三国志・蜀将中国史・世界史スレッド
とりあえずただの煽り合いは抜きの方向で。
正史・演義どちらか一方を正統とする発言は極力避ける事。
<前スレ>
蜀将討議スレッド16
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1164728089/
<過去スレ>
蜀将討議スレッド14(実質15)
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1159019664/
蜀将討議スレッド14
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1142693255/
蜀将討議スレッド13
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1131372256/
蜀将討議スレッド12
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1115889844/
蜀将討議スレッド11
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1110602773/
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1108629096/
蜀将討議スレッド9
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1098807561/
蜀将討議スレッド8
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1091196164/
蜀将討議スレッド7
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1090156694/
蜀将討議スレッド6
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1089022105/
蜀将討議スレッド5
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1088188865/
蜀将討議スレッド4
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1086984613/
蜀将討議スレッド3
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1086376565/
蜀将討議スレッド2
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1086111941/
蜀でNO.1の名将は誰か?
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1085319730/
何故?
当初は主に兵站を統轄する後方支援、その後は宰相の人物を将なんて
呼ばない方が普通じゃなかろうか。
蜀攻めでは実際に兵も率いてるんだけどね
軍人より政治家の色彩が強い人物だし。
魏晋南北朝時代は軍人皇帝の時代だからな。
孔明は妙に奇術師めいた粉飾をされるが、
実際は正統派の出将入相の系譜にいる。
当たり前だろ
23時男君 マルチはよそうぜ
< 例 >
41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 本日のレス 投稿日:2007/05/30(水) 16:09:18 HLa/fWdh0
三国志・蜀将討議スレッド17
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1180445040/
149 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/30(水) 16:51:23
おっと昨晩もやってたのね
< 例 >
89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/29(火) 23:53:37 Mo3M6hjg0
三国志・蜀将討議スレッド17
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1180445040/
150 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/30(水) 17:11:45
三戦に嫌がらせしてるのは23時の男か
156 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/30(水) 22:22:38
以前中英の三国志スレをあちこちに宣伝してたのも23時の男だろうね
最近三戦板の考察系スレを荒らしてんのはほんとに彼かもしれん
157 名前:23時の男 :2007/05/30(水) 22:26:27
さて、それはどうかな?
ふふふ・・・・・・
詳しく教えてくれないか。
諸葛亮って意外と謀殺してるよな・・・
意外とって?
多少の知恵はあるが自分の才をひけらかす小人なんじゃないか
参謀、謀臣としては素晴らしいが、指揮官とか人の上に立つと本来の力を発揮出来ないタイプの人だと思う。
諸葛亮の南征~北伐まで無くてはならない存在だったようだが。
まあ優秀な戦略家が同次元で優秀な戦術家である必然性は全くない。
KOEI め・・・・
それにしても記述がそっけなさすぎるな
漢中まかせられたあたり、武勇より統率よりかもしれんが
ま、そりゃ出自も小隊を率いていたらしいから弱くは無かっただろうが。
それより魏延が忠義者だったかどうかのが気になるのは俺だけか?
陳寿も「王朝への謀反の意思があった訳では無かったのだ」とは述べてるが、それだけ。
それ以上はフォローし切れなかったんだろうな。
本当に何やってんだよ 魏延も 楊儀も
これだから文盲は困る。
権力闘争と反逆者へのケジメだよ、ケジメ!
とか言い返しそう。
ただ、その忠義は劉備という個人に対しての忠義であり
蜀という国家に対しての忠義ではなかったと思う。
婁圭ならこう言うだろうな。
「主君の器量に不満を持つなら、何故自ら取って代わろうとしなかったのか」と。
5虎将入れると残りは魏延、王平、張ギョク、馬忠、張翼、李厳、李カイあたりかな
成都武侯祠のメンバーが参考になるのでは。
そういや陳到は武侯祠に祭られてなかったような…
そのメンツは個人的には好きだが神レベルの五虎将とくらべると普通の優秀な人間に過ぎないからチンケに見えるよな
だからこそ俺は好きなんだが
いつごろ作られたんだろ
このあたりは絶対に外せんだろう。
向朗・鄧芝・高翔・羅憲あたりとお好みで入れ替えてもどうぞ
後はショウエンとヒイと諸葛亮な
馬岱は削って霍弋に
将としての実績がないショウエンはないわ
劉備様~!待ってくださいよ~!
とか言って無理やり3人の後をついていったようなw
簡雍といい劉琰といい劉備はお伽衆を連れて歩くタイプの人間みたい。
というか劉備って蜀獲るまで有能な武将の絶対数が少ないよね…
まあだからと言って軍才があったとは限らないが
麋竺って金持ちだけど 自警団とか指揮してた可能性はあるのかな?
本人は弓矢とか上手かったそうだから、
撃剣も使った魯粛とちょっと被るな。
( ‘д‘)
⊂彡☆))д´)>>58
川相さん倭国に帰りますよ
確か陳グウだったかな、その後に曹操に仕えたけど。
他にも放浪についていけなくなった武将とかいそうだな。
でも荀彧と仲良かったようだから、どちらにせよ曹操の元へ行ったかも知れんが。
劉備が失脚して荀彧に推挙されたのは丁度良い機会だと思ったのかもな
魏の法整備等の内政面での功績を考えると
子の陳泰よりも陳羣の方が得がたい人材だろ。
劉ショウは法正を冷遇したし、同僚の誹謗中傷で出世の道を閉ざされてる。
お上が軽んじてる人間を、周囲はどう扱うか。
これら2点を踏まえれば、法正が恨み骨髄に達してる相手、これが何人か居てもおかしくは無い。かな?
相方の張松は立伝さえされない、これは死んだからだ。
それは法正のもう一つの末路でもある。
それほど売蜀は危険な行為だった。
その賭けに勝った法正には、張松の分まで彼らを冷遇した仇に鉄槌を下す使命がある。
これは皆仲良くしましょう、とかいう理屈で止められるものではない。
許しが欲しければ乞えば良かったのだ。
復讐心で煮えたぎる法正の門前に、首枷を担いだ廉頗が一人でもいたか?
仕返しをされてしまう程度の人間性で、アウトサイダーを嘲笑してるだけの輩というのは、大抵ろくなのがいない。
端的に言えば法正の積悪は政敵どもの自業自得でもある。
孔明の人間性から言って、殺されても仕方が無い連中でもなければ基本的に止めるだろうしな。
怨みだけでなく、恩にも報いていたようだし
おそらく復讐ってのもある程度は法に則ったものだったんだろう
私怨の復讐が法に則ったとは?
叩いて埃の出ないやつはいない。
その埃に拡大解釈された法をもってすれば容易に獄に下すことができる。
現代日本も似たような話は聞くね。
それを軽んじたり、誹謗中傷するって時点で法正の恨みを買った連中は考えなしだよなぁ。
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1181478183/
しばきのじいさんが言っただけだろ
逆に張任を説得しきれなかった、劉備・孔明がどうなんだろうな
張任の劉しょうに対する忠義は関羽の劉備に対する
それと同じくらい厚いものだったとは思えんし
それは言えているかもね。
諸葛亮は寥立あたりと並べて評価していたからな。実際は諸葛亮よりもずっと格下
なんだろ。ただ少ない謀臣を失ったのは痛いよな。
張任は地元の益州生まれで、自分で老臣言うぐらいだから
古くから劉焉・劉璋に仕えて世話になっていたんだろう。
家族同然だったと考えても不自然では無さそうだが
図解雑学三国志くらい読め
魏延、王平、呉壱、馬忠、張ギョクあたりが現場たたき上げ名将かな。
人1倍強かったんじゃないの
おそらく劉備に対して侵略者みたいなイメージをもってしまい
強い反感を覚えたんだと思うな
まあ妄想にすぎないけど
だから益州に地盤がある名士は劉備についても厚遇されるけど流れ者の張任は厚遇されないだろうから劉章に準じたと
ってのは冗談だが
ホウ統が名将だったとして、
彼を戦死させてるって事はやはり張任も中々の人物だったんだろうな
そういや卓鷹も同時に戦死してるのって蒼天だけだっけ?
ホウ統を殺したのを誰の功績かとあえて決めるならラク城を守っていた劉循かな
ホウ統はラク城の城攻めのとき戦死したのだから
蒋に危ないから下がってくださいと忠告されても
下がらなかった為に流れ矢にやられたはず
その程度の将器でしかない。
そんな状況だったからしかたなかったかもね
そんなに逼迫した状況だったとも思えないが。
荊州からの軍によって、成都の包囲とラク城の孤立化が進んでおり、
最悪、ラクは監視するに留めて、成都を先に陥落させても良かった。
ホウ統が死んだ状況は、恐らくは、敵の抵抗の激しさを見て、
自ら率先して敵陣に進む事で部下の将兵の奮起を促した、とかだと思う。
ナポレオンがロディ橋を突破した時の話と、似たような感じじゃないかな。
万を超える敵に包囲されていれば焦りも生まれるのかもしれんね。
蜀将は寡兵を持って多数に敵する事も出来る人材が多いのは良いけど、
それって仕方なくやってる事であって ここに蜀の弱みが露呈しているな。
馬良ホウトウ法正がもっと長生きしてりゃ諸葛亮があと五年は生きてたはずだ。
イリョウの敗戦はなかったかもね
ホウトウだけならともかく、法正&ホウトウコンビなら互角以上に陸遜に対抗できると思う
ifはあてにならんけど、もしイリョウで呉撃退してたら荊州支配できて呉はやばかったかもね
妄想全開
諸葛亮の蜀入りはほう統の戦死とは関係ない軍事行動。
諸葛亮・張飛・趙雲の蜀入りは劉備軍本隊が蜀で孤立状態にならないため
と成都を側面から圧迫し、劉備軍本隊と共に成都を包囲するための軍事行動。
ある意味諸葛亮まで軍隊指揮に投入したところをみると、劉章軍が思いの外
頑強に抵抗したことがうかがえる。
益州入りした張飛は巴西功曹を破っているので、その時点で向存らの策源は脅かされた状態だった。
恐らく、張飛のロウ中接近で浮き足立った所を、霍峻が攻撃したんだと思う。
まぁ、そうだとしても、単独で1年にわたって守り抜き、
向存らに隙の現れる時まで葭萌を保ったのは、霍峻の士気の賜物だろうけどね。
某ブログの人と同じ勘違いがあると思うんだけど、
たぶん張飛はロウ中まで行ってないと思うよ。
当時の巴西郡治は安漢なので、そこから先は行ったかどうか不明。
同じ勘違いって言うか、本人なんだけどね。
そういう指摘は、気付いた時点で言ってもらえるとありがたい。
なんにせよ、指摘ありがとう。
で、華陽国志を読み直したら、巴志の所に「治安漢」ってちゃんとあったね。
何処で見落としてたのか?
ただ、巴西郡の郡治が安漢だろうとロウ中だろうと、結論は変わらないと思う。
むしろ、向存らの策源が安漢にあった方が、張飛にとっては都合が良い。
成都の包囲を遅らせないで済むからね。
俺も蜀ファンだからあの人が生きてたらってのは好きだけど
調べれば調べるほどたとえ生きてても最終的には押し切られれちゃうんじゃないかと
法正につぐ参謀になっていたろうに
この人話題ならないけどなぜ?
記述が少ないと聞いたけど本当?
長生きしてたら廖化なみに活躍してたかな?
とにかく張飛の軌跡は安漢までしかたどれないので、
左右両翼から挟撃するシナリオはやや弱くなるんだよな。
雰囲気かぁ。どうすりゃ改善するんだろ。
ところで、挟撃って何に対しての?
確か正史では
かなり期待された士夫だった
抗議で首切ったんだよな
相手が自分より格落ちでも、一州切り取る手腕はそれだけで凄い。
袁紹系、劉表系の軍閥がばたばた倒れたのが不自然。
二人とも優柔不断だからな
だれかが突っこんだあとで、さらに突っこむというのがアレな件。
挟撃という言葉は使ってなかったと思うが、
左右に展開して成都を包囲するみたいなこと書いてなかった?
間違いを指摘される事よりも、間違ったまま放置しておく事の方が恥だから、
自分としては、どんどん指摘して欲しいところだ。
あれは、個人的には成都の包囲とラク城の孤立化が目的だと思ってる。
張飛に関しては、張飛伝に、「成都で先主と合流した」とあるから、
巴西を降した後に成都へ向かった事は間違いないと思うけど。
内輪のブログの話とか、ダラダラ馴れ合いするの抜きには語れないの?
過疎板で何言ってんのきみは?
しらけさせる発言だけ1000まで書き込むつもりかね?
でも文句をわめくだけでは豚呼ばわりもやむなしだ
蜀に太尉上官勝っていたっけ?
新唐書・宰相世系三下 上官氏
漢有右将軍・安陽侯桀,生安,車騎将軍・桑樂侯,以反伏誅。
遺腹子期,裔孫勝,蜀太尉。・・・
あまり名誉な子孫じゃないな・・・
それでも家柄至上主義の世界では誇るべきことなのかな
蜀書に名前出てたかな?
出世スピードの早さや、漢中太守に抜擢されて長年そこを守り続けた事とかを考慮すると、蜀では貴重な独立軍を指揮できる司令官タイプだったんじゃないかと思うんだが。
まぁどう考えても性格には問題有ったとしか思えないけど、それも合わせてミニ関羽みたいな。他人の上に立つ事で器量を発揮するタイプだったと推測してるんだけど
軍人としての能力は関羽よりも上かもね。
関羽は軍事的にはそんなに大きな功績があるわけじゃないんだよね。
流浪時代から劉備に使えて、魏の知識人達に武勇が評判だった。どちらか
というと人気先行タイプ。張合と互角に戦った張飛の方が軍人としての能力は
上かもしれない。
独立軍っていうのがどれ程の規模のものかは分からんが
諸葛亮の指示の下、後方がしっかりしてる状態で軍団を指揮するっていうのはしてたね。
ただそれ以上の、韓信の様な一地方の軍事総督みたいな事ができる器ではないと思う。
それに関羽は好きだし名将だと思うけど、お世辞にも人の上に立つ事で器量を発揮した名将とは
言い難いし、ミニ関羽だったらあんまりそういうタイプの将じゃねーんじゃないの。
>>131
寒門出身であろう関羽が人気先行ってのはちと違うと思うけど。
少なくとも若い頃から劉備を支え続け、そこから評判を得たという事は
それ自体が大きな功績だったのでは?あるいは史料的に残されてないのかもしれんけど。
あと顔良を討ったり、曹操の侵攻の際には別働隊を率いて劉備を回収したり、
荊州平定の際には元勲に応じて襄陽太守・盪寇将軍を与えられたり、
入蜀の際の蜀防備や、北上の際の活躍等、軍事的にも中々のもんだよ。
特に北上は最終的に敗れたから過小評価されてるけど、采配としては一級品だと思う。
「入蜀の際の蜀防衛」ってどの事を指してるの?
