拡大したことを意味する。
いささか乱暴な考えなれど、北宋以降の王朝交代が、すべて漢族政権と異民族の
征服王朝との間で行われたことは、それが理由である・・・と申す史家もおる。
南宋の杭州臨安が最盛期に百五十万人ぐらいいたのが分かっているので、
じゃあもっと面積の広い開封も最盛期に百万人ぐらいいただろう、というものらしい。
へぇ~。初めて知った。
本でそういうこと書いてるのあったら知りたいので、教えてほしい。
>>68(中国王朝強い順)
納得できる箇所と、さにあらざる箇所があるな。
軍事力・経済力等を勘案した総合的な国力を
私なりに比較してみよう。
清>明>元>宋>(越えられぬ壁)>>前漢≧後漢>>(超えられぬ壁)>>唐>晋
───であろうな。唐という王朝は意外に弱い。
経済基盤が弱体であり、両税法により財政強化されたものの
その頃には既に皇帝権大きく後退して、総体的国力そのものが
衰えていた。中世の最盛期たる李世民の治世をもってしても、
古代の最盛期たる前漢をさらに下回る筈だ。
また清王朝は紛れもなく東アジア史上最大最強の国家だろう。
その強勢たるやチンギス汗の蒙古帝国を遥かに凌駕する。
>>69(秦が入ってないし)
私も短命に終わった王朝は埒外に置いた。
ちなみに魏・呉・蜀が晋よりも遥か下位に位置することは、
言うまでもない。
74 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :2005/04/27(水) 10:41:37
>>69(北宋を自滅させた張本人として何かコメントを)
北宋王朝の特長の一つとして、言論が自由なあまり政策が安定しないという点があった。
それは新旧法の抗争をみれば一目にして瞭然だ。王安石にせよ、蔡確にせよ、章惇にせよ
反対派を徹底的に弾圧して行財政の改革を推し進めるだけのマキャベリズムに欠けていた。
そこを初めて解決して政治権力の安定を実現したのが私だ。その意味では秦檜も韓?冑も
あるいは史弥遠や賈似道でさえ私の亜流に過ぎない。
また、私の理財家としての功績も評価されて然るべきだ。
いったい中国史上最重要の税制は両税法と塩税であり、その一方の柱である塩税の制度を
完全な形で確立したのは他でもないこの私だ。
南宋が国家財政の八割超を軍事費に割いてなお破綻しなかったのはなぜか?
元が世界史上類を見ぬ紙幣制度を確立させ、かつ正常に機能させえたのはなぜか?
これは即ち消費税である塩税が確立され、安定した財源を確保できるようになったからだ。
北宋王朝は滅亡したが、これは財政破綻による必然的な崩壊ではない。
外交的な失敗を重ね、丸裸の首都に敵を招き入れるという二重三重の戦略ミスの結果だ。
言うまでもなくこれは軍政のほぼ一切を統括していた童貫の責任だ。
もしくは童の腰巾着に成り下がり彼の意を迎えた蔡攸、私の後任として宰相位を襲った王黼、
そして誰よりも何よりも最高意思決定者であった徽宗皇帝の責任だろう。
そもそも私は金国との同盟にも、遼と戦端を開くことにも、はっきりと反対を唱えている。
にもかかわらず、愚行を止められなかったのは、既に私の発言力が後退していたためだ。
つまり、老いだな。とうに七十歳を超えていたのだから致し方のないことだろう。
引き際を心得なかったことが責められるとしても、亡国の責任まで押し付けられては堪らない。
むろん南宋が金国を打ち倒して旧領を回復しえなかった原因は、暗君の高宗皇帝と
中国第一の姦臣とされる秦檜に負わすべき責任であって、これも私と無関係なのは明白だ。
───以上
どんな本か忘れたw
そか、残念。
北宋あたりの本は結構読んでたと思ったけど、そういう記事はスルーしてしまう
可能性が高い(開封は100万都市でデフォルト記憶されているから)という…
唐の長安のように入り組んだ都市構造でなく、夜も賑やかだったというあたり
かなり商業的に繁盛しているといえるから、人口も勢い多い「だろう」と思ってたよ。
たちまち国力が増大して、繁栄期を迎えていたかもと思う。
元朝は財政のかなりの部分を塩税に頼っていたそうだけど、
旧南宋地域できっちり徴税できていたのかな?
まあヨーロッパの国を、中国にあった王朝のなかでは一番震え
あがらせたと思っているけどね。(このときは南宋をまだ滅ぼして
いないが)
どの王朝が一番だったかは判断しずらいな それぞれの王朝って
何かしら同時代の他国と比較しても一つ頭が抜き出ている感じがする。
18世紀に入るまでは
後漢 56,486,856
唐 52,919,309
宋 46,734,784
元 59,519,727
明 62,361,424
清 426,447,325
人頭税を廃止した清だけ現実的な数字な気がする
答え
当時の視点を使用しても漢になるから
総合力で見たらアメリカと答える人は実に多いと思う。
実際に、アメリカ vs その他の全ての国々、で戦争を行った場合、
アメリカはアメリカ軍という統一された組織で戦えるが、
その他諸国は、各国軍という指揮系統もばらばらな組織で戦わなければならない。
アメリカは食糧や資源もかなりの部分で自給できるから、
かなり優位に立てるだろうな。
アメリカ内部で内乱を起こすのと併行出来れば勝てる。
あの国も完璧な一枚岩というわけではないだろ
ヽ 、i`─ ‘´ ___ | ll ⌒; j 、 ヽ
\ヽ r,ニ、‐‐’‐’ u .l ll ‘_ノ 、 ヽ
` \”\):、 | l| `、 ヽ 、 ヽ
ヽ ゞ’^ ! ll `、 ヽ 、 ヽ
丿 .:::. | l| \ ヽ、 、 ヽ
丶、_ | l|/lヽ `>=‐- ミヽ `、
`⌒ヽ_ | l| | ハ /´ `ヽ 、
チュパ / /. `´| l| | l / 〃 `、 、
チュパ / / | l| | l’ 〃
このレスを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
それ以前に、アメリカvsその他の全国家で戦争になっていれば、
とうに金融市場が壊滅的な混乱状態に陥って、
国債を売るどころじゃなくなっている予感。
それこそ、アメリカの思惑通り。
では本日の回答を行う
>>93(李靖と陳慶之ってマジ凄いやんけ!)
李靖にせよ李勣にせよ、唐建国期の功臣の武勲は非常に華々しい印象を放つ。
実際上の唐王朝は安定性に欠ける脆弱な政権であり、
太宗李世民も特に軍事上の失策が少なからず目に付くけれど、
それらを差し引いても太宗とその家臣団が優れた能力を有していたことは間違いない。
いったい6~7世紀の中国はいまだ中世の停滞期を脱しておらず、
してみれば唐の統一は奇跡にも近い偉業と言えるが、
その要因として単に社会構造的な因果関係を観念しうるのに加え、
統治者の優れた能力と強固な意志に由来する部分も見過ごすことはできない。
とは言え、旧唐書をはじめ史家の筆はこの唐初時代を過剰に粉飾した。
ために太宗の巨視的な功績は間違いないとしても、
細部の事実関係を解り難くしているというきらいはあるな。
ちなみに陳慶之なる人物のことはよくわからない。李靖の部将だろうか?
旧唐書を調べてみようと思ったが、時間の関係上今回は勘弁して欲しい。
一番たくさん持っているのは、今は日本と中国か。
即国の興亡に直結するからな。
>伍子胥の波乱万丈の生涯は有名なところですが祖国の楚を追われる前のことや生い立ちと
>いった前半生のことがあまり書かれないのはなんででしょ?
書く必要がないからだ。伍子胥は何か歴史的に重要な役割を果たした人物ではなく、
後世に名を残すことができたのはその小説的な生涯ゆえのことだ。
司馬遷も子胥の死屍を鞭打つ非道を非難しつつ、彼の凄絶な一生に憐憫の情を抱いたからこそ
わざわざかかる小人のために筆を割いたのであって、必ずしもその事跡を正確に後世に伝える
ことを目的としていない。くだけた表現をすれば、話として面白味があり、そこに何らかの教訓を
示すことができればそれでよく、瑣末な経歴まで詳細に検証し書き記す意味はなかっただろう。
どのみち前秦時代の歴史など、微細な部分はほとんど脚色と史家の主観的推測から成っている。
伍子胥のように著名な人物であればあるほど、実際の人物像からはかけ離れるケースが多い。
>>109(宋代では軽んじられた小説も元になると戯曲や講談で流行しました。何故と見ます?)
一つには元代に科挙が停止され、士大夫に古典的修辞文の教養が求められなくなったためだ。
元朝では詔勅も法令も口語を以て発布され、中世的な四六駢儷体の美文は省みられなかった。
すなわち儒家的学識の必要性が後退したことの反作用であったと考えられる。
もっとも、小説や戯曲に代表される口語文学は唐末に現れたもので、宋一代を通じて発展した
ルネッサンスの一環だ。その意味では元朝時代に突如出現した文学的潮流というわけではない。
そもそも文字を識る庶民が増えたこともこういった口語文学が発展する重要な要因であり、
それは宋の繁栄があってこその結果だ。文化面においても経済面においても根源的な部分では、
元王朝は宋のそれを受け継いだものと言えるだろう。
>>126(唐代に怪しい煉丹薬で早死にする皇帝が多かったのは何故ですか?)
馬鹿が多かったから───で、片付けてしまっても構わん気はするが、
強いて社会的な原因を求めるならば、やはり中世特有の事情が背景にあると言えるだろうか。
薬を用いて不死を実現するという思想は、大体の場合道教的な精神の反映だ。
唐代の社会を席巻した思想は言うまでもなく仏教で、庶民から貴族に至るまで広範に信者を
獲得したが、それは同時に仏教界が俗権に進出して朝廷権力を侵すことにも繋がった。
ゆえに朝廷、特に天子の周辺は道教との連絡を深めるケースが多く、
武宗皇帝の仏教排斥運動はその端的な例であると言えよう。
かかる理由から天子の側近には道士が控えていることが珍しくなかった。
そこにきて中唐以降の天子は、あからさまに政治的実力を失して厭世的になっていたところ、
道士より神仙の業を説かれれば容易に耽溺したであろうことは想像に難くない。
197 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2005/07/18(月) 16:40
>>127(司馬光に何か言いたい事はありますか?宰相)
実のところ司馬光にさほど恨みはない。その浅慮軽薄を軽蔑するのみだ。
なぜかと言えば、あれは私の行政能力を正しく評価して、王安石の姻戚であるにも関わらず
比較的厚遇してくれたからだ。朝政を紊乱した屑とはいえ、公明正大な人物ではあった。
光がもう少し長寿であれば、私は旧法党の一員として宰相に列していたかも知れない。
とは言え、光に賞賛されたことが私を無節操漢とする世論の火種となり、
その後十数年も地方回りをさせられる原因になったのだから、感謝するつもりは毛頭ないが。
私は日本語ができ(ありえ)ないで、これは私がインタープリターの効果を使うので、きまりが悪いです!
私は、多くの現代中国人はすべて清朝を承認しません!とたいです。特に私達の大漢の民族!清朝中華の文化が滅ぼすことを招きました!
本当の話を言って、日本はとても多い中華の文化を保留して、日本の人命もよく学ぶ民族で、大漢の民族と大和の民族の本当の1家の人!
清朝はそうではなくて、蒙元は更にそうではありません!
ありがとうございます。
清が人口や経済を豊かにしたから、その後の毛沢東は相当の無茶が出来たわけだし
>>105(姚広孝について論じてみて)
道衍という僧名のほうが有名か。一般には燕王朱棣(後の成祖永楽帝)の軍師として知られる。
僧籍のまま歴史の表舞台に出たというのが、やや異色といえるかもしれん。
史書には「常に謀臣として帷幕に参し職守の機事は皆彼の言により決し其功第一と称せらる」
───と、記される。なにか具体的な軍功を立てたとの記事も見当たらぬ以上、
即ち燕王近侍の佞倖だろう。無謀な造反を唆すくらいであるから褒められた人物とは言い難い。
まあ、精神面で燕王を支えていたのかも知れん。
さすが勲功第一と称されるほどだから、燕王の即位後には太子小師に叙されている。
ただし、小師とは政治上の実務を担当する地位ではなく、言ってみれば名誉職だ。
政治的には枢要な地位を襲わず、名誉を得た後も常に寺院に起居して史書の編纂に生涯を
尽くしたというから、この点だけみればかなり淡白な人間だったのだろう。
そのため永楽帝との関係も終生にわたって良好であった。
どこか謀反を焚付けた謀略の徒としての足跡と整合性を欠くような印象も受ける。
あるいは、もともと大した存在感も功績もない、単なる学僧だったのかもしれない。
そういう人物を勲功第一とすることで、むしろ自身の威光を些かなりとも脅かされぬようにした
永楽帝の知恵だったのかもしれない。そのように考えればすっきりする。…あまり根拠はないが。
蛇足だが、永楽帝が帝位を奪取した政変を後世に靖難の変と称する。
たまに北宋末の靖康の変と混同される場合がある。時代も経緯も全く無関係であるけれど、
圧倒的優位にある一方が、到底勝ち得べからざる一方に敗れた───という点では共通する。
どこまでいけていただろうね、今の中国は
環境破壊とかが恐ろしいレベルにまで進んでいそうではあるけど
途中で経済破綻を起こして、アメリカの傀儡になっていたかも知れんけど。
経済が破綻したら米の傀儡になる前に分裂して内戦に戻ります
正論だね。
こんな所かの。やはり皇帝権が絶対化された明とその完成期である清は
歴代王朝の中でも最高位にある物じゃ。
その反面、わしの司馬家の晋は諸王族や貴族に著しく制約を受け
皇帝の地位など微々たる物じゃった。
後ろの三国は天下統一出来ぬ地方の一王朝(軍閥の延長でもいい)なので
知名度云々に関わらず下にした。秦は僅か十五年なので除いた。
唐は安史の乱以前と以後に分けた方がいいと思うので
清も阿片戦争前後からすでにやばいので、あくまで初期で
清>元>唐(前)>北宋>明>前漢>隋>後漢>南宋>唐(後)>金>西晋
明は皇帝権が絶対であるが、臣下の忠誠心が薄いため、経済力に頼っており、倭寇にすら
苦しめられた。守勢に回ったら、もろいと思う。
唐も攻勢は強いが、いったん、瓦解したら、すさまじく弱体化してしまう体制
隋は二代限りだが、煬帝のあの事業を支えたのは結構、国力はあると思われる。
一大事業をこれといって起こすことのなく、滅んだ後漢よりは上かと
軍事国家のくせに、南宋に攻め入ることのできず、モンゴルに数度の敗北で滅亡した金の弱さは異常
実態はかなり低いものと思われる。
秦と新は短命なので除外
>>>165(中国史の名君ベスト5を挙げてみてください)
序列を付けるのは非常に難しいが・・・
1.聖祖康煕帝(清)
2.太宗李世民(唐)
3.太祖趙匡胤(北宋)
4.光武帝劉秀(後漢)
5.太祖朱元璋(明)
と、私は考える。康煕帝および李世民は軍事、内政を両立させた点が偉大じゃ。
古来より外征にかまけた天子は、おおむね国家財政を破綻させ、王朝そのものの
衰退を招いておる。前漢武帝、隋煬帝などがその典型だ。しかるに康煕、太宗の
二帝は、版図の拡大に並行して内政も能くし、各々長期政権の礎を築いておる。
趙匡胤は軍人皇帝ながら、五代以来の武断政治を排除し、文治主義による皇帝
独裁体制を確立した。軍事面での弱点を経済力によって補うという、新しい形の
国家を形成した点は評価に値しよう。光武帝はやや時代が上るものの、やはり
有力豪族を牽制した、文治主義的な面を評価したい。最後の朱元璋であるが、
かなりの傑物ではあるものの、暴君的要素が強すぎるゆえにこの位置じゃな。
171 :来俊臣 ◆SiKEI/O88M :03/09/10 19:23
>>>165
では、我輩はこう並べる
1 明の太祖 洪武帝朱元璋
2 清の聖祖 康熙帝愛新覚羅玄?
3 後漢の世祖 光武帝 劉秀
4 唐の太宗 李世民
5 前漢の高祖 劉邦
洪武帝は他の歴代皇帝と違い、財産・地盤の全く無い流浪の托鉢僧から
立身し自分の政治・軍事・人事各方面に渡る才能と研鑚で一代にて中華
を統一して二百八十年にも渡る明王朝の基礎を築いた。後年の大粛清を
差し引いても余りある大きな功績だろう。
康熙帝は幼少で即位しながら早くから親政し三藩の乱や対外遠征と勝利
を収めながら内政・文教面でも多大なる成果を残した清王朝最高の名君
と言えよう。
光武帝も王莽期の混乱から一代で天下を平定し後漢王朝を築いた功績は
大きいが、洪武帝よりはるかに恵まれた出発点をかんがみ第三位とした。
唐の太宗は我輩の時代では名君の代名詞であったが、隋王朝の国公の家
柄。兄弟を抹殺した玄武門の変。そして晩年の長孫無忌の専横を許した
事で光武帝の下とした。
漢の高祖は人心掌握術と有能な家臣を使いこなし天下を平定したが特に
内政面での功績が見当たらぬため第五位とした。
尚、北宋太祖と武則天陛下については主観が入るため別格としたが優れ
た皇帝であることに代わりない。
しかし、こうして見ると創業の皇帝が多いな。
>>287(玄武門の変は太宗の汚点と呼ばれてますが、お二人はどう評価しますか)
後世の者の評価はともかく、太宗李世民自身、玄武門の変を自らの汚点と考えて
いた事は間違いない。その汚点を正当化すべく、太宗は歴史の改竄を企図した。
玄武門で殺害した兄、李建成の功績を貶めることは言うに及ばず、父帝高祖李淵の
勲功まで自らの物として史書に記させた疑いもある。長期政権の創始者、例えば
前漢高祖や宋・明の太祖と比して、李淵があまりに地味に映るのは、その為だろう。
そのように考えると玄武門の変は、李世民の残忍で狡猾な本性を象徴する事件で
あったと言える。そうして帝位に上った後も、即位にまつわる後ろ暗さを払拭する為
明君として振る舞い続けた太宗だが、その緊張感を生涯に渡って持続させた点は
驚嘆に値すると言ってよかろう。太宗の治世は粉飾されておる部分も多いが、
それを差し引いても中国史上屈指の明君とみて間違いはない。
>>295(エェー 元のフビライについて教えてYO)
殺戮と略奪によって世界中を恐怖に陥れた蒙古帝国だが、フビライ汗はまだしも
開明的な帝王であったとされる。南宋を滅ぼした際もその皇族を優遇しておるし、
当地での蛮行も戒めたというから、蛮族としての蒙古からの脱却を図る意気込みは
あったのだろう。軍事的資質、汗家の熾烈な権力闘争に打ち勝った権謀術数の才も
相当な物であったと認めざるを得まい。だが、中華の支配者としての内政面における
事績は稚拙を通り越して無残と言うより他ない。蒙古人には財政処理能力など皆無
であったから、フビライ汗はそれまでの伝統に従い、色目人(西域人)官僚に経済政策
を委託したが、この連中は場当たり的な搾取を繰り返す事にのみ長じていた。
言ってみれば、絹の道での中継貿易において利益を上げるような限定的財政手法を、
農業国である中華にそのまま敷衍させ、宋代を通じて発達した経済構造を根底から
破壊し尽くしたのだ。元朝の国家としての施政方針を定めたのはフビライ汗であり
その後継者達も同様の手法で統治した為、漢地にどれほどの混乱が生じたかは
筆舌に尽くしがたいものがある。草原の王者として君臨しておる分には偉大な帝王と
呼べたかもしれぬが、中華の支配者としてのフビライ汗は暗君と言って差し支えないと
私は考える。
他人のふんどしばっか持ってこないで、いい話してると思ってるなら
せめて誘導してくれよぉ。
ここじゃレスも返せないじゃないか。
ttp://www.alfheim.jp/~narikiri/narikiri/test/read.cgi/TheSun/1162999565/
>>126>>128
スマソ。
蔡京 ◆GtkPmKwSp2氏が最後にレスしたのは去年の9月だし
誘導しても意味内かと思ったので。
レスを返すといっても4、5年前の話を覚えてるとも思えない。
別に他人のふんどしで話そうとか称揚するつもりはないけど、
埋もれさせておくには惜しいというか……まあ、そんな訳です。
5年前とか…
5年前つったら、ようやく五代十国時代に目覚めて調べだしたときか。
その頃だったら、なに言ってるかさっぱりだったろうなぁ。
>>129
ま、そういうことなら、あげてもいいけど。
>>130(雪夜訪普図)
訪普の普はいうまでもなく宋建国の名臣、趙普のことで、
雪のちらつく晩、唐突に家臣の元を訪れ二人で酒を酌み交わす
趙匡胤の飾らぬ人柄を示すものとして有名な絵画だ。
趙普という人物は些か地味で、日本での知名度はあまり高くないが、
宋が唐以来の地方藩鎮の割拠を抑え、強固な中央集権を確立しえた背景には、
趙普の補佐によるところが大きい。中国史上屈指の大政治家ともされる所以だ。
ただ、普の人となりは、教養のなさとも相まって、豪放というよりむしろ横暴に
近いものがあり、太宗の宰相盧多遜の弾劾を受け、中央より退けられたこともある。
良くも悪くもアクの強い人物といえよう、粗野という面では太祖と通ずるものがある。
>>183(陸秀夫は嫌いですか?)
