三国志の伝説&物語
三国志民間伝説
劉備三兄弟の出会い
演義では、高札の前で劉備がため息をついた時、
張飛が声をかけ劉備をしかり、二人が酒屋に入ると関羽が飲んでいて、
3人は意気投合するのだが、民間伝説があるので紹介したい。
張飛はもともと豚肉屋であった。張飛は店先に重さ数百斤の
分銅を置いて「この分銅を持ち上げる事が出来たものには肉をただで
差し上げる」と宣伝を行っていたのだ。そんなにたやすく出来るものではない。
ここに通り掛かったのが関羽である。関羽は軽々と分銅を持ち上げて
しまった。もちろん、張飛としてはおさまらない。張飛は関羽にケンカを
ふっかけたのだ。ここに仲裁に入ったのが、草鞋売りをしていた劉備
というわけ。
今紹介したのと似ているが、張飛は重たい石で肉の入った井戸に蓋をして
「石を持ち上げることができたら、井戸のなかの肉は持っていって良い」と
宣伝していた。あるひ、張飛が留守の間、赤ら顔の男がやってきて説明を
読むと軽々石を持ち上げて中の肉を持っていってしまった。
戻った張飛はこの話を聞くとすぐに市場にかけつけた。
果たして、そこには赤ら顔の男が緑豆を売っていた。
張飛はいきなりその男の前に立ち、緑豆を手でつかんで粉々にしてしまった。
言い争っているうちに殴り合いになり、そこに一人の草鞋売りがあらわれ
二人の仲裁に入った「男子たるもの、国の為に力を使うべきなのに、
こんなつまらぬ事で争うとは何ごとか」
草鞋売りは天子に、肉屋と緑豆売りは「虎將」とよばれるようになったので
この話を「一竜、二虎を分かつ」といわれている。
三国志民間伝説
兄弟決め
劉備達が兄弟の順をきめる時のお話。張飛は長兄になりたかった。
「この桃の木に飛びついて一番高く飛びつけた者から順に
決めていこうではないか」
ということになったのだ。
張飛は桃の木のてっぺんにとんだ。関羽は争わず、適当に
真ん中あたりに登る。劉備はといと飛び上りもせずに
木に寄りかかっている。張飛はうれしそうに
「決まりだな。俺が長兄だ」と言った。
劉備は張飛に言った。「木は下から上に伸びていくものであり
根が先にあってこそ枝がある。根のほうが兄貴なのは当然だろう」
張飛は返す言葉もなかった。
こうして劉備は長兄、関羽が次兄、張飛は末弟になったという。
三国志民間伝説
暴れ者・関羽
関羽については劉備に出会うまで何をしていたのか
いくつか民間伝説がある。
一番分かりやすいのは関羽は悪徳の塩商人を殺して
出奔したと言う話。
つぎにもっと面白い話を紹介する。
関羽は若い頃は手におえない乱暴者であった。困った両親は
ある日、関羽を裏の小屋に閉じ込めた。
しかし、関羽は小屋の戸を難なく蹴り破り逃げた。途中、役人に
無理無体を強いられて、泣いている娘さんに遭遇し、関羽は
怒って、役所にのりこみその役人を斬ってしまった。
当然、追われる身となった。関羽はもともと「関」の姓でなかった。
逃げて、川で顔を洗うと、顔は真っ赤に変わってしまったのだ。
途中関所では名前を聞かれた。 とっさに「関」と答えたため
それ以来「関」の姓になったと言う事だ。
三国志民間伝説
孔明の嫁取り学ぶなかれ
孔明の奥さんについての記述は、
蜀書・諸葛亮伝の注「襄陽記」に出てくる。
黄承彦は高邁にして爽快、あっぴろげ気性の持ち主の
名士であった。
黄承彦が諸葛亮に言うには「君は妻を探していると聞いているが、
私には醜い娘がいる(父親にこんな事いわれる黄夫人はかわいそうだ)
赤毛で色黒の娘だが、才智の方は君とお似合いだ」諸葛亮は承知した
ので、すぐ車にのせて娘を送り届けた。これは人々の笑いのたねとなった。
郷里の人々は諺を作った「孔明の嫁取りをまねるでないぞ、黄さんの
醜女もらうはめになる」といった。
これだけではなく伝説もある。
黄承彦から話はあったものの、孔明は返事をしていなかった。
ある日、孔明は黄承彦の家を訪ねた。
門は閉っていたが、孔明が軽くたたくと門が開き、中へ入ると
門は自然に閉った。(今の押すタイプの自動ドアだな)
しばらく行くと、二匹の犬が孔明に吠えかかってきた。孔明が逃げて
いると侍女が出てきて犬の頭を叩くと犬は地上にうずくまってしまった。
更に侍女が耳をひねると、犬は花壇の後方へ消えてしまった。
孔明は良く見ると、犬は木製のからくりであった。
次に虎が出てきた。孔明はこれも木製からくりと判断して、頭を叩いた
ところ、虎は大きな口を開けて襲いかかってきた。侍女は虎の尻を叩く。
すると虎は戻って腹這いになった。さらに孔明は臼をひく木製のロバも見た。
黄承彦は言った、これは全て娘が作ったものだと。
黄承彦は改めて娘の縁談を持ち出すと孔明はすぐに承知した。
また「木牛・流馬」の発明は黄夫人の力で、孔明が改良をしたという説もある。
まさしく彼女は「女は顔じゃない」を知らしめている。
三国志民間伝説
怪しい血縁
三国志演義では劉備は漢の景帝の子孫ということになっている
正確には「景帝第七子の中山靖王・劉勝の子孫」である。
しかし本当に劉備は劉勝の血をひいているかはあやしい。
劉勝は漢の高祖・劉邦と同じく酒色を好み、音楽を愛する
多情多感の豪傑であった。
漢書によると、何と劉勝には120人の子供がいたということだ。
何人の女性に生ませたかは不明。
(笑点の◯田くんもびっくり)
劉勝の子供の劉貞はタク郡の侯に封じられたが朝廷への上納金を
しなかったため、位を奪れそのまま土着したということだ。
しかし、なにせ系図がないので真偽はわからない。
270年後には120人から数万ぐらいの子孫がいるはず・・・
劉禅の行動を見れば、やっぱり劉邦の血を受けていると
考えられなくもないですね。