メフメット二世の一生・生涯・人生
世界史で活躍したメフメット二世の一生・生涯・人生
メフメット2世(1432年~1481年)
オスマントルコ帝国第7代目のスルタンであるメフメット2世は、生まれながらにして主将の資質をもっていました。父ムラト2世が亡くなった時、21歳の彼はマグナシア(アナトリア西部)にいましたが、 驚異的なスピードでダーダネルス海峡を渡り、ガリポリを出ると馬でアドリアノープルに向かい、わずか数日で到着して、自らスルタンを宣言します。彼はビザンチン皇帝の抗議を無視して、ボスポラス海峡のヨーロッパ側に新たな砦(ルメリ・ヒサール)を造らせました。海峡のアジア側にすでに築かれていた砦(アナドル・ヒサール)と対をなす砦を造ることで、ボスポラス海峡を通行する艦船の全てを制することが出来るようになったのです。 メフメット2世が若い頃から狙っていたのが、コンスタンチノープルの征服でした。彼はコンスタンチノープルの大城壁を攻撃するために、ビザンチン側の待遇に不満をもってオスマントルコ側に来ていたハンガリーの技術者ウルバンに命じて巨大な大砲を造らせることにしたのです。1453年3月に出陣の命令が出され、4月からコンスタンチノープルの攻囲戦が開始されました。5月末にコンスタンチノープルは陥落、ビザンチン帝国は滅亡します。 メフメット2世は威儀を正してコンスタンチノープルに入城すると、大地にひざまずき、土を手にとって頭上に捧げました。オスマントルコ帝国の本拠地をアドリアノープルからコンスタンチノープルに移した彼は、帝国各地から多数の人々をこの新たなイスラム都市に移住させます。 メフメット2世の征服はこれで終わったわけではなく、東方では、アナトリアのカラマン候国を滅ぼし、 東アナトリアから西イランとイラクにまで勢力を伸ばしていたアク・コユンル朝(白羊朝)の君主ウズン・ハサンの軍勢を1473年の戦いで大敗させました。また西方では、ボスニア、セルビアを征服し、アルバニアまで進出して、アドリア海やエーゲ海で活動していたベネチアと戦います。イタリア南部にまで艦隊を送りましたが、メフメット2世の急死によってオスマントルコ帝国のイタリア進出は永遠に中断されました。