楽進と青泥にて睨みあってた時、先主伝で劉ショウに「帰らないとヤバイ」
って言ってる部分に書いてある。この時結局帰ってないんで守りきったんだろうね。
それに入蜀時には諸葛亮・関羽を抑えに残したと記述されるように
関羽は荊州を抑える要の一人であり、劉備への援軍の為に諸葛亮・張飛・趙雲といった
残った古参の将達が揃って入蜀した後はより一層防備に不安が出ただろうに
入蜀中に魏に付け込む隙を与えずにいた事は評価に値すると思うよ。
この人材の流れは馬良や楊儀といった例を見るに入蜀後も結構あったぽいし
実際のところ結構な問題だったんじゃないかと。
そういう面を考慮すれば入蜀直後の呉の奇襲に後手後手になったりしたのも
仕方ないところがあるかなとも思うし、荊州失陥の遠因の一つかもね。
まあ中央を固めなきゃいけないのだから仕方ないっちゃあ仕方ないけど。
どうかなぁ。
根拠が劉備の発言だけな上、非常事態と言いつつ、
葭萌での反転から時を移さず諸葛亮らを呼んでおり、
青泥での対陣が実際にあったのかどうかは不明。
個人的には、あったとしても劉備の発言の頃には終息してたと思ってる。
じゃないと、あれだけ真っ先に諸葛亮らを呼べはしないと思う。
この辺の動きに関連するであろう記述は、
楽進伝の、「関羽と蘇非を討ち、劉備の任命した臨沮と旌陽の県長を破った」というものと、
文聘伝の、「楽進と共に関羽を尋口に討った」というものだね。
もし楽進伝の記述が、劉備が入蜀して以降の事であれば、一時的とは言え、
旌陽と言う、江陵近傍まで押し込まれた可能性もある。
ただ、楽進伝の記述は、南郡の諸蛮を楽進が降したという記述も併記されている為、
それとの連動も考えられるので、南郡の諸蛮と連動して関羽が北進したが、
江夏の文聘に側面を突かれた為に撤退し、その過程で、引き連れていた旌陽等の県長が討たれた、
という可能性もあるから、押し込まれたというのは決定的な考え方ではないけどね。
曹操の孫権討伐は212年10月に出発で213年1月には帰還してるので
青泥での対陣もそこまで長くは無いでしょう。
劉備自身が孫権の要請を受けて、それを劉ショウに援軍・物資要請を含めた話を通し
実際に物資と兵が届くまでの時間と謀が暴露して劉ショウと戦わざるを得ない状況になった時間
そして劉備が反転し援軍要請が荊州に届くまでの時間を考慮すれば既に対陣が終わってる
or終息が見え始めた時期になっていても不思議は無い。
また楽進はその後に孫権討伐に従軍してから合肥に駐屯してるおり
212年の孫権討伐以後は216年まで曹操自身の遠征はないので
その記述は赤壁前後の記述だろう。
同じく文聘も尋口・漢津という地名から考えれば逃亡時の出来事だと思われる
本当にあの場面で江陵まで進まれてると本当に援軍どころじゃないからまず有り得ない
流れとしては関羽と楽進が対陣し、孫権の要請を受けるも劉ショウとの折衝が上手くいかずグダグダしてる間に
曹操の孫権討伐が終息へ向い、関羽VS楽進も楽進は攻めきれずに曹操撤退と共に後退して合肥へ赴任
その前後に劉備VS劉ショウが勃発して、荊州組は関羽を残して入蜀ってところだと推測。
ただ劉備が葭萌の反転からラク城まで一年もあるんで、諸葛亮らが出発した時期の詳細は不明ってのがネック。
214年に曹操が合肥に駐屯した事は、武帝紀に見えるよ。
恐らく皖城救援の為に合肥に向かったが、着いた頃には落ちていたのでそのまま引き返したんだと思う。
ただ、楽進が任地を揚州に移したのは、自分も212年末の事だと思ってる。
「対陣があったとしても既に終息していた」と言うのは、その辺も勘案しての事。
んで、文聘伝の尋口の戦いは、文聘が「呉と国境を接する事になったので」江夏太守となった後、
つまり、赤壁で負け、江夏が呉との境界であるという事が定まった後の事。
更に言えば、尋口の戦いの後の、荊城で船を焼き、漢津で関羽の輜重を焼いた、と言うのは、
間に昇進を挟んでいるので、少なくとも尋口の戦いとは別に考えるべきで、
恐らくは関羽が樊城に曹仁を包囲した折りの事。
楽進伝の方は、赤壁の戦いから楽進の合肥駐屯までなら、何処に挿入されてもおかしくない記述なので、
これが青泥の対陣と同一かどうかは、判断はできないと思う。
或いは劉備が蜀に入る前、210年頃の事かもしれないしね。
確かに214年に孫権征討したとあるね、すまん見落してた。
>「呉と国境を接する事になったので」
というのは「先に荊州を平定した」結果なのだから、赤壁後とは限らない。
またその前に「文聘に兵を授け、曹純とともに長阪で劉備を追討させた」という一文があり
そして北方の兵を預けてる点から考えると赤壁前だと思うが。
漢津の戦いも「又攻羽輜重於漢津」って尋口からの一連の流れで書かれてるから
別の時期と考えるべきではないと思う。
楽進伝の方はやはり南郡の県長や部族まで降伏してる点を考えると
赤壁前が妥当でしょう、それ以後だと劉備等の荊州支配が危うい状況になりながら
何故か入蜀に問題は無く、それどころか援軍を送ってるという妙な事になる
流石に本拠地が危機に晒されているのにそれは有り得ない。
また210年頃は曹操側に大きな動きは無いしね。
そうすると文聘は、曹操の襄陽入城から赤壁までの短い間に、
兵を授けられ、曹純と共に劉備を追撃し、更に江夏太守・関内侯となって国境を守備し、
楽進と共に関羽を攻撃し、その功績で将軍位と爵位を加えられ、
更に漢津で関羽の輜重を焼き、荊城で関羽の船を焼いた、と。
そっちの方が不自然じゃないの?
あと、「劉備の」臨沮や旌陽の長を破ったという事は、
劉備が臨沮や旌陽の県長を任命できるようになってからであって、
逃げる事に必死だった赤壁前にそんな事ができるとは思えない。
それに県長を破っただけなので、必ずしも旌陽まで進出して県を降したわけではないし、
仮にそうだとしても、これが蛮族の反乱に伴う突発的な事態だとすれば、
楽進の南下は関羽追撃以上の意味を持たず、十分な準備を伴わないので、
江陵を包囲するほどの兵站準備が無く、早々に撤退したって可能性もある。
>曹純と共に劉備を追撃
>楽進と共に関羽を攻撃し、更に漢津で関羽の輜重を焼き、荊城で関羽の船を焼いた
この2つが同じ時期に起きたと考えればむしろ妥当じゃないかね
荊州降伏した際に応急的に文聘に北方の兵を預け、江夏の太守に任じると共に爵位を授与
漢津や尋口で関羽と戦ってるって事は川を移動してるって事だからちょうど江夏へ移動ルートにもなり
劉備と分隊して川を下って逃亡してる関羽のルートと一致する
つまり江夏への移動を兼ねて劉備軍(関羽)を追撃してたと。
劉備に組したのか、それとも勝手に任命したかは分からんが
劉備は逃亡の際には襄陽に寄って、江陵を目指してた訳だからその道すがらの協力者では?
また県長クラスでは出兵の権限も無いだろうから、これを征討したって事は
その付近まで接近、もっといけば占領に近いことをされてるという状況になる
特に南郡の蛮族は降伏してるのだから、南郡付近が危機に晒されたという事になるのは間違い無い。
これは例え突発的な事態であろうと関羽敗走で南郡付近が危ういとなると劉備の危機には違いないので
これを機に魏が動かないは変だし、劉備側も時期によれば入蜀どころじゃなくなる。
劉琮の降伏から赤壁で敗れるまでは、たった3ヶ月しかないわけで、
その期間に太守と爵位を貰い、更に功績を認められて将軍位も加えられ、
爵位も進められる、なんて事があるかい?
あと、軍隊を出動させるという事を、些か簡単に考えすぎていると思う。
辺境の守備部隊が勝利したからと言って、準備も無いまま大規模な遠征はできない。
突発的な事態であれば、それを中央軍が動くような遠征にまでつなげられないだろう。
それに、後漢の区分で言えば、襄陽辺りまで南郡なので、南郡の蛮族と言っても、
柤中蛮のような、襄陽近傍の蛮族だった可能性もある。
この柤中蛮が曹操らに反乱したのならば、それらを鎮撫する為に臨沮県駐屯部隊を派遣し、
関羽の方は隘路を避け漢水沿いに進み楽進を引き付ける、というような手に出る可能性もある。
臨沮襄陽間は非常に険阻で、途上柤中を通るので、最も対応しやすい臨沮県の部隊のみを送り、
関羽が当陽経由である程度の規模の軍を以って進む、と考えるのも不自然ではない。
少なくとも赤壁以前に文聘は江夏太守の任命を受けてるし
曹操は人心収攬に腐心してたみたいだから、対呉の重しとして期待してた文聘が
功績を挙げればそれに対して爵位や将軍位を上乗せする事はむしろ好都合だろう。
襄陽は単なる辺境の守備部隊ではないし
襄陽に駐屯してた楽進が臨沮まで進軍してる点はむしろ楽進側が攻勢に出てたって事だろうし
劉備軍の№2の関羽を敗走させての進軍だから、劉備側の衝撃はでかいだろうし
これを無視して孫権征討を優先させる事自体が不可解
また楽進に帰服した蛮族は南郡諸県のとあるから何も柤中に限らないし
山間部という事は臨沮までも含めた一帯の部族が楽進に帰服した可能性が高く
これが赤壁以後ならば劉備の南郡支配が揺らぐ事は間違い無いよ
また臨沮と柤中は結構距離がある上に、貴方が言う通り険阻なので
柤中を支援しようと思ったら流石に遠いでしょ、また県長しか劉備側の人間がいないのでは
ハッキリ言って劉備側に蛮族を支援する気があったとは思えない
それから蛮族も帰服したってだけでは曹操に積極的に敵対、あるいは叛乱まで行っていたかは不明だし
俺はやはり時期的には赤壁前後だと思うね、まあこれ以上は完全に水掛け論っぽいけど。
まず、文聘の江夏太守就任を赤壁前としている点が納得できないし、
仮にそうだとしても、正式な論功行賞も無いまま、文聘だけ昇進させたりするのも不自然。
楽進伝には「襄陽に留まって駐屯した」とあるのに、劉備や関羽の追撃に加わったとするのは不自然なので、
それ以降の記述は、やはり赤壁以降の事と見るべきと思う。
従って、「楽進と共に」関羽を討った尋口の戦いも赤壁以降と見た方が良い。
あと、やはり遠征を簡単にできるものと思っているように見受けられる。
遠征を行うには、遠征中策源となる場所に大量の物資を集積し、
軍隊を集結させ、兵站を構築する為の組織も一緒に動かさなきゃならない。
もし楽進の進出直前に濡須攻撃が企図されていたなら、準備は既にそちらに向いている為、
簡単に荊州方面への攻勢に変える事はできない。
楽進伝と文聘伝の該当箇所全てを赤壁前に押し込めるのは、無理がある。
ただ、これだけ言っても相容れない以上、これ以上の議論は、
貴方の言うとおり無意味なものになるだろう。
まあ他の部分は既にループしてるので反論しませんが
一応武帝紀には赤壁以前に文聘を江夏太守に任じた事は書いてあるよ
ほんとだ。武帝紀に、江陵入城後に文聘を江夏太守任じた事が書いてあるね。
すまなかった、訂正する。
ただ、やはりそうすると、尋口の戦いや荊城での焼討が、
赤壁前の関羽追撃とは関連性が薄いという事を補強する事になると思う。
江陵に入った時点で、劉備一党に対する追撃は、一応集結してるしね。
この件に関しては、これ以上の議論は無用だろうけど。
もともとの話である青泥の戦いに関しては、認識にそれほど食い違いはないし。
関羽と魏延の比較に関しても、魏延の方が関羽より上だとは、自分は考えてないし。
魏延は漢中の駐屯軍を任された上に内政面でも漢中太守も兼任しているから、
漢中地域のほぼ全権を委任されていた、と解釈しているんだけど違うのか?
地図で見ると漢中は蜀の北辺ってだけだけど実際には陸の孤島で蜀の鍋蓋みたいなものだったから、この地域の軍事・内政の権力を任されるというのは蜀将の中では相当大権を手にしていた将軍だったと思っているのだけれど。
他人の上に立つ~というのは、誰かの風下に立って一部隊を率いるのには性格が向かないという意味で言ってみた。
関羽も魏延も確か「部下を手なずけるのは上手かったけれど、プライドが高くて同格の人間を見下す癖がある」というような意味の記述が正史でされていた記憶が。
こーいう奴はお山の大将であった方が自由に行動できただろうし、実際関羽と魏延は荊州と漢中でそれなりに活躍してはいると思うのだが。
まぁ最後は部下に四散された魏延が本当にきちんと部下を手なずけていたのかは知らんけどw
漢中付近の防衛網を整えたのは劉備なので何処まで委任の権限があったのか微妙だし
また魏延は漢中太守として実際に軍権を振るった記述が無いので
この時の魏延から独立軍を率いる資質があるかどうかは「分からない」
としか言えないと思うけど、まあ問題なく治めたとは言えるけど。
魏延はどちらかと言えば劉備&諸葛亮の配下であった頃のほうが光ってるってないかい?