>>184(張世傑は時勢を知らぬ愚人ですか?
それとも最後まで宋朝に忠義を尽くした義人ですか?)
嫌いかどうかと問われれば、嫌いだ。
義人か愚人かと問われれば、そのどちらでもあると言える。
陸秀夫にしろ張世傑にしろ、はたまた文天祥にせよ、突き詰めれば何ら変わらん。
個別に扱うなら、朱子学亡者1、2、3号とでも呼んだ方がわかりやすい。
連中にしてみれば、宋の再興が果たせるか否かなどさしたる問題ではなく、
朱子学上の正道主義に殉ずることが唯一無二の目的だったのだろうよ。
忠義忠節も場合によっては単なる自己愛に過ぎん。
朱子学は経学としても哲学としても優れた性質を備える東アジア史上最重要の
学問であると同時に、陸張天のような馬鹿を大量生産する道具でもあった。
223 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2007/03/14(水) 19:12:21
>>211(じゃ、方孝儒なんてお話にならない馬鹿ですか)
方孝孺の場合は、まあ、文天祥らと比較するのはやや不適切か。
あの場合、常軌を逸していたのは永楽帝なのであり、方孝孺も朱子学精神というより、
むしろ一般的な良識としてたやすく節を曲げることに抵抗を感じたのだろう。
かかる局面であれば私でも身の振り方を躊躇するだろうよ。
叔父が甥を弑逆するなど考えられぬ暴挙であり、
容易に尻馬に乗ったのでは世論からの風当たりも恐ろしい。
また、簒奪によって確立した政権が永続するのかどうかも不透明だ。
仮に建文帝が存命であり、いずこかに落ち延びて挙兵し、
南京を回復でもした日には、永楽政権に与した者など悉く誅殺の対象だろう。
建文帝の復辟など絶対にありえなかった───というのも、所詮は後知恵だからな。
宋の時代に比べて。
研究者による論文・専著でも批判的に読んでみるべきものなのに
どこの馬の骨とも知れん人がネットに書いた事を無批判に信頼していいもんかね
本人乙とか言われても仕方ないよ
だいいち5年も前のスレなんか大抵過去ログ化してる訳で
当時の参加者以外はログ持ってないのが普通だろう
>>309(王安石もヘタレですか?)
王安石については何度か断片的に語って来たが、この機会に詳しく論じてみよう。
北宋が、遼・西夏に対する莫大な歳幣(安全保障費用)および官僚組織の充実による
費用などがかさみ、11世紀半ば頃から財政難に陥っていたことは前に述べたと思う。
王安石はそのような状況下で宰相となり、新法と呼ばれる改革を断行した。詳しい
内容について言及すると冗長になり過ぎるゆえ省くが、新法の根本的理念は農民や
中小商工業者を支援し、それによって生産増加と景気浮揚を図ることにあった。
だが、これらの政策は富を独占する地主・官僚等に打撃を与えるものであったから
彼奴らの凄まじい抵抗に遭い、さらには法適用にあたっての不手際と、改革に伴う
一時的な景気の後退によって、民衆にも全く歓迎されなかった。新法は長期的視野に
立った経済政策であり、継続されれば効果を上げられたとは思うが、王安石は余りの
不人気から在職五年で宰相を罷免される。翌年には復権したものの、一年間の
左遷生活の中で完全に覇気をなくし、すぐに自ら辞職して二度と政治に関わらなく
なってしまった。やはり、ここで諦念してしまったことが新法を失敗に終わらせた最大の
原因であったろう。王安石は皇帝の信任篤く、かなりの権限を有しておったから、
独裁的に新法を推し進めて成功させることは可能であった筈だ。反対派である
旧法党には、これといって新法に代わり財政難を解決する具体的試案は何も無く、
ただ己の利益と儒家的価値観に縛られて、感情的に新法を謗っていたのみだからな。
その後、新法・旧法の政策対立は単なる派閥抗争へと堕落する。そして最終的に
勝利者となった私は旧法党を全て駆逐し、新法を完成に導いて国庫を黒字にしたが、
その金は徽宗の贅沢三昧に費やされて、王安石の理想とはかけ離れた結果を生じた。
結局のところ、王安石はあまりにも実直過ぎたのだ。実権を有しておる以上、反対派
に対して幾らでも過酷な処置がとれたものを、無駄に説得を試みるなどしておる。
それに政治家として、良い意味での狡猾さが無かった為、付け入られる隙を与えた。
改革に成功した宰相として、しばしば王安石に比せられる者に、明代の張居正がいる。
こちらは王安石と違い、権力維持の為に反対派を弾圧するなどの非道さを持ちあわせて
いたのが成功の鍵と言えよう。私もまたその範疇だな。尤も私は亡国の臣であるが。
>>326(蔡京閣下が武則天を論じてみて下さい)
なるほど。来とは異なる視点で武后を考察するのも一興だ。
武后の治世は概ね太宗時代の威光を受け継ぎ、唐の隆盛期ではあった。
しかしその内実は、均田制の崩壊によって確実に税収が落ち込んでいた筈だ。
実際問題として唐王朝は巨大に過ぎ、均田制のような画一的制度を継続するのは
不可能に近かったと思うが、その崩壊に直面して武后は場当たり的な対応しか
講じていない。武后は人材登用に関して積極的だったとされるが、そうして門地に
こだわらず登用した官僚群の中にも、傑出した経済官僚は居なかった。
狄仁傑からして、宰相としての内政面における実績は特に見当たらない。
均田制の崩壊はそのまま府兵制と租庸調制の崩壊でもあるから、中唐以降の
皇帝権の後退、軍事力の低下の直接的原因であり、単なる経済問題には留まらぬ。
結局のところ武后は、国家最大の懸案につき無為無策であったのだ。
ただし、構造的な問題を解決できず先送りにしたとは言え、とりあえずの繁栄を
維持するだけの良政は敷いており、晩年になってもそれほど政治能力に衰えが
見られなかったので、玄宗よりは遥かに真っ当な天子であったとは言える。
なれば唐代において太宗に次ぐ賢帝であったともみなし得るが、やはり能力に
おいても実績においても、太宗とは比較にならぬとしか言いようがない。
>>438(金王朝最大の暴君、完顔亮について一言)
完顔亮、すなわち金の海陵王だな。これも判断の難しい帝王だが一言で申す
ならば“焦り過ぎた”ということだろう。都を移し、漢族官僚を重用し、諸制度を
整備しつつ、自らも中国文明に陶酔して中華の帝王に相応しい中央集権型の
皇帝独裁国家を築こうとした。これは施政方針として間違いではない。しかし、
それら諸政策と並行して南宋討伐の軍を起こしたことが、結果論から言えば
海陵王最大の失策であった。とは言え戦況はむしろ金軍に有利であったから、
遼陽でのクーデターがなければ、長江を渡って南宋を滅ぼしていたかも知れん。
海陵王は暴君に違いないが、明確な方針を持って国家運営をしており、決して
無能ではなかった。もし南北統一に成功しておれば、かなり強大な統一王朝が
中華全土に出現していたと思う。海陵王の私生活における残忍さや、即位の
際に多くの皇族諸侯を殺した事は、あまり重視する必要はあるまい。廃帝に
関する事績だけに、捏造や誇張の類が多かろうしな。
>>560(王安石、司馬光について一言お願いします)
司馬光というのは、ある意味非常に清廉潔白で道徳感情に溢れる人物だった。
だからこそ、新法によって貧民(主に農民だが)を経済的に支援し、その生活水準を
底上げするという理念に、吐き気すら催すほどの嫌悪感を感じたのだな。
富者がいる一方で貧窮した農民が多数存在するという、階層化された社会秩序こそ
理想と信じて疑わなかったのだ。現代人には奇異に映るだろうが、このような
歪んだ思考も儒家的倫理観の一典型として存在し得る。すなわち司馬光は
私利私欲を図る為に新法を非難していた訳ではなかったゆえ、
宰相としてそれらを全面的に廃止するにあたり、迷いも後ろめたさもなかった。
無論、このような現実から遠く離れた理想主義者が宰相として国政を統括するのは、
国家にとり害悪でしかない。その意味で司馬光は私以上に悪質な宰相であった。
一方の王安石だが、現代的な感覚では、貧民を慮る正義の味方に映るやも知れぬ。
だが新法というのは、ある程度貧困層を支援して経済力を備えさせ、しかる後に
搾取すべしというのが本質であった。王安石自身はしばしば“愛民”などと口にし、
新法の社会福祉的な側面も強調していたが、まあ無理のあるこじつけだったな。
どちらかと言えば科挙官僚というのは司馬光のごとく経済にも軍政にも刑法にも
疎い者が多く、王安石や私のような実務家のほうが珍しいのだが、より宰相として
相応しいのがどちらであるかは言うまでもない。
四悪に数えられるのは当然だ。秦が金と通謀してしたというのは俗説に
過ぎず根拠は薄いけれど、それを差し引いても、南宋が永久に中原を
回復すること能わざるは、是秦檜一人にその責めを負わせても、特に
不公平とは言えぬ。賈似道は歴史上賛否両論のある宰相だ。いわゆる
「賈似道の公田」は、当初の目的であった豪民抑制がまったく行われず
いたずらに中小農民の土地を無法に収用するのみの悪法に終わった。
一時的に国庫収入は好転したものの、国家全体の生産性を著しく
損なったのだから、私としてはどうあっても賈を評価する気にはなれぬ。
賈は進士なれど科挙に応じたことはなく、天子の妃であった姉の恩蔭で
その地位を得た破落戸子弟に過ぎぬ。こうした下衆に朝廷の権を掌握
されたこと自体、もはや南宋は末期症状に陥っていたと言えよう。
韓?冑は寧宗擁立の功臣で、非進士ながら宰相にまで上った者だが、
>>153で来が述べたように朱子学を禁じた事及び対金戦に敗北した事が
主な原因で姦臣の名を後世に残す羽目となった。
そして最後に私だが…悪く言われる事が多いのは、旧法党を徹底的に
弾圧したためだろう。南宋では基本的に新法が害悪視されたのでな。
北宋が滅びた直接のきっかけは、やはり対金外交の失敗に端を発する
もので、それは主に童貫と蔡攸(私の長子)の責任だ。
>>155(皇帝独裁権の良点と悪点を教えて下さい)
最大の利点は政治の安定が期待できる所にあった。皇帝権の強さは
すなわち人民支配の実力そのものであり、強固な政府の庇護下に
あってこそ民間における文化・経済はめざましい進捗を見せるのだ。
ただし皇帝独裁体制にも幾つかの類型があり、君主の恣意が何者の
掣肘も受けずそのまま実施される古代の専制君主政と、封建領主的
色彩を失った官僚である大臣が政策を立案して、最終的な決断をのみ
君主に委ねるところの近世的独裁制とでは、まったく性質を異とする。
この差異がいずこから生ずるかと言えば、前者の独裁体制は、君主が
封建諸侯の中の第一人者である為に成立した見せかけの独裁権力に
過ぎず、すなわち君主の権力が相対的に下降すれば、たちどころに
体制崩壊して中世的分裂社会へと移行するのに対し、近世的独裁とは
国家機関をすべて君主の下に集中せしめ、君主に事故ある場合にも
大臣や外戚に全権を委ねることがないように官制が整備された体制を
指すのである。近世独裁体制は、分裂割拠状態にあった中世社会を
政治的に再統一したのみならず、国内市場の再統一により爆発的な
経済発展をもたらす役割をも果たした。そしてこれこそがまさに中国に
おける皇帝独裁権の最大の成果であったのだ。
しかし、中国の皇帝独裁制は、あまりに強大かつ整然となり過ぎた。
ために社会は近世の限界とも言える一点にまで上りつめた後、長期の
停滞に陥ったのだ。国内の富は天子と官僚・大土地所有者にすべて
吸収され、市民階級はついに台頭せず、人口の増加は富の偏在に
拍車をかけた。産業革命も政治革命も行われる事なく、中華社会は
西欧列強の進出の前にあえなく膝を折る結果となった。これは中国の
皇帝独裁制が内包していた構造的欠陥に他ならない。
皇帝個人に依存する独裁体制ではその能力器量が大きく関係する。
清朝の康熙・雍正両帝の如き名君なら中央・地方の官僚組織も
潤滑に機能できる。
だが文盲に等しい暗愚な者が一度、帝位に就けば目も当てられまい。
特に皇帝独裁権がほぼ確立した明代ではそれが当然となり官僚も
私利私欲に走り、ついには自滅とも言える滅亡に相成った。
要は皇帝の政務能力云々が良点にも悪点にも成り得るのだ。
蔡京殿の言われる市民階級の台頭も、西欧諸国が実行しつつあった
十七~十八世紀に清の三代黄金期だった事が結果的に後々の中華に
悪影響を及ぼしたのは皮肉と申すしか無い。
>>232(高祖)
高祖の覇業なりし要因はまさに帷幕の将吏に人を得たことを以て第一とし、
帝本人が用兵の才覚や高度の知識教養を備えていたと少なくとも文献上からは
読み取る事ができない。ゆえに高祖が他者より秀でていた点は、士大夫に要求
されるが如きものにあらず、むしろ侠客としての求心力であったに違いない。
秦王朝崩壊後の諸反乱は伝統的士大夫層により組織されたものと不平無頼の
衆徒とに大別されるが、即ち後者を代表するのが高祖劉邦だ。
秦王朝に代わる中国の支配者が必ず高祖でなければならなかった理由はない。
反乱者の勢力は拮抗していて、ある意味誰が最後の勝者となってもおかしくは
なかったのだ。それゆえに高祖の成功はその能力に拠るところが大であると
言える。一般に中国の天子で卑賤から身を起こして長期に存続した統一王朝を
樹てたのは高祖の他には明の太祖くらいとされている。この一点を以てしても、
劉邦が平凡な人間であったとは考えられない。ただし群雄として戦乱を生き抜く
能力はあっても、治世の天子としては平凡な資質しか発揮できず、その死後に
幾許かの混乱を生じせしめたのは事実だ。ゆえに明君とは評価しにくい。
>>284(洪武帝と光武帝も一文字違いで大きく違いますね)
そうでもない。洪武帝と光武帝には政策面で似通った部分がある。両者とも
対外政策に消極的で、交通路を閉ざした内向的な鎖国国家を志向した点が
まず挙げられるが、最大の共通点と言うべきは中華史上特筆すべき官制の
改革を行ったことだろう。洪武帝が中書省を廃止して宰相をおかず、行政の
各部局を天子に直属させて極端な独裁体制を築いたのは有名だけれども、
光武帝もまた宰相を信任せず、前漢における丞相(成帝以降は大司徒)を
司徒と改称して実権を剥奪し、これに伴い三公を空名の名誉職に堕した。
明においても後漢においても、かかる官制改革の結果として生じたのは、
天子近侍の官による側近政治だ。すなわち明朝では内閣大学士が、後漢
では中書・尚書が政治上の実権を有して宰相に代わり重用されている。
いったい中国の官制は、天子近侍の微官が側近としての特性から次第に
表面の大官を凌ぐ実権を有するようになり、やがてそれに取って代わると
いう現象を繰り返して発展してきたが、光武帝・洪武帝はその節目となる
時期に出現した天子なのだ。なお粛清うんぬんについては以前にも述べた
ので割愛するが、洪武帝が天子としての資質に欠けたことを証明する事実
であると私は考えている。
>>298(中国の最盛期とはいつだったのでしょうか?)
領土的、軍事的な極盛は清王朝だろう。歴史上、あれほどの大帝国は類を見ぬ。
蒙古帝国やサラセン帝国といえども、その支配の確実性においては清王朝の
足下にも及ぶまい。すなわち存在そのものがひとつの奇跡だ。
ただし、清王朝は内部的には先進性を喪失した行き詰まりの社会だった。
経済も文化もまったく領土の内にて完結し、自閉的な社会を営んでいたことは
明王朝に何ら変わるものではない。これは即ち近世社会から近代社会へと脱皮
する条件を欠いていたことに他ならぬ。肥大化した領土と人口が国力の増大に
結びつかなくなった時、中国社会はまさにその発展を止めたのである。
社会機構全体を勘案すれば、中国社会にもっとも活力が見られた時代は北宋で
あったと確信する。思想一つをとってみよ。中国史の上でついに朱子学を超える
学問は生まれなかった。そして朱子学とは北宋に端を発する宋学の集大成だ。
さらに宋と明清の決定的な差は、鎖国をしなかったことである。すなわち外交に
おける方針の差だ。北宋は確かに外交的優位性を維持しえなかった王朝だが、
それは所詮精神的な部分での屈辱を味わったに過ぎぬ。何となれば歳幣として
対外流出した莫大な資本は、再び貿易黒字という形で宋の国内に還元されたの
である。北宋は徽宗皇帝が出現して財政の均衡をことごとく崩壊せしむるまで、
継続的な好景気に沸いたまさに経済大国であった。
その意味で、おそらく中国史上もっとも近代社会へ肉薄した時代であったろう。
むろん、いかに天子独裁の体制が確立した近世中国とはいえ、一人の天子に
社会の趨勢を左右する力はない。しかしながらあの時期に徽宗のごとき天子を
戴いた北宋王朝は不運であった。そしてそれは中国の歴史全体にとっての不幸
でもあったのだ。歴史の転換期に居合わせた者としては、慙愧の念に耐えぬ。
>>313(中国史で残虐を欲しいままにした人物で誰が真っ先に思い浮かぶか)
ふむ…社会的な風潮として残虐がまかり通った南北朝時代がまず想起されるな。
南斉の明帝、東昏侯、宋の孝武帝、後趙の武帝など、その手の兇暴な天子には
事欠かぬ有様だ。とは申せどどれもみな小粒で、中華第一の残虐とするには
いささか物足りぬ気もする。なればやはり朱元璋を挙げるのが妥当といえようか。
思えば、士大夫ならざる者が中国の帝王として士大夫の上に君臨するとき
当然に起こりえる悲劇なのかも知れないが、それでもやはり朱元璋は看過しえぬ
禽獣だ。後世に残した禍根も鑑みれば、その罪たるやまさに中華第一であろう。
>>322(永楽帝が建文帝に勝利できた要因を幾つかお願いします)
靖難の変は中国史における不可解な謎の一つだ。そもそも永楽帝の挙兵は
追い詰められたものとは言え、無謀の一言で片付けられるものであり、成功の
可能性は皆無に等しかったと思われる。永楽帝は北平にあって土着の諸侯化
していた訳ではなく、あくまで天子の将帥として駐屯していたに過ぎない。
建文帝がかの地にあからさまな悪政を敷いていたとでもいうなら格別、
かかる事実は文献をいかように解しても存在していなかっただろう。
即ちこれは大義の絶無なりし造反で、人心を得らるるべくもなかった。
だが、このことが逆に建文帝側の危機感を薄からしめたのだろうな。
建文帝の思惑は叔父を武力で討伐するにあらず、和解の途を探っていた様に
思われる。耿炳文や李景隆など燕王討伐の指揮に当った武将も、建文帝から
そのように言い含められ、いざ出征すると守勢を余儀なくされたようだ。
耿も李も一定の水準は具備した名将であったし、建文帝がより断固たる方針を
与えていればああも無様な敗北はしなかったであろう。
仮に建文帝が南京の陥落前に脱出していれば、容易に再起を図れたのでは
ないだろうか。方孝孺が頑なな抵抗を見せたように、燕王は南京を領してなお
天子たる正当性を欠いていた。
総括すれば、燕王を勝利者たらしめたのはその軍略や智謀にあらず強運のみ
であったと思われる。してみれば歴史上稀に見る、万分の一の奇跡だったろう。
351 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/06/26 23:48
>>330(武則天とその時代は暗黒時代に見える?)
