西暦 |
月日 |
満年齢 |
出来事 |
1889 |
4月20日 |
0歳 |
オーストリアドイツ国境のブラウナウに生まれる |
1892 |
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3歳 |
一家でパッサウ市へ転居 |
1893 |
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4歳 |
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1894 |
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5歳 |
オーストリア領内リンツ市に移住 |
1895 |
6月 |
6歳 |
父アロイスがランバッハ市の郊外で農業を始める |
1897 |
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8歳 |
父の農業が失敗に終わりランバッハ市内に定住 |
1897 |
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8歳 |
ベネディクト修道会系の初等学校に転校(聖堂の彫刻にスワスチカが使われていた) |
1898 |
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9歳 |
リンツ市に再移住 |
1900 |
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11歳 |
弟エドムントが死去 |
1901 |
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12歳 |
(父との関係悪化からドイツ民族主義大ドイツ主義に傾倒していく) |
1903 |
1月3日 |
14歳 |
父アロイスが病死、工業学校を退校処分となる |
1904 |
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15歳 |
シュタイアー市の中等学校(レアルシューレ)に再入学 |
1905 |
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16歳 |
病気療養を理由に二度目の退校 |
1907 |
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18歳 |
ウィーン美術アカデミーを受験するが不合格 |
1907 |
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18歳 |
母クララが死去 |
1908 |
2月 |
19歳 |
ウィーンに移住しアウグストクビツェクと共同生活を始める |
1908 |
2月 |
19歳 |
アカデミーを再度受験するが再び失敗 |
1908 |
9月 |
19歳 |
クビツェクの前から突然姿を消す |
1909 |
11月 |
20歳 |
浮浪者収容所に入り、公営の独身者寄宿舎に移り住む |
1911 |
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22歳 |
義姉アンゲラから訴訟を起こされ孤児恩給を放棄 |
1913 |
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24歳 |
オーストリア=ハンガリー帝国の兵役を逃れるためミュンヘンに移住 |
1914 |
1月18日 |
25歳 |
オーストリア当局に逮捕され本国に送還される |
1914 |
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25歳 |
検査で不適格と判定され兵役を免除される |
1914 |
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25歳 |
第一次世界大戦が勃発し一転して軍に志願、バイエルン王国第16予備歩兵連隊に入営 |
1916 |
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27歳 |
ソンムの戦いで脚の付け根にケガを負い入院 |
1918 |
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29歳 |
一級鉄十字章を受勲 |
1918 |
10月15日 |
29歳 |
敵軍のマスタードガス攻撃に巻き込まれ一時的に視力を失う |
1918 |
11月 |
29歳 |
第一次世界大戦がドイツの降伏で終結し激しく動揺、超自然的な幻影を見て視力を回復 |
1919 |
2月16日 |
30歳 |
ミュンヘンのレーテに入る |
1919 |
4月15日 |
30歳 |
バイエルンソビエト共和国で大隊の評議員に立候補し当選 |
1919 |
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30歳 |
バイエルンソビエトがドイツ共和国(ヴァイマル政権)から独立 |
1919 |
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30歳 |
ヴァイマル共和国軍が進軍し、ヒトラーはスパイとしてスカウトされる |
1919 |
7月 |
30歳 |
ヴァイマル共和国軍の軍属情報員として登録される |