っていうか漢中太守時代の記録が無い事や
実際に自分の考えて率いた時である諸葛亮死後の行動があんまり過ぎる。
特にこの時の文官軽視の態度や、補給や部隊編成といった事務を担当していた
楊儀を敵に回してまで北伐の続行を強行しようとする辺りが独立軍の将器としてどうかと思う。
まぁこれはあくまで仮定の話になっちゃうけれど、
漢中時代について特に記述が無い=最前線を危なげなく統治し続けた
と評価できない事もないと思う。
天嶮に囲まれた漢中が成都から半ば孤立してたのは確かだと思うし、
漢中太守に抜擢された際の魏延の台詞からその孤立地域の軍権があったのも十分推測できると思うんだけれど。
晩年の魏延については、むしろ魏延が北伐軍の一人として編成されて好き勝手出来なくなった事による末路だと思ってる。
まぁ他人と折り合わなかったり、後先考えなくなったりと明らかに性格に難があるのは確かだと思うよ。
ここからは作家的妄想になるんだが、長安急襲策(個人的には愚策の部類だと思う)といい>>139の台詞といい、魏延は劉備の遺志を達しようと焦っていたと思うんだが。
活躍する時代や、一緒に仕事するパートナーが違えばもっと別の評価になりえた武将だと思うんだがなぁ……。
たらればで語って申し訳ない
宰相世系表じたい結構怪しいけどな
魏延の評価は過去スレで大モメしたんじゃなかったか
ログ持ってないけど
三国職官表は宰相世系見て書いたみたいだし
幾らなんでも魏延を韓信なんかと比較してはいないよ。
ただ軍人は、「一軍を率いるタイプ」と「大軍を率いるタイプ」とに大別出来て、魏延や関羽は後者だと思うって事。
韓信はちょっと格が違いすぎると思うが、後者のタイプだってだけで十分貴重な人材だとは思うんだが。
という台詞は、司令官としての台詞ではないね。
軍の物資を管理していたのは、丞相府の長史であったり、倉曹掾であったりしたんだから、
丞相府の役人を帰すという事は、兵站システムを放棄するという事になりかねない。
一日で終わるような、一会戦の指揮をするだけならそれで良いかもしれないが、
10万の軍勢を統率するべき人物の台詞ではないな。
「皆々様は粛々と撤退なされい。殿軍はそれがしが立派に勤めてご覧にいれよう」
だったら、魏延は二千年の後にも武名を残したろうな(´A`)
五丈原の時ってのは、諸葛亮も乾坤一擲の勝負に出たのは確かだろうし、
戦いを続けるべきだって姿勢も分からなくはないと思う。
ただ、急遽指揮官が変わった状態で、しかも、それまで兵站を取り仕切っていた丞相府を軽んずる発言をする人物では、
少なくとも戦いを勝利に導く事は、諸葛亮が率いていた時以上に困難になったと思う。
だからまぁ、戦いを続けたいなら、楊儀らとも協調し、諸葛亮の遺体は、
作戦に影響が出ない範囲の役人に移送させるなりする必要があったんじゃないかな、と思う。
諸葛亮は「魏延が命令に従わぬ場合は置きざりにしろ」とだけ言い残した。
しかし楊儀は殺した。
魏延と楊儀は、ああなるべくしてああなってるよな(´A`)
最初は、遺言通り魏延を置いて勝手に撤退しただけだから、
楊儀も、諸葛亮の遺命に違えてまで魏延を殺そうとしたわけではないと思う。
魏延を置いてった事が、魏延と楊戯による内紛に繋がったので、
結果的に殺さざるを得なくなったってだけなんじゃないかな。
魏延が追いかけて道を塞がなければ…か。
本当、殿を見事に勤め上げれば「お美事にございます」で二千年語り継がれたものを(´A`)
実際孔明は関張のようなバカのくせに出世した奴らは嫌いだっただろう
張コウや郭淮や陳泰に良い様にやられはしなかっただろうに・・・
【反骨の】 魏延 【相】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1176452496/
どうしてそう思ったのかな?
お偉いさん=劉備
野菜作り=孔明
考える人=法正
暴れん坊星人=魏延
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1184123463/l50
業績と、疑い深くて狭量だったといわれる性格が重ならないのだけど
出世するたびに増長したとか そういう事なのだろうか
>疑い深くて狭量だった
が正の方向に働いてるよねw
防衛戦させたらね
正しくてもそういう奴ってうざいよな
あと王平は字が読めないんじゃなかったっけ
戦陣で育ったから字が読めず、偏狭で軽はずみな性格だったとか
でも武人っぽいような気がするが
大村自身も日本近代陸軍の祖で軍神といわれたが相当変人だから、軍人として優秀な奴は常識からずれてるのが多いんじゃないの。
と
偏狭で軽はずみな性格
は矛盾してないか?
部下の面前で上司を実際の戦場ではこうなんですよとか窘めて、面目丸つぶれとか
職務以外で交際が希薄で、つき合いがあんまり上手でなかった。仕事は抜群でも
交際上手ではなかったという程度でしょ。漢中防衛戦でも同意見だったのは劉敏
くらいだけだったみたいし。魏の大軍を前線の防衛ラインで2,3万の兵力で援軍
がくるまで持ちこたえようという考えは、はたから見ると軽はずみにもみえるよ。
逆に軍人の果敢さというのは役人からすれば無謀にしか見えない。
両者の一長一短がある。
指導者の仕事は、彼らの一長一短に通じて、
時と場合に応じて双方の良さを引き出し、不味いところを隠すこと。
劉備は関羽の短所を知らなかった訳ではないだろうが、
張飛よりもずっとマシだと思っていたことだろう。
「偏狭で軽はずみ」って、定評のある誰かの訳文か?
「人となり自ら軽んじ、これを以って損をなす」だから
「俺という人間には大した価値はない」と自分を軽んじたせいで
損をした、って事じゃないの?
「人の為に自ら軽んじ」と読み下したら、自己犠牲で不利益を受けたことになる
どっちにしろ「軽はずみ」とは違うと思うよ
取っつきにくい人物で果敢な性格で周囲は危ぶむ時もあったという感じと解釈するが妥当では?
自らを軽んず=卑屈な性格 であった為に、
損をする=貧乏くじを引く 事が多かった。
と考えると、しっくり来る気がした。
王平は寡黙で何考えてんだか良く分からないが、
優秀で不平不満も言わないので、とりあえず厄介事は押し付けておけ。
手柄はこっちでもらいます。みたいな。
王平に関した史跡とか現地にはあるのかな?
魏延より王平のが功績と損失を考えると総合的には蜀への貢献度は上だと思うのだが
どうだろうか。
ひとりですからね>王平
残りの三人は誰?
高翔、胡済、閻宇あたり?
それだとちょっと違うような。
張翼と廖化が、王平らの後の世代での活躍になるからね。
どうせなら、北方を守った王平、南方を守った馬忠、東方を守った鄧芝の三人を並べた方が良い。
80歳・90歳ぐらいまで現役だったことになる、
てどこかに書いてたなあ
志村~演義演義~
とりあえず、正史宗預伝によると、260年頃に70代だったみたいだな。
いや、演義の話なんだけど。
三国演義第二十七回「美髯公単機千里を走り…」
の所で、関羽の前に現れた廖化が、「少年」として表現されてる。
90歳は厳しいんじゃないの?
ネタ元の演義にも少年と書いてるのに、
その時点で30才くらいだったとか言ってる奴の気が知れない。
ほんとに演義読んでんのかよw
>>193
関羽の五関突破の頃に少年(十数歳?)だから、正史に出てくる廖化よりは年上だろうけどね。
演義の「黄巾錦衣」という記述から、黄巾の乱に参加してるだとかって妄想に発展したんだろうね。
「演義の廖化は80歳程度まで現役だった」程度は言えるとは思う。
ちゃんと「少年」とあるから勘違いしようがないな。
その後の、関羽が劉備の夫人に会った後の、黄巾の残党がどうのって部分か。
184年に起きたこと考えて少なくとも14,5歳じゃないと傘下できないだろうから170年前後の生まれ
そうすると死んだ264年には94歳ってことになる
生きるだけなら可能かもしれんが政治活動は240年ぐらいには無理になるな
184年の時点で参加していたと解釈すると無理すぎる。
周倉が張宝配下だったんで、こっちと間違えてんじゃないの。
どこにその秘訣があるのでしょうか?
やはり蜀の塩や生姜維が良いからですか
高齢になっても引退できなかった。と。
趙雲は正史では何時の生まれたかは不明。
関羽は緑で、張飛は黒ってマジですか?
旗色やデザインとか外見的なことの描写はほとんど無いね
蜀将で描写されてるのは劉備の異形や関羽のヒゲぐらいか
あとは後世に作られたイメージで、それが史実に合致してるかはわからない
張飛の虎ヒゲもホントかどうかわからんし、諸葛亮だって綸巾羽扇じゃなくて
ガッツリと戎装に身を固めて剣を佩いてたかも知れない
正史の曹操のイメージは横光の赤鎧しか出てこない
刷り込みだな
名前の右に旗色と文字色を書いてね♪国名もだよ♪
蜀
劉備
関羽
張飛
魏
曹操
曹丕
徐晃
呉
孫権
孫堅
袁術
袁紹
よろぴく
>>217 なるほど、上官に食って掛かったり
部下に対して激昂する事が多かったという事ですかね
”軽い”とされるのは曹操の伝記なんか参考にすると
人前で感情をセーブしない事のような気がするんだが。
人前で大笑いしたり怒鳴ったりすると軽いとされるような。
曹操のそれって軽佻浮薄だよな。
軽=行動が軽はずみで、佻=落ち着きが無く、浮=興味が移りやすく、薄=言葉に重みが無い
こうじゃなかったか?
という事なんだろう。
陳寿は超世の傑であるが、軽佻浮薄と苦言を呈している。
これをどう取るかはまた読み手次第だけど。
誉めるつもりで書き記したんだろうか?
まあ何であろうと、記述が多いに越した事は無いんだが
表現としては軽佻浮薄という言葉が用いられてるけど、
曹操が真実そういった存在なのかどうかはまた別であり、
王平もまたしかり。
実態は記述を総合的に分析して推測するしかなく、記述量が少なければ断定そのものが無理だよね。
それだと魏延や楊儀もそうだが
自分はあくまで「軽」の意味を紹介したのみ。
人物として真実小物だったかどうかも他の記述と照らし合わせて考えるべき。
ただ、王平は記述が少ないので、どうしても推測の領域を出ないだろうね。と。
諸葛亮や蒋苑といった宰相クラスの人物ではない。場合によっては魏延や楊儀
といった人物と変わらないかもしれない。ただ王平はそこそこ上手くやっていた
のだろう。魏延や楊儀みたく厄介者という程でもなかったという感じか。
公平で私欲もなく政務能力がある人ってやっぱ四相以降いないと思う
タイムスリップできるのか?
性格があれなんで、失脚しなかったとしても長続きしなかっただろうが。
家柄からいうと張裔も有力候補だけど、なんかこいつアホっぽそうw
武将出身だがもう少し長生きしてればトウ芝が宰相になってたかもね。
あとは諸葛瞻・董厥・樊建だな。詳しい伝が残ってないのが残念。
北伐の頃には自分にもしものことがあれば蒋苑に任せるようにと後主に言っている。
楊儀はあくもでも事務屋としての能力が買われただけ。
李厳は一応は諸葛亮に次ぐ№2だった。だけど劉備の遺言を重んじたからで、あんまり
好ましい性格ではなかったようだ。劉章をすぐに裏切ったり、諸葛亮をはめようとしたり
と忠義者ではなかったようだ。
楊儀を実質ナンバー2として重用しといて後継にはしないで干すなんて諸葛亮黒杉
それだったら孔明派閥といえるんじゃないのか?
馬忠ってやった?
本人がそう自負していただけの自称ナンバー2
丞相府長史という職級から考えて、そんなに大した地位にもついていないわけだし、
ナンバー2ってほどでもないでしょ
当時の蜀は、諸葛亮のワンマン政権だから丞相府が中心になっており、
そこの事務方のトップだったというに過ぎない
実際に諸葛亮の後を継いでトップになったショウエンもほぼ同じ地位だったじゃない。
楊儀がナンバー2を自負したとしても不思議じゃないでしょ。
楊儀が諸葛亮死後の人事に不満だったのも、序列でいえば自分の方が上なのにショウエンが追い越してトップになったから。
楊儀自身はそう思っていても諸葛亮は全く後継者には考えていなかった。
蒋苑の次が費偉だから、人事は順送りとは限らないということさ。楊儀の不幸は
諸葛亮の自分への評価がどういうものか把握していなかったこと。単に事務能力
だけが買われていたということが解っていれば、また違った人生もあったと思う。
言葉を変えると、自分自身の実力・才能が宰相を担う程ではないことに気がつか
なかったことだね。
自分で言ってて自分でも分かってない希ガス。
叩き上げの軍人の魏延に蜀の朝廷が諸葛亮に代わって全軍の指揮を任せる
わけがないことを理解していなかったのが不幸。せいぜい漢中の守備隊
の指揮官がいいところ。蜀の大半の軍隊を家臣に全て任せるのは危険。
諸葛亮が絶大な信頼を得ていたから可能だっただけ。蒋苑・費偉ですら
大規模遠征はできなかった。それにはそういう事情があったと考えられる。
まして魏延が遠征軍の総指揮なんて論外だった。姜維はそのへんのことを
考えず大規模遠征。朝廷と溝が出来、宦官の台頭を許してしまう。
だけど諸葛亮は政治家・軍司令官の後継者とは考えていなかった。楊儀伝を読むとよく
わかる。それと、張合なんて司馬忠達よりも戦歴・軍功でも遙かに上なのに、その指揮下に
置かれてしまう。軍もトップは名士出身というのが当時の常識みたい。魏延が軍権を握るな
んて相当難しいのさ。
誰だ?
どこでそんなガセネタ拾ったか知らないけど。
丞相府としての職務を実質的に担ったのが長史。つまり丞相職の実体。
官位はさほど高くないが職責はかなり重く、
長史の蒋エンが諸葛亮の仕事を継いだのも別に大抜擢というわけではない。
蒋エンは諸葛亮の出征中、成都の丞相府を仕切っていたし、
国淵は曹操が韓遂征討に出たとき、許の丞相府を仕切った。
丞相が国家の代理人とすれば、長史は丞相の代理人に相当する。
> 丞相が国家の代理人とすれば、長史は丞相の代理人に相当する。
でたらめ言っちゃいけない。
丞相長史の役割が大きいのは、諸葛亮という丞相のワンマン政権だからこその話。
当時の蜀だけに通用する話に過ぎない。
他の国であれば、丞相がいなくなれば文武官のうちの権力者や実力者があっさり
肩代わりするだけ。
丞相長史なんて官房長官に過ぎず、総理大臣の代理人では決してない。
強力な丞相が存在し、それにより絶大な権力が丞相府に集中した当時の蜀に
あってのみ、丞相長史が権力者たりえるのであって、丞相長史という職に権力が
与えられているのでは決してない。
中国の歴史には、強力な人物がいればその官職の役割・権力が巨大になり、
その周囲にいる人間も本来の官職以上に権力をもつことになるなんて、よくある話。
それを理解せずに、丞相長史がすごい官職であるかのように言っている奴は
中国の歴史をイチから勉強しなおせ。
楊儀は高官だけど、諸葛亮も蜀の朝廷も宰相にする気がなかった。
ただそれだけのことだろ。楊儀本人はそんな事情をしらないから不満タラタラ。
結局は自殺というのが流れ。
一応名目上の地位は魏延の方が楊儀より上なんだろ。
だから撤退のさい楊儀の指示に従うのを拒んだのだろ。
征西大将軍という地位は、遠征軍の中では丞相の諸葛亮に次ぐ地位なのだろう。
諸葛亮が魏延が指示に従わなければ置き去りにしろと指示した背景には、席次
で魏延に命令できる人間がいないから。
丞相府長史の職責をあまりに軽く見すぎてるみたいなんで、
その認識は間違っていると指摘してるだけなんだが。
当方は魏延のことにちっとも言及していない。
大丈夫か。落ちつけよ。
権力者が増長すればその腹心も力を持つなんてことは当たり前なんであって、
諸葛亮の長史たる楊儀がその立場にいたと言ってるんだが?
