5分でわかるボロディノの戦い
by
sekaishi1
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公開
· 更新済み
フランス帝国 |
VS |
ロシア帝国 |
ナポレオン1世 |
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クトゥーゾフ |
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127000 |
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120000 |
背景
1810年、フランスはドイツのオルデンブルク公国(皇太子妃がアレクサンドル1世の妹)を併合した。それに対して、ロシアはフランスの特産費である絹織物やブドウ酒の関税引き上げを以って報復した。
これによりフランスとロシアの中は険悪となり、1811年にはナポレオンは財政予算を戦争のために増額する。さらに1812年2月24日にプロイセンと、3月14日にオーストリアと軍事同盟を締結し、対ロシア戦の準備をする。
一方、ロシアは4月にスウェーデンと同盟を結んだ。
同年5月29日、ナポレオンは他のヨーロッパ諸国の軍も加えた計600000もの大軍を率いてロシアへ向けてドレスデンを出発する。6月24日にはネマン河を渡り、ロシア領への侵入を果たす。この大軍の進撃の前にロシア軍はヴィルナ、ドリッサ、ヴィテズスク、スモレンスクを次々と放棄する。しかし、遠征軍は準備不足による物資の不足(これまでナポレオンは物資を現地調達で賄うことが多かったが、ロシアの平原(つまるところ田舎)ではそれもできなかった)とロシアの厳しい気候により消耗は激しかった。
一方、ロシア側では退却続きの司令官バルクライド・トーリは国内の失望を買い、更迭された。その後任としてクトゥーゾフが新たに司令官に就任する。積極戦法を望まれていたクトゥーゾフは遠征軍を迎え撃たんとモスクワの西南10キロのボロディノに布陣し、遠征軍も9月上旬にはボロディノに到った。
事前の作戦会議においてフランス軍のダヴーはロシア軍を(自軍から見て)右から包囲する作戦を提案したが、才能が既に最盛期を過ぎていたナポレオンは正面攻撃にこだわって却下した。
経過
1812年9月7日午前6時に遠征軍の正面攻撃により戦闘は開始された。
正午、ミュラがバグラチオンの突角堡を確保した。ミュラは近衛軍を増援に回すようにナポレオンに要請したが、ナポレオンは近衛軍を温存するために投入しなかった。ナポレオンのこの判断ミスによって中央突破の危険が薄れたロシア軍では、中央突破と左からの包囲を恐れたクトゥーゾフが中央と左翼に部隊を集めて強化した。
午後4時にはウジェーヌ、ネイ、ジュノが大損害を被りながらもラエフスキーの大堡塁を確保した。
右翼ではポニャトフスキーが包囲機動をとるが、先ほど強化されたロシア軍左翼に阻止された。これによりロシア軍は壊滅を免れたが、これまでの消耗も決して少なくはなかった。
これ以上戦ってもいたずらに損害を被るだけだと判断したクトゥーゾフは撤退を決意する。ロシア軍は撤退を開始し、午後6時には戦闘は終了した。
この戦いで遠征軍は28000の死者を出したのに対し、ロシア軍は50000の死者を出した。この戦いに際して遠征軍は多大な犠牲を払ったが、その後にクトゥーゾフが焦土作戦を展開したためにこの勝利は決定的な勝利となはならなかった。
その後
その後もフランス軍は進撃を続け、9月14日にはクトゥーゾフが放棄したモスクワに入城した。しかし、遠征軍はすでに満身創痍で、これ以上の進撃は困難だった。そこでナポレオンは9月20日にロシアに講和を求めるが、ナポレオンの苦境を知っていたロシア皇帝アレクサンドル1世はそれに応じなかった。それから二回同じことをナポレオンはしたが、いずれも成功しなかった。
10月19日、ついに遠征軍はモスクワを撤退した。しかし、ナポレオンが講和を求めるのに一ヶ月もの時間を浪費した間も食料は消費されていた。これはただでさえ物資の不足した遠征軍にとっては大きな痛手だった。物資の不足、冬将軍、農民やコサックによる落ち武者狩り、ロシア軍の追撃。遠征軍のの撤退は過酷なものだった。
12月5日、ナポレオンは軍の指揮をミュラに委ねて少数の部下と共にエジプト遠征時の様に僅かな側近と共に帰国した。取り残された兵士たちは怒り、その場にいないナポレオンに罵詈雑言を浴びせた。
最終的にこの遠征から生きて帰れたのは5000人程度だった。 |