太平洋戦争 第08巻|インパール作戦
インパール作戦(日本側作戦名:ウ号作戦)とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。
当初より軍内部でも慎重な意見があったものの、牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行された。
補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。
本作戦は参加した日本陸軍部隊・インド国民軍に多大な損害を出して、7月1日に中止された。
日本陸軍の損害は、『戦史叢書』によれば、戦死者が第15軍の主力3個師団で計11400人・戦病死者が7800人・行方不明者1100人以上(計20300人以上)にのぼり、そのほか第15師団だけで3700人の戦病者が発生した。
インド国民軍も、参加兵力6000人のうちチンドウィン河まで到達できたのは2600人(要入院患者2000人)で、その後戦死400人、餓死および戦病死1500人の損害を受けて壊滅した。イギリス軍は、まだ生きている日本兵にガソリンを撒いて、火を付けて焼き殺したとされる。
(Wikipedia)