1919 |
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30歳 |
ドイツ労働者党党首のアントンドレクスラーの反ユダヤ主義、反資本主義の演説に感銘を受ける |
1919 |
9月12日 |
30歳 |
ドレクスラーがヒトラーを55人目の党員に加える |
1920 |
2月24日 |
31歳 |
党名をドイツ国家社会主義労働者党(NSDAP蔑称ナチス)へと改名 |
1921 |
7月29日 |
32歳 |
党内の分派闘争で一時的にドレクスラーから党を追放される |
1921 |
7月29日 |
32歳 |
党執行部のクーデターによりドレクスラーは名誉議長として実権を奪われ、ヒトラーが第一議長に指名される |
1923 |
11月8日 |
34歳 |
ドイツ闘争連盟を率いて演説中のカール総督の身柄を拘束 |
1923 |
11月9日 |
34歳 |
ルーデンドルフ将軍とドイツ闘争連盟を率いミュンヘン中心部へ行進 |
1923 |
11月11日 |
34歳 |
バイエルン州警察に逮捕される |
1924 |
4月1日 |
35歳 |
要塞禁錮5年の判決を受けランツベルク要塞刑務所に収容される |
1925 |
2月27日 |
36歳 |
禁止解除によりナチ党が再建される |
1925 |
2月27日 |
36歳 |
「我が闘争」第一巻が発売される |
1926 |
2月24日 |
37歳 |
バンベルク会議によってヒトラーの指導者原理による党内独裁体制が確立 |
1928 |
5月20日 |
39歳 |
ナチ党として初の国会議員選挙、12人が当選 |
1929 |
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40歳 |
世界恐慌によりドイツでは街に大量の失業者が溢れかえる |
1930 |
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41歳 |
国会選挙で社会民主党(得票率24.5%)に次ぐ第2党(得票率18%)に躍進 |
1931 |
9月18日 |
42歳 |
溺愛していた姪のゲリラウバルが自殺 |
1932 |
2月25日 |
43歳 |
ドイツ国籍を取得、大統領選に出馬し得票率30%の2位となる |
1932 |
2月25日 |
43歳 |
国会議員選挙でナチ党の得票率が37.8%となり、社会民主党を抜いて国会第1党となる |
1932 |
2月25日 |
43歳 |
ドイツ国会選挙で得票率が33.1%となるが第1党の地位は確保 |
1933 |
1月30日 |
44歳 |
ヒトラー内閣が発足 |
1933 |
1月30日 |
44歳 |
議会を解散、国会議員選挙を3月5日に決定する |
1933 |
1月30日 |
44歳 |
国会議事堂放火事件が起こり、共産主義者の逮捕を始める |
1933 |
1月30日 |
44歳 |
ヒンデンブルク大統領に基本的人権条項を停止させる |
1933 |
1月30日 |
44歳 |
国会議員選挙で45%の288議席をナチスが獲得 |
1933 |
1月30日 |
44歳 |
国家人民党と中央党の協力を得て全権委任法を可決させる(議会と大統領の権力を形骸化) |
1933 |
1月30日 |
44歳 |
ナチ党以外の政党を禁止 |
1934 |
6月30日 |
45歳 |
「長いナイフの夜」で党内外の政敵を非合法手段で粛清 |
1934 |
6月30日 |
45歳 |
ヒンデンブルク大統領が在任のまま死去 |
1934 |
6月30日 |
45歳 |
「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を発効 |
1934 |
6月30日 |
45歳 |
指導者兼首相であるアドルフヒトラー個人に大統領の職能を移す |
1934 |
6月30日 |
45歳 |
民族投票で約90%の支持率を得て国家や法の上に立つ指導者「総統」となる |
1935 |
1月22日 |
46歳 |
公文書私文書の末尾に「ハイルヒトラー」と記載することが義務付けられる |
1935 |
1月22日 |
46歳 |
ドイツ再軍備宣言 |
1936 |
3月7日 |
47歳 |
ラインラント進駐 |
1936 |
3月7日 |
47歳 |
ベルリンオリンピックを開催 |
1936 |
3月7日 |
47歳 |
日独防共協定が締結される |
1937 |
4月26日 |
48歳 |
ドイツ空軍「コンドル軍団」によるゲルニカ空爆 |
1937 |
4月26日 |
48歳 |
日独伊防共協定が締結される |
1938 |
3月 |
49歳 |
オーストリア併合 |
1938 |
3月 |
49歳 |
英仏伊の首脳を招きミュンヘン会談を行う |
1939 |
3月15日 |
50歳 |
チェコスロバキア併合 |
1939 |
3月15日 |
50歳 |
リトアニア政府にメーメルを割譲させる |
1939 |
3月15日 |
50歳 |
独ソ不可侵条約を締結 |
1939 |
3月15日 |
50歳 |
ポーランド侵攻を開始 |
1939 |
3月15日 |
50歳 |
イギリスとフランスがドイツへ宣戦布告(第二次世界大戦が開始) |
1940 |
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51歳 |
デンマークとノルウェーを占領 |
1940 |
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51歳 |