いや。武后の時代はおおむね太宗の治世の延長であり、中世中国の極盛期かつ
唯一の安定期でもあった。ここにおいて後漢末にはじまる長き混乱は一応の終息を
見たのだとも言えるから、暗黒時代との謗りにはあたるまい。
武后は多分に暴君的な要素を備えていたが、暗君ではなかった。
めざましい功績もなかったが、さりとて明確な失政があった訳でもない。
ゆえに守成の天子としては十分に及第点を与えられるだろう。酷吏を盛んに用いて
恐怖政治を旨としたのは、ここにいる諸君にとっては周知の事実だろうけれども、
それも天子独裁権の強化と、秩序維持を企図していたと考えれば、方向性としては
妥当なあり方だったと言って良かろう。例えば、君主権が既に極大に達していながら
無用の警察力を跋扈せしめた明王朝などとは、まったく趣旨が異なるのだ。
しかし武后も玄宗も、はたまた太宗も唐王朝の構造的な脆弱性を解決しえなかった。
この盛唐の時代に、均田制ないし租庸調制に代わる新たな支配体制を構築できな
かったことが、中唐以降の混乱の発端だったのである。軍閥の割拠と異民族の
侵入による社会的混乱、それに伴う唐王朝の支配力低下は、ようやく発展の兆しを
見せていた商工業と国内市場の開発をことごとく頓挫せしめたのだ。
唐王朝は近世中国の雛形だ。北宋以降の官制・税制・法制は、その殆どが唐代に
初めて作られたもので、中国史の上では極めて重要な意義を有する。
と、同時に中国史上指折りの脆弱な政権だった。その意味では悲劇的な王朝だな。
>>332(南宋は結局、無駄に命脈を保っただけですか?)
南宋がついに華北を復せしむこと能わざりしは、即ち朱子学的な物の考え方から
せば無為邪道の謗りを免れまい。こと経済面に目を向ける限り、常に南宋王朝は
北の金国を遥かに凌駕していた。国家財政の八割を養兵に支弁してなお財政的な
健全性を確保しえたのだから、どうして中原の回復が不可能なりしと言えようか。
惜しむらくはこの王朝には、傑出した人材が現れなかったことである。
高宗が暗君なのは言うまでもないが、随一の明君とされる孝宗とて肝心のところで
北伐の手を緩めてしまった。尤も、王安石新法の理念が完全に潰えた南宋が仮に
中原を回復したところで、いかに領土を保ちえたか疑問ではあるが。
とは言え、南宋は百年余存続し、文化面では宋学が大成され、北宋時代に比して
勝るとも劣らぬ繁栄を謳歌したのだから、必ずしも無駄な延命であったとは言えぬ。
私も孝宗朝以降の南宋に生を受けていれば、おそらく和平派に与したことであろう。
>>359(旧法党に謀反の罪を着せ全員死刑にすべきだったと後悔していないか)
誤解なきように言っておくが、私は新法派の官僚として、死刑やそれに類する
酷刑に頼ることなく、長きに渡った権力闘争に完璧な勝利を収めたのだ。
私が宰相として政権を占めてから後、旧法派は完全に潰えて、以後二度と表面に
現れることはなかった。北宋の官僚社会は、己に付和せぬ者を殺戮することで
権力を維持できるような素朴な構造ではありえなかった。
政敵を生かしておいたことで、後に禍根を生じたという事実がないのだから、
後悔する理由は皆無だ。私は最も弊害の少ない合理的な手段によって、不動の
権勢を朝廷に確立した。残虐非道たることは何ら有効な処世術ではないのだ。
369 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/06/28 20:34
>>360(北宋末期、飢饉に陥った人々は官民問わず人肉を食べ始めた)
さもあろう。反乱が常態化して社会秩序の著しい紊乱を生じた北宋末期には、
それを要因とする飢饉も各地で発生していた。特に方臘の乱で荒廃した江南地方
にはその傾向が顕著であった。その意味で女真族の侵入は駄目押しに過ぎない。
王黼や蔡攸など朝廷の首脳部は、事態解決に必要な能力を欠いていた。
やはり徽宗の朝廷は、私がおらねば立ち行かぬ仕組みになっていたのだよ。
まあ、その結果として人肉食が朝野に蔓延したというのも、明確な裏付けはないが、
理屈としては頷ける話だな。ちなみに范温なる者については寡聞にして存ぜぬ。
少なくとも刑法上の価値判断からせば、死を持って論ずるに足る罪責はない。
まして凌遅など士大夫に加えるべき刑ではなかった。いかに王黼とて蔡攸とて、
はたまた童貫とて、そうまでの断固たる方法にて処刑された訳ではなかったのだ。
司馬光は旧法派の精神的支柱だったが、宰相として朝政を執ることわずか一年で
歿した。後に続いた者たちの方がより害悪が大きかったのもまた事実だ。
>>362(旧法党て何でも適当に反対すればいいと思っている連中だった?)
端的に言えばそういう事だ。共産党や旧社会党になぞらえるのは適切ではないが。
そもそも新法の理論は誰にでも理解可能なものではなかった。財政的な困難を
打開しようと模索せば、歳出を抑制して歳入を増やす──すなわち予算の削減と
重税の賦課こそが唯一絶対の手法なりと、旧法派の臣僚は確信していたのだな。
ゆえに新法のすべてが無定見な暴走としか映らなかったのだろう。
すなわち国益上の観点からも、権力闘争的な意味合いからも、新法を全否定して
朝廷における勢力を拡大させぬことが、旧法党の利に資する行動だったのだ。
王安石は社会の実情を正しく把握して、問題点を整理する能力を持っていたが、
その解決策として具体化された法案を円滑に適用する実務能力には欠けていた。
そのため、反対派を説得するに足る成果を迅速に提示できなかったことが、
この抗争が長期化した要因の一つだ。一体、私が現れねばどうなっていたことか。
>>364(同じ神宗でも北宋のと明の万暦帝では雲泥の差ですね)
まったくだ。心の底から同意させてもらう。
中国に数多君臨した天子の中で、私が唯一尊い奉る、神宗英文烈武聖孝皇帝と、
万暦のごとき屑が廟号を同じくするというだけでも不愉快である。
そもそも万暦帝など、世界史全体の中でも稀に見る不徳の帝王だ。
張居正という中国史上最高の理財家を擁しながら、その業績のすべてを
無意味化して、明朝を瓦解せしめた暗愚ぶりには感嘆の情すら禁じえぬ。
神宗の廟号が聞いて呆れる。この馬鹿には煬帝とでも諡してやれば良かったのだ。
603 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/08/27 12:58
>>598(暗黒時代の定義って何ですか?)
狭義にはヨーロッパ中世を指す。古代社会の隆盛を極めたローマ帝国が瓦解し
ヨーロッパの政治的混乱は社会の生産性を著しく後退せしめ、同時にギリシャ・
ローマ文明も衰えて東へと流れた。巨視的にはローマのごとき古代の大帝国は
内部に矛盾した関係を孕んだまま、周辺の諸国・諸民族を併呑して統一を完成
したために、やがて分裂傾向を示して群雄割拠の体をなした。
これを必然とするか、偶然とするかは見解の分かたれるところに違いないが、
かかる分裂と文化衰退の時代を中世的な混乱とみなして、暗黒時代と称すのは
必ずしも合理性を欠く考え方ではない。さりとて暗黒時代にも光はあった。
古代社会の遺産は、確実に中世の長い混乱を抜けて近世社会への途をひらく
萌芽となりえた。その意味で、中世暗黒時代なくして近世ひいては近代社会の
誕生を論ずることはできぬ。翻って中国をみれば、古代の最盛期たる漢王朝が
崩壊してより後、やはりヨーロッパと同様に中世的な暗黒時代が出現している。
まさに三国時代であり南北朝時代であるが、唐王朝もその延長線上にある
中世の最盛期と言えるだろう。
では本日の回答を行う。
>まあいい質問、明で一番の名君は?
朱元璋以外には考えられん。あれを中国史全体の中で名君と呼べるか否かは別としても、
こと明王朝に限って考えるなら、他に名君と呼べる者が一人たりとも存在せぬのだから、
必然的に元璋の名を挙げるより他ない。強いて言うならば、永楽帝には及第点を付けても
いいかも知れないが、華々しい戦功の代償となった経済的損害はあまりに大きく、
何より内政面での治績に特段の評価を与えるべき点が見当たらない。
そして、それに続く仁・宣宗ないし嘉靖帝などは暗君と断じた所で何ら不当とは言えない。
明王朝は世界史上稀に見る強大な国家であったが、唐の絢爛、宋の理想に遠く及ばぬ、
退廃と行き詰まりの社会でもあった。文化も学問も明代を最高峰とする物は何一つない。
このような社会からどうして名君の名に相応しい天子など出現しよう。
>>341(明時代で名将で思いつく人は?)
朱元璋だろう。明代一というよりは、世界史上第一の名将といえるかも知れん。
永楽帝も名将として良かろう。漢人の天子で、親ら漠北に遠征し、かつこれほどの
武勲を挙げた者は空前絶後ではないか。むろん天子の治績は包括的に評価するのが
通常であるから、いかに彼らが名将なりといえども当然に名君たりうる訳ではないがな。
他に名将として相応しい人物もいるのかも知れないが、基本的に明王朝は内向的な
国家観を採ったから、例えば唐や前漢のような赫々たる武功には乏しい。
言い換えれば、名将など必要とされない時代だったのだ。
>>453(永楽帝の世界帝国志向は正しかったのですか?)
明王朝の基本理念は、強固な長城の内側に引き篭もって、ただ漢民族のみの安寧を図る偏狭な
国民主義、国粋主義に他ならない。すなわち唐の世界国家主義とは対極に位置するものだ。
むろん永楽帝もその例外でなどありえぬ。永楽帝の行った外征の主目的は、
中国の「国境」を万里の長城よりさらに前進させ、実効的な安全保障を図ろうとしたものでしかない。
永楽帝の興味の対象は、中国の安全を脅かす蒙古人を中心とした異民族の勢威を削ぎ、
服従せしめることのみで、中国と西方諸国を繋ぐ陸上交通路の回復にはまったく無関心だった。
また鄭和を南海攻略に派遣して、ペルシア・アフリカにまで明王朝の威勢を示したものの、
唐宋以来の海上交易を復活させる意図には欠けていた。結局のところ朱元璋の志向した
鎖国主義から一歩たりとも抜け出したものではないのだ。かつて世界の中心とも言えた中国を
巨大で凡庸な田舎国家に堕した罪は、まさにこの半ば気の触れた父子が負うべきものだ。
143 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/05/28 13:38
>>139 ダーマー
>そう言えば蔡京さんはこの人物を余り好きそうじゃなかったな。
朱元璋のことか。
確かに軍人としては世界史上最高の人物として過言ではなかろうし、天子としても
超人的な実行力を備えていたと思うが、政策理念が極端に偏狭で、高い評価を
与えることはできない。朱元璋の、商賈を軽んじて排他的な農本主義に傾倒し、
国粋主義を旨とする内向的な国家観は、中国の潜在的国力を悉く後退せしめた。
結局この天子は自らが出た素朴な農村社会の価値観から、一歩も前に進む事が
できなかったのだ。
>>285
>蔡京氏は仮に(北宋の)神宗に仕えていたら、どの程度の地位に上れたと思う?
仮にもなにも、私は神宗皇帝の臣だ。神宗の在位中、熙寧三年(1070)の殿試にて
進士に登第し、以後数十年にわたって宋家の朝廷に奉職したのだからな。
なお、神宗の崩御したる元豊八年(1085)、私は知開封府(首都圏知事)の任にあった。
仮定の話に過ぎぬとしても、私があと十年早く生まれておれば、あるいは神宗の寿命が
十年長ければ、神宗の朝廷で宰相となることは十分に可能だったろう。
>それと、神宗の批評を少しお願い
私にとっては大恩のある天子で、おいそれと評価はできぬ。
だが、客観的に見ても堅固な意志と優れた実行力を具備した名君であったと思う。
神宗の即位した当初、周囲を固めていたのは実母の宣仁太后をはじめ守旧派の廷臣
ばかりであった。そうした中で王安石を抜粋し、国内外に山積した問題を解決すべく
改革を推し進めたのは並大抵の事ではない。惜しむらくは、武功に焦慮するあまり、
野放図に戦争を生じたことだろう。未だ改革による富国の実効もあがらぬまま、
次々と西夏・吐蕃・交趾に兵を起こし、悉く失敗に帰した。神宗がその治世において
最も重きを置いたのは、遼に圧迫されて振るわなかった国勢を更張し、対外関係を
打開するにあった。短慮といえば短慮だが、それが父祖以来の国是でもあったことと
考え合わせれば納得がゆく。返すがえすも短命であったことが惜しまれる天子だ。
310 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/12/14 19:41:55
>>289(道路利権団体のCMは、それはそれで非常にムカつきませんか?)
あえて年末に道路工事を集中させる意味はないので、単なる慣習なのだろうが、
確かに12月になると、あちこち掘り返して交通を妨害しているような印象は受ける。
誰が言い出したものか、年末・年度末の道路工事は予算の帳尻を合わせるための
消化工事と揶揄されることが多い。実際にそんなことはあり得ないが、
行政のマイナスイメージに繋がることから払拭に躍起なのだろう。CMもその一環か。
だが、それがかえって視聴者の神経を逆撫でしているのだとしたら、
アッピールの方法を少々見直したほうが良いかもしれん。
>>291(宋で第一の名君は誰だと思いますか蔡京さん?)
北宋を樹てたのは言うまでもなく太祖趙匡胤だ。しかしその成立過程において、
軍事面での功績は五代後周の世宗、内治的な面での功績は太宗趙匡義を無視できん。
北宋王朝は、世宗・太祖・太宗の三者が共同して作り上げた作品とも言え、
各々の業績を分かち別個に評価を与えるのが難しいという側面もある。
特に北宋の文治主義的な性格を具体的な制度として敷衍せしめたのは、
主に太宗の手によるものだ。帝位を襲うにあたって些か不明瞭の点があったため、
必ずしも評価の芳しくない太宗だが、中国史上稀に見る名君であったには違いない。
とは言え、世宗の達成できなかった中国統一の事業を継続して完成し、
中央集権体制の礎を築いて、立国の大方針を後世に範示したのはやはり太祖だ。
異論も多いが、宋第一の名君といえば太祖を挙げるのが妥当な見解であろうと思う。
>>713(北宋は外国に金を払いすぎです。その金で軍隊を強化することは考えなかったのか)
誤解されていることが多いが、遼や西夏への歳幣が北宋の財政を圧迫したという事実はない。
金国に対する南宋の歳幣も同様だ。いってみれば九牛の一毛で、至極妥当な範囲での
安全保障費だった。そもそも遼にせよ西夏にせよ、宋から得た歳幣を何に用いるかといえば
第一には消費財の調達であり、それは宋の商人を相手とする取引だった。
すなわち宋の朝廷が支払った財貨は、再び商取引の形で大部分が宋の国内に
還元されたのであって、一方的な持ち出しではありえなかったということになる。
視点をかえてみると、政府支出が外国を通じてふたたび国内の民間所得に転じたということで、
財政政策にも類似した資金拠出だったのである。
むろんそれらとはまったく別個に、軍事費は天井知らずに膨張していた。
宋代ほど軍事費がかさんだ王朝は他に類例を見ないのではないか。
これはとりもなおさず宋の兵制が傭兵を中心として運用されていたためである。
王安石の改革も、それを引き継いだ私の政策も、突き詰めれば軍事費の削減が目的だった。
>>758 明成祖
>お前、そんなに明が嫌いかよ?
ふむ…そんなに嫌いかと言われれば、本来私の死後の話だけに格別憎悪する理由もないが、
宋学の影響を強く受けた士大夫にとってみれば、少なからず明の歴史には違和感を覚える。
私の主観を排するにしても、やはり明王朝は中国史の中で高い評価を与えられた政権では
ないからな。本当ならば、宋王朝は唐よりもむしろ明清に近い性質を持っているのだ。
にもかかわらず一般に唐宋と括られるのは、宋と明清に形而上的な面での隔絶が
著しいからであろう。文化的後退と国力そのものの盛衰は必ずしも一致しないとしても、
客観的な魅力を乏しくすることは確かだ。あとは個々人の好みで判断してもらうより他ないな。
>少しは肯定的に論じてみろよ、例えば俺様の業績とか
少なくとも軍事的な能力や功績については評価している。
父帝とともに、世界史上一、二を争う名将であったことは疑いようがない。
また、世界史的な役割を考えれば、14世紀という時代にかくも強大な政権をつくりあげ、
中国のみならず東アジア全体の平和と安定に寄与したことは認めざるを得ない。
なんとなれば明の領土の広大さは唐代のそれにほぼ匹敵し、しかも支配の確実性において、
唐とは比較にならぬ実力を有していた。明王朝の台頭は、蒙古帝国に破壊された東洋的な
国民主義の復興といえ、歴史の必然として起こりえた力学的作用には違いあるまいが、
朱元璋とそなたの個人的能力に依拠した部分も小さくない。その点は私としても評価しよう。
前スレ323
>北宋って馬鹿だよね
>自分の力も弁えず調子のって金に無礼しまくって滅ぼされてんだから
そう言われると身も蓋もない。北宋の総量的な国力や軍事力が、金国を遥かに上回っていたことに
関しては以前に幾度も述べたとおりだが、であるからこそ愚かな結末と罵られる羽目にもなるわけだ。
ただ、まあ、当時の政情に少なからず関わりを持った者として言わせてもらえば、
やはり馬鹿だったのは童貫と蔡攸だ。私があと二十…いや、十歳でも若ければ、ああいった醜態を
史上に留めずに済んだものと確信している。南宋初期に編まれた『鐵圍山叢談』なる文献は、
そのあたりの事情を斟酌して、国難を招いた責任を童貫・王黼らに求め、私を徹底的に擁護している。
しかし此説が社会的に省みられ、歴史解釈を見直すべきとの論調はついに生まれなかったようだ。
何せ『鐵圍山叢談』の著者である蔡絛は私の実の子だからな…。仕方がないといえば仕方がないか。
やはり北宋がいいねぇ。
ついでに五代も語って欲しかったな。
後世の目で為政者の失策を論うのは如何なもんかね
現状が上手くいってるのに100年先の破綻を見据えて改革をするなんて神様の領域だ
李世民だってやってない
本人乙としか言い様がない
李世民はあくまで改革者ではなく、現状を堅固にするやり方だった。
現状がうまくいっている、との見解も、それは単に問題が表面化
しないよう先送りにしているだけともとれる。
その判断は非常に難しく、一言で説明をつけるのは難しい。
則天武后の時代に府兵制の維持困難から、節度使体制への移行が
なされたが、そのときは唐の領土を切り売ることで、問題をかわしたように
なっているが、臣下に大きすぎる権限を与える前例がどういう結果を招くか、
想像の埒外にあったなどとは、さすがに為政者の言葉としては聞き入れられないだろう。
つまりは現状では許容範囲内で問題が具現化していないけど、抜本的な
問題解決あるいは対処にはなっていない、というあたりが蔡京の名を借りた
その人の持論なんでしょうよ。
宗沢か。まさに私と同時代の人間だが、微官に過ぎておそらく面識はないな。あったにしても
よく覚えておらん。進士に登第したのが年齢的に遅かったことから、出世も遅れたのだろう。
それが知開封府(首都圏知事)にまで進み、名将として青史に名を留め得たのは
ひとえに非常時ゆえの大抜擢によるものだな。いったい岳飛にしろこの宗沢にしろ、
それなりに有能であることは否定しないが、かといって奇想天外な活躍をしたという訳でもない。
彼らが様々な不利を克服して金国との戦いを推し進め、宋の劣勢を翻しうる目覚しい功績を
あげたという見方は多分に誤解に基づいたもので、実際のところ、まともな手段で対抗すれば
金国に対する宋の軍事的優位は動かしがたい堅固なものであった。
岳飛はともかくとしても、宗沢程度であればむしろ童貫の方が武将としての能力は上だったろう。
いずれにしても、靖康の変の後、元凶たる徽宗は遠く流され、兵力は整い、それなりの人材にも
恵まれた宋がなぜ金国に膝を折ったかといえば、すべてこれは高宗の責による愚行だ。
このあたりの失態はすべて秦檜の責任にされていることが多いが、
考えてみればこういった姦臣を盲目的に信頼して国を誤らせた高宗こそが
最悪の元凶に決まっている。徽宗がむしろ暴君ともいうべき不徳の天子だったのに比べ、
高宗ははっきり暗君と断言できる。宋家は神宗歿後、馬鹿ばかりの家系に落ちたということだ。
>>218(永楽帝が北京に遷都したのはどんな理由が考えられますか?)
