世界史や日本史の歴史・偉人の名言に触れて感じた人生哲学
人生哲学
車に乗っていて、車内の窓に写る道路を見ると泣けてきます。
前方から後ろへ過ぎ去っていく家々を見ると泣けてきます。
この日本では、どこまでも道路が伸びています。家々は立ち並んでいます。
全く何もない不毛の大地からスタートしたとは思えない。
何千年も前…
最初は、コンクリートもなかった。ベニア板も、鉄板も。技術もなかった。…何もなかった。
それが今や、見渡す限り、人々が創ってきた物々で満ちている。
ものを創り出すということは、大変な作業です。僕達が気にも留めないほどの小さな一歩の前進は、数え切れない人々の、膨大な努力によって、やっと進んでいく。
この日本は、数え切れない人々の、想像さえできないほどの努力によって創られてきた。
本当にすごいことなんだと思います。
先人達に、そして、今を生きる人々に、感謝の心を持って生きていきたい。そのように思います。
人生を生きていると、道を歩いているような感覚を持つ。
それは、人生には始まりがあり、終わりがあるからだろうと思う。今も刻々と時間が過ぎている。
生まれた瞬間と死ぬ瞬間が線でつながる。だから、人生は道のような存在にイメージできるのだと思う。
でも、本当に人生は道のような存在だろうか??
人生は一人の人間が築く作品である。創造者である人間は、地球という三次元の空間に存在している。じゃあ、人生という存在そのものも、三次元の空間に存在していなければおかしいのではないだろうか??
形の存在しないものはない。
宇宙ほどの大きさの白い板のような、大きな、大きな三次元の空間の上に立ち、四方八方に動きまわる。それが人生の形なのではないかと思っています。その空間には時間が存在する。始まりがあり、終わりがある。
自らゴール地点を決め、歩きだす。
歩き出せば、障害物が出現する。
壁もあれば、落とし穴もある・・・時には思いもよらぬ幸運も現れる。
大きな三次元の空間。それが人生の形なのではないかと思っています。
じゃあ、あなたに問う。
人生は三次元の大きな空間だとして、どっちが、前ですか?後ろですか?
よく、人は「くよくよ振り返るな、前をむけ」などと言うが、本当に人生に前、後ろ、というものが存在するのだろうか??
人生で壁にぶつかり踵を返して去ったとき、人は「逃げる」と表現する。
本当にそれは合っているのだろうか??
もし、人生が一本の道なら、壁が立ちふさがり踵を返せば、「逃げる」という表現が適当だろう。
しかし、人生が大きな三次元の空間なら、「方向を変える」という表現が適当だろうと思う。
人生に、前、後、右、左、というもの自体存在しない。
あるのは、東、西、南、北、方角という感覚のみである。
人生で、壁にぶつかり、苦しいのなら、方向を変えればいい。壁は、人生という名の空間全てをふさいでいるわけではない。回り道をすれば、たどりつきたいゴールへたどり着く。
踵を返して、新たなゴールを目指して進むという選択肢もある。
壁や苦しみなど、越えたいと強く思ったものだけが乗り越えればいい。大きな空間に出現する壁や困難は、アリのように小さなものである
傷つくこと、壁にぶつかること、困難に遭遇すること、つまずくこと。
それは多くの人が避けたいと思うことだと思います。
でも、僕は少し違った考えを持っています。
傷つかなければ、学べないことがある。壁にぶつからなければ、気づかないことがある。つまずかなければ、見えてこない世界がある。苦しまなければ、成し遂げられないことがある。困難に出会わなければふるえない勇気がある。
苦しみや辛さと対峙することは、僕はいいことなんじゃないかと思っています。
いつかは僕も大きな壁にぶつかるときがくるだろうと思います。
でも、それでいいと思う。
すんなりと、目指すゴールにたどり着けたのでは面白くない。
大きな壁が待ち受けているなら、僕はワクワクする。
壁が現れるということは、壁を乗り越えた瞬間の爽快感を味わえるということだと思っている。
この先、僕が進む先で、大きな壁や困難が待ち受けていようとも、僕は乗り越える自信がある。
僕はその先に大きな光を見ている。絶対に乗り越えたい。
なら乗り越えれる、そう思っている。
そもそも、人生でぶつかる壁や困難など、そう悩むほど大した問題じゃない。
人生で訪れる壁や困難など、あってないようなものである。乗り越えようが、踵を返して壁から去ろうが、右へ行こうが左へ行こうが、どっちでもいいことである。
