むかーしむかしの日本と東アジアの関わり合いについて語るスレ
「倭」とは何ぞや?
「大和」とは?
「日本(ひのもと)」とは?
つまりは、東アジアに於ける、と言うか、ユーラシア世界島文明に於ける海洋勢力「日本文明」とは?
「倭」、隋書倭国伝に「有阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行?祭」とある。
倭国には阿蘇山があって信仰されている。これで倭国の場所はわかるよな!
゛坑儒゛は関係無いとしても゛焚書゛はあり得る。
葛城、物部、蘇我と言う大氏族の没落と藤原氏の独壇場に至る流れの中である。
旧帯方郡都城址の所在地は倭人の策源地であり、日本文化のコアは旧帯方郡都に浸潤浸透した倭人が先鞭し、形成したのかも知れない。
つまり、真相は江波学説とは真逆の海洋勢力゛倭゛のユーラシア乱入こそが大和朝廷を成立せしめた史的躍動性の背景にその濫觴(らんしょう)として存在するのではあるまいか。
>天智朝成立前後に或種の゛焚書゛があったかも知れない。
同感です。
というか、乙巳の変で、蝦夷が自殺したときに焼いた自宅の倉庫に「天皇記」「国記」があって
歴代天皇の記録と、国の出来事no忘備録が全部燃やされたことになってるけど、
あれはクーデターを起こした側が、後で歴史を改ざんするために焚書した可能性が強い。
その後、風土記を集めさせて、日本書紀を作って、という作業が始まるけど、同時に寺社の口伝書を没収淘汰検閲している。
その検閲に強弱があって、近畿から遠い神社ほど、日本書紀と違うことが書かれている。
その違うことの書き方もすごくデリケートに書いてあって、読む人が読まないとわからないような書き方。
たとえば「聖徳太子とこの皇子が親子ではないのではないかなどという人がいるがとんでもないことだ」
のような書き方。
一見、親子であると主張しているように見せていながら本音は「聖徳太子とこの皇子が親子ではない」という噂が
世間にあふれているという事実を書きとどめておくことが目的でありそれはさらに言うなら、間接的に「親子ではない」ことが
実は真実なんだよという暗喩的示唆。
時の権力者の焚書をくぐり抜けようとするのだから、書く方はかなり神経質になっているはず。
そこまで踏まえて読み解いていく必要がある。
と思うのです。
超遅レスになったが、>>17さん宛てな。
それはともかく縄文時代と言われる採集生活に時代に対して
農耕の弥生時代に入る。
争いのすえ、邪馬台国という巫がトップの国ができた、が
魏志倭人伝の記述かな?
ちなみに俺が読んだ古事記現代語訳の教授曰くヤマタイコクという
読み方がとても恣意的で、本来ヤマトと読まない理由がない、と。
つまり、その教授の考えるに邪馬台国からヤマト朝廷になったと。
なんか、「ヤマタイ」と言う読み方だけは(成立し)ないwそうだね。
魏志倭人伝の記述の使者の往来は3世紀。
好太(広開土)王の事跡の碑文にある倭と高句麗の衝突は4~5世紀。宋書の倭の五王は5世紀。
卑弥呼の時代(247年頃)は帯方郡があった。
その200年後、倭王たちは南朝宋への上表文で「海北して征する事95ヵ国」云々と主張している。
一体、卑弥呼の時代から後の200年間に何があったのか?
これが日本古代史最大の謎だわ。
その教授、アウト。w
当時の中国では「台」を「ト(またはド)」と読んでいた。
つまり邪馬台国はヤマト国の当て字。
じゃあ邪馬台国が大和朝廷の前身かというと、どうやらそれもまた早計の可能性大。
魏志倭人伝には邪馬台国とは書いてなく邪馬壹國としか書いてない。
だからヤマタイコクとは読めない。
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」
化外の民族の国名は匈奴とか突厥とか渤海とか契丹とか、原則二文字だ。
例外は倭と遼と金ぐらいで金は元々は女真と言う二文字、遼も契丹(大契丹国)と言うのが元の国名。
金や遼は自称で一文字国号を採用したのかも知れない。
支那が自発的に異民族を一文字国号で呼び慣わす事は殆どない。
倭だけが例外で、その倭も後に日本と言う二文字国号に変わった。
東漢(後漢)の金印の「倭奴国」が何時頃一文字の「倭国」に変わった(昇格した)のかは謎だ。
こうして、考えれば「倭」と言う国名は案外、凄い事かも知れない。卑弥呼はそれ(支那公認の一文字の国号)を達成している女王なんだよね。
西海道か山陽道に立ち寄った(通過した)裴世清が目撃した「秦王国」の真相は謎だ。しかし、当時の日本の西海道、山陽道の何処かにバイリンガルの日本人居住地区があったかも知れないと言う仮説を招来するには十分な一節であろう。
卑弥呼の時代の西南日本の富裕層はバイリンガル(中原の支那口語と日本語)だった可能性がある。
↓
今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉為孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞。今以難升米為率善中郎將、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。
卒善中郎だ。倭の貴族たち(の極一部であろうが)はバイリンガルだった。
尤も、これは山海経にある
「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕」
の春秋戦国の「燕」とは別で後漢末、三國時代に自立した公孫淵の「燕」の方だ。
やがて、ほどなく、公孫氏の燕は魏に滅ぼされる。この時、倭(卑弥呼女王)は公孫氏を見限り、魏の派遣軍に積極的に協力したのかも知れない。