要は、府内での地位、職責の重さを言ってるんでつよ。
府外への政治力を普遍的に有したとは誰も言うとらんよ。
府中で機密に関わる下っ端の方が、
世代交代で受ける利益は大きいという話だろ。
楊儀は虎の威を借るだけの狐で終わったけどな。
諸葛亮は自分の死後は要職から外すように上表してたのかもね。
楊儀が政治の実権を握る可能性は皆無だったみたい。
二人揃って全く人望がなかったってのもヒドい話だね。
将軍にしても長史にしても、
少なくても部下には信頼されてないと話にならない仕事なので、
たぶん部下にはそこそこ信頼されてても、
同僚や上司には警戒心を持たせちゃったんじゃないかな、、と予想。
関羽にしてもそうだけど、傲慢と評される人物は
たいがい部下には人気が高かったりするよね。朱桓とかもそうか。
魏延は侍大将としては優秀だったけど総司令官の器でなかっただけの話し。
関羽、張飛だって蜀全軍の指揮官には力不足だろ。諸葛亮は馬謖以外は
概ね的を射た人事だったと言えるよ。
糜芳
そうでないと、張飛を飛び越えて漢中の司令官にはなれないでしょ。
年功なら張飛が上。
部下の方からどうだったのかはわからんが……
政争と人徳が失敗にどのくらいの割合で関わって来たのかが気になる
蜀将の傲慢は魏延に限った話じゃないから
劉備死後の体制にぽつんと残ったのが不幸な気がするんだよね
やっぱ魏延贔屓かな?
黄忠 征西将軍→後将軍
魏延 鎮北将軍→征西大将軍
姜維 征南将軍→輔漢将軍→鎮西大将軍
どうも蜀の将軍の官位は魏の官位に当てはめると上下関係がイマイチわからない。
どなたか解説してくれませんか?
蜀では、前後左右が大将軍、驃騎、車騎、衛将軍に次ぐ将軍位で、征西とかは更に下でしょう。
漢においては将軍位というのはその8つで、他は雑号になるから。
だから、黄忠は完全に昇進で、魏延も鎮北将軍から征西「大」将軍なので昇進。
趙雲はよく分からんが、南征するんで征南にしといて、終わったから鎮東に、とかかな?
姜維の場合ちょっと特殊かもね。
輔漢将軍或いは輔国将軍は、張裔や董允、董厥など、中央にあって宰相を補佐する人間が就いてる将軍位。
恐らく、首府を防衛する為の中軍の指揮官という意味合いが強いんじゃないかと思う。
姜維の輔漢将軍は、蒋琬を軍事面で補佐する為、中軍を指揮する立場に置いたって事だろう。
その後の鎮西大将軍就任は、荊州攻略を止めて涼州攻略に方針を変えた事による処置で、
同時に、漢中を守備する王平が鎮北、南中を統治する馬忠が鎮南になってるので、
姜維を中心に涼州攻略を行いますよ、っていう意味の任官じゃないかと思う。
少なくとも「大」が付いているので、大将軍や車騎将軍など以外の将軍位よりは格上でしょう。
なぜ敵国の官制で理解しようとする?
むしろ漢の官制を学べ。
ちくま書房の本では昇進して鎮東将軍となる書いてある。
地位としては当時は魏延と同じくらいの地位となるのだろうか?
ttp://d.hatena.ne.jp/mujin/20070814/p1
ここでむじん氏が、後漢末は鎮>征だったんじゃないか、って言ってる。
もしその指摘が正しくて、蜀が後漢末に則ってるとすると、
征から鎮は昇進なので、趙雲の事も昇進と考えていいかもしれない。
征から鎮への昇進は、例えば張翼なんかが、征西大将軍から鎮南大将軍に昇進してたりもするので、
もしかすると、むじん氏の言うように後漢末や蜀においては鎮の方が格上かもしれない。
諸葛亮の死後、姜維が軍事権を握るまでは大規模な遠征はない。
よって楊儀が得意としてた軍事物資の調達や部隊編成の仕事はほとんどない。
それでいて政治・軍事の実権は蒋苑が握っているのだから、事実上の職務はないことに
なる。いままで激務をこなしていた人が仕事がなくなるとどうなるか。
サラリーマン社会に通じる話だね。
>>271
蜀は漢の後継という建て前だから魏は反逆国家。
逆賊を討伐して国土を鎮めるという意味からも四鎮将軍の方が四征将軍よりも上かも。
四征将軍は蛮族を討伐する将軍という意味合いかもね。
蜀の場合はこんな感じになるのかな?
四征将軍<四鎮将軍<前後左右将軍<四大征将軍<四大鎮将軍
前後左右は中央軍及び名誉職、四征・四鎮・四大征・四大鎮は実戦指揮官かな?
尚朗なんてどうみても軍人じゃないのに右将軍になってるし。実際の権限は四征、
四鎮の方が上かもね。
どんなもんだったかという疑問がある
中軍師の劉エン・楊儀は干されてたし、後軍師は費イの腰掛け、
魏延・鄧芝も前軍師として何をしてたかは分からない
(楊儀・費イのが丞相府解体のための人事というのには得心できるが、
それでも具体的な仕事が分からない)
前軍師・魏延に限って言えば、
魏延としては本官たる征西大将軍の仕事に専念したいし、かつそれで十分なはずが
諸葛亮にとっては魏延を自分の指揮命令系統下に入れるために
丞相府属の官職に就いてもらう必要があった
ただ、魏延のプライドを損ねないために軍「師」として招請する形を採った・・・
ということで、魏延の前軍師就任は具体的な職務を伴わないもので、
諸葛亮との妥協の産物だった・・・と想像してみた
軍師の職務が軍の監察だとすれば、中軍師・楊儀に仕事が無かったのは
監察の対象となる軍が無かったという事ですか・・・
蜀は分からないのでは?
四方将軍なんて席が全部埋まるわけじゃないんだし
降伏者を厚遇して寛大さをアピールするのは三国どこもやってた。
黄権と一緒に掘られまくりだったそうな
正史によりば漢中攻略の計画には黄権の戦略が大きかったみたいだし、
なによりも黄権は諸葛亮を信頼していた。蜀に残っていたら諸葛亮のよき
協力者であり参謀となっただろう。黄権がいれば、李厳を必要以上に持ち上げ
なくでもすんだはず。
劉備は直後に死んでるから蜀全体で黄権に同情する雰囲気だったのだろうか
途中で昔のこと持ち出されて追放や処刑されてもおかしくないだろうに
劉備は黄権に責任はないと断言しているからな。
蜀政権の中では黄権に罪無しという認識だったんだろう。
諸葛瞻に関しては単に軍事的才能が無かっただけの話しだと思う。
> 裏切り者の息子でありながら黄崇が官職についてるしな
それぐらいどうってことない
孟達の子・孟興だって、ふつうに官職についてまんがな
蜀滅亡まで蜀に仕えて、その後、故郷に引退しとる
先帝が弁護してもやっぱり裏切り行為には違いないし罪を問う声が出てもおかしくないもんだけどね
あとは黄崇の仕事ぶりが立派で何か言うのも下世話だろうとか
黄権は夷陵から北上して、夷陵と襄陽とを結ぶ険阻な道に駐屯してた。
具体的には臨沮の辺りだね。
臨沮だと、夷陵城周辺が呉に取り戻された時点で、呉軍を突破するしか逃げる方法が無くなる。
上庸方面にも逃げられるかもしれないが、道が凄い険阻な上、結局魏領だから、
軍を率いて逃げられる道じゃない。
臨沮周辺にいる時点で既に魏領内に入ってるわけだし、呉に降る気がないなら、
少し北へ逃げて魏に降るのも選択肢としては有り得たと思うよ。
夷陵襄陽間の道は、三国時代には精々1,2万の軍勢しか進んだ記述が無いので、
全兵力を考えても、数千って程度じゃないかな?黄権の率いてたのは。
>>291
華陽国志巴志によれば、黄氏は巴西群ロウ中県の五大姓の一つだけど、
群全体、州全体てどれほどの影響力があった氏なのかは、自分には分からん。
状況はよくわかったが
呉は一時の感情で戦ってる敵だが魏は漢王朝を簒奪した不倶戴天の敵じゃないのか?
はどうなんだろう
魏を不倶戴天の敵と思ってたのは劉備と一部の腹心だけだったのかな?
撤退できないってことは蜀への退路がたたれたってこと?
呉が追撃するよりも早く魏の領土に逃げられるような状況だったのか?
どのくらいの軍勢ごと降伏したのか
呉は一時の感情で戦ってる敵だが魏は漢王朝を簒奪した不倶戴天の敵じゃないのか?
黄権はその後魏でどんな役職についたり功績を残してる?
謎なことが多い
劉備時代は呉とは同盟とは言えない状態だったし。領土争いになれば魏とも呉とも
戦うというスタンスだったんでしょ。
むしろ劉備時代のほうが魏=曹操を仇のごとく思ってたイメージがあるんだが
「曹操と逆の行動を採る事で世の声望を集めてきた」とは語ってたけど、
曹操らを憎んでいたとは読み取れない。
対して当時の呉は、関羽を殺し、本拠地を奪い、重臣が東征を諌めても意に介さなかったほど劉備に敵視されていた。
しかも実際に戦端が開かれていたんだから、呉に降るより魏に降るのは普通にある事だと思う。
劉璋に仕えていた頃は劉備を警戒してたけど、劉備に仕えてからは、
劉備と強固な信頼関係を築いていたんだし、目下の仇敵と言える呉には降れないでしょ。
「曹操と逆の行動を採る事で世の声望を集めてきた」とは語ってたけど、
曹操らを憎んでいたとは読み取れない。
対して当時の呉は、関羽を殺し、本拠地を奪い、重臣が東征を諌めても意に介さなかったほど劉備に敵視されていた。
しかも実際に戦端が開かれていたんだから、呉に降るより魏に降るのは普通にある事だと思う。
劉璋に仕えていた頃は劉備を警戒してたけど、劉備に仕えてからは、
劉備と強固な信頼関係を築いていたんだし、目下の仇敵と言える呉には降れないでしょ。
それを受けた曹ヒは「なにカッコつけてんだ。この逆賊が」という内容のことを小難しい屁理屈で述べて、使者を斬ったとか。
そんな話を聞いたことがある。
まあまだ魏王朝じゃないんだし、同じ漢の諸侯王で三公の同僚の死を悼んでも不思議じゃない
呉は孫策時代までなら上の両者と通じるとこもあるけど孫権時代からはなんかせこいイメージしかない
本当に問題なのは、自分のイメージを、さも真実のように語ること。
自分のイメージと事実を、混同・勘違いしてること。
2ちゃん含め、ネット上ではこの手の問題児が多すぎ。
人材や領土は自分で獲得していった創業者。
孫権はいちおうは父孫堅・兄孫策の跡を継いだ三代目。
人材も概ね孫堅・孫策時代に集まった人達が中心。
それと年齢的にも孫権は曹操や劉備の息子世代の年齢。
どうしてもある程度出来上がった体制の中でトップになってるから
ドラマ性がないから小説等にあまり取り上げられない。
それと、魏や蜀に比べると官僚の力が弱く、豪族の連合体的な色彩が強い。
だから強力なリーダーシップというよりも豪族間の調整が多かったのでは。
せこいというよりも創業のほうが守成よりもドラマになりやすい。
実質初代は孫策だろ。
孫堅や孫策は魏でいうと曹騰とか曹嵩のような位置付け。
まあ曹騰は宦官で権力を金を握ってたが
なんで孫策は皇帝じゃないんだろう
孫策の息子がまだ存命だったため、
孫権の心境としては
「政治的に(いつか孫策みたいな人物だ」とか皇帝にもちあげられたりすると)やばいし」って感じだったのかも。
ただ陳寿は「この扱いは道義に欠ける」と思ったようだ。
ただし孫晧が「孫策のような…」と比喩され皇帝になったし、(開祖の孫権ではなく孫策にたとえるあたり)
兄の武勲はやはり大きすぎたんだな。
ただ孫策は曹操や劉備と較べると創業に費やせた期間が短くそのため必然的に得た領土も少なかった。
そのため孫権もゼロからの、とはいかないがある程度の創業を迫られた。
恵まれてる割に大したことはしていないのが孫権がショボいイメージをもたれる一因。
赤壁や夷陵といった危急存亡の戦役を他人に丸投げしちゃうあたりがもう駄目。
北来の名士や地元の豪族、また孫家を凌ぐ家格の周氏など、君主権を脅かしそうな輩の多いこと多いこと。
そういう連中を司令官に抜擢しないと軍はまとまらんぜ、そりゃ。
しかもたとえそういう連中を抜擢しても古参衆が文句を言う。
てか赤壁はともかく夷陵は劉備の無謀で、
まあ確かに英雄劉備がくるのは恐ろしいっちゃ恐ろしいが危急存亡なんて事態ではない。
諸葛亮の北伐は確かに厄介だったろうがまさか魏帝や魏臣が「この国滅ぶんじゃないか?」なんて思ったわけじゃあるまいし、
日本軍の神風特攻は恐怖にしても「アメリカ負ける!」と思ったアメリカ兵はいないんじゃね?
戦時中、陸遜が孫権へ上奏した文には劉備の用兵は欠点だらけ、とあるし陸遜が終始冷静だったところをみると
開戦前から勝算というか、「負けない」という自身はあったんじゃね?