明王朝はその成立経緯からいって、恒久的な対モンゴル防衛策を講じる必要があった。
朱元璋は、長城外に強力な軍事拠点を置くことで迎撃体制を採ったが、これには問題点が二つある。
第一は、誰を司令官として置くかという問題だ。遠隔地に大軍を駐屯させるということは、
常に反乱の危険を考慮せねばならず、中央の命令が迅速に送達されるよう連絡を密にせねばならぬ。
南京との距離的隔絶を考えれば、これはかなりの困難事であったといえよう。
皇族の諸王を辺境防衛に従事させたことは、単に朱元璋の異常な懐疑心によるものでなく、
かかる合理的事情が背景に存したものだ。もっとも、永楽帝の造反により図らずも無に帰したが。
第二には、辺境での反乱を警戒し、首都防衛にも相当なコスト負担が求められるということだ。
明朝がその成立初期から兵農一致の徴兵制度を採用したのは、無論、朱元璋の古典的な国家観に
拠るところも大きいが、直接的な軍事予算を抑える趣旨もあっただろう。
少なくとも軍事面「だけ」に目を向ければ、北京に国都を構えて、天子自らが辺境防衛にあたることは、
合理的な発想と言える。そのあたりが遷都を挙行した主な理由だろう。
実際のところ、朱元璋も南京を国都に相応しい土地とは考えていなかったようで、
皇太子時代の建文帝に遷都計画を講じさせたことがあるようだ。
>>264(モンゴル帝国の名臣で誰を思い付きますか?)
名臣の名に値する者などおるまい。
特に元王朝は君臣ともども愚劣愚昧を極めた猿山でしかなかろう。
ま、モンゴル人の能力が漢人に比して根源的に劣っていたとまでは言わん。
要するに中国を統治する上で必要な国家観や社会観を備えていなかったということだ。
才知はただそれを有していても、発揮するべき土壌がなければ何らの意味も有しない。
旧法党を姦党と位置づけて新法の正当性を示す必要があったのだ。
私が宰相として登用される前、向太后の新旧両法党融和政策が行われたが、
これはまったく上手く行かず頓挫した。妥協の道が閉ざされたなら、強権により弾圧するより他ない。
朝廷が政争に明け暮れていては、改革はおろか通常の政務執行にも支障をきたす。
結局のところ王安石も呂恵卿も蔡確も手ぬるかった。世論を恐れていては政治改革などできん。
もっとも、姦党碑そのものは数年後にすべて撤去された。凶兆の彗星が現れたのだ。
既に死んだ者の名まで碑に刻み込んだため、天の怒りを買った…とのことだ。
おかげで私も一時的に宰相の地位を退かねばならなくなった。
その意味では失敗だったといえなくもないが、旧法党を永久に追放するという趣旨そのものは
私が完全に失脚する瞬間まで維持されたので、総合的に見ればやはり妥当な方法であったろう。
>>291(唐の建国時って人材に恵まれてたよね?)
太宗自身をはじめ、文武にわたって優れた人材が多かったことは否定しない。
ただ、初~盛唐の数十年はあまりにも粉飾されすぎた歴史であるとも言える。
唐王朝はいかにも中世色の濃い脆弱な政権であって、
一般に考えられるように、中国史上最高の繁栄を謳歌した時代ではありえない。
特色の多い政権なので凡庸ではないとしても、統治権力や支配の確実性において
宋代以降の王朝に全く劣る。古代の最盛期たる漢王朝をも下回ると言っても差し支えはない。
唐王朝の本質的な意義を考えるとき、それは中世的な社会混乱が終息して秩序を
回復する流れの中で出現した巨大な政権であった、と言える。
むろんそこに太宗を筆頭とした唐建国の名臣たちの力量が作用した部分も少なくはないが、
概括的に見れば奇跡的な偉業とまでは到底言えん。なるべくしてなった結果でしかない。
そのように考えればやはり、唐という時代を過大評価するべきではなかろう。
長期政権を樹立した王朝には確かに有為の人材が集まるものだが、それもまた結果論だ。
人間は自らの能力に適した活躍の場が与えられれば、誰でもそれなりに優れた事績を挙げうる。
334 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2005/10/19(水) 08:43
>>293(中国が誇るテクノクラート、郭守敬を忘れてますぜ宰相)
忘れていた、というより、考えもしなかった。
「名臣」といえばやはり、政治ないし経済面での功績の有無を判断の材料とするな。私であれば。
テクノクラートはどこまでもテクノクラートで、政治的な意味での大局を決定する者ではない。
科学技術は時に社会を大きく変革させるが、それも所詮は政治経済のマクロ的な動きに応じて
必然的に生じる現象だ。むろんそういった科学の発展に寄与した者を賞賛するのは正しい。
しかし、「名臣」として考える場合とはまた別個のものだろう。
>>294(朕の新法に反対した司馬光らは凌遅三千刀、滅九族)
以前>>270で出た朱元璋と全く同じ姿ではないか、痴れ者め。
確かに神宗は、旧法党系の官僚に対し、さほど断固たる態度で臨んだとは言えないが、
旧法党を跋扈させた責を負うべきはやはり王安石だ。
近世の天子は暴力的な独裁でなく、確固とした統治基盤を背景に
強力な指導力で政治意思の決定をなすところに、古代の専制君主との差異がある。
神宗は正しくその意味を理解した明君である。
朱元璋のごときと同一視して不当にその人物を貶めるのは感心できぬ態度だ。猛省せよ。
資治通鑑は神宗の命名になるもので、言ってみれば天子公認の史籍だ。
司馬光の私的な著作というわけではなく、すべてを回収して焚書にするのは事実上不可能だ。
確かに私は旧法党の著作・議論の類を禁書として弾圧はしたが、
清代の文字の獄のような徹底したものではなかった。
何せ元祐姦党には、当時の著名な学者・政治家の殆どが入籍している。
弾圧を加えるにしても、辺僻に流しものにしたり、子弟の任官を制限したりがせいぜいで、
社会的存在を抹消するまでには至らなかった。まあ、世論への配慮という面もあった。
335 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2005/10/19(水) 08:44
>>298(常に辛口批評な蔡京さんが「この君主・人物は素晴らしい」と敬服している人は居るんですか?)
いないことはない。まず、士大夫の心理として神宗には何ら異議なき敬意を抱いている。
私は神宗の科挙に応じて官爵を得た文臣だ。何すれぞ寸分たりとも皇寵を疑わん。
ま、神宗に対する格別の恩情は別としても、別に私は王安石にしろ司馬光にしろ、
あるいはしばしば口の端に上る朱元璋に対しても、一定の才覚や功績は認めている。
とは言え私は、個人の力量が歴史に作用する力を非常に小さいものと捉える。
ために歴史を主題として議論を行う上では、どうしても人間を過小評価する傾向にあるのだ。
所詮人間は自然の中ではなく社会の中に生まれ、一生涯社会から様々の拘束を受ける生き物だ。
その拘束から自らを解放して、まったくの自由な意思で社会を変革することなど不可能だ。
歴史を変える英雄など存在せず、またどのような偉人であっても必ず代替がきく。
してみれば何ら自らに関わりのない歴史の中の一個人を崇拝するなど何と無意味な業と言えようか。
>>307(明の禿より俺様のほうが君主として優れているよな?)
李自成か。
野盗として世に出て、野盗として生を終えたそなたのどこに「君主」としての実績があるのだ?
中国は比較的開放的な社会であったともされるが、その実支配階層は固定化された面があり、
そなたのごとき者が天子として君臨することは本来ありえないのだ。
朱元璋は唯一の例外であって、その例外になりえたからこそ大器と評価されるわけだ。
翻ってそなたを見よ。まさに時流に乗り一時の栄華を極めた乱賊の典型的な顛末を
一歩たりとも超えていまい。いかに英雄的な印象で語られようとも、賊は賊。
何ら評価するに足らん時代の過渡期が生み出した塵でしかなかろう。
>>308(仮に岳飛が勝ち続けて金を滅ぼしたら岳飛が宋を乗っ取って王朝交代したかも)
そんな野心があるならはじめから秦檜の命令など聞かんだろ。
実際問題として、臣下の身で主家を更迭し、自ら取って替わろうなどという思想は、
一般的な中国人の抱くものではないのだ。
よほどの無知か、あるいは精神障害と言えるほどに道徳観念に欠ける者のすることでしかない。
これは単純な善悪や忠誠心の問題ではなく、普通の人間には天子として君臨することに
魅力を感ずる余地がないということだ。特に士大夫やそれに準ずる身分の者にとっては、
簒奪の汚名をかぶることなど到底耐えられない苦痛なのだ。
>>311(靖難の変で万が一、建文帝側が勝って藩王削減に成功したら明はどうなったと思う?)
朱元璋と永楽帝はその政治観が対照的に映るが、実際には永楽帝の治世は朱元璋の理念を
継承したものであった。対外政策に積極的であった点も、唐宋に見られたような純経済的な
動機からというよりは、単に父帝時代の防御線を前進させる目的でしかなかっただろう。
永楽帝の政策の中にまったく父の姿勢に反する点がなかったわけではないが、
それも宣徳帝の時代にはあらかた修正されて、旧習に復した観がある。
となると、仮に建文帝が治世を全うして自らの子孫に位を伝えたとしても、
明王朝の構造が本来と大きく異なる途を進んだとは到底考えられない。
明は徹頭徹尾朱元璋の政権だ。現実に即して制度面の変遷がいくつか挙げられるのは
事実だが、根本のところはさして変わっていない。
馬鹿にしているという表現が適切かどうかはわからないが、私に金国を賛美せよというのは
やや無理のある話だろう。遼についてだが、これも根源的な部分では金と変わらん。
特に背景となる経済力を欠いていたため領土的膨張に限界があったこと、
宋からの歳幣で財政を賄っていたこと、宋に対して巨額の貿易赤字を生じさせていたことと
いったあたりに相似的な共通点を見出すことができる。
>太宗や真宗の時代の兵隊や指導者の質は
>徽宗の頃とは比較にならない(w)のに押され気味だった
そうでもない。北宋の兵員数は仁宗期の125万人がピークでその後次第に減少しているが、
こういった統計は一般に民兵を数に含めていない。民兵とはつまり徴兵による兵員だが、
不逞無頼の集合した国軍の職業兵士より威力においても勝った。
民兵の使用を推し進める改革は、王安石(と私)が最も力を入れた政策の一つだ。
徽宗朝には民兵の総数は720万にも達している。
質、量およびコストともに旧来の兵制と比して大幅に優れていたことは疑いようのない事実だ。
376 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2005/11/18(金) 09:25
>>342(今の中国の歴史史観では朱元璋はどのように評価されているんでしょうかね?)
大衆人気は高いものと思われる。
劉基信仰とも相まって、中国史上最大級の英雄と考える向きが多かろう。
ただ、左翼的史観からすれば、農民革命から身を起こしながら、
最終的には地主層に迎合し、農民を弾圧する側に転向した専制君主でしかない。
その専制の程度が世界史上稀ともいえるほど堅牢なものだったことは、
やはり現代中国の歴史観からすれば容認すべからざる巨悪なのだろう。
もっとも、かかる典型的な左翼史観が今なお中国の歴史学において支配的な
ものなのかどうかは私にもよくわからない。
>>351(燕王は建文帝にあくまで忠義を尽くす廷臣たちを残虐に処刑して回った)
靖難の変についてはこれまで幾度も話題に上ったな。
方孝孺はじめ反対派の粛清が苛烈を極めた点についても、飽きるほど事実が示された。
確かに靖難の変は中国近世史において特筆されるべき椿事だが、
それは天子である甥を弑逆して自らが代わるという点について言えるものであり、
事件処理の苛烈さについては特段に論じるべきこともない。
>>352(何故、資治通鑑には光武帝の奴隷解放令が記載されてないのでしょうか?)
光武帝が奴隷解放令を頻発した背景には、戦乱の影響で零落した農民を戸籍に再編入し、
課税対象を広げて歳入を増やすという目的が存した。
もっとも、漢代は奴隷制社会であったと考える史家もおり、それ自体は極論の観があるとしても
相当数の奴隷の存在を前提として成り立った社会であったことは事実として間違いがない。
光武帝の奴隷解放令は、あくまでもかかる社会構造の枠内で奴隷と自由民の数的バランスを
調整したものに過ぎず、人道的見地から奴隷の地位向上をはかったものではない。
その意味では光武帝ならずとも必然的に採られるべき政策だったのであって、
司馬光もあえて帝個人の功績として書き記すだけの必要を感じなかったのだろう。
ま、儒教的な身分秩序を尊んだ司馬光が、新法党の豪民抑制策と重ね合わせ、奴隷解放を
ある種の秩序紊乱とみなしたのではないかという穿った見方もできなくはないが、
そもそも漢代の奴隷と宋代の佃戸とでは性質を全く異にするもので、いくら司馬光であっても
両者を混同したとは考えにくい。
温和で寛大な印象のある光武帝と、残虐非道な洪武帝とでは正反対に思えるが、
儒家思想に基づく農本主義を採り、貨幣経済に不信を持っていたことや、
外国との交渉を絶ち、内向的な自給自足社会を目指したことなど、
互いに理想とする基本的な国家観に相似的な面が見られるな。
もっとも、後漢と明とでは、政権存立の基盤となる社会経済の基礎的諸条件が
根本的に異なるので、単に創業者個人の思想が似通っているからといって、
ふたつの王朝が全く同じ形で発展していったという事実はないがな。
個々の政策に目を転じても、類似の点はいくつかある。
光武帝は宰相たる三公の地位を無実化し、全ての政治権力が天子一人に
集中するよう大規模な官制改革を行ったが、これは洪武帝が中書省を廃止して、
行政の各部を天子に直属させたことと殆ど同じ意味を有している。
官吏の不正に対して厳罰主義で臨み、庶民に比較的寛大であったという点も
似ていると言えるだろうな。
指導者としての力量ではどちらが上か───という話になると、
人それぞれの好みによるとしか言いようがないが、私個人としては光武帝を評価する。
結局のところ、農本主義を採り、商業を抑制するにしても、荘園経済が主体の漢代では、
現実社会との齟齬がさほど激しいものではなく、一定の妥当性を有していたが、
貨幣制度がほぼ定着し、少なくとも一部の大都市においては商工業の著しい発達が
見られた14世紀にあっては、現実を無視した単なる反動としての意味しかもたなかった。
朱元璋は明らかに時代を逆行させようとしたのだ。
>>341
>随分軍人としての禿光則と燕賊簒位を評価してるようだが、最強の軍人皇帝は
>兄殺しの歴史改竄魔じゃなかろーか?
むろん李世民も優れた軍才の持ち主であり、意図的に粉飾された面を差し引いても、
世民の力量なくして、唐の中国統一事業は実現しなかったであろうと思われる。
ただ、世民は貴族の門地であり、出自が恵まれていた上、幸運に助けられた面もあった。
挙兵後短期間で長安を陥れ、陝西一帯に割拠できたのも、
王世充と李密が相争う間隙に乗じることができたからだろう。
その後、李密は勝手に自滅しているし、王世充も洛陽の固守に拘るあまり、
孤立を招いてやはり自滅に近い形で唐の軍門に下らざるを得なくなったわけだ。
一方、朱元璋の出自はそなたらもよく知っておるとおりの不遇なものであるし、
覇業の過程で敵対した勢力も、陳友諒を筆頭として相当に強大であった。
朱元璋は機会にも恵まれていなかったし、実のところ部下にもそれほど恵まれて
いなかったように思う。劉基も李善長も、学者や行政家としては優れていても、
軍事面での幕僚としては平凡な役割しか果たせなかった、という印象が強い。
そうした不利な境遇を負った上で、武功だけを頼りにのし上がったというのは、
まあ、史上に類例を見ぬ凄絶さを感じさせる。あらゆる意味で怪物だな、この禿鬼は。
別におかしいこともなかろう。光武帝は後世での評判が極めて良い天子であるし、
その治績や人物を鑑みれば、事実名君と称して差し支えないのでは?
純粋に指導者としての力量という面では唐の太宗に及ばないかもしれないが、
そのあたりの比較は個々人の好みと言えよう。
ただ、後漢王朝は中国社会が古代の最盛期から中世的混乱に転落してゆく
過程の時代であるから、構造的な欠点を多く孕んでいたことは否めない。
特に豪族の土地兼併をほぼ野放しにしたことは、儒家的な抑商主義と相まって、
貨幣経済を衰退させ、中国社会が経済的な停滞をきたす原因となった。
外征に消極的なあまり、西域との交通を絶ったことも経済停滞の理由として大きい。
光武帝は現実的で合理的な指導者であったというのが一般的な見解だけれど、
それは王莽との比較でそう映るだけに過ぎず、実際には儒教倫理から来る
農本主義に傾斜しすぎて、現実との調和を欠いていた───とも批判しうる。
367 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2007/09/06(木) 22:01:02
>>329
>北宋の莫大な軍事費は末期症状に近かったようですな。
>それならいっそ宋軍全軍で遼や西夏に乾坤一擲の大勝負挑んだ方が
>よかったのではないですか?
>>365でも述べたとおり、野戦での勝敗に運命を賭さねばならぬのは、
西夏や遼の側だったのだ。経済力に圧倒的な差がある以上、宋の有利は動じない。
では靖康の変はどうなのだ?───と問われそうだが、
あれは当時の政権中枢にいた馬鹿たちが、何重にも判断ミスを重ねた結果、
半ば自滅的に開封を金軍の直撃に晒しただけのことだ。
そもそも西夏や遼を武力で併呑し、官吏を派遣して直接統治を行うにしても、
そのための費用はどうしろというのだ?
生産力が低く市場も未発達な土地を得ても、大きな税収が期待できるわけはなく、
塩税などの高額な間接税を課せば、たちどころに反乱の火が燃え盛る。
結局のところ軍事費が統治コストに転化するだけで、財政的なメリットは全くない。
ならば臣従と引き換えに捨扶持をくれてやる方が、遥かに合理的だろう。
>>330(遼や西夏が強かったのは騎馬戦術に秀でていたからです)
何度も言うが、宋との比較で言えば遼も西夏も強くはない。
唐代以前に遡って、例えば匈奴や突厥と比べてどうかと言えば、これは確かに強い。
しかし、言うまでもなく匈奴も突厥も遊牧民族であって、騎兵戦を得意としたから、
西夏や遼が騎馬戦術に秀でていたから強かった───という説明では不適切だ。
西夏も遼も、近世的な統治体制の整った政権だから強かったのであって、
それは結局、中国社会(宋)と地理的に近接していたことが原因なのだ。
宋は弱い、常に異民族の圧迫に苦しめられた屈辱の時代───といった偏見は
捨て去るべきだろう。
ほんとにね…
コピペ作業は乙だが、そろそろやめて自身の言葉で語ろうや。
残したいなら、サイト立ち上げるとか。
>>243
>張居正って蓄財しなきゃただの奸臣じゃね?万暦帝は真性のクズ。
>徽宗の方が歴史的な価値が高い。ぶっちゃけ張居正はお前以下の奸臣だと思う
張居正に限らず桑弘羊や楊炎、第五琦などにしても、
特に経済面で大きな改革をなした政治家は、皆一様に汚れた面を持っていた。
改革者に要求されるのは非情さと豪腕であり、この点に欠けていた王安石が、
志半ばに倒れたのは当然の帰結であるとも言えるだろう。
私と張居正は、共に強引なやり口で権力を奪取し、独裁的な地位を築いた上で、
思いのまま政治を行った点が似ている───と、しばしば指摘される。
しかしながら全体的な評価でいえば、張居正が中国史を代表する理財家の一人と
されるのに比べて、私はただ国を滅ぼした姦臣と悪罵されるのみだ。
それが全く不当な評価であるとの思いは、これまでしばしば主張してきたところであり、
張居正を私以下の姦臣と看破したそなたの慧眼には敬意を表しておく。
万暦帝が真性の屑であるとした点も、まったく同意だ。
世界史全体を探してみても、これほど不徳の天子はなかなか見当たるものではない。
むろん徽宗もその悪行たるや万暦に劣後するものではないと思うが、
そなたの指摘するとおり、芸術家としての名声があるぶんだけ、
やや歴史的評価が高くなっているな。
ま、私にしてみれば目糞鼻糞もいいところの似たもの同士に見えるがな。
365 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2007/09/06(木) 21:57:56
また間が空いてしまった。
早速回答を行ってゆくとしよう。
>>310(何故北宋は西夏にすら勝てなかったの?)
