サラディンの一生・生涯・人生
世界史で活躍したサラディンの一生・生涯・人生
サラディン(1138年~1193年)
アーリア系クルド族の出身であるサラディンは、アレッポの君主ヌール・アッディーンに仕え、シリア軍を率いてエジプト遠征に赴きます。1169年、ファーティマ朝エジプトの首都カイロに入城したシリア軍は、 解放者として町の住民から熱烈な歓迎を受け、サラディンは30過ぎの若さでエジプトの宰相に就任しました。1174年にサラディンの形式上の主君ヌール・アッディーンが死去するとアレッポと和約を結んで、 1176年にはシリア内陸部の統合に成功します。しかし当時のシリアにはヨーロッパからの侵略者である十字軍が存在し、サラディンによるシリア統一を阻んでいました。 彼は1187年の「ハッティーンの戦い」で十字軍の主力部隊を壊滅させ、聖都エルサレムを見事に奪還します。かって十字軍がエルサレムを攻略した時のような殺りくが繰り返されることはなく、サラディンは降伏したキリスト教徒を身代金を取って海岸方面に退去させたのでした。 第3次十字軍が再度の聖地解放をめざしてヨーロッパを出発し、フランスのフィリップ2世とイングランドのリチャード1世の率いる軍勢が、1191年、アッコンの攻略に成功します。しかしサラディンにとって幸いだったのは、リチャードと協同で戦うことに嫌気がさしたフィリップがさっさと帰国してしまったことでした。リチャードは補給基地となる海岸都市を確保するためアッコンを出て南に進軍、これを追うサラディンはアルスフの森の陰から十字軍を攻撃しますが、リチャードの冷静な指揮による反撃にあって敗北してしまいます。 その後のサラディンはもっぱら十字軍の後方を撹乱する作戦を展開し、このためリチャードは進軍を諦めねばなりませんでした。1192年には休戦条約が結ばれ、十字軍はアッコンやスールなどの地中海岸の城塞都市を確保しますが、シリアにおける支配領域は20年前に比べれば大幅に縮小してしまったのです。 「富は聖戦遂行のため、または他人のために使われるべきもの」との信念を貫いたサラディンは、マラリアのため55歳で亡くなりました。彼は個人の財産として金貨1枚と銀貨47枚を残しましたが、これだけでは庶民レベルの葬式さえ出来なかったのです。サラディンはイスラム・シーア派であるファーティマ朝エジプトを実質的には倒したことになるので、スンニー派の新しいエジプト、アイユーブ朝エジプトの創始者と呼ばれました。