また赤壁についても江表伝には孫権の「万一の場合退いて私と合流せよ、私が曹操と対決する」という発言もみられるから腰抜けというわけでもない。
そもそも自分より軍事的才能に恵まれた臣下に戦争委任することのどこが気に食わないのさ。
孫権に前線で会戦を指揮して勝利をぶん取る実力があれば、
豪族の合議的政権から一歩飛躍出来たろうと言ってる。
即亡国ではなくとも土地を奪われる可能性だけで十分脅威。
例え勝算を立てるまでの手配に孫権が大きく貢献したとしても、
実際の戦場における戦果を他人に与えてしまっては「曹操や劉備に勝った○○」という存在を作ってしまう。
後方指揮の総大将が悪いとは思わんが、求心力の微妙な家柄でそれを使うのは国を割りかねない。
そのような指導体制を選択したことには疑問を呈さざるを得ない。
孫氏の主権と権益は孫氏の人間のみに守られるべきだ、とは思う。他の誰によってではなく。
後世でマイナスイメージが持たれたってだけの話だ。
孫権自体も政治・軍事でも能力があるし、賢能の臣を巧みに用いてものは事実。ただ
晩年は後継者争いを上手く裁くことができず、滅亡の遠因を作ったのも確か。まあ正史
の評の通りだね。
黄権の話が宙ぶらりんだな。
孫権と誰だったかもう一人の投降者が出向いた、ってあるらしい。
しかし誰かが
「孫権は自分の息子すら人質に出そうとしなかったのに、
自分から出向くなんてありえないだろう」
と思って調べたら
「ああ、これ多分黄権だわ」と結論づいた。
ちなみに俺がもってる徳間のほうには黄権とある。
ちくまは持っていないが誤植が多いときく。
…が、いくら原文には名しか記されていないといったって
孫権が曹丕のもとにいったというのは無理のある話だろうにw
蜀の大将黄権が降伏したというところの注釈なんだから、
どこをどうしても黄権以外にありえんよな。
ちくまの訳者はなんでこんなイージーミスしちゃったんだろ。
・・・孫権が曹丕の車に参乗したらしい
「権及領南郡太守史コウ等~」
と書かれており、権さんの姓が書かれてないんだよね。
でも、内容的に孫権はありえないし、
注の位置と、権が鎮南将軍に任じられたことを蜀書で参照すれば、
この「権」が黄権を指したものなのは明白。
主立った者だけで百人以上ってすごいな。黄権がそれだけの地位にいたってことか。
感じられる。方針に反対の途端に別働隊にされて逃げ遅れ、趙雲も反対したら国内
に留められている。趙雲が劉備の生きていた時は地位が低かったのは劉備の方針に
反対したのも大きいのでは。長阪で夫人と皇太子を救った功績を考えると地位低す
ぎでしょ。それでいて劉備の死後は征南将軍に、程なく鎮東将軍に短期間で昇進し
ている。
荊州を奪還すること自体は賛成だったのかもしれないな。
ただ遠征軍の総司令官は大して活躍した記述がない奴だし、知謀の法正亡く、黄権は
別働隊にしてしまうしとない、張飛は遠征前に死亡。
馬超、趙雲、魏延といった名将は参加せず。将校の力量でかなり不安は感じてたかも。
遠征軍の将帥は劉備。当時では無比の実戦の雄。
その部将は確かに小粒に思えるかも知れないが、どっちにしろ
遠征軍の規模は数万程度なので関張ら都督クラスである必要はない。
どっちにしろ蜀には劉関張以外に大した将器はいないし。
この敗戦は陸遜が防備に徹し、臨機に反撃を仕掛けたため。
劉備は実戦経験は豊富だけど戦績はかなり悪いぞ。
漢中戦は法正がいたのと、曹操自体が漢中支配にそれほど熱心でなかったから。
そこら辺を考えるとかなり不安材料だよ。
だが、大軍を統轄できる将帥としては蜀で唯一の人物。
劉備の戦歴を見ればわかるが、常に最前線で軍を率いてる。
勝率の悪さは前半生における地盤の弱さも要因となるし、
事実荊州以後はほとんど負けてない。
将校の力量が不安、陣容が貧弱なのではなく、
単に中心人物たちの史料がほとんど残ってないだけ。
この時点での具体的な記述の少なさは、魏延だって似たようなものだし。
ただ、この戦いで死んだり、以後の活躍が残ってなかったりで、
他に判断材料が無く、パッとしないように見えるだけ。
いかに反対が多かったといえど陣容が貧弱すぎるだろ
劉邦のスイ水の戦いぐらいみっともない敗戦だと思う
孔明の北伐と比べると貧弱に見える
将に関してはあそこで死ななければ名将になれたかもしれないけどな
いかなかったんじゃないかな。
荊州を失えば、中原進出の望みも一気に断たれるし。
おかげで目が覚めたわ」
呉の使者「かっ返します、荊州の城も関羽の首m」
(ズバーッと切り倒される呉の使者)
劉備「返しちゃ駄目だろう。
劉備は奪うのだ
返却など
受け付けんっっ!!」
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1189212296/
北伐の参謀、孔明北伐の際の内治の要などいろいろ考えられると思うのだが
誰も答えないね
自分が思うに黄権は北伐の別動隊の司令官クラスかな
馬良は留守番のトップクラスかと思う
黄権はともかく、馬良はそこまで有能かね?
呉への使者や異民族扇動を任された所を見ると、弁舌などは評価されていたようだけど。
劉備の属官として召し出され即位後も侍中と、あくまでも側近を歴任してる所を見ると、
夷陵で生き残っても劉禅の侍中(+何かしらの官位)として補佐する程度で、
北伐時の留守番はやはり蒋エンに一任されるんじゃないかな。
その前に呉との関係修復の使者に選ばれる…か?
馬良って軍事的才能はどうなんだろうね
それと馬氏五常の長男次男三男はどうなったか誰か知らないか
若くして侍中になったくらいだから有能では?
軍事的才能は不明だけどね。
文官としては有能だったんじゃないかな。
諸葛亮は国内、ほう統・法正亡き状態ではやっぱ不安が・・・・・・・・・・・・
おまけに戦略に長ける黄権まで別働隊に追いやっちゃうしね。
ちょい話が噛み合ってない気がする。
要するに劉備は蜀で唯一の「十万人の将」
それに代わる人物がいなかった。
個人的能力なんて実戦においてはほとんど大勢に影響を与えない。
ただ兵員を出せば戦争できるなんてことはないぞ。
作戦がまずいと大損害になるしね。
事実大敗だったジャン。
つまり個人の力もば主将・幕僚クラスだと影響甚大なんだよ。
もちろん、劉備にはそれは備わっているし
その意味でも当時では屈指のリーダーだった。
勝てない中で勝てないなりに損害を抑えるのが優秀な人間。
優秀でなければ勝てる戦いでも勝てなくなったりするが、
将帥がポカやっても輔佐がカバーするから個人的資質は結局あんまり関係ない。
夷陵の戦いではそういう個人的な失敗は見られないし、
そもそも開戦の決断を下した時点で勝利の見込みはなく、間違っていた。
で、それでは蜀の首脳はなにを見込んで開戦に踏み切ったかが問題になってくるわけだ。
おれが書いた>>348への指摘だと思うんだけど、蜀の首脳陣はほぼ全員が荊州人で、
荊州の現地民も彼らの帰還を望んでた者は多かったと思う。
だから356のいうように最善の契機であるというのは大賛成なんだが、
現地民が呼応してくれるんじゃないかという淡い願望以外に、
具体的なプランがあったのかというと、劉備の布陣を見ても読み取れないんだよな。
おれは将帥のポカを補佐がカバーすると言ってるが、
この夷陵の布陣に関してだけはそのカバーすら見られなかった。
曹丕の指摘したマズい布陣は遠征軍の総意だったんだと思う。
だから将帥の力量が問題だったんだよ。
黄権あたりは気づいたていたんだろうけど、補佐役にするどころが別働隊に左遷だからね。
馮習が総司令だったみたいだけど、正直数万の軍隊を統率したことなんかないのでは?
漢中戦は劉備の補佐役に法正と黄権がいたからね。
その1人は既に亡く、もう1人を左遷だから大敗も仕方がないよ。
後は大した将軍はいないのだから。全体がどうなっているかも把握してなかったのだろう。
勢いに乗ってそれぞれ進撃した結果がおかしな布陣になったのさ。
陸遜が持久戦に徹した以上劉備側としても補給線の確保は必要だと思うし。
まあ結果として大敗したうえ軍の退路は塞がれて壊滅、将校レベルの人材が相次いで戦死したし
>>359の言うように魏を介入させないほど速く荊州を奪える具体的な計画があったかっていうと疑問だと思う
そうなると>>363の通り和陸が一番良いのかもしれないけどそうすると結局北伐ルートは確保できないし、
国力は減ったまま、荊州閥への影響もあるしそもそも和陸という選択肢は無かったんじゃないかと思う
こうやって考えてみるとやっぱり荊州失落は相当デカかったんだなあ・・・って思う
ぐらいしか分からん
天下三分は荊州・益州の二正面ラインがあって初めて成立して
益州一国じゃ話にならないのは孔明が証明してるし
あのタイミングで動いたのは魏は曹操の後継云々・呉は呂蒙の死で蜀が多少弱っても攻めこむ余裕は無いからか?
結局劉備の最終的な戦略が分からないから推論の域を出ない
結果だけ見るなら、、、馬良の代わりに馬謖が死ねば良かったのに
蜀の国是としては親呉だが、それを壊してでも奪回したかったのだろう。
憶測を追加するなら、大器の将帥の不足する蜀にとって
劉備存命中に可能なだけの勢力伸張を図る必要に迫られていたのかも知れない。
事実、劉備の死後、蜀は結局拡大できず滅亡してる。
故地荊州の奪還を望む声は、かなり大きかったんじゃないかな。
主力となった、馮習、張南、傅ユウ、輔匡あたりは荊州人だし。
彼等は故地奪還という目標もあり、戦意が高かったんじゃないかな?
逆に、反対した趙雲、秦ミツは非荊州人。
荊州出身者で、反対した記述が残る人って他にいた?
そこから得ていた収入とかも益州だけで補わなきゃならんかったのでは?
蜀将としては作戦としては反対だが荊州人としては奪回してほしい気持ちもあったのかな
俺なんかはまだ統治の終わってないうちに取り返す絶好の機会だったと思うんだけど
それに黄権は作戦を俯瞰的にみてかなり責任の重い任務にあたっており、
これを左遷というのは当たってないと思うよ。
本当なら諸葛亮が荊州に残るべきだったんだろうけど、手に入れて数年の
益州を安定させるには諸葛亮の政治能力が必要だったんだろうな。
関羽は単なる勇将だからな。
地方を任せる将になるとどれだけ劉備に尽くしてきたかというのも重要だと思う
関羽>張飛>ビジクら譜代>法正や孔明などの信用されてる新参>その他新参
ぐらいだったんじゃないかな
ただの勇将は言いすぎ
ビボウシジンへの罰はむしろむしろ甘いほうだろうし
劉備は孫権と関羽のやり取りはしってたのか
政治的能力がなさすぎた
妹と劉備が破談となったから今度は関羽殿の娘とワシの息子を結婚させましょうとか無茶にも程がある。
諸葛瑾が荊州問題関係の使者として派遣されたとき、
荊州素通りして成都いったことからして
関羽に外交の権限があったとも思えない。
だから関羽としては主君の劉備の裁可なくしては荊州問題に関しては否と言わざるを得ない。
また劉備にしても荊州を返すつもりなど毛頭なかったしね。
そもそも呂蒙や魯粛死後の孫権の対劉備強硬姿勢は、
外交における関羽の態度が気に食わなかった、
というより呉の戦略によるものだったと思う。
荊州失陥にしたって、これはそもそも呂蒙の権謀術数と電撃作戦が神懸かっていた、と呂蒙を評価すべきで
関羽に責任があるとすればどうにも人心掌握仕切れていなかったことくらい(にしたって、「関羽からの兵糧輸送要請」に対する
麋芳や士仁の態度・対応はよろしくなかったと思うが。)
相手がた重要人物に高い官職を与えたり、縁談進めて君主との分断工作を図るというやり口。
関羽は良い意味で馬鹿(兄者一筋)なので引っかからなかったけど。
もしもそうなら誰が荊州担当しても結果は同じじゃないかな
孫権は荊州取る気満々なんだからさ
後方支援の人間と不和で裏切りそうな人を増やしたこと、呉の孫権との
友好関係という外交を考えなかったこと。守備が堅く頑強に抵抗したら
呉の手に落ちることはなかぅった思われる。
その場合、荊州から北上して天下を伺うのは困難になる。
しかし、涼州を伺う劉備の動きを考えれば、一度退いても良かったのかもしれない。
人事に関しては陳寿の言葉が至言。
呉との外交に関しては端っから罠なのでコレは仕方が無いと思われる。
史書には書かれてないが、もっと複雑な事情があるんじゃないか。
たとえば荊州の土着勢力を代弁してたとかさ。
夷陵にしてもそうなんだが、麋芳・士仁・張南・馮習あたりは
他の誰か(劉備とか関羽とか)の過失を全部おっかぶせられてるような気がするね。
その証拠に呉側の記録じゃ潘濬は賢者だし、士仁も好漢のように書かれてる。
輔臣賛じゃめったくそだよな。
麋芳・士仁は呉側の記述でも「説得されて降伏した」程度の存在でしかないし、
士仁も涙を流して降伏してるって程度で、そもそも好漢エピソードかどうか疑問だ、
場合によっては内通してたっていう記述もあるし。
潘濬は確かに輔臣賛では言われ過ぎだが、それ以外では記述は無く
特に過失を負わされてる訳じゃ無い。
張南・馮習は呉側でも殆ど記述無く、擁護もされてない。
また蜀書とは反対に、呉で活躍した潘濬は呉書では良く書かれるのは当たり前だし
投降者も多少は良く書かれるだろうに、それでも別に良くは書かれていない訳だから、
>もっと複雑な事情があるんじゃないか。 たとえば荊州の土着勢力を代弁してたとかさ。
とか
>他の誰か(劉備とか関羽とか)の過失を全部おっかぶせられてるような気がするね。
とか言う証拠というのは弱いんじゃない?