宋の軍隊は歩兵が主力であるから、騎馬の精鋭を相手にする野戦には弱い。
また、平和が長く続いたことで軍規が乱れ、そもそも兵士各個の質が低かった。
しかし、それはそれだ。戦争の勝敗は野戦の結果だけで決まるものではないし、
こと要塞に立て篭もった防御戦においては、騎兵に格別の有利は生じない。
そして西夏が貿易立国である以上、宋と戦争状態になり経済封鎖を受ければ、
戦争の継続どころか、国家財政そのものが立ち行かなくなる。
いくら前線に精鋭を投入したところで、社会構造的な部分で西夏は宋にかなわんのだ。
そもそも西夏が宋との国交を断絶して戦争を始めた理由は、
ナショナリズム的な理由から宋への臣従を拒んだことと、
貿易赤字解消のため塩の輸出を認めさせようとしたところにある。
しかし、慶暦の和議ではそのどちらも実現しなかったのであるから、
勝てなかったのはむしろ西夏の側であり、そなたの質問は根本が誤っている。
>>237 朱元璋
学問といえば朱子学しか思い浮かばぬであろう狭量なそなたが、
回教徒の文献に興味を示すなど全くの意外だ。片腹痛いとはまさにこのことか。
>しかし何故唐宋は回回と交流があったのにアリストテレス哲学を
>中華で研究しなかったのか納得のいく奏上を求む。
ふむ。唐と宋では事情が異なるゆえ、別個の説明が必要だろうな。
まず唐代においては思索的な哲学などそもそも需要がない。
儒学は訓詁学として単なる文字解釈の学問と堕し、
庶人はもとより知識人すら、高邁な哲学よりも
ひたすら現実逃避と死後の安寧を欲する仏教に傾倒した時代だからな。
宋代に入ると仏教勢力は大きく後退し、儒学がにわかに活気を帯びて、
その哲学的な面からのアプローチによる再構築が始まったが、
宋代の文化高揚がルネサンス的な側面を有していた以上、
参考として学ぶべきは中国古代の知識であって、
わざわざ何らの関連性を有しない外来の学問を受容する意味はなかったろう。
アリストテレス哲学が宋学と比して数段優れていたというのならば格別、
各々発生した経緯や、思想構築の土台となる地理的・社会的事情が
全く異なっているのだから、客観的に甲乙のつけられるような問題ではない。
私の考えとしては概ねこんな感じだ。
納得はいったかね?
>>884 南宋の故地奪還
それは当然、あの歴史的にも稀有なほど徹底された文治政治によるが故だろう。
宋王朝は節度使などの武人の叛乱で滅び去った唐王朝の歴史を教訓にした
尚文軽武、文官による国家統治を目指した。中国歴代王朝で官吏の給料が最も高額だったのは
宋王朝、特に北宋期だ。逆に軍事部における士気は驚く程低かった。南宋が元の攻撃に雪崩を打つが如く
滅亡に至ったのは、南宋軍兵卒の逃散が著しく、終いには罪人に焼印を押して兵になることを強要せねば
ならなかった様な錬度の未熟な軍事力であったことは決して無関係であるとは言えぬ。
しかも、その士気の低い軍兵を率いるのが高官とは言え戦場の駆け引きなど机の上でしか
計算したことが無いような、実戦経験の乏しい長袖の文官なのだ。
こんなことで、どうして敵に打ち勝つ事が出来るだろうか?
・・・生まれながらの戦闘民族であった蒙古人や女真族に適わぬ事は道理であろう。
他にも色々と政治的事情があったのだろうが、その項に関しては
蔡太師の回答を待つと良いだろう。
923 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/11/09(木) 00:20:16
では本日の回答を行う。
>>884(南宋が華北を奪還できなかったのは何故ですか?)
一には秦檜の没後、必ずしも主和論が後退したわけではなく、
北伐派と和平派の争いが政策論争の域を超えて、北宋時代の新・旧法の抗争に似た
感情的対立に堕したためだ。華北の奪還は大事業であり、朝廷の意思統一を抜きに
実現しうるものではない、孝宗もまた高宗に似て優柔不断の面があった。
海陵王南侵の後に締結された和約は、韓侘冑の出現するまでほぼ五十年にわたり
効力を維持した。その間に南宋の財政状態は漸次逼迫し、専守防衛の枠を超えて
失地回復の実現に予算を充てるほどの余力を喪失した───という事情もあった。
もともと南宋は、淮河以南の領土を保全するのみで十分に政権維持が可能であった。
総じて生産力の低い華北地方を奪還することに経済的な面でのメリットはない。
ともすれば失地回復は精神論に基づいたものでしかなく、実益が薄かったといえる。
924 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/11/09(木) 00:21:11
中国史のなかにはしばしばこうした筆禍事件が散見される。
むろんそれらには自ずと程度の差があり、康煕・雍正・乾隆の三代における文字の獄は
とりわけ過酷な部類に属すると言えようが。
思えば康煕・雍正・乾隆三代は中国史上もっとも豊かで安定した時代であった。
単に表面上の国力が充実したのみならず、民衆生活にまで豊かさが及んだという点でも
特筆するべき出来事ということができる。かかる繁栄が異民族政権の下で実現したことを
残念に思う向きも少なくはないが、そうした考え方は偏狭なナショナリズムの域を出まい。
むしろ異民族政権の統治において不可避ともいえる、支配民族と漢人との間の軋轢が、
文字の獄という形式的かつ表層的な事件を引き起こすに留まり、
国家の存立を脅かすほどの深刻な対立にまで至らなかったことを幸運とすべきであろう。
長らく待たせた。早速回答に入る。
>>225(カエサル暗殺2052年目に当たりますが、宰相殿のカエサル観を教えて)
結論から言えばそれほど高くは評価していない。
ガリア平定を果たした人物であるから、軍人としては一定の才覚を備えて
いたのかもしれないが、それにしたところで、ガリア戦争が、
ローマの国力増大に伴って当然に起きた領土的膨張の一貫として捉えれば、
殊更にカエサル個人の能力や個性を過大評価する必要はない。
外征による戦利品から得た富を惜しみなくばら撒いて人心を買う政治手法も、
古今東西ありふれたごく平凡なもので、到底高い評価には値しない。
とかくカエサルは、世界帝国ローマは一人の優れた指導者に
統治されるべきであるという強い信念の下で独裁を推し進め、
無意味な内訌を繰り返すのみの共和制ローマに終止符を打った───と、
肯定的に語られることが多いが、裏を返せば、時流に乗って富と名声を得た
だけの軍人が、権勢欲にとりつかれて既存の秩序を自らの都合のいいように
つくり変えたというだけの話だ。
また、そもそも、帝政による統治権力の強大化を現実のものとしたのは、
養子オクタヴィアヌスなのであって、カエサル自身は志半ばに倒れている。
身の丈に合わぬ権力を欲した独裁者の破滅──としか評価のしようがない。
確かにカエサルは馬鹿ではなかったろうし、
政治家としての能力も、ある程度の水準に達していたとは思われる。
しかしながら今日「万能の英雄」「運命の寵児」「仁慈の指導者」などと、
大仰な修辞を凝らして賞賛されるような、世界史的スケールの大政治家では
到底ありえん。むしろ凡庸という評価を与えても、それほど不当ではない。
歴史を経済構造、社会構造の枠組みの中で捉えていくのではなく、
指導者個人の人となりに着目して、その個性や思想が社会に及ぼす影響を
過大評価してしまうと、どうしてもカエサルのように
個性的で魅力に富んだ人物が必要以上にクローズアップされることとなる。
このようにして構築された歴史観は、所詮は物語であり、非科学的といえよう。
>>203(もし自分が文天祥の立場だったらさっさと南宋見限って元の高官になりますよ)
文天祥が元への仕官を頑なに拒んだ理由は、むろん忠義忠節もあったには違いないが、
それ以上に非漢人への生理的嫌悪を抱いていたからではないかと思う。
いったい国民主義すなわちナショナリズムの勃興は近世社会に普遍的にみられる現象であり、
中国では宋代にその端緒が開かれた。むろんその理論的後押しをしたのは朱子学だ。
ナショナリズムとは必ずしも国粋主義や純血主義とイコールではないが、
国や民族といった概念により彼我を区別することから、排他的な傾向を帯びやすいといえる。
文天祥は科挙に主席で及第しており、中国人ないし漢人であることに、
どれほど高いプライドを抱いていたかは容易に想像がつく。
あれにとって蒙古人など無教養の蛮夷どころか獣の群れ程度にしか映らなかったであろう。
まあ、そのような意味でも視野の狭窄した愚かな人間であったと言えるな。
>>205(司馬光嫌いです)
前にも述べたように中国において史学とは哲学とも通ずる傾向がある。
資治通鑑はその名の通り「(歴史を)通じ鑑みることで(政)治に資す」ための著作であり、
宋学の精神と司馬光自身の価値観を強く反映している。
宋学の集大成が朱子学であることを考えれば、資治通鑑から尊大な印象を受けるのも
むべなるかな当然のことと言えよう。いずれにしても資治通鑑は中国において史記とも
並び称される大著であり、背景に存する価値観はともかく、資料としては一級のものだ。
そう考えれば司馬光も、歴史家としては偉大な人物であったと評価せざるを得ない。
ただ、政治家としてはどうかとなると、これはもうあえて言うまでもない。
無能だ無見識だという以前に、そもそも現実の社会状況を把握し、
その対策である新法の構造を理解するための知識が根本的に欠けていた。
王安石と書簡をやり取りして新法の是非につき議論を交わしたと伝えられるが、
実際のところ議論など成立する筈がないのだ。猿に論語を説くようなものだからな。
ゆえに司馬光に対する評価は「史家としては有能、政治家としては馬鹿」とするのが、
もっともシンプルで適切なのだが、現実にはあまりそのように捉えられていない。
新法もまた構造的な欠陥を有しており、司馬光の批判も理に適う面があった───と、
王安石のアンチテーゼとして一定の役割を果たしたかのようにさえ考える向きもある。
当事者の一人としては、馬鹿も休み休み言えといいたい。
>>349(宋代四悪人を一人ずつ論じてみて下さい)
前にもそういう言葉は聞いたな。
詳しくは知らんが、おそらく秦檜、韓侘冑、賈似道、そして私の四名を指すのだろう。
一人ずつ考察して行くか…。
■秦檜■
言うまでもなく、中国第一の姦臣として蔑まれている男だ。
いったい南宋の宰相は強権的で専横を事とする者が多く、秦檜もまたその例に漏れぬが、
そのことが直ちに檜を最悪の姦臣たらしめた訳ではない。
たとえば同じく南宋の宰相、史弥遠も専権が激しく非難が多かったが、『宋史』においては
姦臣伝に名を連ねていない。やはり秦檜への非難は、主和論にまつわるものがほぼ全てだ。
これまで何度も述べたように、金国と比して南宋の兵勢は圧倒的な優位を占め、
少なくとも高宗期であれば華北を奪還できた可能性は十分にあった。
にもかかわらず、南宋の首脳部が主和論を採用し金国に阿ったのは、高宗の個人的な性格に加え、
敗戦のリスクをとるに相応しい経済的メリットが見出せなかったからだ。
その意味で秦檜の主張には客観的な合理性があった。情緒的な観点からは檜のような
強圧的かつ利己的な文臣が好まれないのは普通だが、ここまで評価を貶められた理由は、
やはり岳飛信仰の反作用と考えるのが妥当だろう。まあ、やりたい放題の人生だったとは言え、
死後ここまで罵詈雑言の対象とされているのは、哀れと言えば哀れだ。
■韓侘冑■
「タク」の字が正確には異なるが、便宜上似た字を用いた。
韓侘冑を一言で評するなら、「無理をし過ぎた」といえる。
侘冑は北宋の宰相韓琦の曾孫にあたり、高宗皇后の妹を母とする名門の出身で、
科挙を経由せず恩蔭により官途に就いている。かかる形で官を得た者が出世を阻まれ、
進士出身の文臣と比して一段も二段も低く見られたのは、特に宋代に顕著な現象だ。
本来高位の官に就き得ぬ者が、身の丈に合わぬ立身栄誉を求めれば、人気を犠牲にして、
権謀術数をめぐらせねばならぬ。侘冑にはその能力以上に衆望が徹底的に欠けていた。
既に死んだ秦檜の官爵を剥奪して岳飛を追封したのも、行軍の計を立てて北伐に執念を
燃やしたのも、結局は衆望を得んとしたためだ。まあ、その賭けがほとんど裏目にしか
出なかったのは侘冑の能力の限界としても、敗戦の責を負わされ謀殺されるに至ったのは、
衆望はおろか朝廷における人望も零に等しかったからだろう。これはこれで悲劇と言える。
恩蔭により官途に就いた点は韓侘冑と共通する。
しかし、似道は侘冑と比べて卑しい出自であった。それが逆に異才を育んだと言えるかも
知れない。こういう人物がさしたる障害もなく、若くして高位に上ったのは、
既に南宋の政治秩序が紊乱していた証左とも考えられるが、とにかく一定の才覚はあった。
いわゆる「賈似道の公田法」は大土地所有者から安価で土地を買収する政策で、
その企画力と問題把握能力は評価されて然るべきだろう。ただし、その反面、法の実行に
あたって配慮を欠いたため、当初の目的を十分に果たせなかった点は、無学ゆえの思慮の
至らなさと言うべきか、朝廷の権力の限界と言うべきか。
とまれ、似道が南宋の亡国を早めたという指摘にはさほど合理性がない。
別の時代に生まれていれば、一定の政治的成果を挙げ、名臣と讃えられたかもしれん。
まあ、平時ではそもそも宰相にまで上れたような経歴の持ち主ではないのだが…。
■蔡京■
つまりこの私、蔡元長だ。
福建の豪農に生まれ、若くして進士に登第し、時の宰相王安石に才を買われて抜擢され、
その下で改革に邁進した。ひとたび朝廷の方針が変更され改革主義が後退すれば、
心裡に理想を抱きつつ身を潜め、ついに権力を得るや、かかる理想を実行すべく粉骨砕身し、
破綻した財政をたちどころに回復せしめ、兵を精強たらしめ、民間の負担を軽減せしめた。
進士出身ながら、才ある胥吏を積極的に抜擢し、官への途を開く制度も整えた。
塩税を抜本的に整備し、公正かつ安定した税源として確立もした。
書をしたためればいにしえの王羲之に比せられるほどの大家と尊ばれて、
官民こぞって私の筆跡を模範としたものだ。詞余、雅楽の発展にも尽くし、北宋院体画の
確立にも大きな役割を果たした、まさに中国文化史にその足跡をとどめる巨人とも言える。
これほど総合的な才能を持ち合わせた政治家が歴史上果たしてどれほど存在したものか。
───と、我ながら恥じ入るほどに自画自賛してみた。
それほど大きな誤りはないと思うのだが、諸君がこれと同じ内容を他人に話すことは勧めない。
>>393(北宋時代、孝明皇后の異母弟のは素行不良のため官職を追われていた)
王継勲は孝明皇后(太祖皇后)の同母弟だった───と、史書にはある。
まあ、それ自体は瑣末なことだが、とにかく継勲は素行が不良であった。
孝明の死後、その悪事が公に露見し、太宗は衆意に応えてこれを斬ったという。
市中の少年少女を拐し、遂には食人に及んだというのも、概ね史書の記すとおりだ。
まあ、この程度の小物にまつわる逸話など、いちいち事実性を検証する必要があるとも
思えないが、太宗の即位にある種の簒奪色を認める立場からは、
先代の外戚であった継勲の死を、政治的な動機による粛清と考えることもできる。
>>723(蔡京が秦檜の立場だったら、やはり岳飛を殺して金に臣従した?)
北宋が金に滅ぼされたのは単に童貫らの戦略上の失敗で、首都を孤立させたまま
敵の直撃に晒してしまったのが原因だ。国力や軍事力の差に起因するものではない。
そもそも戦禍を被ったのは河北と山西の一部のみで、他はまったくの無傷だった。
宋は徽宗朝末期であっても、内部から政権が瓦解するほど衰退してはいなかった。
南宋が150年以上存続したことじたいがその証左だ。
よって、少なくとも高宗時代の初期であれば、南宋が金を撃ち華北を奪還することも
まったくの不可能事ではなかった───というのが私の一貫した考えだ。
岳飛が飛び抜けて有能な将軍であったとは思わないが、水準程度の能力はあった。
軍閥単位で無統制に戦闘を行うだけでは自ずと限界があっただろうけれど、
高宗はじめ臨安の首脳部がもう少しまともな指導力を発揮しておれば、
南宋の歴史は違ったものになっていただろう。
けれど、秦檜個人の立場からすれば、対金戦争を続けることにメリットがなかった。
檜が金の和平派と気脈を通じていたというのが事実であるとないとに関わらず、
軍閥勢力の台頭を抑え、兵権を中央に帰して統一しようというのは、
宋代の政治家として至極自然な考え方だ。よって私が秦檜の立場であっても、
基本的には金との講和を目指したであろうと思う。
ただ、私であればもう少し先まで事態の推移を見守ったかもしれない。
実は岳飛がどの程度まで奮戦し、どの程度宋に有利な戦況が展開されていたのか、
はっきりしたことは不明なのだが、一般に語られているような快進撃で金の心臓部を
突くほどの勢いであったのならば素直に任せてよし、仮に失敗したとしてもさほどの
デメリットはなかったと思われる。どのみち金には淮河以南を征服する実力がないのだ。
戦況が宋に有利に展開しているうちに講和を打診することは、
確かに誤った考えではないとしても、ああまで性急に事を運ぶ必要はなかった。
また、軍閥を放任することで唐末のごとき中央の統制が及ばない群雄割拠の
状態が固定化するとも考えにくい。仮に軍閥がそれほどの実力を有していたのなら、
そもそも岳飛を殺したところで、兵権の回収は困難だったろう。
>>719(北宋の神宗て、結果的に名君と呼べる皇帝なんですかね?)
少なくとも新旧両法の党派抗争の責任を神宗に負わせるのは誤りだ。
朝令暮改で国内政治を混乱させる原因を作ったのは、
明らかに宣仁太后の仕業であって、神宗には何らの非もない。
姦臣を抜擢し祖宗の法を退けた暗君であるという評価も、
所詮は後世の朱子学者の筆による歪曲であって、現代では殆ど修正されている。
神宗は聡明で決断力に富んだ名君であった。早逝したことが悔やまれる。
ただ、残念なことは武功への焦慮が過ぎて、軍事面での失敗を繰り返したことか。
西夏、遼、交趾、吐蕃そして四川の苗族討伐───と、
四方に兵を起こしながら悉く失敗し巨額の損失を出した。
しかし、それでも失意することなく鋭意政務に専念して怠らなかったのは立派だ。
齢を重ねれば熟慮と威厳を備えた名君として君臨しえたものと確信している。
>>720(前漢の高祖、劉邦て若い頃は今で言うところのニートだったんですかね?)
家業に励まず放蕩無頼の生活を送っていたというから、まあ、誤りではないかもな。
高祖の具体的な出自や経歴は不明な点も多いが、亭長の職を得て名を売ったことや、
勢力家の娘を娶った点から考えれば、まったくの貧民ではなかっただろう。
ニートというのは無職でも生活できる程度に金銭的余裕がある者をいう。
したがって、そちらの意味でも若き日の高祖はそれに近いものがあったかも知れん。
>>721(北宋太祖の石刻遺訓は実在したんですか?)
