5分でわかるスイ水の戦い
by
sekaishi1
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公開
· 更新済み
楚 |
VS |
漢・諸国連合軍 |
項羽 |
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劉邦 |
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30000 |
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560000 |
背景
秦を滅ぼした後、項羽は主君である懐王を殺し、天下を掌握した。そして自らは「西楚の覇王」と名乗り、全国に王を置いた。しかしその人事は前線に立って戦った者や項羽のお気に入りの者を良い土地の王にし、逆に前線に立たなかった者は恩賞を与えらないなど不平等なものだった。中でも劉邦は秦の首都の咸陽に一番乗りしたという大功があるもかかわらず、田舎の漢王に左遷(これが「左遷」の元)させられた。
やがてそんな項羽に不満を持った斉(楚の北の国)が反乱を起こし、項羽はその鎮圧に向かった。その隙を狙って漢軍は章邯、司馬欣、董翳(彼らは項羽により関中を三分割してそこの王として劉邦を監視、東進を食い止める役を与えられた)を破り、項羽に不満を持った魏、趙、殷、燕などの諸侯も参加した総勢560000の連合軍は僅かな兵士の守る彭城(ほうじょう:項羽の居城)に攻め込んだ。
一方、劉邦の東進を知った項羽は楚の南の九江王である鯨布に援軍を要請したものの、鯨布は項羽に不満を持っていたのか、臆病風に吹かれたのか一兵たりとも援軍を出さなかった。案の定、この未曾有の大軍の前に彭城はあっけなく陥落。彭城陥落後、調子に乗った劉邦たち各国の首脳はそこで毎日のように宴会を繰り広げた。
経過
彭城の状況を斉で知った項羽は斉を部下に任せ、自身は精鋭30000を引き連れてすぐさま彭城奪還のために昼夜を問わず走り続けて楚へ戻った。戻ってきた項羽は、斥候により敵の西側の守りが薄いことを知ると、そこから夜襲をかけた。連合軍は項羽の逆襲に一応備えていたが、楚軍の到着があまりにも早かった上に、怒り狂った項羽に率いられた楚軍の勢いは凄まじく、結束の薄い連合軍は大混乱に陥った。項羽はそれぞれの陣を各個撃破していき、夜襲に驚いた兵士は戦わずに逃げ、一方的に殺された。そして多くの連合軍はスイ水(河)まで追い詰められ、飛び込んで溺れ死んだ。積み重なった死体の山で一時スイ水の流れは止まったほどであった。この戦いの連合軍側の死者は十数万とも言われる。 大混乱の戦場の一方で、劉邦は部下の夏侯嬰(かこうえい)と二人で馬車でいち早く逃げ出した。劉邦はその際、故郷に残した家族の身を危ぶみ、自身の領地に連れて帰ろうとした。しかし、妻と親は楚軍に既に捕まっていたが、隠れていた二人の子供を見つけたので彼らを馬車に乗せた。
ところが、二人の子供を乗せたことによって馬が疲れ、敵に追いつかれると考えた劉邦は二人の子供を馬車から突き落とした。しかし、夏侯嬰が何度も劉邦に突き落とされる度に彼らを拾い、説得するので、劉邦はそれを止めた。
その後
劉邦は占領した関中まで無事逃げ帰った。しかし、項羽が追撃してきたので、部下の韓信に迎え撃たせ、追い払わせた。このスイ水の戦いが五年に及ぶ漢楚の戦いの始まりであった。 |