馮習は「季漢輔臣賛」で敵を軽んじたみたなこと書かれていたな。
諸軍を統率していた立場を考えると、蜀軍全体が呉を侮っていた感じはするな。
それと、麋芳・士仁は単身赴任でなければ、荊州が呉の領土になれば少なくとも
自分の直系の家族は助かる。裏切り者はあんまり親戚のことは考えないよ。呉にして
みれば戦闘することなく降伏してくれたらいい人だよね。呉にとっては。
文は前後してるけど、ここで言ってるのは輔臣賛の記述が疑わしいことについて。
輔臣賛は潘濬を極悪非道の裏切り者扱いしているけど、
呉書では進退窮まってやむをえず降服したことになってる。
泣く泣く投降したという点では士仁やカク普も同じだよな。
もちろん呉書の記述も当人を美化していてそのままには受け取れないんだが、
それにしても輔臣賛が物事の一側面しか語ってないことは明らか。
で、輔臣賛では語られなかった、もう一方の側面に、
なにか重要な事実があるんじゃないかと思うわけ。それが何かは分からないけどね。
たとえ話として関羽や劉備の敗戦責任が、彼らに転嫁されている可能性も十分にありうる。
それはともかく、輔臣賛やその注では関羽との不仲で寝返ったことになっていて、
やはり事実の重要な一側面をざっくり切りおとしていることは否定できないよ。
だって関羽よりずる賢こそうだもん。
士仁とか言われてる通りの糞だろ
降伏してからまずまず慎ましくやったというだけ
言われてる通りの糞だという確信はなにを根拠にしてるんでしょ?
史料に書かれた内容を無視することと、史料の真実性に留保することを同列にしてはならんよ。
>>382
裏切りをしていないとは言っていないんだけどね。
おれが言っているのは裏切りの背景に留意すべきだということ。
少なくとも並べた時にどちらか一方を正統とできる様な資料じゃないと思う。
涙流そうと裏切りは裏切り。それ以上でも以下でもない
そもそも資料がすくねぇんですよ。
蜀の人物は。
何か勘違いしてるだろ
楊戯の季漢輔臣賛はあくまでも賛でしかなく、
季漢輔臣賛で初めて紹介されている人物についても賛しか著してない。
費観とか王謀らの賛以外の記述は陳寿が著したもの、楊戯の季漢輔臣賛じゃない。
そのことは「戯は延煕四年に季漢輔臣賛を著した~云々」
と、ちゃんと楊戯伝に説明されてるだろう。
そりゃ陳寿の著した部分と呉書は同程度の価値があると見ていいが、
季漢輔臣賛と呉書が同程度の価値なわけない。
そういう意味か。そちらの言い分が正しいです。
さほどに駄目な人物ではなかったと思われます。
というより、包囲されてやむなく降伏したというのが真相でしょうね。
荊州人士の意向として「戦乱は回避したい」というものがあって
それを無視できなくなって降伏したとも考えられます。
荊州地内には蜀要人の家族なども在住していたでしょうし
その人々の安全を確保しなければならないなどの事情もあったのでは?
これなら蓋然性もあると考えますがいかがでしょう?
>というより、包囲されてやむなく降伏したというのが真相でしょうね。
というのは飛躍しすぎだと思います、呉書の注釈部分や蜀書はどうなるのかと。
また荊州人士の意向を汲み取ったという~という部分は想像の範囲内でしかなく、
悪く言えば糜芳や士仁を擁護するための想像の部分が多すぎて、あまり賛成は出来ませんし
さほど蓋然性は無いと思います。
糜芳は糜竺の実弟だし、士仁も
「傅」士仁と呼ばれるように劉禅の
教育係だったから、劉備の信頼度は
決して低くなかったはず。
士仁は劉禅の教育係だったけ?
じゃあお前は信用してない人間に重要な拠点を任せるんだな?
連中もそれなりに劉備に信用される理由を持っていた。
ただ劉備は麋芳を好んでいなかったし、彼の起用が実力者を妥当な
配置に置いた、劉備が常にそういう起用が出来ているというわけでもない。
二人ともかなり劉備とはかなり付き合いが長い(これが理由か)みたいだが
記録から能力まではわからない。潘濬はともかく。
関羽は呉人を田舎者を侮蔑していたが劉備も似た感覚を呉人にもってたの
かもな。まぁ関羽置いてあとあいつら付き合い長いし大丈夫だろ~
呉人なんて田舎者、適当にあしらってまた漁夫の利をとかそういうノリ
じゃねーかな。 多少舐めてた感はありそうだ。
呉側もそれは分かってて、演義のように計画的に引き摺り込んだ訳ではない。
季漢輔臣賛を賛える。
厨房の家出とは訳が違うんだぞ。
関羽と余程不仲で身の危険を感じていたのか、積年の不満が爆発したのか?
魏の于禁も予想外にあっさり関羽に降伏してるから人間どこでどうなるかはわからない。
人間の行動なんてその時にならないとどうするかは解らないのだろう。
それが命にかかわる事態なら尚更なんだろうな。
徐州の陶謙が魏側の記録では悪人として、
呉蜀側の記録では善人として書かれたのと同様、
政治的な事情で、呉蜀間において扱いが若干違う。
ただ陶謙の場合は、魏呉と関係しないところで言動や行動がみられるから、
そこからある程度人物の「核」となる像は想像出来るけどね。
劉備からは疎まれぎみ、関羽とは上手くいかなかった。
武よりの人間だった。
北方では一定の評価は得ていた。
なんやかんやで富貴な生活を捨て劉備最低時代をも見捨てず苦労を
共にした。
呂蒙に降伏した。守備連中は概ね防衛意識が低く下るものが多
く関羽のため援軍の見込みが厳しく勝率は0%であった。
虞翻にゴミ扱いされて自ら恥じた。
虞翻は于禁含め、降伏したヤツは糞扱いなので麋芳だけではない。
基本的に、儒教観念含め降伏して直系の祭祀を残すこと、
無益な戦火を広げることは悪とは見なされない。
篭城てのは援軍の見込みがあって初めて成立する。あの状況だと
文字通り戦火を広げる足掻きにしかならない。
麋芳は糞のような男でもなくごく一般的な一武将だったんだろ。
あの麋芳の状況で降伏は不自然でもなんでもない。
コレはどうみても麋芳と士仁のことだろ・・・
もしそれが下は兵卒から上は支配階級の官僚・士大夫まで
蔓延していた空気だったのならその責任は守将にあるだろ
うはwwwwww敵が攻めてきたWwwwちょみんなヤル気ねwwwwwおk降伏www
↑こんなのが通るわけがないw
普段から軍規を正して士気を維持するのが将たるものの役目
自分の身を危うくして孫権と通じる訳だから、救いようが無い。
季漢輔臣賛に添えられた陳寿の記述もそんなスタンス。
さらに呉書の注釈を信じるなら南郡での失火とミスを犯して、
そこを責められて逆恨みしてるのだからさらに救いようが無い。
ただ呉書の他の部分のスタンス自体は単に降伏したって程度の記述に留まっており、
別に善人でも悪人でも無い風に書かれてるな、ただ虞翻伝を見ると器は小さそう。
けど実際の麋芳はどうだったんだろうね、個人的な感想を言えば苦労の割には報われてない感じはする。
劉備の親戚としての地位は元々微妙だったのに劉備が呉壱の妹を娶ってるせいでさらに微妙になってるし、
兄の麋竺が劉備の側元で諸葛亮より上の待遇を受けてるのに、麋芳は要衝の太守とはいえ
前線で特に位も与えられず、ソリの合わない関羽の下に配置されてるってのは結構な差だと思う。
故郷と立場を捨て、曹操に与えられた地位さえも省みず
必死に劉備に付いて行ったという苦労を思えば、麋芳は自分の立場に不満だったのかもね。
それはあるかもね。
兄をはじめ、孫乾や簡雍など同僚が栄達していく中
自分は荊州で留守番のまま爵位も上がらなかったとすれば
今までの忠勤に虚しさを感じるのも無理ないだろう。
しかも直属の上司とソリが合わないとくれば
現れた呉軍に下って新たな人生を拓こうと考える事もある。
破竹の勢いで拡大していった劉備軍の、組織としては小さな綻びが
大きな波紋を広げるきっかけとなったのだろう。
正史において、関羽は劉備に兄事したが、外では上下の区別をはっきりつけていた。とあるし。
席次でいえば外戚の麋芳とは同格か、劉備の部下である関羽の方が下だったはず。
そういう状態だった物が、麋夫人が死んだ事で解消され、後に公的にも関羽の下につく事になる。
また穆夫人を迎えた事で、今度は完全に家臣団の一人として組み込まれる。
関羽は関羽で完全に上司風吹かせて、命令不服従を理由に「帰ってきたら殺してやる」と捨て台詞を残して出征。
当時、麋芳がおかれた立ち位置って余りに微妙だよね…
せっかく得た荊州という新しい基盤で結構な地位に就くも、
やがて古参ヒゲヤクザの台頭とその傲慢により、波乱万丈の人生に栄光と没落の転機が訪れる…
「ビホー&あたふたー」って感じだ
兄貴が財産を放棄したせいで、なし崩し的に劉備軍に加わっていたとするなら、かなり悲惨だなw
さぁ、自首しようか
( ´駄`)<鄧良は鄧家の棟梁、ナンチテ
(:;@梵@;:)<羅憲の裏拳、フヒヒ
>>417
>>417
劉備の皇帝即位に伴い侍中になったんでしょ。
侍中に任命された後にやった事と言えば職務とは全く無関係の異民族扇動だし。
軍事的才能は全くの未知数だし、政務に関しても詳細不明。
ただ孔明が敬服するだけの文章・弁舌の巧みさはあったようだ。
馬氏の五常の残りカスは詳細不明。
多分、馬謖未満だったんだろう。
司馬八達も司馬朗・司馬懿・司馬孚ぐらいしか知られてないしね。
現代日本でいうなら石原家みたいなもんか
最近政界進出した三男と絵描きの四男はあまり知名度無いな
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1190128235/
でもそういう目立たないけど堅実な官僚タイプは一番必要な人材だよ。
一番重要なのは丞相だろうな
4
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1191932873/
【民営化】造幣局・印刷局など、独立行政法人20以上を民営化へ:政府方針 [07/10/07]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1191727281/
政府は6日、現在進めている独立行政法人(独法)の整理合理化に関連し、
101ある独法のうち、予算に占める国からの財政支出の割合(財政依存度)が低い
20法人以上の民営化を目指す方針を固めた。
2007年末に整理合理化計画を策定し、閣議決定する予定だ。
民営化の対象には、造幣局や国立印刷局、日本万国博覧会記念機構などがあがっている。
今後、独法の民営化推進を目指す渡辺行政改革相らの方針に対し、
事業の公共性の高さなどを主張する関係省庁の巻き返しが本格化しそうだ。
貨幣や紙幣を造る造幣局や国立印刷局については、機密性の保持なども絡み、
是非をめぐって様々な意見が出そうだ。
どのくらい出世したんだろうな
・建国の功臣の嫡子
・実戦経験あり
・すでに成年
おそらく要地の督ぐらいにはなっていただろうな。
実際人形劇三国志でも関羽戦死後もそういう役割で出ていたような
関興とか人形いちいち作ってらんねーよって気持ちも分かるけど、
そういう事情で死ねない関平が気の毒だったよあれは
魏延の言ってる『子午谷から長安に抜けるルートで攻める』ってのは実際どうなんだろう?
孔明は負けるのを恐れてその作戦は取らなかったが・・・
当時は警戒してなかったから長安を落とせたかもしれない
長安が落ちると魏も大部隊を派遣する
蜀が決戦で破ればいいが、長期戦になるとジリ貧で補給不足になる
魏は優れた人材がいるので決戦で勝てる可能性は少ない、たぶん失敗するだろう
反三国志こと超三国志では演義子午道は後方の問題があったから採用されなかったとしており
超三国志世界では後方の上庸及び荊州を抑えてありかつ蜀が優勢であったため採用されている
子午道攻撃は優勢であるなら可能な博打というところか
考え方はいいと思うんだけど
必ずしも正解の用意されている問いとは限らないからね
どちらも失敗するなら、より被害の少ないほうを選ぶでしょ
蜀存続の前提があるなら、北伐しないという選択肢は実質無かったわけだし
国力と兵站で大きく劣る蜀が正面から準備万端の魏にぶつかるなんて、
どう考えても最初から勝ち目が無いと思うんだが。
万が一にでも長安を落とせれば魏国内の動揺は関羽の北上どころでは無いだろうし、
呉も漁夫の利を得ようと兵を出すと思う。
蜀での派閥の維持だけでなく本気で魏討伐の志があるんなら、
多少とはいえ可能性のある積極策に出たんじゃないかな。
実際は周囲の批判をよそに馬謖を起用して派閥強化に努めた訳だが(ただし失敗)。
やはり、夷陵の戦いがネックだったのかもしれぬ。水路は蜀にとって鬼門か。
呉も漁夫の利を得ようと兵を出すと思う。
確かに動揺は酷いだろうが、それで魏が崩壊するほどもろい組織とも思えない
呉は、漁夫の利的に様子見しながら積極的には動かないだろう
反旗は異民族のこと?
