コンスタンティノープル攻防戦
オスマン帝国(メフメト2世:十万)VSビザンツ帝国(コンスタンティヌス11世:七千)
背景
1451年にオスマン帝国のスルタンムラト2世が死に、息子のメフメト二世が即位した。21歳の若者の即位を好機と見て、オスマン帝国のアナトリアでのライヴァルのカラマン君候国がオスマン帝国に侵攻し、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の皇帝コンスタンティヌス11世はオスマン家の出身の亡命者オルハンの監視料の増額を、オルハンを開放して騒乱を起こさせるとほのめかして求めた。それに対し、メフメトは怒りを隠しながらもビザンツの使者を帰し、直ちにカラマン軍を倒した。そして彼の長年の夢であり、曽祖父バヤジット1世ですら落とせなかったビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(ラテン語ではコンスタンティノポリス)征服の準備を始める。
メフメトは手始めにコンスタンティノープルの北にビザンツ側の抗議を無視してルメリ・ヒサル(ルメリ砦)を造り、1452年の秋には完成した。そしてかつてバヤジット1世の造った対岸のアナドル・ヒサル(アナドル砦)とあわせて封鎖を完璧にしようとした。メフメトは熱心に準備をしたが、コンスタンティノープルは三方を海に囲まれ、唯一陸つながりの西側には三重の城壁(テオドシウスの城壁)を持った難攻不落の要害で、落すのは困難だった。さらに、当時のオスマン海軍は弱体で、数では勝っても精強なビザンツ海軍には勝てそうになかった。
そこで自作の巨砲をビザンツ皇帝に売り込んだものの、相手にされないどころか投獄されたハンガリー人技師ウルバンを巨額の報酬で雇い、砲身の長さ約8.2メートル、口径約76.2センチメートルの巨砲を作らせた。
全ての準備が完了したメフメトはついに1453年3月23日に首都エディルネを発った。
一方それを知ったビザンツ側は金角湾に防鎖を掛けたり兵士を集めたりして戦いに備えた。しかし、ジェノヴァ人が中立だったり、バラ戦争前夜のごたごた中のイングランド王国、百年戦争の傷が未だ癒えていないフランス王国、諸王朝の交代後ようやくハプスブルク朝が成立したばかりの神聖ローマ帝国などヨーロッパの諸大国は自国の事で精一杯で外国からの援軍は僅かである。
経過
4月5日に到着したメフメトは翌日から西側に主力を集中しての包囲を開始し、11日に終了した。
オスマン軍の兵力はイェニチェリ一万、アナトリア・バルカンの正規兵七万、不正規兵二万の計十万。一方迎え撃つビザンツ軍はビザンツ軍四九八三、傭兵や義勇兵からなる外国人兵二千の計七千だった。
まず、メフメトはコンスタンティヌス11世にイスラム法に則り降伏を勧めたがにべもなく拒否され、12日にオスマン軍の攻撃は始まった。オスマン軍は坑道を掘るなどありとあらゆる手を使い攻めたがいずれもレムノス島を報酬として七百人の義勇兵と共に参上したヴェネツィアの貴族ジョアンニ・ロンゴ・ギュスティニアンニの巧みな用兵やギリシア火という火炎射器により失敗し、ウルバンの巨砲による砲撃による城壁の損傷はすぐに補修された。さらに海では鎖を切ろうとするオスマン海軍はビザンツ海軍に撃退され、海側からの進入は出来なかった。したがって海上封鎖は完遂できずに20日にはマルモラ海を北上してきたヨーロッパからの援軍の船団の入港を許してしまった。
そこで、オスマン側では主戦はと慎重派の対立が再燃し、軍議が開かれた。慎重派の大宰相チャンダルル・ハリル・パシャは敵への援軍の可能性を挙げて和平を主張したが、ザガノス・パシャ等の主戦派にメフメトも与して包囲は続行された。
攻め倦めたメフメトは状況打開のために艦隊の一部を油とコロを下に敷いて陸を越えさせて金角湾に入れるという奇策を考え、22日の夜に七十二隻のガレー船が陸を渡った。そして翌朝ビザンツ軍は金角湾に浮かんだオスマン艦隊を見ることとなった。これによりビザンツ側は北にも兵力を割かねばならないようになり、より消耗が激しくなった。さらにオスマン軍の砲撃による損傷も徐々に積み重なり、次第にビザンツ側は追い詰められていった。
5月23日、メフメトの最終降伏勧告もビザンツ側は拒否する。
26日にはハンガリー王国から包囲を止めねば攻撃するとの脅しが来て再び慎重派が勢い付いたが、主戦派の勝利に終わった。
そして、28日の夕刻にオスマン軍の三方向からの総攻撃が始まった。重傷を負ったジョアンニはすでにキオス島に逃れており、ついに29日の朝に中央のロマノス門が破られ、イェニチェリを先頭にオスマン軍が城内に雪崩れ込んだ。コンスタンティヌス11世は戦場に姿を消した。
その後
可能な限りきれいな状態でコンスタンティノープルを手にしたかったメフメトはイスラム法に則り渋々兵士に3日の略奪を許した。教会の聖器やランプもギリシア正教徒に敬われていたイコンも手加減されず全てが奪い尽くされ、五万人が奴隷の身に落ちた。メフメトは混乱が収まった後にアヤ=ソフィアに赴き、馬を下りて跪き、土をすくい上げて頭上にかざした。
征服後メフメトはコンスタンティノープルの復活に腐心し、首都をエディルネからイスタンブルと改称したこの都市に遷都した(とは言っても暫くは「コンスタンティニエ」と呼ばれた)。 |