壁や困難は乗り越えなければいけないもの。そう捉えるから大きな問題に発展する。
壁を乗り越えることが尊いことでもなければ、壁に背を向けて去ることが卑しいことでもない。
なぜなら……この後の話は少し哲学的な長い話になるので、またこの話は次回。
人生でぶつかるその時その時の問題に答えを出していくとき、もしくは、人に意見を言うとき、いつも思っていることがある。
――正解が出せるのは運がよくて10回に一回。
正しい答えは、正しい情報、深い知識があって、初めて導きだせるものである。
間違った情報からは間違った答えしか出せない。
浅い知識からは、先入観に満ちた答えしか出せない。
人は十分に情報がない場合、自分の経験に基づく、いわゆる先入観で、眼の前の不十分な情報を埋めようとする。
情報に先入観が混じれば、情報は湾曲され、おのずと間違った答えが出る。
ある人が僕に意見したとする。
じゃあ、その人は僕の価値観、行動の特徴、習慣、今までの人生で得てきた経験。なにかも知っているかといえば、知らないわけである。
人に意見するときなんて、ほとんど情報なんてない。自分の経験や知識から情報を埋め合わせて答えを出すしかない。
人間一人の経験なんて、万能なものでもなければ、たいしたものでもない。
ただの、思い出ブックである。
思い出ブックを使って、正しい答えなんて簡単に出せるわけがない。
自分の人生で、間違った情報から、間違った答えを出して、人生転がり落ちていくのは自由である。勝手に転がり落ちていけばいい。
でも、他人の問題に対しての答えをだすのなら、責任感を持つべきである。
世の中には僕のような他人の押し付けがましい意見を一切受け入れない頑固で黒い人間ばかりじゃない。世の中には人の意見を素直に受け入れてしまう心優しい白い人間だっていっぱいいる。
もちろん、安易に人の意見を受け入れる罪も大きい。でも、自分の言った言葉や行動に責任感を持たない無責任な大人がいっぱいいるから、心優しい人間がバカをみる世の中になってしまっているんじゃないのだろうか。
人は人に偉そうに意見を言えるほど、すごい存在ではない。
その瞬間、もしくは一年後の答えが正しくても、十年後、二十年後から見た答えは正しいか正しくないかはわからない。
十年後も見据える知性が人間にあるだろうか。人生はよもやよもやの連続である。
思わぬ幸運や不幸があらゆる方向から降ってくる。
僕は明日何があるのかすらわからない。
間違った答えが、降り注ぐ幸運の光に当って、翻って輝くこともあれば、正しい答えが、降り注ぐ不幸の矢に当って、真っ逆さまに落ちていくこともある。
人は思っているほど知性に満ちた生き物ではない。十年後、百年後を見据える力なんてない。
人は正しい答えを出す力なんてないのだ。
だからこそ、僕は、正しい、間違っている、にこだわる必要はないと思う。でも、人に意見をするなら、正しい答えはだせないということは理解しておくべきだと思っている。
あるところに身寄りのない若い女性がいました。貧しい生活でしたが、彼女には愛する彼氏がいました。そしてある時、愛する彼の子供を身ごもりました。しかし、妊娠したことを彼に告げると彼は彼女の前から逃げていきました。
彼女は大きな悲しみを受け、そして子供を産もうかどうしようか迷いました。産みたいけど、将来のことを考えると不安がある。
彼女はそのことを友人に話しました。すると友人は「絶対産んだ方がいいよ。産まないと後悔するよ」と彼女に意見しました。
彼女は素直に友人の言葉を受け入れ子供を産むことにしました。
そして出産の日を迎えました。――大きな喜びに包まれました。産んでよかった。彼女は生まれてきた赤ちゃんを見てそう思いました。
半年が経ちました。彼女は仕事と育児に追われる日々。毎日仕事へ出かけ、子供の世話もする。その疲れとストレスから彼女は倒れました。
彼女には両親はいません。彼女は「少しの間だけでいいから子供を預かって欲しい」と友人へ頼みました。
しかし友人は「忙しい」から無理と言って断りました。彼女は次第に追い込まれていき、家から出られなくなり、ベッドから起き上がれなくなりました。床の上には幼い赤ちゃんが座っています。
数週間後、赤ちゃんは餓死して死んでしまいました。それから一週間後、彼女も後を追うように苦しんで苦しんで死にました。……そして、「子供を産んだ方が絶対にいい」と言った友人は、何くわぬ顔で幸せにのうのうと暮らしていきました。
この話を聞いてあなたは何を思いましたか??