積極的に裏切る奴は、当時の魏には
あまりいないと思うけど
ただ、それでも敗北の上重要拠点、または主力部隊を立て続けに失うとなると一気に内部崩壊する危険が高くなる
たった一度の敗戦が契機になって、崩壊してしまった大国も珍しくないけどね。
袁家なんてまさにそうじゃん。
豪族などが相次いで離反して、ひどいときには連鎖反応みたいになったり、
有力家臣が寝返り、もしくは独立なんてのも珍しくないわな。
その一戦で主君が死亡、もしくは指導力が落ちて、回復しないままに、
死亡とかなって、後継者争いが勃発ってのもよくあるケース。
魏だと、司馬家によるクーデターが上手く成功せず、内乱状態になることもあるだろうし、
夏侯家が独立することだって考えられる。
魏はそこまで磐石な国家ではない。
つかそこまで磐石な国家だったら、司馬家のクーデターがあっさり成功するわけないだろ。
そしてその晋の無残な崩壊をみれば、ちょっとしたことで国家が崩壊することがわかるはずだよ。
征>鎮が普通。
おそらく趙雲の「征南」→「鎮東」が念頭にあるのかもしれないが。
>>475
ボスが倒れるかどうかというのは大きいと思う。
司馬家のクーデタがあっさり成功ってあんた
司馬懿と司馬師・司馬昭と傑物が何代も続いてようやく司馬炎の時代で奪取出来たというのに
しかもその間、曹爽やカン丘倹・諸葛誕のような反司馬勢力の抵抗は何度もあるわけで、
全て鎮圧出来たにせよ途中で頓挫していた可能性は充分にあった
魏は確かに磐石な組織とは言えないけれど、対外的脅威と対内的脅威では訳が違うしな
そもそも魏と蜀・呉は力関係において覆しようもない差があるわけで、
よほど自身が不利な状況に追い込まれない限り、わざわざ離反する人間は居ないでしょ
そのとおり、途中で頓挫して内乱になった可能性は高い。
そのときに分裂して、呉蜀がそれに介入することもあるわな。
>よほど自身が不利な状況に追い込まれない限り、わざわざ離反する人間は居ないでしょ
それがおこるのが、内乱や派閥争い。
あの強大な袁家が崩壊したのがそれ。
当時の袁家と曹家の戦力差は何倍もあったが、
それでも曹家に寝返った人もおり、
その人によって、戦況が覆ったこともあった。
「涼州を取れば関羽を回すので荊州を返す」
これは絵空事じゃなくて実際に劉備の構想にあったハズ。
孔明の北伐にロウ西諸郡がただちに呼応したのは、
事前に調略などの下準備がなされていたから。
それが極めて極秘に行われていたため魏は後手を踏んだワケだ。
第二次以降北伐で靡く城が少なかったのはそれらの段取りがなされてなかったから。
つまり、最初の北伐こそまさに乾坤一擲の作戦なワケで
それに馬謖を起用したのにも理由があるハズ。
もしかしたら、魏延は漢中督として涼州調略の責任者だったのかも。
ゆえに街亭防衛より鎮西の任務があったため起用できなかったのかも。
そして馬謖は対魏戦の研究参謀だったのかも。つまり対魏戦のプロ。
史書に記録されてない隠された要素を妄想するのは楽しいね。
……張魯攻めてる最中に曹操とバッティングしてアボーンだろうな。
後漢代の四川省に製鉄所、「蜀」建国の理由に迫る発見か
中国・四川省の古石山(こせきさん)遺跡で、愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センターと
成都市文物考古研究所などの日中調査隊が、後漢代(1世紀ごろ)の製鉄遺跡を発見した。
中国の中心部である中原(ちゅうげん)以外で、漢代の製鉄跡が見つかったのは初めてで、
221年に劉備が、この地域に三国時代の「蜀(しょく)」を建国した理由を解明する上でも
重要な発見として注目される。同大で27日午後に報告される。
秦の始皇帝(在位・紀元前221~210年)が現在の四川省に鉄生産の役所を置いたとの
記録があることから、調査隊は同省内で昨年から発掘調査を行ってきた。その結果、
今年6月に、成都市蒲江(ほこう)県の古石山遺跡から、高さ1・5メートル、幅最大1メートルの
レンガ造りの製鉄炉の跡が出土した。炉は4メートルほどの高さがあったと推定され、
日本では幕末から明治にかけての製鉄炉と同じ規模という。
調査に携わった村上恭通・愛媛大教授(考古学)は「諸葛孔明や劉備たちは
山間部の蜀に追い込まれたというよりも、鉄を得るために
積極的に入っていた可能性がある」と推測している。
尊敬した。
ワrpスwwwww
なんという・・・・
魏から蜀への鍾会らの侵攻は征西でよろしいのでしょうか?
鍾会は鎮西、鄧艾は征西になってるし
荊州方面の曹仁は征南将軍。
三国官職表によると、
・征東=青州、兗州、徐州、揚州。
・征南=荊州、豫州。
・征西=雍州、涼州。
・征北=幽州、冀州、幷州。
なんか征南が征東の範囲をぶった切ってるような気がするが……
徐州と揚州が繋がってるでしょ
繋がってるっちゃあ繋がってるけど、揚州なら征東より征南の方が自然な気がするのは否めなくない?
・征南=対江陵軍閥
・征西=対成都軍閥
・征北=対鮮卑
だからおk
征南一人に兵力を集中してしまうと危険。
蜀や魏では異なるの?
高句麗遠征の失敗が原因で崩壊したといわれているし、
戦争の負けで、皇帝の求心力が低下して、
造反が起こるってのはよくある。
関羽が北上しただけで、
同調して反乱をおこした郡や県が結構あったんだから、
まだ若い皇帝に代わったばかりのときに、長安が陥落していたら、
結構大騒動だと思うぞ。
少々戦で負けても、求心力を維持していた
曹操や劉備が異常なだけ。
の上島竜兵の役を
曹操や劉備は担ってたわけです
関羽の北上もそうだが、全部蜀が勝つ前提でないと成立しないのが大国との戦
それにはどういった理由があったんでしょう?
魏の中央で権力闘争に敗れる羽目になったり上司に睨まれたりで居場所がなくなりやむなく逃げてきた亡命軍人が多い。
前者が夏候覇で後者が姜維、王平など
> 魏の中央で権力闘争に敗れる羽目になったり
前者がこれ↑で
> 上司に睨まれたりで居場所がなくなりやむなく逃げてきた亡命軍人が多い。
後者がこれ↑か?
なんかわかりづらいぞ。
で、王平は219年の劉備と曹操の漢中争奪戦の際、曹操に従軍してきたが劉備に降伏。
姜維はともかく王平はその例には当てはまらんだろ?
演義の話をしてるのであれば別に構わんけどね。
ヽ 、i`─ ‘´ ___ | ll ⌒; j 、 ヽ
\ヽ r,ニ、‐‐’‐’ u .l ll ‘_ノ 、 ヽ
` \”\):、 | l| `、 ヽ 、 ヽ
ヽ ゞ’^ ! ll `、 ヽ 、 ヽ
丿 .:::. | l| \ ヽ、 、 ヽ
丶、_ | l|/lヽ `>=‐- ミヽ `、
`⌒ヽ_ | l| | ハ /´ `ヽ 、
チュパ / /. `´| l| | l / 〃 `、 、
チュパ / / | l| | l’ 〃
このレスを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
荊州を脱出し成都に籠もりました。
しかし、益州一国でくすぶってる様な私達ではありません。
蜀の桟道さえ通れば補給しだいで北伐する悲壮な決意。
不可能を可能にし、巨大な曹魏を粉砕する、私達北伐四相Aチーム。
私は丞相、諸葛亮。字は孔明。
八陣戦法と内政の大家。
私の様な細かい性格でなければ、将兵達の心を掴むことはできません。
某は蒋エン、字は公エン。通称昼行灯。
自慢の冷静さで、文官は皆落ち着きを取り戻します。
一命にかけて、補給物資から川下りの為の船まで、何でも揃えてみせます。
ヒック、お待ちドウ~。
俺様こそ費イ、字は文偉、通称趣味の達人だ。
内政、外交の腕前は天下一品!
曹爽? 孫権? だから何?
董允、字は休紹、皇帝の諌言役です!
黄垢だって讒言してみせます。
でも費文偉殿だけには及びません…。
私達は、曹魏の支配する長安にあえて挑戦する、
出師の表、神算鬼謀の蜀漢の野望、中原回復!
いまこそ北伐を行う好機、陛下、なにとぞご決断の程を。
同じ荊州出身でも入蜀の経緯は違うじゃん
何の話?
そんなことあったっけ?
いわゆる蛮族の頭目の話?あれらは魏に帰順してたっけ?
なら王平はどうなんだろう?
史伝の魏延なら大好きだが、こっちは馬岱関係ないしな
つか史実だと魏延は馬岱に斬られてるんだけどそれを関係ないって言っちゃうのはどうか。
あれ、そうだった。重ね重ねすまん。
「こいつは謀反の相が出ている。今のうちに殺せ」
ヒドスグル
(蜀科の緩和の献策や北伐の献策は却下したが)『大義、親を滅す』という人だから。
蒋エンも個人的な好き嫌いで人を罰したりはしなかったな。
楊儀はひどかったけど…。
費イが上手く魏延と楊儀の間をとりもっていたが、諸葛亮の死で崩れた。
魏延、楊儀、法正は、人格に問題はあったが、優秀なのは間違いないんだよな…。
少なくともそういう姿勢を裏表なく示すのでなければ
それでも街亭戦での馬謖の起用はちょっと贔屓目とも見れるけど
ただ、あの当時一口に『軍師』とは言うけど、
専従の参謀を重用した人間は曹操くらいしかいない。
他の有力な軍師的助言をしたとされる者は、
みんな軍指揮官か行政官の地位にある。
馬謖を重用するのであれば指揮官としての箔をつける
必要があり、そのための強行だったんじゃないかと思っている。
夏侯家並に信頼できる親族が劉備にいたら、とは思う
これに尽きるからな
人的要因で勝ちたいなら魏の有名な名将は全員蜀にいるぐらいの差じゃないと無理だろう
蜀とはさほど変わらんと思うけどね。
魏に関していえば寧ろ、あれだけの兵力さがありながら
度々、南方併呑に失敗したのは実は
単に兵士数が多いだけの国というのを
ありありと証明してしまったのではないかと。
あれだけ土地がデカくてもインフラのほとんどがぶっ壊れてれば遠征は難しくなる。
結局のところあの時代の魏の攻勢限界はあれで精一杯だったということじゃないだろうか?
結局曹操の代で統一出来なかったのが失点の一。
曹ヒ、曹叡が余りにも早く死んだのが失点の二。
曹叡の後継者がろくでもないのだったのが失点の三。
未統一の状態でこれだけ失点が重なると指揮権を掌握した司馬氏のクーデタが成功するのも無理はない。
国力が高い=人口が多いって言う時代なわけで、
金銭、物資の両面で、収入がでかい分、支出もでかかったんだろうな。
どっかのスレで魏の鉄は質が低いって見た気がするけど、
鉄の精錬に使う燃料の十分な確保が出来なかったのも一因だろうし。
失点の2は別個の問題を一まとめにしてるぞ
文帝と明帝の死はかなり異質
特に明帝の代で対蜀や対燕で司馬氏の権限を滅茶苦茶な強化しちゃった挙句に
それを段階的に取り除く事せずに急死しちゃってるからな
ここかなり重要なポイントだぞ
人材の質的にはそれほど差が無かったとしても、組織力や法整備が進んでいれば
勝つべくして勝つことが出来る。人材にも量的な厚みが加わるし。
が、官の戸籍に入っているのが全人口の数分の一という時代だからなあ
結局のところ三国・晋代では後漢末からの長期動乱から立ち直れなかった。
遠征するには国力が足りず、守る方は豪族さえ懐けている状態なら地の利を計れる。
長期統一には隋唐まで待たなければならないのも止むを得ない時代だ。
魏に孫皓のようなダメ君主が出て次々と名将を殺してくれて蜀が長安と涼州を取れてれば勝てたかもな
北周と北斉も軍事力は北斉のほうが高かったみたいだし
蜀将討議スレッド18
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1197891412/
後は速やかに降伏するしか無いからです。
誰も来ないねwww
こうでつか!わかりません!
こうでつね!わかりました!
してしまったんだね・・・・
そうでもない
曹爽とかがちゃんと藩屏として働いてて司馬氏から軍権はちゃんと剥奪してる
ただ問題だったのが、国内の一番強い奴を倒したら倒した奴が一番強いままだったんだな
剥奪した権限が一極集中したまんまだったから、曹爽にクーデターを起こして司馬氏が権限を奪いなおした
政敵なし権限あり、じゃもう簒奪は思いのままだわ
言った魏延の後を継いだ王平が、曹爽らの率いる10万の軍勢を防ぎ止めたという事が面白いと思っています。
曹爽ってその時の外征が遠因になってクーデターの口実にされたなら
呑み込んでやったと言ってもいいのかなあ?
まあそういう風にみると、
司馬懿の大出世のキッカケつくってやった諸葛亮も魏衰亡の原因の一つかもしれんな
必要なかった?
史書に記されていない所で
軍事行動の経験を積んでいたのでしょうか?
いまの自衛隊の統合幕僚長に実戦経験があると思う?
とりあえず大司馬の前に兵站の仕事はしたよな
蜀は文人主導の軍政国家みたいなところだから、
費イまではトップは直接軍権を掌握する慣習になっていたんじゃないかな。
丞相では権力が集中しすぎるから大司馬・大将軍でこれに代える。
行政のトップは尚書令だとすれば、漢の官制と比べてかなり簡略化されている
(九卿はちゃんと設置されていたのだろうか?)
名前の残っていない高官がどれだけいたのかわからないけど、
名のある高官は皆将軍位を持っているよね。
これから侵攻するぞ!って準備してる途中で死んだって事なのかな。
蔣琬
234年、諸葛亮が没すると尚書令に任命される。まもなく行都護・仮節を加えられ益州刺史を兼任し、大将軍・録尚書事に昇進し安陽の亭侯に封じられた。
(亮卒、以琬為尚書令、俄而加行都護・仮節、領益州刺史、遷大将軍、録尚書事、封安陽亭侯。【蔣琬伝】)
239年、大司馬に昇進。
244年、漢水下りを計画するも多くの人に反対された。病を得たこともあり涪まで引く。
246年、病死。
だからちょっと違う。
ネット工作会社がスレ荒らしをしてスレが機能停止します。
↓↓工作員の荒らしのやり方↓↓
2008/01/10(木)ID:iA54n BU50
■■■■マルハン総合スレッド 9■■■■http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/118702←右左くっけて→1165/783-784
【宮崎県都城市】パチ事情その②http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/11871←右左くっけて→89246/658-659
【山と川】宮崎県児湯付近PART1【自然イパーイ】http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/118←右左くっけて→8235164/471-472
【基地外が大暴れ4】エスパス日拓総合スレ【18発目】http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/11888←右左くっけて→85488/401-410
2008/01/13(日)ID:1HLcWz UK0
【基地外が大暴れ4】エスパス日拓総合スレ【18発目】http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/118←右左くっけて→8885488/461-462
■■■■マルハン総合スレッド 9■■■■http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1187←右左くっけて→021165/809-810
【香川】パーラーグランドのスレ2【徳島】http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1188←右左くっけて→315438/324
【延岡】宮崎県北情報PART3【日向】http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1196←右左くっけて→865970/186
パチンコ産業は荒らすことでレスとレスの間を空けて読む気をなくさせたり
マネーロンダリング、さくら、ホルコン、遠隔、などの風評被害を最小限に抑えようとしてる。
新スレ→○○○マルハンパチンコタワー渋谷パート10○○○
★★★★★このスレの解説★★★★★を読んでみるとよく判る。
http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1201←右左くっけて→304777/52-54
ネット工作員については→【電通TBS】ピットクルー(株)【プロ工作員】
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/mass/1189187503/65
鄧艾・姜維なら、関羽・超雲くらいの活躍できたかもな。
ところで、曹操の夢の三匹の馬って・・・司馬親子?それとも師・昭・炎?