太祖が周室の保全を遺訓としたのは事実だ。
が、これは代々の天子が秘儀を以て伝えたわけではなく、
公的な事実として私たちにも開示されていた。
言論の咎を以て士大夫を殺さず──というのも、確かに事実上の慣習としてあったが、
太祖の遺訓とは些か考えにくい。どちらかといえば太宗の考えそうなことだ。
いずれにしても石刻遺訓の話は正史に記載のあるものではないし、
また、そういうものが存在したとすれば私たちの耳にも漏れ聞こえたはずだ。
一概に否定するほどの根拠はないにせよ、後世の創作ではないかと思う。
太平御覧は、当時北宋に降った南朝諸邦の遺民を書物の編纂に任じ、
太宗みずから指揮監督することで、反宋感情を抑圧する目的を有したとの説もある。
太宗は当代を代表する教養人の一人であったし、よく文臣を手なずけた明君だ。
能力面では兄の太祖に劣らない───というより、明らかに勝っていただろう。
にもかかわらず、今日に至るまでその実績に相応しい評価を得ているとは言い難い。
これは言うまでもなく、その即位にまつわる疑惑に端を発している。
実際、太宗が簒奪かそれに近い形で天子の位を襲ったものかどうかは不明だ。
しかし、唐の太宗の兄弟殺しと比較して、趙匡義の場合は疑惑が疑惑のまま後世に
語られたため、学術への理解も文尊武卑の態度も、すべて知識階級の不満や批判を
余所へ逸らすための方策ととられる面がある。まあ、不運といえるかもしれん。
836 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/09/15(金) 19:36:13
>>692(でも南宋末期の呂文煥を逆臣と呼ぶのは酷でしょ)
いくら酷であろうと、南宋にとっては逆臣でしかないだろう。
まして呂文煥の場合はのちに元将として逆に宋を討っているのだから、
背景にどれほど感涙きわまる物語があったにしても、反将は反将だ。
なにせ時代は朱子学思想一色だったのだからな。たまたま比較の対象として
賈似道という名高い姦臣がいるため、後世においてはあまり非難されぬものの、
存命中は肩身の狭い思いをしたことだろう。少なくとも文天祥と比べれば、
朱子学者の目には許されざる大悪と映ったに違いない。
>>709(中国史で名将を挙げるとしたら、真っ先に私ですな)
徐達は思慮の深い慎重な人間で、朱元璋の命令を忠実に実行した。
逆に言えば、独断で何かを為すには向かない、正攻法を守る武将だったようだ。
それゆえに猜疑心の強い朱元璋からの信頼も厚かったのだろう。
徐達と比肩しうる朱元璋の部将としては常遇春がいるが、
こちらはやや性急な猛将としての性格が強い。
徐達は確かに名将とされているし、それに相応しい功績も一応はあるけれど、
やはり朱元璋の成功は朱元璋自身の能力による面が大きかった。
徐達も常遇春も冷静に考えれば平均的な能力の持ち主でしかなく、
むしろ朱元璋は軍事面において人材に恵まれなかったのではないかとの見解もある。
劉基にしてもそうだ。中国史において最も有名かつ優れた軍師として讃えられつつ、
よくよく考えればそれほど有益な進言をしたとも思えない。
>>710 ココテムル
ある酒宴の席で朱元璋が「今の世で最も怪傑と呼ぶに相応しい武将は誰か?」と
尋ねると、満座の臣下たちはみな常遇春の名を挙げた。しかし朱元璋ただ一人が
敵であるココテムルを推し、その勇武を賞賛した───という話が野史に見える。
これが正確な事実を伝えているのかはわからんが、朱元璋が次男秦王の妃として
ココテムルの妹を娶わせたことからすれば、案外真実性のある話なのかも知れん。
政治的野心よりもただ戦闘に明け暮れることを好んだところからしても、
まあ、猛将という評価が妥当なものだろう。
>>682
>遊牧生活を送る連帯集団は支配権志向をを強めて都市に拠点を置く国家を
>征服し新国家を形成する。 しかし文明の発展と共に初期の連帯意識を失い
>新たな連帯集団に征服される。
遊牧集団がその存続上必然的に支配権志向を強めるという点が若干怪しい。
確かに天災その他の事情で食糧備蓄が欠乏した場合に、外部社会からの
略奪を行うため、内部結束を強めるケースはあるが、多くは一過性のものだ。
遼が中国内部にまで支配を及ぼす征服王朝を築いたことは、遊牧社会に特有の
性質に基づくものではなく、あくまでも農耕社会───中国との地理的近接から、
本来の遊牧社会には存在しない特殊の性質を帯びたためと考えられる。
金・元の二つの王朝はかかる性質を受け継いだに過ぎない。
もっとも、遼・金・元は相当に巨大な社会を形成した政権であるといえるから、
その性質にも一定の普遍性を認めることは可能だが、遊牧社会が遊牧社会で
あるがゆえに当然備わる性質と混同するのは、いさかか極端な見解といえよう。
>>689(では、阿片については、どのような取ればよかったのでしょうか)
質問の趣旨がいまいち解り難いが…。
まず、前提として黄爵慈らの唱えたアヘン厳禁論も、許乃済らのアヘン弛禁論も、
結局は法による直接の規制でアヘン貿易にまつわる弊害を解決しようとしていた。
どれほど厳格な運用がなされたとしても、法規制の効果には自ずと限界がある。
厳禁論者の主張するようにアヘン吸引者への取締を強化するにしても、
弛禁論者のいうようにアヘン売買の決済に銀を用いることを禁止したにしても、
そもそもはじめからアヘン売買が密貿易で行われている以上、規制の効果は薄い。
厳禁論と弛禁論の争いは、互いに互いの実効性を攻撃するものであった。
どちらがより合理的な主張であったかを今になって決するのは難しい。
が、どうしたことか厳禁論が力を強めて、弛禁論が立ち消えたのは歴史的な事実の示す通りだ。
よくわからないのは、もともと厳禁論者の中にも直接的な法規制の実効性を疑う声が
あったにもかかわらず、清朝政府の意見が、さらに効果の薄いと思われるアヘン輸入
そのものの禁止に傾いたことだ。単に道光帝が林則徐の熱意に打たれた───
とすれば何やら聞こえはいいが、結果論からすれば明らかに悪手であっただろう。
ただ、アヘン戦争は、清朝が英国側の事情にほぼ一方的に翻弄されたもので、
清朝の側からどんな手を打ったところで意味がなかったとも言える。
英国議会の中にも武力発動には反対の声が強く、対清出兵案がわずか九票の
寸差で可決されたことはよく知られている。その意味では林則徐の暴走を許しつつ、
戦争が回避される可能性が絶無だったとまでは言えない。
幾度も述べたように、アヘン戦争の敗因は中国社会が近代化に立ち遅れた点にある。
いわば運命的なもので、仮にアヘン戦争という形をとらなくとも、別の機会にやはり
西欧列強の実力の前に屈する結果となっていただろう。であるからこそ、
結果はどうあれ、半ば自棄になって意地を貫き通した則徐が英雄視されるのだろうな。
>>439(同じタイプの政治家なのに成功者として後世に認識されている張居正について
失敗者の観点から語ってくれ)
一般に税制の大改革者として語られている張居正だが、所謂「一条鞭法」が居正の発案で
あることを示す明確な証拠はない。一応説明をしておくと、一条鞭法とは、従来成人男子に
課していた労役を、貨幣納(銀納)に変更したものだが、史家はこれをやや過大に
評価しすぎるきらいがあると思う。労役は人民にとって重い負担であり、その解消の必要は
既に宋代から唱えられていた。王安石(と私)の改革においても主要な課題と位置づけられて
いたことは言うまでもない。いったい労役といえば不当に人民を使役する懲罰的処遇という
イメージが強いが、前近代においてはスタンダードな課税方法であった。
これをやめて貨幣納に切り替えるためには、少なくとも貨幣経済が国内の隅々にまで浸透
していなければならず、元来農本主義的な社会である中国においては、難しい課題だったのだ。
労役が完全に廃止され、地賦(財産税)と一本化されるのは清代中期になってからのことだ。
言ってみれば一条鞭法は時代の過渡期に現れた折衷的な税制と解されるわけで、
確かに観念上は重要な意義を有するが、どの程度有効に機能していたかは極めて疑問だな。
なんといっても、万暦以降、明王朝の軍事費は爆発的に増大し、一条鞭法の上に様々な
労役が課せられていたのが現実だ。これではそもそもの立法趣旨が没却したと言わざるを得ない。
結局のところ、張居正のした財政は、全国の土地の検量を改めることで税収を増やし、
歳出を抑えることで予算全体の調和を図るという、旧来的な手法の域を一歩も出ていない。
つまり、財政構造の再編成にはほとんど手をつけていない、ないしは結果を出していないわけだ。
それであれば、そもそも財政を圧迫する最大の要因である軍事費の削減に軸足を置いた
私の改革のほうがまだしも有効なものであったと言えるだろう。
ああ、一つ付け加えると、私にあって、張居正に欠けていたものは、柔軟性ないし協調性だ。
居正は陰気で意固地で、自らの理念に固執して他人の言に耳を貸さぬ傾向があった。
その点は王安石に似るとも言えるが、居正には理想はあっても、清貧さがなかった。
他人の腐敗には厳格で、自らの私欲を抑えることを知らぬのだから、人望を得られるはずもない。
死後名誉を剥奪される結果に陥ったのも当然のことと言えよう。
私は大衆人気はなかったが、周囲の人間からの人望はあったよ。私利私欲の追求に熱心である
以上に、他人の不正に寛大だったからな。政治家に求められる柔軟性とは、つまりそういうことだ。
490 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/02/11(土) 13:28
>>480(北魏の孝文帝の極端な漢化政策をどう見ますか?)
鮮卑族はもともと、塞外で半農半猟の生活を営んでいた民族だった。
半農半猟とはつまり、農耕生産力の不足を狩猟ないし牧畜で補っていたことを意味し、
機会にさえ恵まれれば、農耕主体の社会へとシフトしやすい性質を持っていたわけだ。
言い換えれば、漢化しやすいということで、この点が純粋な遊牧民である匈奴やテイ族とは
決定的に異なっていた。匈奴の前趙政権や、テイの前秦王朝の漢土における支配が長続きせず、
最終的に北魏が台頭できたのは、以上のような理由からと考えるのが妥当であろう。
北魏は中国への入寇以来、概ね一貫して漢人の貴族社会との調和を図ってきた。
それは太武帝しかり馮太后しかりで、孝文帝の漢化政策もその延長線上に起きた出来事に過ぎない。
表面的な歴史の経緯だけを観察すれば、なるほど孝文帝の漢化政策が極端化を呈したことで、
保守勢力の反発を招き、六鎮の乱を経てついには政権自体を瓦解させたように映る。
ただ、これは漢化政策そのものが行き詰まったのではなく、単に皇帝権力の限界が露呈したものと
考えるべきだ。何となれば、その後に成立した反動政権である北周、北斉の両王朝も短命に終わり、
漢化した鮮卑族の完成形ともいえる隋が中国を統一したのだ。
まあ、北魏政権の維持という観点からのみ論じれば、確かに孝文帝は些か性急に事を運びすぎた。
端的に言えば、北魏の天子には、反対勢力を強硬に抑圧して革新的な政策を推し進められるほどの
実力が備わっていなかったということだな。
>>482(蔡京さんのチンギス史観を教えてください)
これまで一貫して主張してきたとおり、私はチンギス汗とその後継者たちを全く評価していない。
何となれば、蒙古帝国は中国ないしイスラム世界の一時的な衰頽に乗じて勃興したのみで、
特段の評価を与えるべき先進性を含有していなかったからだ。
ただ、それはそれとして、蒙古帝国の出現は、世界各地に色々の作用を及ぼした。
蒙古帝国がイスラム勢力を圧倒し、洋の東西を結ぶ交通路の中心に割拠したことで、
東西交流はかつてない活況を呈した。それは宋の支配下において完成した先進的な中国文化を
西洋へと伝播させ、13世紀以降、イタリア・ルネサンスを開花させる役割の一端を担った。
また、ヨーロッパと西アジアの宗教的対立を解消させた働きも見逃すことはできない。
まさに蒙古の大征服から最も大きい恩恵を享受したのは西洋社会であると言えるだろう。
翻って、蒙古帝国が中国社会に与えた影響は悲惨なものだった。元朝の後に出現した明王朝は、
漢族の政権でありながら、宋の復古ではなかった。それはどこまでも蒙古への反動でしかありえぬ
排他的かつ閉鎖的な政権で、中世以来開拓された西へ向かう交通路を遮断せしめ、
中国社会を世界から孤立せしめた。およそ文明というものが他文化圏との交通を前提として
相乗的に発展するものである以上、鎖国はある種の自殺的行為と言える。
いずれにしても、蒙古帝国の興隆が後世に及ぼした作用の中で、チンギス汗があらかじめ意図して
いたものは一つとしてない。チンギスは本能の赴くまま殺戮と略奪に興じたのみだ。
禽獣は禽獣であり、後世にいかな影響をもたらしたといえど、殊更に賞賛すべき点は何一つない。
492 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/02/11(土) 13:30
>>486(五胡十六国時代で一番の英傑は誰だと思いますか?)
基本的に英傑不在の時代であったといえる。
まあ、強いて言うならば五胡十六国の動乱に終止符を打った、北魏の道武帝なり太武帝なりが
時代を代表する英傑ということになるか。ただ、上に述べたように北魏の成功はその特徴的な社会と、
早いうちに漢人と調和して統治基盤を整備し終えたことがプラスに作用した結果に過ぎず、
誰か一人ないし数人の英雄的資質に還元できるような出来事ではなかった。
指導者個人の力量に依存しすぎた前秦は、一個の失策を原因として短期間に瓦解した。
英傑的と呼べるような指導者の個性は、かえって社会全体の調和を妨げる悪弊となりうるものだ。
>>517(もし煬帝が高句麗遠征をやらなかったら隋王朝は長く続いたんでしょうか?)
律令の整備といい、運河の再編といい、長期政権を打ち立てるだけの基礎的諸条件は、
まずまず整っていたと言えるだろう。唐が曲がりなりにも三百年近く存続した要因を
太宗の個人的実力に求めるのも一理あるが、隋の整備した諸制度を
ほとんどそのまま受け継いだことによるメリットは無視できない。
もっとも、これまで何度か述べたように、唐は極めて人民支配の実力に欠けていた政権で、
玄宗以降も存続しえたことは殆ど奇跡とも言える。たとえ煬帝が天子として立たず、
隋の天下が継続していたにしても、唐に起きたのと同じ奇跡を享受できたかどうかは疑問だ。
常識的に考えれば、隋が数百年単位で統一を維持するのは困難だったと思われる。
また、煬帝の評価も案外と難しい。暴君色の強い人物だったことは間違いがないにしても、
政権瓦解のきっかけとなった高句麗遠征が、明らかな政治的誤判断だったと言えるか否かは
幾許か議論の余地があろう。何といっても太宗ですら同じ轍を踏んで、痛い目に遭ったのだ。
>>520(中国史上最高の名君親子が遊びに来たぞ)
朱元璋がある種の天才であったことは間違いない。少なくとも軍人としての能力は世界史上
最高のものを持ち合わせていたと言えるし、政治家としての実行力は唐の太宗に匹敵する。
また、政務への執着心は清の雍正帝とも比肩しうる。永楽帝の場合は、軍事的な面に傾斜
しがちだが、それでも水準以上の能力は備えた人物だったとして差し支えなかろう。
ただ、個人としての能力が優れているから直ちに名君と評して良いか否かは些か疑問だ。
たとえば秦の始皇にしても、煬帝にしても、あるいは徽宗ですら、それ相応な智慧や才覚には
恵まれていた。名君の名君たる所以は、国策に誤りのないよう指導監督するところにあり、
別段超人たることを要しない。たといあやめも分かたぬ白痴狂疾の類であっても、
名臣の輔弼を得て誤謬なかりせば即ち名君と評して何ら問題となるところはないだろう。
ま、私の個人的な見解として、明王朝の国民主義的、あるいは排他的、閉鎖的な性格が
後世の中国社会に及ぼした悪影響を極めて重要視しているため、必然的に朱元璋父子への
評価も低いものになっているが、それも所詮は一方からの批判に過ぎん。
実際のところ、明清を唐宋の発展形として位置づけ、中国社会の極盛期と考える向きも
少なくはない。そういった観点からすれば朱元璋も永楽帝も世界史上稀に見る名君となろう。
569 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/04/04(火) 16:34
>>544(明代における朱子学の停滞は、永楽帝による方孝孺とその学派への弾圧が原因?)
方孝孺の一党が粛清されたことで、朱子学の理想主義的な面が骨抜きになり、
変わって統治機構との一体化を促す世俗的な性格が顕著になった───とは言える。
『性理大全』に代表される永楽以降の朱子学が、ただ科挙受験用の技術と堕して、
内省的、思弁的な哲学としての性質を失したという点は、後世しばしば指摘されるところだ。
もっとも、朱元璋の極端・過激な儒教政策がそのまま継続したものと仮定しても、
明一代を通じて朱子学がさらなる発展拡大を遂げ得たかと言えば、それは些か怪しい。
そもそも朱子学は実際の政治には何の役にも立たんのだ。朱子学に基づいた社会改革を
目指した南宋理宗の政治が悉く頓挫したことを考えれば、朱子学派は高尚な議論を
弄ぶのみで、およそ天下の政治を損なうものである───とした韓侘冑の指摘こそ正鵠を
射たものと言えはしまいか。この点、朱子学は本来重農抑商の色彩が濃い思想であるから、
明王朝の農本主義的な国策にこそ合致し、南宋の例と比較すること自体が誤りであるという
批判も一応可能ではあると思う。しかしながら、朱子学が備えた弊害とは、現実の社会問題を
直視せず、いたずらに空論に傾斜してあらゆる変革を嫌うところにあるから、かかる批判は
妥当なものでないと私は思う。そうすると、永楽帝の出現如何に関わらず、陽明学派のような
朱子学への批判意見が生まれたことは至極当然のことと言える。
>>545(北虜南倭の禍ですが、蔡京さんならどんな手段で対処しますか?)
北虜にせよ倭寇にせよ、その根源的な要因は明王朝が国策として民間貿易を禁じたことにある。
まず北虜に関していえば、そもそも遊牧社会は中国市場に依存せねば自立的な経済を
営むことが極めて困難であり、中国側の認容する朝貢貿易のみでは社会の維持に必要な
経済的利益を得られなかった。そのため中国への侵入と略奪を繰り返したのであって、
原因さえ取り除けば衝突は止む。なにも全国を挙げて北方社会との通商を推進せよと
いうわけではない。ただ馬市を開いて現地人同士の交易を認めるのみでいいのだが、
嘉靖帝をはじめとする保守排外的な勢力にはそれを理解できなかったようだ。
倭寇についても基本的な部分は同様だ。結局、朝貢貿易の恩恵を受けるのは、
日本の支配者階級とそれに結びついた一部の特権層のみで、末端の商賈(無論これは中国人を
含む)は違法な密貿易を営むより他ない。実際のところ、明代においては私貿易を事実上
黙認していた時期があり、その期間には倭寇の出ることもなかった。まさに「貿易通ずれば倭寇は
商人と化し、禁じられれば商人は倭寇と化す」状態だ。別に祖宗の法をいたずらに侵せとは言わん。
しかしながら、法はその適用にあたって、現実の利益と調和した節度を守るべきだ。
>>555(僕ちんの帝位が…。叔父ちゃんにけんか売るんじゃなかった…)
喧嘩を売ったこと自体は誤りではない。
朱元璋は唐代における藩鎮の意味を誤解して捉えていた。
朱元璋が皇族の諸子を封建して辺境防衛に当たらせたのは、唐代の精神に倣ったためで、
藩鎮の存在が塞外民族の侵入を防ぐ役割を果たす───という考え方に基づく。
しかし、唐代の藩鎮はそのように合目的的に創設された制度ではない。
あくまでも朝廷の統治基盤が弱小であるために生じた弊害だ。
言ってみれば藩鎮の存在は統治機構全体の中では異質なものであり、
たとえその運用を天子の血縁者にのみ委ねたとしても、本質としては変わりがない。
不要かつ不当な制度は当然に修正を加えるべきで、建文帝が諸王の粛清に乗り出したことは
至極妥当な行動だったと言える。むろん明の政府にはそれを可能にするだけの実力もあった。
にもかかわらず、朱棣の簒奪を許す羽目になったのは、純粋な戦略的ミスによるものだ。
そしてその背景にあったのは建文帝の優柔不断だ。そもそも、統治機構の確立した近世の
中華王朝において、内部的な簒奪が成功すること自体が奇跡なのだからな。
585 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/04/11(火) 03:34
>>572(遊牧民史研究家の杉山正明は北宋を契丹の属国と断言していますよ)
宋は遼の圧倒的軍事力の前に政治的従属を強いられた───というわけではない。
そもそも遼は単独での存立すら困難なほど経済基盤に乏しい政権で、
宋に対する軍事的優位は戦術的優位に過ぎず、ひとたび局地戦に敗北を喫すれば
たちどころに崩壊しても何ら不思議ではなかった。セン淵の盟約が結ばれることなく、
11世紀以降も宋遼間の交戦状態が継続したとして、遼が中国全土を併呑した可能性は全くの零だ。
中唐以降の中国では兵農一致型の兵制が崩壊して、軍事コストが莫大に膨張した。
長期にわたる戦争状態は、たとえ最終的な勝利に終わったとしてもマイナス収支しか残さん。
それに比べればセン淵の盟約で約定した歳幣など、まったくのはした金だ。
結局、セン淵の盟約は両国間の国力や経済規模があまりにも隔絶していたために生じた、
極めて特異な外交関係であるといえる。また、遼は宋から受けた歳幣を国内経済の発展に
投資することが出来なかった。すなわち燕雲十六州を中心とした州県部においては、
中国から物資を購入する為の支払いに銀と絹を使い尽くし、北方の部族制地区においては
ウイグル商人を介して、西方社会に財貨を流出し続けた。結局、中国に経済的に従属することで、
中国本土より百年遅れた社会をかろうじて維持したというのが、遼王朝の本質だ。
>>610(もし徽宗が旧法派に同調したら、王安石ら新法派を弾圧した?)
