武田家の終焉 -日本史-
天正10年(1582)2月2日に信濃国に向けて織田軍が出陣してから、武田軍は組織的な抵抗をほとんどせず急速に崩壊していった。その唯一といっていい例外が高遠城である。高遠城に籠った仁科盛信や小山田昌辰らは、3月2日に織田信忠率いる織田軍の総攻撃に徹底抗戦して籠城兵全員が討ち死にした。高遠城陥落の報せを聞くと、武田勝頼は新府城で軍議を開いた。そこで、重臣小山田信茂の勧めに従がい、小山田領の岩殿城に退去することにした。軍議のあと、武田信豊は勝頼たちと別れ、わずか二十騎ばかりで自領の小諸に向かった。信濃と上野の国人衆を糾合して織田軍の背後をつく、という理由であった。翌3日に勝頼は、各所から集めた人質を閉じ込めたまま新府城に火をかけて岩殿城へと出発した。今さら人質を殺しても戦況はどうしようもないであろうに。勝頼一行は、勝頼の正室と嫡男をはじめとした女子供をふくめて二百人ばかりで、馬乗りの武士は二十騎に満たなかった、という。一行が笹子峠までくると、信茂に命じられた小山田氏の兵に行く手を遮られ、岩殿城に入ることを拒まれた。信茂の裏切りを悟った勝頼は、岩殿城への避難をあきらめて天目山栖雲寺に向かった。ところが、そこも織田軍に内通した人びとにすでに占拠されていたので、田野の高台に一行は陣を構えた。3月11日に勝頼一行を探索していた織田方の滝川一益の兵が陣をみつけ攻撃してきた。勝頼と正室嫡男をふくむ主従四十余人は織田の大軍と激しい戦闘を展開して全員が討ち死にした。小諸に向かった信豊も、城代をしていた下曽根氏に入城を拒否され、16日に家臣とともに自害している。こうして武田家は滅びた。織田信長が信濃国に入る前に。信長の想定したよりも急速で脆い崩壊であった。
3月7日になって家康は穴山信君の先導で駿河を北上し甲斐国を目指した。このとき、今川氏真は駿府にとどまり同道しなかった。氏真は駿河の住民に対する抑えとして必要とされた。家康としては、奪われた駿河を今川氏のために取り戻したと喧伝し、駿河統治を容易にしようという思惑があったのであろう。実際に駿河統治の一部を氏真に任せる考えもあったようである。、徳川軍は8日に甲斐との国境の万沢に入り、10日に市川まで進んだ。家康も同じ日に市川に到着している。そして、11日には甲府で信君とともに織田信忠に会っている。おそらくこのときに家康は討たれたばかりの勝頼の首と対面しているであろう。
織田信長は3月5日に安土を出立して、14日に伊那の浪合で勝頼たち武田家将兵の首実検をした。19日に上諏訪に入り、そこで木曽義昌や穴山信君、小笠原信嶺ら投降した武田家の将士の挨拶をうけている。家康も19日に上諏訪で信長と会見している。
信長は天正10年(1582)3月29日に上諏訪で奪い取った武田領国の仕置をした。駿河一国は家康に与えられた。駿河攻めに協力した北条氏には本領が安堵され、滝川一益には上野と信濃四郡にくわえて関東大名を統括する役目が与えられた。さらに、穴山信君にも本領が安堵され、穴山領を除く甲斐一国と信濃一郡が河尻秀隆、信濃四郡は森長可、信濃二郡は木曽義昌、信濃一郡は毛利秀長に与えられている。
この仕置の結果は、武田家を滅ぼしたのは織田氏であって、徳川氏や北条氏はその手助けをしたにすぎないのだ、ということを示しているのではないか。最終段階では、織田軍の圧倒的な力によって武田氏は崩壊した。しかしそれに至る前、徳川氏は武田信玄死後からでも十年ほどにわたって武田氏と戦闘を繰り返し、北条氏も御館の乱による同盟破棄後の三年ばかり武力で争ってきた。それが武田氏の力を急速に衰退させこのたびの崩壊を導いた、と徳川や北条の家臣たちは思ったのではないか。単なる手助けではない、と。とくに、徳川の家臣たちにとっては自分たちこそが主役であったのだ、と。現実の信長の政治的・軍事的力をみれば、不満があってもこの仕置に異議を唱えるわけにはいかなかった。このことは、徳川の家臣に、徳川家は信長に従がわざるをえない立場に在り、その配下の一軍団にすぎない、という厳然たる事実を突きつけた。そして、かれらはそれを認めざるをえなかった。これにより生じた屈折した気持ちの一端は、先述したように、亡き信康、家康の嫡男、を慕う思いへとなっていったのであろう。
信長は4月3日に甲府に入り、10日に甲府を発って富士山見物をしながら14日に駿府に到着した。駿府から東海道を上り21日に安土に戻った。まさに、凱旋する皇帝が諸侯の統治状況を視察する巡行であった。このあいだ、家康は道中の警護、道路の修復、宿舎の設営、川には舟橋を架けるなど信長の機嫌を損じないよう最大限の努力をしている。さすがに信長も家康の心遣いには満足した。のちに、家康が安土に御礼の挨拶にきたとき、信長も手厚い警護や道路の普請をはじめさまざまなもてなしをしている。安土城での饗宴のさいには信長手ずからお膳を運んだ、という。ここには信長の家康に対する心遣いがあらわれている、ように思われる。家康は政治軍事面において実質的には家臣であるが、時に応じて家臣に対するのとは異なった対等の関係であるような態度をみせている。二人の関係には微妙なものがあった。
家康このとき40歳であった。