フィリッポス2世の一生・生涯・人生
世界史に登場するフィリッポス2世の一生・生涯・人生
アミュンタス2世の子であり、アレクサンダー大王の父であるフィリッポス2世は、頑丈な肉体と高い知性を持った優秀な政治家であり、天才的な軍人でもありました。強力な重装歩兵の密集隊(ファランクス)を創設し、騎兵集団を増強して軍備を拡充します。フィリッポスは卓越した外交手腕と軍事力を利用して、 マケドニア東方のパンガイオン地方の金山を奪い、中部ギリシャの紛争に便乗してテッサリアを占領すると、トラキアにも遠征してオリュントスを占領します。紀元前339年、フィリッポスがアテナイの同盟国であるビザンチンを攻撃すると、アテナイはすぐに援軍を派遣して、マケドニアと敵対関係に入りました。エラティアへ進出したマケドニア・テッサリア連合軍に脅威を感じたテーバイも、アテナイと同盟してマケドニアに対抗することになります。 紀元前338年、マケドニア軍が「カイロネイアの戦い」でアテナイ・テーバイ連合軍を破ると、フィリッポスが盟主となってギリシャ統一をめざすコリントス同盟が結成されました。 ギリシャのポリス世界を統一したフィリッポスですが、王妃オリュンピアスとの仲は悪く、息子のアレクサンダーともしっくりいかなくなります。東方のペルシャ遠征を計画したフィリッポスはオリュンピアスを離縁すると、マケドニア貴族の娘エウリュディケと結婚することにしました。この婚礼の宴で、酒に酔った花嫁の叔父アッタロスがアレクサンダーの王位継承権を無視するような発言をしたため、怒ったアレクサンダーは彼に盃を投げつけます。先妻の息子の暴行に腹を立てたフィリッポスは、剣を抜くとアレクサンダーに近づきますが、酔っていたため滑って転んでしまいました。これを見たアレクサンダーは言います。「諸君、この方はアジアへ渡ろうとしているが、椅子をまたごうとして転ぶとは・・・」 この事件の後、アレクサンダーは母を連れて国を出てしまいますが、次の年には表面上の和解が成立しました。和解のしるしとしてエペイロス王(オリュンピアスの弟)とフィリッポスの娘クレオパトラ(母親はオリュンピアス)との結婚式が行われますが、フィリッポスはこの宴席で若いマケドニア貴族パウサニウスに剣で刺し殺されてしまったのです。