岩上の巣と呼ばれる前線指揮所に移りフランス侵攻への指揮をとる(総統大本営) |
1940 |
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51歳 |
フランス代表との降伏調印式に出席 |
1940 |
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51歳 |
対ソ連戦の準備を軍首脳に命じる |
1940 |
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51歳 |
ウィーン裁定でハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの領土問題を調停 |
1940 |
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51歳 |
スペインの独裁者フランシスコフランコと会談するが不調に終わる |
1941 |
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52歳 |
ユーゴスラビア侵攻、ギリシアを占領してバルカン半島を制圧 |
1941 |
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52歳 |
バルバロッサ作戦が発動され、ドイツ軍がソ連に侵攻を開始 |
1941 |
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52歳 |
東プロイセンに置かれた「ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)」に移る |
1941 |
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52歳 |
再度モスクワ進撃を命令する |
1941 |
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52歳 |
日本海軍がハワイオアフ島の真珠湾攻撃を行う |
1941 |
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52歳 |
対アメリカ参戦に踏み切る |
1941 |
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52歳 |
自ら陸軍総司令官を兼任しドイツ軍の後退を厳禁する |
1942 |
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53歳 |
ブラウ作戦(青作戦)を命じる |
1943 |
1月31日 |
54歳 |
パウルス元帥がソ連に降伏し、ヒトラーが激怒する |
1943 |
1月31日 |
54歳 |
クルスクの戦い |
1943 |
1月31日 |
54歳 |
イタリアでムッソリーニが失脚 |
1943 |
1月31日 |
54歳 |
イタリアのバドリオ政権が休戦発表で降伏 |
1943 |
1月31日 |
54歳 |
特殊部隊によるグランサッソ襲撃でムッソリーニを救出、イタリア社会共和国を成立させる |
1944 |
6月6日 |
55歳 |
ノルマンディー上陸作戦 |
1944 |
6月6日 |
55歳 |
ヒトラー暗殺未遂事件が起こるが、奇跡的に軽傷で済む |
1944 |
6月6日 |
55歳 |
連合国がパリに迫りコルティッツ大将がパリを明け渡す |
1944 |
6月6日 |
55歳 |
声帯ポリープの手術のためベルリンの総統官邸に移る |
1944 |
6月6日 |
55歳 |
「ラインの守り」作戦、バルジの戦い |
1945 |
1月 |
56歳 |
ソ連軍がヴィスワ=オーデル攻勢を開始 |
1945 |
3月 |
56歳 |
米英軍がライン川を突破 |
1945 |
3月 |
56歳 |
春の目覚め作戦を行うが失敗 |
1945 |
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56歳 |
この頃から総統地下壕に籠りきりとなる |
1945 |
3月19日 |
56歳 |
ネロ指令を発し国内生産施設の破壊を命ずるが、シュペーア軍需大臣がこれを無視 |
1945 |
4月16日 |
56歳 |
ソ連軍がベルリン作戦を発動、ベルリンの戦い |
1945 |
4月20日 |
56歳 |
総統誕生日に軍とナチス高官が総統官邸に集まる |
1945 |
4月22日 |
56歳 |
「戦争は負けだ」と語り、ベルリンで死ぬと宣言 |
1945 |
4月29日 |
56歳 |
親衛隊全国指導者ヒムラーがヒトラーの許可なく英米に対し降伏を申し出る |
1945 |
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56歳 |
自殺を覚悟し、遺書の口述を行う |
1945 |
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56歳 |
大統領兼国防最高司令官職にデーニッツ海軍元帥、首相に宣伝相ゲッペルス、ナチ担当大臣にボルマンを指名 |
1945 |
4月30日 |
56歳 |
長年の恋人エヴァブラウンと結婚式を挙げる |
1945 |
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56歳 |
総統地下壕の自室で拳銃自殺、妻エヴァは毒を仰いだ |