そうであったなら、私はそもそも宰相として登用されていない。
弾圧される側にまわって、歴史の影に消えていただろう。
私が司馬光の下で新法の廃止に力を注いだ一件はあまりにも有名な事実だが、
それはまだ地方官時代のことで、宣仁太后の没後、戸部尚書として中央に入った後は、
一貫して新法の敷衍に努めた。旧法党への鞍替えなど不可能であったし、意味もなかった。
そもそも徽宗が新法を弾圧した可能性などほとんどゼロだ。
徽宗は父の神宗や、兄の哲宗に心酔していたし、この期に及んで旧法党に便宜を与える理由が
まったくなかった。摂政の向太后でさえ、心情的には旧法党に同調しつつ、新法党の大臣を
用いざるを得なかったのだ。宣仁太后ですら一時期は新法の採用を周囲に打診したことがある。
旧法党の述べる主張は何の定見も説得力もなく、司馬光の死後はほぼ分裂状態であった。
党争に敗れたというよりは、勝手に自滅したとみなすのが正解であろう。
659 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/05/10(水) 21:32
>>618(蔡京様は、徽宗をどう見ておられたのですか?)
ほぼ貴卿の指摘するとおりだが、徽宗自身は天子になれてやはり幸福だったろう。
あれほどすさまじい奢侈生活を営んだ人間は、中国はおろか世界史全体の上でも稀だ。
…不幸であったなどとは言わせん。
豊享豫大の説を唱えて徽宗に贅沢を勧めたのは私であると一般には言われるけれど、
そんなものは後世の史家の誇張だ。ほとんど破綻状態であった財政収支を修復し、
宋王朝の中興を果たした功績を賞賛こそされるべきで、そこから生み出された富を
欲望の赴くままに食い尽くした馬鹿と責任を連帯させられるなど、まったくの不条理だ。
諸君も徽宗の描いた花鳥図を目にしたことがあろう?
絵画とは写実的であると抽象的であるとに関わらず、画家の精神を反映しているものだ。
単に技巧のみ備えたところで自ずと限界がある。徽宗にしても、天子として人後に落ちぬ
享楽的な生活を送っていたからこそ、ああいった非凡な作品を生み出し得たのだ。
もし一介の親王として生涯を終えていれば、後世に画名を轟かすことはなかっただろう。
その意味でもやはり徽宗は幸福だった。してみれば北辺で孤独のうちに客死したことなど、
なんの同情にも値せん。暗主暴君に相応しい因果応報でしかない。
>>619(モンゴル帝国やティムール朝を始めとした遊牧民国家は急速に膨張しますが、
大抵後継者選びの段階で内紛おこして帝国分裂→衰退・崩壊・土着化しますね)
遊牧社会というものは経済力にまったく乏しく、非文明的で停滞を生じやすい社会だ。
余剰生産物もほとんど生み出さぬし、各氏族・部族は互いに孤立して連絡を持たず、
自然環境に翻弄されながら未開の生活を営む───というのが本来的な姿だ。
一般に抱かれる粗暴で攻撃的なイメージは、あまり正しいものとは言えないだろうな。
確かに天災などの事情により食糧備蓄が欠乏した場合、各部族・氏族が結束して大規模な
略奪行動を起こし、ついには巨大な遊牧国家を形成するケースもある。
匈奴や突厥がその好例だが、世界史全体としては極めて特殊の事例と言えるだろう。
必要に迫られたための臨時・突発的な結束であったからこそ、定見もなく無秩序に膨張して
中国内地に確固たる支配を及ぼすこともなく崩壊しているのだ。
まあ、そう考えれば遼王朝は例外ということになってしまうが、
遼を立てた契丹族は、本拠地が万里の長城に外接して、唐との往来が盛んであったため、
遊牧民としては文化的にも政治的にも成熟していたのだろう。
かといって、契丹も遊牧社会には違いがないから、全く無抵抗に中国文化を受容もせず、
遊牧民と農耕民を分割して支配するという、特殊な統治機構を作り上げた。
意図してのことではなかろうが、結果としてこれが巧くいき、それまでの遊牧国家とは全く
性質を異とする画期的な政権を誕生させたわけだ。
金(女真族は遊牧民とは言えんが)にしても、蒙古帝国にしても、基本的には遼の方式を
踏襲したからこそ、一定の支配力を以て中国内地の統治が可能であったのだろう。
>>625(司馬光や蘇軾の墓を暴いて屍を晒して辱める事を思いつきませんでしたか?)
宣仁太后が歿して、哲宗の親政が開始された直後からそういう動きはあった。
中心人物は新法党の宰相章惇と、私の実弟卞だ。この二人は新法党の最過激派とでも
いうべき立場で、旧法党への復讐に手段を選ばなかった。
司馬光の贈諡を奪って追貶し、宣仁太后の推薦になる皇后孟氏を廃し、
遂には宣仁太后自身の陵墓を庶人のものに変え、追罰を与うべしと上奏するに及んだ。
皇后の廃位には同意した哲宗も、宣仁太后の追廃は許さず、奏状を床に叩き付けて
惇卞両名を罵倒した。もっとも、この件で章惇なり蔡卞なりが処罰された事実はない。
母后の向氏に泣きつかれたため、表面上のパフォーマンスを演じただけだろうな。
ただ、その後章惇が世論の激しい批難を浴び、哲宗歿後直ちに失脚したのは
明らかにこれが原因であった。悪人ではなかったが些か直情的すぎたと言えよう。
そういった事情が過去にあったため、私が旧法党への弾圧を加える際もある程度の
慎重さが要求された。墓を暴くとなればたとえ姦党のそれであっても世論の反発が恐ろしい。
なので姦党碑を立てて旧法党員の名を明示し、彼らの著作を処分して、
子弟の任官と京師への立ち入りを制限するくらいがせいぜいの限界であった。
弟などは「生ぬるい」と噛み付いてきたものだが、感情論だけで政策を決定しても意味がない。
全体としては妥当な判断をしたものと自負している。
662 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/05/10(水) 21:35
>>630(北宋の障壁である尚文卑武の基本政策を改めようとしなかったのは何故ですか?
結局、それが南宋まで尾を引いて王朝の衰退を早めたし)
尚文卑武の気風自体は中国社会に伝統的なもので、宋代のみに見られる特色ではない。
ただ宋代の場合は、実際の政治機構に反映された面が大きかったというだけの話だ。
いずれにせよ、そうした文官上位の統治傾向が宋の衰頽を早めたという認識は誤りだ。
軍政と財政の中央集権化に成功し、国家権力が何者の掣肘も受けなかったからこそ、
五代以前の王朝とは比較にならない確実な支配を可能にしたのであって、
そこには文官による軍隊の統制が不可欠の要素だった。
いったい宋は脆弱な政権と考えられることが多いが、実際には軍事面でも経済面でも、
唐はおろか前漢の最盛期をもはるかに凌駕した。中国史において300年を超えて政権を
維持した王朝は宋のみだ。唐王朝は多くの優れた政治制度を生み出したが、
それを実行に移すだけの実力に欠けていた。古代から中世にかけての中国文明を
集大成させて、まったく新しい社会を切り開いたのが宋であるといっても過言ではなかろう。
>>635
>唐は南部の穀倉地帯を押さえられて滅びましたよね?
間違ってはいないが、既に唐末は中央の権力がまったく地方に及ばなくなっており、
単に江南への支配が及ばなくなったため政権が崩壊したというようなことではない。
そもそも唐王朝が、黄巣の乱のような大乱に遭ってなお無事でいられた筈もなかった。
食糧供給の問題に目を向けるなら、むしろ穀倉地帯そのものを失ったことよりも、
運河による輸送ルートをズタズタに破壊されたことの方が深刻であった。
>それまでに存在した北にある政権は南部を南朝に押さえられたままでも
>ある程度存在できたのになんで唐はそれですぐ滅びちゃったんですか?
初唐あたりを境に農業生産の中心が関中(陝西省南部。長安も入る)から江南へと
シフトしたからだ。史記が「中国の富の十分の六は関中にあり」と述べたとおり、
秦漢両王朝はまさに関中の富を背景にして中国全土を統一する政権を築いたが、
唐代においては国都の食糧供給を関中の農業生産力のみでは賄えなくなり、
新たな穀倉地帯として江南地方の開発に着手した。同じく長安に都した前漢と比べ、
唐の国都維持にかかるコストは遥かに割高だったということだな。
江南の農業生産地としての価値が高まるにつれ、関中の地理的意義は失われた。
五代の混乱期における少数の例外を除けば、唐以後関中に都した政権はない。
今日の陝西省は中国の中でも見るべきところのないごく貧しい地域だ。
一方江南は中国経済の中心として繁栄を謳歌している。
こうした構図はまさに唐代に端緒が開かれたものと言える。
>>637 トゴンティムール
>気がついたら大都放棄だよ。今更、田舎のモンゴリアになど帰りたくないな
そう思うのであったら、形ばかりでも抵抗を示してみればよかったのではないか?
元王朝の終焉には何の悲劇性もない。抗戦するでも、降伏の条件をめぐって折衝を
繰り返すでもなく、まるで数年かけてあらかじめ準備していたかのように、
手際よくあっさりと北地へと逃げ去ってしまった。
ま、潔い態度と言えばそれまでだが、明の側でもさぞ拍子抜けしたことだろう。
所詮蒙古人は漢地を支配する上で必要とされる度量も定見もなかった。
そなたの治世を好例として、漢化政策に力を入れた時代もあるにはあったが、
それもごく表面的な調整を図ったにとどまり、漢人と蒙古・色目人の間の根本的な
融和をなすようなものでは到底ありえず、すべて場当たり的な弥縫策の域を出なかった。
邪教に傾倒して怠惰な淫蕩生活を送るだけなら、中国に居住する必要もあるまい。
寺院の中に篭っていれば、モンゴリアの冷たい風を肌に受けることもなかろうよ。
>>639(蔡京の生きてた頃の宋て世界でも最高水準の航海技術持っていたのに
何故、海外進出を国家プロジェクトで行わなかったの?)
具体的な必要性がなかったからだ。中国製品の需要など世界中いたる所に存在していたから、
新規に市場を開拓する必要がない。また、陸上の交易路(例えば旧来のシルク・ロード)は
西夏の出現により衰えたが、南海貿易に要する海上交易路を阻むものは一切なかったため、
やはり新規に航路を開拓する必要はまったくなかった。
宋代の貿易港としては泉州(ザイトン)が有名だ。泉州に市舶司を設置し、
外国船の直接寄航を認めたのは哲宗の元祐二年のことで、これは宣仁太后の治世にあたる。
こと海外貿易の奨励については、新旧両法党ともに積極的だったのだ。
南海貿易から得られる関税は、徽宗の代でおおよそ国家財政の二十分の一を占めた。
むろん貿易に従事したのは外国商人ばかりではなく、中国商人も目覚しく南海・中東諸国を
往来していたので、当時の航海技術は十分に反映されていたと言えよう。
>>641 アフマド
>南宋が大量に残した負債を俺が処理しなけりゃ大混乱になっていただろう
言うまでもなく南宋の通貨は銅銭であり、税金も銅銭での納入を原則としていた。
いくら政権が交代しようとも、銅の価値自体は不変だ。
よって南宋が崩壊したことで直ちに市場経済が停止するような事態は生じなかった筈だ。
補助通貨としての紙幣も存在はしており、それは確かに南宋の滅亡とともに機能を
失ったに違いないが、元が南宋の紙幣の兌換に応じたなどという話は聞いたことがない。
したがって「南宋が大量に残した負債を俺が処理」などというのは全くの出鱈目だ。
むしろ負債というならば、元王朝が紙幣一本建ての通貨制度を採用していたために、
その崩壊後、中国社会から貨幣資本がすっぽりと消失してしまった点を挙げるべきだ。
元代は銅銭が鋳造されず、本来は紙幣の発行準備金として
蓄積されていなければならなかった銀も、そのほとんどが西域に流出してしまった結果、
元から明への王朝交代が発生した際、貨幣経済が麻痺同然に陥った。
これこそまさにモンゴル人が中国社会に残した負債と称して差し支えないのではないか。
686 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/05/24(水) 23:38
>>643(林則徐の評価をお願いします)
イギリスを相手にある種の意地を貫いたという観念的な功績のみが一人歩きして、
英雄視されることが多いが、実際には林則徐の強硬で保守的な態度がアヘン戦争を
招いたといえるのだから、賞賛すべき性質の人物ではない。単に琦善などとの比較で
まだしもまともな人物に映るというだけで、虚名の英雄に過ぎないだろう。
もっとも、500年近くにわたって鎖国的な外交政策を続けてきた中国社会において、
体制側から自発的に開国論を唱えるような人物が出現したはずもない。
その意味では林則徐の不明も時代の精神を反映したものであり、
彼もしくは道光帝個人を無為無能と責めるのは酷であると言えなくもない。
アヘン戦争後に締結された南京条約の内容を見ると、広州をはじめとした五港を
外国貿易のために開港し、治外法権や外国人居留地の設置を定めているが、
宋代にはこの程度の対外政策は既に実行されていた。してみれば宋代の政府であれば、
この複雑な外交関係を臨機応変に処理できたのではないかと思わないでもないが、
まあ───意味のない推察だな。所詮は近代化に立ち遅れたことが全ての悲劇の原因だ。
確かに政治的には何の定見もない無能な人物であったと言える。
もっとも、賈似道時代にはまだ微職にすぎず政権の中枢にいたわけではないので、
亡国の責任を負わせるのは酷であるが、右丞相に擢用されてからも、
勝算の皆無な抗戦論を唱えてみたり、講和使として皐亭山に赴いたにもかかわらず
伯顔を相手に口論を挑んで身柄を拘束されたりと、言動のすべてが場当たり的で、
思慮の浅い人物と苦笑するより他ない。文天祥の精神の根源にあったのは
言うまでもなく朱子学だ。なにせ理宗の科挙で状元(首席)になったくらいだからな。
朱子学が服を着て歩いていたようなものだ。こうした愚直で純粋な生き方が、
後世の人間を感動させたことは確かだろう。辞世となった『正気の歌』も忠烈の
証として高く評価されているな。むろんそれはそれで適切な評価ではあるだろうが、
私個人としては、朱子学の徒らしい幼稚な意地が滲み出た駄文にしか見えん。
>>674(蔡京様が1275年の南宋の宰相だったらどういう対モンゴル対策しましたか?)
どうもこうもない。その時点では既に南宋の原状回復は不可能だろう。
文天祥や張世傑を更迭し、恭宗を伴って伯顔の軍門に降るだけのことだ。
むろん陳宜中のように後々態度を翻して、無様な最期を遂げるつもりはない。
元に登用されれば素直に応じるし、いらぬと言われれば静かに隠棲するのみだ。
740 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/06/14(水) 03:14
>>680(北宋の太宗は兄の太祖を暗殺して即位したという俗説があるけど本当の所はどうよ?)
確かに太祖から太宗への権力交代には不自然な点が多い。
太祖には男子があったから、本来なら彼らのうちの一人が後を継ぐのが当然だ。
太祖が没した直後、年の明けるのを待たず改元した点も不審といえる。
宋の文治主義が完成したのは太宗の時代だ。あくまで軍人的性格の強かった
太祖と比して、太宗の文臣を優遇する態度は極端なものであった。
文臣の歓心を買うため、卑屈なまでの人気取りをした───といっても過言ではない。
こうした所作がすべて、違法な権力奪取への批判を抑える目的から
出たものという主張も、なるほどそれなりの説得力を有している。
しかしながら、いずれも状況証拠ばかりで真相はわからん。
仮に簒奪が事実としても、李世民や朱棣のように公然と行われたのではあるまい。
公然の権力奪取であったのならば、多かれ少なかれ記録が残るはずだ。
・カエサル・ティムール・チンギスの過小評価 ← 大帝国築いた人間を批判したいだけ
・光武帝の奴隷解放を「誰でもやったこと」と表現 ← 古代中国にとってこれがどれだけ画期的なのか理解しているのか?
・明清は引きこもり ← 鄭和はスルー?
・神宗ベタ褒め ← 私が無知なだけ?中興もしてないのに名君は過剰評価でしょ。
・万暦帝を「世界史上の愚帝」と酷評 ← 少なくとも張居正時代は無難に政務してます。世界史上は飛躍しすぎ
でも朱元璋が明を混乱させた元凶というのは同意。
まあ、あくまで蔡京のなりきりを演じた上での発言だから中の人自身はどう思ってるか知らないけどね
いや、一応全部読んだけどねw
「文章を保存する目的」とかそんなことするメリット俺にはどこにもないし・・・・・・
燃料代わりに投下したのに中身の審議もしないうちから
削除依頼とかツマラン展開にも程がある。
>>195が蔡京本人だったら、また、来て欲しいね。
なかなかの見識だ。興味ある回答でもある。大学の講師クラスの知識もあると思われる上に
彼らの多くのように意味不明な思想にも染まっていない。
しかし、この蔡京。前、名将列伝スレに話題にされていた
『朱元璋は中国史上一の名将だが、皇帝としてはクソ』と言っていた人と同意見なんだよな・・
ひょっとして、同一人物?
中英の前漢vs後漢・・・スレに湧いた湧いた。
orz
>>200
中国史上じゃなく世界史上とは言った気がする。
まあ、その人の受け売りなので何故そうなのかは分からない。
>>201
道路工事利権なんか張った覚えはないけど、他の二つは関係あるだろうに。
唯物史観以外は科学的思考に非ずという感じだが、
なぜそうなのかを語らないことには、
蔡京 ◆GtkPmKwSp2 > ID:xtn2HBIO0 という感想しか持てないな。
アク禁の心配をするがいい
まあ兎に角残念の一言だなあ……
これを絶対的な真理であるかのように考えているのは全く失当だ
そして時代区分論も中世暗黒説も道路工事利権も
このスレとは何の関係もない
中世といえば、閉鎖された支配体制というイメージが強く
貴族主義に代表されると考えると、それを否定し、あるいは
破壊されたあとの社会に台頭した、これまでは政治にさほど
関わりのなかった層から、官吏官僚が多く出たと言うのは
時代や背景は違えど、今の日本的な体制を彷彿とさせる。
そこからやがて、名家のようなものが出てくるのはやむないところ。
どうしても、権力や名誉は自分のあるいは一族の手元に固定したいと
いう欲求が、人間には働くから、制度の範囲内でそうしたがるのだろう。
それが行き過ぎると、民乱等につながるのだけど。
カスピ海まで版図を広げたのは、後漢の他にはモンゴルを除いくとどの国もできなかったこと。
掘り下げないと、単純には言えないけどね。
唐崩壊以降、少なくとも東アジアでの主人公は、もう中国だけじゃ
なくなっているくらい、大陸には人のエネルギーが充満していたのだから。
漢民族を支配した国でってことかね
↑で見ると、後漢の版図はカスピ海どころかアラル海までも届いてない。
それとも烏孫、大宛、康居、奄蔡といった国は漢字による当て字がついてるけど、
漢に服属というか朝貢してたのかな?
それに唐は、突厥を倒しているんだし
光武帝ファンか三国志ファンかな?
総合なら清。
清以前の時代において発明された技術や文化、経済を下地にしている点。
軍事では最大級の版図を築き大国であった点。
ただその時代の割に、という要素や一部のみ限定(焼き物など)する場合この限りじゃないと思う。
橘さん乙
http://www.locaview.com/
皇帝も勤勉で優秀な人間がほとんど、いや全員か。
国が危ないしね
「北宋と南宋の趙氏は漢人かどうか疑問がある」って書いてるけど、
そこらへんはどうなんですか?