妊娠中絶がいいか悪いかの話ではありません。
他人へ意見を言った後、その意見を受け入れた相手が不幸になった。じゃあ、意見を言った者は責任を取れるか取れないかという話です。
安易に人に意見を言った事はありませんか??そのせいでその人は死んだ。その時、あなたは責任をとれますか??
泣こうがわめこうが、僕は、責任は取れないと思っています。
その人の人生の責任は、その人しか取れないんです。
人に意見を言うなと言いたいわけじゃありません。
人に意見を言うなら、相手のためを思ったとしても、結果責任は自分は取れないということは理解して言うべきだと思っています。
意見というのは、そんなに安易に言っていいものだとは思いません。
もし、相手の幸せを思い、相手のためを思って、自分の考えを相手に伝えるのなら、言った後の結果責任は相手が取らなければいけないということを理解し、覚悟や、勇気を持って、言うものだと確信しています。
人に自分の意見を言うこと。それは時には大切なことかもしれない。でも、辛いときには、一緒に泣いてあげ、悩んでいるときには、何も言わず寄り添ってあげ、相手が自ら答えを出すまで黙って見守ることの方がずっとずっと大切なのではないかと思っています。
少し、僕が高校生だった時の話をしようと思います。
当時、僕には大嫌いな数学の先生がいました。
彼は歳のわりに価値観が幼く、自分の考えを押し付けようとするタイプの教師でした。眼の前でいじめられている生徒がいても、ただじっと見ている。そんな教師でした。
僕は彼が大っ嫌いで、とても憎んでいました。
彼のことでいやなことがあると、決まって僕は、「彼は生きている価値がない」と心の中で強く思っていました。
当時の僕はとても若かった。そして、幼かった。
誰かが嫌い。それは悪いことではありません。人は知的生命であると共に動物です。感情があることは当然で、嫌いならば無理をして話したり、接したりする必要はないです。
ただ、嫌いなのと、相手に価値があるかないかは全く別問題です。
僕が嫌いな彼には、彼を愛している妻がいます。死んだら泣いて悲しんでくれる家族もいます。
僕は当時、自分の視点でしか彼を見ていなかった。彼を尊敬する人。彼の友人。彼の恋人。そんな人たちの視点で彼を見ることはできなかった。
自分のものさしで人を計ってはいけないです。
僕は高校生だったあの時より、少しは当たり前のことを当たり前にできる人間に近づいたんじゃないかと思っています。
去年の冬。とても寒い夜。僕は夜道を犬を連れて散歩していました。突然、犬が吼えました。視線の先、そこには小さくかわいらしい子猫が震えて立っていました。僕はじっと子猫を見、かわいそうに思い抱きかかえつれて帰り、飼うことにしました。
――しかし僕はこの時、何もわかっていませんでした。この判断が後に大きな不幸をもたらすことを。
冬に子猫を育てるということはとても大変なことです。寒い上、生命力が弱く、餌もあまり食べません。毎日下痢をし、日に日に弱っていきました。風邪も引きました。暖かい部屋で、膝の上に子猫を乗せ徹夜で看病しました。
それもあってか、子猫は危機を乗り越え、やがて春が訪れ、猫はすくすく成長しました。
しかし、この猫はモンスターでした。とてもおうちゃくな猫だったのです。毎日、庭のトカゲを取ってはかみ殺し、じゃれて遊ぶのです。トカゲだけじゃないです。コトリも鳩も殺されました。食べるためはなく、生きるためではなく、じゃれて遊ぶために。
僕の安易な優しさのせいで、多くの生き物の命が無意味に失われました。
僕は未熟な人間です。
あの時、子猫の切ない鳴き声と、凍え震えた体しか見ていませんでした。この子猫を救うことで、多くの命を殺すことになるかもしれないという想定など全く頭にありませんでした。ただ、かわいそうで。助けてあげたくて。
生命の誕生はすばらしいものです。大きな幸福に包まれます。
しかし同時に、僕は小さな小さなせつなさを覚えるようになりました。
もしかしたら、この子が生まれたせいで、後に誰かが大きく傷つき、もしかしたら、人の命を奪う存在になるかもしれないという、かすかな切なさです。
僕は学びました。救うことは殺すことであり、殺すことは救うことだと。
しかし、もし今あの瞬間に戻ったとして、子猫を助けるかと問われたら、僕は助けると答えます。
助けた後に多くの命が失われるとわかっていても、…僕はなおその子猫を助けると思います。
それはとてもとても愚かなことかもしれません。………でも、僕は人間でいたい。