フランシス・ドレークの一生・生涯・人生
世界史で活躍したフランシス・ドレークの一生・生涯・人生
フランシス・ドレーク(1545年~1596年)
1567年にホーキングについてメキシコ湾に遠征、奴隷貿易で成功したドレークは、しだいにスペインの船や植民地を襲う海賊として有名になります。イングランドとスペインは表面的には友好国でしたが、エリザベス女王はドレークなどのスペイン相手の海賊を黙認していたのでした。 1577年、ドレークは女王に謁見すると「スペイン本国を攻撃することはできませんが、植民地を襲ってスペイン王フェリペ2世を苦しめることはできます。」と述べ、それに応えて女王は言いました。「襲撃に 失敗しても、イングランドは政治的な立場から貴方を見捨てるほかありません。」ドレークの艦隊はその年の11月にプリマスを出航して、翌年にマゼラン海峡を通過するとチリやペルー沿岸のスペイン植民地を略奪してまわり、遂にスペイン王の財宝を満載した宝船カカフエゴ号を捕獲しました。グアテマラの港グアタルコを5日間に渡って荒しまくり、メキシコの海賊討伐隊を簡単にかわすと太平洋を横断して1580年に帰港します。スペインから海賊ドレークを処罰するよう迫られていたエリザベス女王は、ドレークの乗艦ゴールデン・ハインド号に乗り込み、同行のフランス使節に剣を渡すと、ひざまずいたドレークの肩にその剣を当てさせ「立ちなさい。サー・フランシス・ドレーク」と呼びかけ、ナイトの称号を与えました。ゴールデン・ハインド号によって女王には30万ポンドが手に入ります。この額はイングランドの国庫歳入よりも多かったのでした。1581年にはプリマスの市長になったドレークですが、スペインとの国交悪化で再びスペイン領を攻撃します。1587年、カディス湾でスペイン艦隊を襲撃して、翌年の「アルマダ海戦」ではイングランド艦隊の実質的な指揮をとり、スペイン艦隊を壊滅させました。1594年からは西インド諸島を襲撃しますが、スペイン軍の守備が固いため思うようにいかず、1596年、何の成果もあげられないうちにドレークは赤痢で倒れてしまいます。最後は武人らしく死にたいと言うドレークは、病床に鎧を持ってこさせて、それを着ようとするなどの錯乱状態に陥ったまま息をひきとりました。