その様な事が詳しく書かれてる本とかあります?
加藤徹明治大教授は著書「貝と羊の中国人 (新潮新書) 」で、
趙匡胤はトルコ国家の後唐の近衛兵の世襲軍人家系だからトルコ系の可能性はかなり高いって書いてる。
男系だけならまだしも、混血を認めない偏狭さには仕方ない部分があるかな。
清朝成立時に、朱子学者が日本こそ中華だって逃げてきたがな。
???
それなりに順応してったけどね
ウィキの漢民族の項目に「日本の学界では唐王朝の皇帝の一族もまた鮮卑系の北方民族に近いものであると考えられている」や、
唐の項目に「唐李氏は鮮卑系であるとの見解が戦時中に日本の宮崎市定によって出され、以後日本学界ではこの考え方がほぼ定説となっている。
なお、近年の中国では、宮崎説を「日本軍の中国支配のために持ち出された論説である」と批判する見方もなされている。劉及辰『京都学派哲学』(光明日報出版社 1993年)または『日本対中国的文化侵略』叢書 (昆侖出版社) 」
といった記述があるのですが、これはつまり中国の学界では唐李氏は鮮卑人ではない。あるいは鮮卑人とは認めていないという事でしょうか?
台湾の学界や韓国の学会やアメリカの学界等の日本以外の学界では唐李氏=鮮卑人は定説とはなっていないのでしょうか?
ID:xtn2HBIO0
この馬鹿ども態度でかすぎだな
自治厨の癖にうぜー
となると、後漢末~三国時代は救いのない暗黒時代になりますね。
つまり簡単に譬えると夜逃げをして
借金を踏み倒したことと似たようなことですね。
__ (シイ(((イト、 ⌒)、
(从Y  ̄ ミ;( ⌒ヽ
(y/ (ソ((jし))
/ __, 、__ 乂リソそ)
_i_/_ソ_ Tへ\、__ 从(の))
.T ,.ィrj lー|〃ぃヽ、T \(シ(r)))
/ ‘ー ‘ / ‘ー──’ j)ソル);) 鳩山なら
{ fc っ ) Yルしノ )
l / _,_,__ ヽ tl } )) 鳩山なら騙せるに違いないわ
.l Y ィニニ ≧ 〉} 、ノソノ
!  ̄ ノノ y’シノ
Y ’ー─ ハ⌒ヽ
/ \—– / | )⌒)
/ | ム____/ / ノ )\
,.イ ̄ ̄ / ノ )
/ / ノ イ
自称 従軍慰安婦
(年齢:その都度変更)
韓国市民団体が鳩山首相に「過去史解決」促す。「日本は言葉ではなく行動で謝罪しなければならない」
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1253625843/l50
前の国家との比較で考えてみたらどうなる?
一番成長した国家はどれかを教えてください
しかし、こと平均値で比べた場合、清にならぶ国は存在しないのであります
同時代の他国君主と比較すれば相当なボンクラ。
その時代でも、代数学なんかは中国の方が発達していたと聞くが。
逆に幾何学なんかはギリシャ・ローマ文明の独壇場。
対遊牧民は漢武以降の中国政権の方が強そうだが、それも地政学上の要求によるので単純比較は出来まい。
ちゅうか、中国は緩やかながらも発展を続けた一方、逆に中世欧州はローマと比べたら酷いもんなので、
西洋と中国比べたら中世になってからの方が中国有利だろ。
時代考慮しても経済・軍事・文化どれも完璧だしな
光武帝
太宗
太祖
洪武帝
康熙帝
予州=沛国譙
冀州=常山郡高邑、魏郡鄴
兗州=山陽郡昌邑
徐州=東海郡郯、彭城国彭城
青州=斉国臨淄
揚州=九江郡歴陽
荊州=武陵郡漢寿、南郡襄陽
益州=広漢郡雒、広漢郡綿竹、蜀郡成都
涼州=漢陽郡隴、武威郡姑臧
并州=太原郡晋陽
幽州=広陽郡薊
交州=蒼梧郡広信、南海郡番禺
予州=2郡4国97県
冀州=3郡6国100県
兗州=5郡3国80県
徐州=2郡3国62県
青州=2郡4国65県
揚州=6郡92県
荊州=7郡117県
益州=9郡3属国118県
涼州=10郡2属国98県
并州=9郡98県
幽州=10郡1属国90県
交州=7郡56県
予州= 塩× 馬× 蛮族× 黄巾○
冀州= 塩○ 馬○ 蛮族× 黄巾○
兗州= 塩× 馬× 蛮族× 黄巾○
徐州= 塩○ 馬× 蛮族× 黄巾○
青州= 塩○ 馬× 蛮族○ 黄巾○
揚州= 塩○ 馬× 蛮族○ 黄巾○
荊州= 塩× 馬○ 蛮族○ 黄巾○
益州= 塩○ 馬○ 蛮族○ 黄巾×
涼州= 塩× 馬○ 蛮族○ 黄巾×
并州= 塩× 馬○ 蛮族○ 黄巾×
幽州= 塩○ 馬○ 蛮族○ 黄巾○
交州= 塩○ 馬× 蛮族○ 黄巾×
上の中 徐州(赤埴墳)
上の下 青州(白墳)
中の上
中の中 冀州(白壌)
中の下 予州(壌)、兗州(黒墳)
下の上 梁州(青黎)
下の中 荊州(塗泥)
下の下 揚州(塗泥)
特に明
列強下位とはいえ日本は清国に有形無形の援助してるし
後漢vs鮮卑vs帝政ローマ
唐vs突厥vsイスラム
宋vs金vsホラズム朝vsモンゴル
明vs北元vsティムール朝vsムガール朝vsサファビー朝vsオスマン朝
清vsロシアvsイギリスvsフランス
ローマはどんだけのもんだったのだろう。
ああ、それうそ、まったく科学的、統計じゃないし、完全うそになってる。
269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/28(金) 21:42:57 ID:DW17MTtK0
近代以前のインドと中国の圧倒的なGDPを見ると
ローマはどんだけのもんだったのだろう。
資料、証拠レベルで、制度がくそ弱小で駆るとばっかで、いわゆる城砦都市国。
経済自治州、男爵程度の権力の寄り合いですらなく、帝という言葉が古くに生まれたのに、
事実上制度としては帝でもなんでもなく、モンゴル同然の城砦子爵、蛮のあつまりで、
事実上公爵クラスの権力しかつくれなかった。
だから
金融←世界最低金融制度として有名。変なアイディアでるが毎回失敗
殖産←ほぼ殖産するほど余裕なし
建築←くそ小さい建築規模であり、ぶっちぇけ密度、質、なにより総量単位でも規模レベルからしてくそ低い。
農業←事実上清ですら、あの水車がまともに普及しきっていない。ほぼ一部のみであり、殖産規模がほぼ古代ですら劣る。
で、そもそも大変小さい、集中すれば、ほぼ日本の九州程度の当時の総建築量にレベル、質が劣るものが
全国に分散し、かつ城砦都市近郊だけの体制である、事実上諸侯ないし藩国程度が少数よりあってるだけで
くそ低い。そしてひどいのが領土意識、条約以前に、城砦民対外部民で民族移動しながら
民族定義すら確定せず。かつ暴れ狂ってるだけ、
ようは城砦対卑属、盗賊の戦争が5年に1階あるようなのりだぜしかも10年に1回。
つまり安全圏、支配権としての国家~っていうのは成立してないの。
この権力機構はね、特徴ではあるが、
社会制度としては、ほぼ紀元前レベルであり、くそ低いのよ。
・民族確立
・領域確立
・条約
これ必須なんだけど、民族、領域確定せず。貧しく小さすぎる。それこそ総量レベルであって
総面積が日本の1区並以下の総建築、城砦都市があるのみで、社会領域がそこから
5~10kmでれば盗賊の領域って社会なんだぜ。だから当然ろくに租税も成立しないし、
清でも世界一未開な市外になる。
で最強、すごい←これは謡い鼓舞以前に、完全に妄想であって、紀元前の城砦集落群が、ほぼ末期状態で全産業は失敗以前に
殖産できる社会規模もってなかった。だから、産業、殖産皆無、金融は毎回失敗
でその程度の蛮諸侯群でありながら、やれ帝国、最強、と妄想してる蛮族なのだよ。
神聖でもない、ローマでもない、そもそも帝国でもないドイツとおんなじ。
・初代皇帝の時期
・最盛期にあたる皇帝の時期(最盛期にどの皇帝を持ってくるか自体難しいが。)
・最後にあたる皇帝の時期
それとも、3つ全て検証してみるのも良いかも知れないと思う。
唐とかもえらい分度水準ひくいな。
日本のほうが高いんじゃないか?くらい低いんだけど
晋 周 殷
とかも水準ひくいんだよな
完全に日本のほうが高いくらい低い
ドン引き
宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋
宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋
宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋
宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋宋
いわゆる特徴 盗賊がひしめいてるが異常。
そして雇用層そのものが、どうあっても、物象、建築、社会規模。その他
で完全に非常に常に少ないの。毎回毎回大国的国力もってないし、そもそも管理、官僚も少なく←日本より少ないんだよな。都市城砦的に
徴税はないし、ほぼとれてない。あくまで周辺集落の徴税のみ。
そして対世界で常に2000年遅れた古代分度しかない←明とかいい例なんだよな。くそ分度低い国。
であって、そもそもつまり雇用層が2000万程度がほぼ中心であり、その他の人口は
農地の領域、殖産農業レベル、的に完全に管理できない。雇用できないの。つまり完全な難民、職あぶれになるようは何千万いようが、
まともに、雇用できる農業人口などが2000万以下なんだ。これ管理含み
するともうどうあってもそれ以上はGDPにならないし、当然徴税も難しい難民なの。
たとえば華北、華南一帯であれば、仮にあの全領域に2000年前開拓してても、水車以前に河川、水産管理ができないとかいう
くそ原始文化だから(日本でも3000~5000年前から水道、水質管理があるんだが)
まぁせいぜい300~500万程度の貧しい農業規模しかできない。まぁ単位あたり収穫高が本とゴミ社会。
でそのレベルだとやはり2000万前後でその他はせいぜい周辺民族が限界なの。
かつもう19世紀ですら正確な人口統計はないが、5000万~1億以上はあの時代であり。
かつそれ以前17世紀相当以前はその半分もいなかったがマシな統計。
そして水準技術、雇用統計。これをまったく無視して、人口←雇用層計算でかつ分度まったくみてない計算が
超GDPシナであって、実際はすでに雇用、所得レベルで2000万しかとれてない。
逆に通年1000~2000万で技術はない程度の低い社会水準、程度ににていて、かつそのあり方は
クソ2世代劣化ローマににてる。
また、しゃかい統計、数的統計を膨大にとれるほど、知識層、余裕がないわ。まともに人口管理、計算もできない。
だから古典的に社会統計がまったくめちゃくちゃであり、かつやれ2000万などで安定しない。
そしてそれ以降はしゃかい統計が数値的にでてこないが、大規模災害、盗賊団、破壊暴動が多発して世紀末以上なため、
やはり2000万相当以上じゃないと雇用でないんだ。そして19世紀初期ですら
人口、経済大国なんてのは確認されない。まぁせいぜいGDPが日本よりもはるかにすくない清なら、膨大に資料、知識、しゃかい水準ででてくるけどな。
かつ科学根拠では最強←妄想未開蛮族であるとはっきりしてる。
1 まともに国家、社会制度概念がわからず考えれない。
2 駆ると宗教が蔓延して、中世の独裁宗教よりもらりった思考の儒がめばえる。もう儒のあり方は実質
ザーストラら、仏陀以前のくそカルト宗教。思考がらりってる。
3 殖産、産業レベルこれが異常に引くい。事実、全資料的にもくそ分度ないじゃんとわかる。
とりわけ、インフラ、建築、農業が世界最低、何がいい対価というと、相当未開なとこより劣るというか、世界最低。
4 城砦~盗賊という流れで、妄想の領土の中の事実上ほぼ1~2割いまでいう合計華北、華南地帯程度のかなり貧しい領域しか
管理をおいて徴税開拓できてない。逆にその他領域は見管轄件であり、地方含みその程度w
そして当然、税も少なく制度は未制であり、建築量も当然圧倒的に日本より少ない。というかインドシナに劣る可能性がある。
5 なわけで当然GDP、社会、徴税人口は日本よりそう多くない。
6 かつ質的に劣ってる。
ずっとそれだけだよ。それが、物象、科学証拠。
でカルトシナには歴史は超妄想話で、まともな史学研究、国史の概念すらなかった。
でもって一般に、三国、すいこ、ほうしんなどの妄想カルトしかなく歴史がない。
でその妄想、カルト混じった中で最強っていってるだけで、ただのお話なの。つまりもう完全に
この板そのものがお話語りであって、完全に、科学、物象、正史じゃないカルト。
つまり科学、正史すらなくお話、妄想はなししかなかった。
だってひどいよ、全部失敗だよ。フローにするとこんな感じ。
ついに蛮族をしとめる。蛮族中元入場 20年 1~2世代
殖産計画を始める。GDPが3パーセントあがる 20年
国庫がつきる。リストラ計画 10~20年
盗賊があふれる。 20~40年
貨幣が偽造される。金融がストップする。30年
暴動が拡大。一部分断され、暴動になる。これだけらりった内乱はシナ特有 20年
塩などぶつぶつがストップする。飢餓多発 20年
大規模災害が発生する。地方が壊滅して、5パーセントの殖産、人口が吹き飛ぶ 30年
ついに蛮族が打たれる→蛮族が入場する 20年
の繰り返し。討伐→殖産→国庫尽きる→盗賊跋扈→金融崩壊→暴動死者多発。死者十数万単位
ぶつぶつ交換が打撃受ける当然飢餓多数だろう→数十万単位での大規模死者がでる。←討伐
の繰り返し。そして人口数万おそらく人口0.1パーセントにみたない人口の死は一切かかれないとかいうキチガイ
正史。
でもって、当然それ以前はもっとひどく。
そもそも常に数千年忘れられて、存在があやしかった周レベルが微妙であり
かつ物象レベルではアセアン、日本にもいくらでもある地方政権レベルで、かつその中でも
周辺影響がない未開 完全に分度が低いわけだ周
でそれ以前の商になるとそもそもあれ国じゃなくて、集落規模も以上に小さく、まぁせいぜい漁村だろのレベル。
あれが国とか妄想はなはだしいわ。せいぜい漁村市国ないし族長がいいとこだぞ。
で未開な蛮族だらけで、いわゆる戦国なんかはただの戦乱時代であって、とても大規模な集落、技術
文物が一切的にない。そもそも内容、文物規模が日本の古墳紛争とかわらないんだ。
むしろ文物規模が古墳より少ない。全般的に、そのことから、あくまで未開すぎる部族戦争であり、
かつそこにほぼ外国人の秦がきて国つくったが正しいね。
でここまでの歴史はどちらかといえば、ほぼ外国人と考えるのが物象、科学根拠レベルの話。
でそこからいわせてもらえれば、ほぼ一部除いては史記ですら当然史書ではないの。
あれは正史じゃなく、妄想、御伽噺が膨大で、かつここの信憑性が一切なく、確認もしてないからほぼうそ。
すでにそれまでの歴史もうそ、カルトでなかったため、というか実際人、分度がなかったんだけど、ほぼ妄想。
であって、相手にならん。でようは三国同じ、妄想をまちがえてまぜるから変になるけど、
科学根拠では外国の参与が巨大。
であって、逆に漢、中元がすすむと 崩壊して失敗する。
だからあくまで科学根拠、正史上は漢以降が中元史
国家体制でもないし、民族もない。技術などないし、最強など程遠く毎回外国戦争全部負ける
未開
史しかない。
そもそもまともに対外戦争して全部負けてるだろ。でそれ以外はただの虐殺制圧行為。
いいかえれば非武装民の制圧行動だけで、対武装の場合、ないし相手が自分の5割の戦闘力もってると毎回負けるんだぞ。
互角勝負が歴史上ゼロだ。
ないし相手がミスしないと勝利できない。
くそ分度なくてくそ未開で、かつ常に強くもなんともない。
完全妄想歴史のみをモチーフにしたものが混じりすぎておとぎ話でしかない。
戦争もまともに理論、体系ができず、くそ敗退しかしてないだろ。
ありえないほどよわすぎて負けるんだぜ。
騎兵のごとく賭けよでかけて、戦術的な交戦が一切できず毎回負ける
1 山城形勢の概念がない。さらには、工兵的概念がない。
2 武装関係が貧弱であり、鉄器、鉄防具 この普及が徹底していない。
鉄武具が事実上ない(普及しない)
この点が敗北の最大原因だよ。伝統的に山城、陣地構築しらないんだ。だから弱い。
秦・晋・隋・元の血統は断絶してしまったが
元VS日本 文永・弘安の役
明VS日本 文禄・慶長の役
清VS日本 日清戦争
中華民国VS日本 日中戦争
宋以外とは戦争しているね
ここで中国人の数が増えたのだから
豊かに見えたからイギリス、フランスに狙われた?
平和すぎて武力が衰えたなんじゃないか
経済の力は宋
異民族の影響度は唐
文化は宋?
唐は安史の乱でよく滅亡しなかったな
安史の乱以後の唐時代の庶民は塩が専売制だったから料理はたいへんだったじゃないか
\_ _/
彡彡彡
ミミミミ
ミミミミ
ノ σ ヽ
/ / ゚ヽ \
/ //\\ \
( ( ( O ) ) )
\ \\// /
` \/ ’
\ * /
\_____/\_____/
女性蔑視・軽視の吉川裕(東北大学大学院博士課程)を糾弾する
蔘はチャイナで初の王国兼政府存在として機能した初政府、初国
漢は武帝でやっと北方問題を解決して自主権的国家と王朝の機能が始まった
唐は王による一族レイプ寝取り行為で王朝は機能しなかったが国家と政府は機能して、シルクロードのペルシャまでのルートと支配域を確立した(それより先に行けなかった)
清は蛮族陵と元で北方が崩壊した混乱の500年を立て直して蛮族を征服して北方及びシルクロードを再制圧した
(但し人口爆発+シャブで自滅して自壊する)
とくに明と宋ってのは主権国家と北方平定で失敗して事実上の地域政府まで後退してた
明なんか北方すら片付かないのに対日謀略と恫喝をかましてこれで日本を敵視してこれで国家が滅んだ
満州族は明の弾圧の報復のたいぶんで滅ぼした
明は満州族を弾圧して、日本に謀略した無能で横暴な蛮勇弾圧主義で破滅した
チェルノブイリのお爺ちゃんが言ってたっつってました。諦めた奴と、無知な奴から死んでったって、順番に。
もう死ぬのすぐ近くだから、前より、バタバタ逝くぞみんな、だから覚悟して腹決めて、OK?。
だれも守ってくれません、むしろ殺しにかかって来てるくらいの感じだと思っています、俺は。
減ったほうがいいんじゃん、癌になったほうがいいんじゃん、癌センターが儲かるから、ムカつくなぁーあいつらマジで!
https://www.youtube.com/watch?v=5mFtsQ-3QaE
死亡率上昇トップの千葉3区 2位の千葉7区
http://inventsolitude.sblo.jp/article/176300101.html …
2011年
3月18日 「致死量の放射能を放出しました」東電の小森常務は、こう発言したあと泣き崩れた。
2016年
6月25日 『悩みのない世界へようこそ』のスピリチュアルTV主催者テディ小泉(52、埼玉)さん、脳梗塞で倒れ、心筋梗塞で死去。
7月 2日 昨日、友人が脳梗塞で倒れ頭を打ち家でトイレの前で亡くなっていた。40歳だぜ!俺は放射能汚染が本気で憎い
7月 2日 ブロガーのサランさんが今日日本で心肺停止で亡くなったそうです。倒れる前日までブログが更新されてて
7月21日、ケニアに帰国したジョハナ・マイナ(25)選手が急逝。2012年に入社。仙台国際ハーフマラソンで3度優勝
マイト レーヤは原発の閉鎖を助言されます。
マイト レーヤによれば、放射能は自然界の要素を妨害し、飛行機など原子のパターンが妨害されると墜落します。
マイト レーヤの唇からますます厳しい警告と重みが発せられることを覚悟しなさい。彼はいかなる人間よりもその危険をよくご存じです。
http://hitomi.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1473642869/
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