鄧艾・姜維は関羽・超雲より上ですが
北伐を成功させることは難しいです。
懿・師・昭です。
その二人以上の活躍は既にしてるような、少なくとも趙雲よりは
司馬懿自体は政争下手の愚直な軍人でしかない。
幽明録曰:魏武帝猜忌晉宣帝子非曹氏純臣,又嘗夢三匹馬在一槽中共食,意尤憎之。
因召文明二帝告以所見,并云:防理自多,無為横慮。帝然之。
後果害族移器,悉如夢焉。
夢ってのは未来を告げるもんだと思うが。
>>564
名50音順の法則。
>>565
姓50音順の法則。
関羽>>>黄忠>馬超>鄧艾>姜維
黄忠、趙雲は張飛、関羽、馬超の三人と比べりゃ格としては落ちるだろ
蜀に入ってからは目立った功績なし。
蜀将としては黄忠以下でもいいかも。
日本ハム時代の落合みたいなもんか。
その主君の格を更に高めることになるからな。
曹操にとっての張繍≒劉備にとっての馬超、かな。
涼州つったって馬超は扶風周辺から西はほとんど行った事ないはずだが
キ城辺りがかろうじて馬超の移動した中で涼州に掛かってる場所で
それでどうやって涼州で影響力があると言えるんだ?
地図見てないからよくわからんが、本籍はお祖父さんの出身地をそのまま
書いているはず。
それにヨウ州が置かれたのは魏になってからで、安定なんかは当時は涼州
だった。
一応書いておく。わかっていることだったらごめん。
地図見てくれ
扶風は長安周辺に含まれて後漢だと司隷
というか涼州の辺りは後漢と魏ではそんなに変わらない
長安含む魏の雍州は後漢の涼州の一部と司隷の西側なんだ
んで馬超の活動領域は司隷と涼州の東側の極一部
うまみはあるんじゃないだろうか。
無駄玉つかったりすると・・・
>『呉下の阿蒙』呂蒙子明
>・・・呉の武将の中でも一、二を争う猛将であったが、
>教養は全くといってよいほど無かたため。
呉下の阿蒙は別名でも呼び名でもないだろw
これだな
信じる奴の自己責任ということでヤボな突っ込みはするまい
この策を行っていたら、北伐は成功していただろうか?
中国の歴史家は5分5分といっているようだが、どうであろう?
シバイは追放され、カコウモウという実戦経験のない貴族が相手なら
できなくはないと、俺は見るが。長安を占領してしまえば、涼州は孤立し、
攻め落としやすくなる。
> 北伐の際、魏延の子午谷を経由して一気に長安を攻め落とす策は愚策か?
> この策を行っていたら、北伐は成功していただろうか?
> 中国の歴史家は5分5分といっているようだが、どうであろう?
司馬懿も演義では
「諸葛亮が五丈原に来てくれればありがたいが、急襲策を取られると危険」
と言っている。
実際には対呉戦線に出ていました
歴史家とか言ってるんだから
で実際無理でしょ
後世の人間が考えるに、成功させるのは難しいとは言えるな
前漢は漢中の勢力であって四川の勢力じゃないだろ
まあ四川も持ってたようだけど
韓信の成功は特異な例だし、魏延も韓信のマネしたがったのを孔明に止められてるな
あとは楚以外、日和見だったり親漢だったりで、実質的な敵が関中の三王だけになってたのもあるだろう
全国から動員かけて長安進出を阻まれた蜀とは比べ物にならない
馬超は内乱による奇襲
体制を整えた曹操に蹂躙させられる
諸葛亮とは状況が違いすぎる
馬超の場合、支持基盤の関中を丸抱えで潼関を封鎖できたけど、
孔明はまず関中に支配を固めるところから始めなければならなかった。
>孔明はまず関中に支配を固めるところから始めなければならなかった。
こんなとこだろうな
馬超ら関西軍閥が挙兵した時は後年の諸葛亮の北伐時に較べれば
曹操の関中支配も磐石ではなかったし、雍州の諸郡も組織的な抵抗はできない
涼州に関していえば実効支配にすらいたっていない
諸葛亮が第一次の北伐で涼州の徐バクや游楚の抵抗に手を焼いたような事も
なかったわけだし
馬超も魏延も戦の駆け引きはわきまえてるだろう。郭嘉が言ってたなよな?
『兵は神速を貴ぶ』ってな。時には迅速に行動し、敵の抵抗がまとまりを
見せないうちに叩くことも必要なのだよ。強ち魏延の策は間違ってはいない。
長安を陥落させてから、守りを固め涼州を料理すればいい。
> 守りを固め
だから、そんな守りを固める余裕なんざ与えてもらえないんじゃないかと。
アホのかこーぼーとかでなくて郭淮だから、きっと漢中からの補給線を脅かされる
劉障の配下の中で、張任がもっとも有能だった。李厳が陸遜と渡り合える
なら、李厳以上の活躍はしてたかもしれない。どうよ。
張任は家柄が低いから降れない
益州入りの時期も曹操の南下時だから益州での古株でもない。
何か有能さを表すエピソードあったっけ?
まぁ一応劉備の蜀討伐戦において劉備と龐統が最もてこずったのが張任だしな
それに有能に対して何故黄権と法正を引き合いに出したのかが疑問。
黄権は内政、法正は軍略、張任は軍事
3人とも土俵違うやん
ちょっと分かりにくいが、軍略は戦闘での戦略
軍事は戦闘での指揮能力や戦術ってことね
張任と引き合いに出すなら呉懿あたりだろうな
特に記述はないが、張任がいなかったら蜀討伐に1年以上も時間を
費やすこと無かったとは思わんかね?
この辺も何で決めてかかってんのやら
蜀って皇帝の親族、血族の将軍って居ないの?
魏は曹一族、夏侯一族が有名だし、呉も結構孫家の将軍がいる。
蜀の場合、思いつくのがせいぜい呉懿くらいなんだけど。
糜竺
劉備の叔父劉子敬の子、劉展という人物の名前が華陽国志にある。
黄巾討伐の頃から各地を転戦して功あり、建興初年に没す。
官は輔国将軍・昌国亭侯に至ったという。
ルーツ君は口開くな。うぜー。
ルーツ君ってなに?
ひと言で言うと うそつき
長くなっていいから解説してくれ
wikipediaの三戦関係のページに、自分の妄想onlyが根拠の
武将のルーツを書きつらねるウザ執筆者のこと。
一般人がなかなか見れない史料名(三国志集解、華陽国志、水経注など)を持ちだして
それが出典だと言ってるが、その史料にはそんなこと一言も書いてなかったりする。
「一説には…であるとされるという。つまり…であるという見方が強いとされる」
といった気違いじみた言いまわしが特徴。
もちろん>>623みたいなことは、どこの史料にも一切書かれてない。
なんとかっていう石刻史料に劉姓の武将が何人かいたよ。
それなりの地位や権力はあっても能力と功績がなくて歴史に名を残せなかったんだろうね。
ルーツ君乙
いやいやまじでまじで。
隷釈のどっかに載ってるはず。探してみ。
隷釈の探し方も読み方も分からないんだが。
お前は知ってるんだよな?
無知な俺に教えてくれよ。
教えてくれないんなら、
口先だけのルーツ君とみなす。
…張飛は一族扱いじゃないのね
娘が皇后に取り立てられたときって張飛が死ぬ直前くらいじゃなかった?
ほとんど「一族」としての活躍はしてないんじゃね?
天狗の仕業です
たぶん隷釈だと書いてもまだダメって言われたら、もう何を書いてもダメだわw
さっき探してみたら隷釈じゃなくて隷続だったわ。
写してみた。文字化けするかも。
黄龍甘露碑
[11行闕]
[上闕1人]司徒臣[姓名闕]安漢将軍[下闕又闕5人]侍中臣[闕]立侍
中[下闕]尚書[下闕又闕4人]五官中郎将臣[姓名闕]太中大夫臣
[姓名闕]中散大夫[姓名闕]博士臣許慈議郎臣[姓名闕]議
郎臣[闕]信議郎臣[闕]光議郎臣[姓名闕又闕2字]将軍臣[姓名
闕]鎮東将軍臣劉?平西将軍劉[闕]平北将軍臣
劉[闕又闕2字]将軍臣[姓名闕又闕2字]将軍臣[姓名闕第2横並闕第3横闕
18人又闕1字]将軍臣[姓名闕又闕1字]将軍臣[姓名闕又闕1字]将軍
臣[姓名闕又闕1字]将軍臣[姓名闕又闕1字]将軍臣[姓名闕又闕10字]将
軍臣[姓名闕又闕1字]将軍臣[姓名闕又闕1字]将軍臣[姓名闕第4横闕1
2人又闕1字]将軍臣[姓名闕又闕1字]将軍臣[姓名闕又闕1字]将軍臣
[姓名闕又闕1字]将軍臣[姓名闕又闕1字]将軍臣孫[闕又闕1字]将軍
臣[闕]仁
時太守南陽李厳正方丞宋遠文奇武陽令陰化
第2碑
惟建安廿六年[闕10字]赤水甘露[闕]于県中[後闕]
(第2碑)碑陰
[上闕6人]侍中臣[闕]立侍中[下闕]尚書[下闕又闕2人]光禄大夫臣
[姓名闕又闕2人]中散大夫臣劉[闕]博士臣許慈議郎臣[姓名
闕]議郎臣[姓名闕]議郎臣孟光議郎臣[姓名闕下闕1人又闕2人]
益州前部[闕2字]臣費詩益州左部司馬臣[姓名闕]益州
右部司馬臣[姓名闕]益州[闕]部司馬臣[姓名闕]益州部蜀
郡従事史臣[姓名闕]益州部[闕2字]従事史[下闕]益州部[闕2
字]従事史[闕]義校尉臣[姓名闕]益州部巴西従事史[闕]
信校尉臣李[闕]益州部梓潼従事史忠節中郎将臣
[姓名闕]益州部??従事史臣[姓名闕]益州部永昌従事
史[闕2字]校尉臣[姓名闕]益州部[闕]山従[下闕又闕5字]従事史
臣[姓名闕又闕6字]業校尉臣[姓名闕又闕2字]中郎将臣[姓名闕又闕2
字]中郎将臣[姓名闕又闕2字]中郎将臣劉[闕又闕2字]中郎将
臣[姓名闕又闕2字]中郎将臣[姓名闕又闕2字]中郎将臣張[闕又闕2
字]中郎将臣[姓名闕又闕2字]中郎将臣[姓名闕又闕2字]中郎将
臣劉[闕又闕2字]中郎将臣[姓名闕又闕2字]中郎将臣[姓名闕又闕2
字]中郎将臣[姓名闕下闕]
劉エンね。蜀書巻10に出てくる車騎将軍の。
>益州部??従事史
ソウカ郡。朱褒がいたとこ。
おかしいと思うだろ?
マスコミの不自然な在日米軍叩き。
中国は実質内陸国家だからね。
海へ出るには沖縄が邪魔になる。
沖縄制圧最大の障害といったら何か。
そう。沖縄米軍を撤退させる必要があるんだよ。
三国志でも分かってたことだけど
官位で言うと丞相とか太傅、太尉くらいしかない。諸葛亮じゃあないよなぁ。
諸葛亮の属官だったんだろうか?前どっかで諸葛亮に任じられた、とかって見た気がするんだけど、
従事中郎が軍師将軍のだとすると中朗将とは兼任できないよね?
左将軍(劉備)の属官じゃね?
く、くさー
コテ?
どっちが優秀か
才能では姜維、人格まで含めた総合力では王平
陳到とか結構古株なのに事績がよくわからないとか寂しい
・天文の記録は史官の仕事で、蜀書に天文の記録があるから史官はいたよ説(劉知幾)
・俺たちの孔明さんはキッチリした人なのに史官を置かなかったのは忙しすぎたからだよ説(朱熹)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one;no=3171;id=
ここ見ると研究者でも「そもそも史官の仕事って何?」ていう問題からして
解決できてないみたい
後主伝に史官のことを記述してんだから、
> ・蜀に史官はいないよ説(陳寿)
はどう考えても成立しない。
一応末期の蜀漢に仕えた陳寿がそう言っている以上,
史官の有無はともかく,まともに記録が残ってなかったことは間違いないだろう。
馬良にしろ李邵にしろ文官としか思えない経歴だから,
姜維も文官としか思っていなかったのではないか。
たまたま武将として大成してしまっただけで。
田浦本部横須賀桜山支部の高橋裕之氏が年末ジャンボで6億円当たるようにまた女子部と結婚成就と障害者年金1級受給と健康とご長寿と貯金残高10億円を15分でよいので高橋裕之氏に題目を送って行こうではありませんか!
脇役でしかないけどな。
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晋出仕後の後輩推薦も,予定調査に過ぎなかっただけでなく,
相手の記録にも全く残っていないという有様。
羅憲を落とすと、呉も落ちるからやめて・・・
糜芳子方
兄の糜竺とともに陶謙に仕えていたが、後に劉備に仕えるようになる。
劉備が弱小勢力だった頃から支えてきた忠臣であり、曹操から相に任ぜられても劉備に付き従った。
劉備が入蜀後は、その防衛手腕を見込まれて南郡太守に抜擢され、関羽の補佐にも当たっていたが、失火をするなどの失態を犯してしまう。
関羽からは、荊州に帰還した後は処罰する旨の通告をされていたが、士仁が孫権の誘いに応じて投降する中、頑として籠城をする。
魏・呉の大軍相手に孤軍奮闘し、その勇姿は修羅のようであったとも言われており、今でも「芳来来(糜芳が来たぞ)」と言うと子供が泣き止むという語り草にもなっている。
結局呂蒙に捕まるが、最期まで忠節を曲げず、主君・劉備のいる成都の方を向いて処刑されることを要求した。
劉備は彼の死を聞いて、深く嘆き悲しみ、血を吐いて寝込んだという。
統率84 武力82 知力52 政治63 魅力77 義理10(最高)
うむ
当たり前の話だが、董卓や曹操が悪者なのは、短命政権ゆえに史書に悪口が多量に残されたため
逆に、歴史家は処刑を恐れて悪口を残さなかったりもするのだ
名将か否かは死んだタイミングで決まる
うむ良いifだ
当時武陵太守だった羅憲が推薦できるはずがない。
羅氏の子孫と婚姻関係を持つ習鑿歯の捏造と見るのが普通ではないかと。
領土拡張とでは…
https://goo.gl/z9zKsY
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