「親魏倭王」の称号授与の理由だな。
だって、絹や錦や砂金ならともかく、官位の叙任など、蛮族の媒臣づれには猫に小判以外の何物でもないからだ。因って、私は倭人の有力家門は日支バイリンガルだった、と推理するのである。
倭人の使者は漢の時代、既に活発に中原と瀛州(日本列島)間を往来していたのであるから。
>率善中郎 ○
だった。スマヌ。
↑
三國志東夷傳倭人条の冒頭からの抜粋だ。
海岸に沿って水行し、韓国を歴(へ)て、或いは南し、或いは東し、其の北岸、狗邪韓国に至る、とある。
「其の北岸」だ。
里数のカウント、「七千餘里」で旅程記述をセンテンス的に締めくくっている。
文頭に郡(帯方郡都)より倭に至るには、と主語が来ている。
因って、以下の叙述が倭国境内への到着で完了しなければ文意の論理的整合性がなくなる。
すなわち、七千餘里と言う体言によって実質的センテンスと為すこの叙述内で倭国境に到達しておく必然性がある。
狗邪韓国が倭人の領有であった、事が窺える資料であろう。
そうでなければ、韓国を歴て、或いは南し、或いは、東し、其の南岸、狗邪韓国に至る、七千餘里と記述されていたはずだ。
狗邪韓国が韓国の南岸であれば、だ。
だが、東夷傳倭人条では北岸となっている。
そもそも、ここに橋頭保なからずんば、漢代に使者の往来は不可能だったはずだ。
春秋戦国時代の燕と関係を結べるはずもない。
それらが可能だったのは狗邪韓国近辺に何らの倭人の保塁が存在していたからであろう。
更に疑えば、馬子も怪しい。
更に更に疑えば、物部守屋の守屋も、だ。
これらの一連の名前には後の世の歴史学者に対し、真相を隠蔽すると同時に密かに手掛かり、ヒントを暗示すると言う、相反する両様の意味が含まれているのかも知れない。
蘇我蝦夷は明らかに、東北地方の蛮族、蝦夷の名前を押しつけられた可哀想な被害者だろう。
山岸涼子の名作漫画『日出処の天子』では、
蘇我毛人という事になっている。
(読みは同じ「えみし」)
佐比氏と言うのは、物部金弓から出た氏族で、私の本籍地には物部所縁の地名が多い。
近畿の物部は大和朝廷に゛国譲り゛した物部で、云わば、プレ・大和朝廷、倭国オリジナルの裏切り者であろう。
これに対し、岐阜県(美濃)以東に蟠踞し、゛毛人゛、゛東戎゛と言う呼称で一括されて来た豪族たちとは、゛神武東征゛として伝えられるいわゆる、大和朝廷による新秩序を肯(がえん)ずる事を拒絶した倭国オリジナルに忠誠な物部、及び、縄文人直系倭人の子孫であったのだろう。
東戎(あずまえびす)、不破の関以東の東国の倭人が最も憎んでいたのは、大和朝廷内に於ける中枢を担って参った我が家の先祖たち、国譲りに応じた近畿の物部であったと推測する。
大和朝廷が東国を安定させ、その人心を収攬するには、我が家の遠い先祖である近畿の物部たちの処遇を重大変更させる必要があり、蘇我馬子の時代、それは政策として、実現したのだろう。
枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中の 海石に ふれ立つ なづの木の さやさや
原文
↓
加良怒袁 志本爾夜岐 斯賀阿麻理 許登爾都久理 加岐比久夜 由良能斗能 斗那加能伊久理爾 布礼多都 那豆能紀能 佐夜佐夜
で、少し、安直に過ぎ、申し訳ないが、便利なのでwikiから抜粋する。
↓
『先代旧事本紀』の記述によれば、
「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」
と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。
歌の「ふれたつ なずの木の」と言う「ふれたつ」の「ふれ」とは動詞、「ふる(布留)」の活用形の連用形であろう。
この歌の謎は未だ解明されていないが、我々(←この゛我々゛は我が家の先祖代々と言う謂い)淡路島の物部末裔にとっては、ゆるがせに出来ない謎だ。
奈良天平年間には既に物部は没落し、過去の氏族になり果てていたのであるが、古事記、日本書紀はその頃に成立したのである。
老朽化した快速船、枯野を塩田の燃料として使ったと言うエピソードは粛清された、と言う意味に思われる。
一部、余った(粛清されずに済んだ)生き残りの存在が上記の歌の「琴に造り」であろう。
「なずの木」 X
「なづの木」 ○
だった。
http://teikoku-denmo.jp/history/honbun/taika2.html
大化改新について、面白い考察サイトが有ったから紹介しておく
ありがとー。
超絶、興味深い。
如何にも、如何にも、(可能性ありそう)ですな。
結構、論理的な推理だと思う。
で、唐朝の開闢が610年。
「大化の改新」(最近は゛オッシの変゛て言ってるらしいが)645年か。
物部守屋の滅亡は587年。
「隋」による南北統一開闢の2年前だ。
馬子
「大和朝廷は南朝シフトが長かった(と言うか常態化していた)ので統一されると既存のコネが消滅し、困る豪族がいたんだな」
守屋
「ふーん。そうなん」
馬子
「あんたの事やんか!」
隋 598 X
隋 589 ○
だった。中学校で習ったのにね。
魏と邪馬臺國の蜜月時代だ。だが、曹氏の魏王朝は司馬氏の晋に取って代わられてしまう。
その晋(西晋)も同族相い食む八王の乱等の内訌の果て、自らが招き登用した北方異民族の謀反、永嘉の乱によって313年(実質は311年)滅んでしまう。
卑弥呼と魏の蜜月の中心的場であった帯方郡が四周(主に北方)の侵攻により、カタストロフを迎えたのは、おそらく、右の永嘉の乱の直後ではないだろうか。
西晋壊滅の報は帯方郡にとってのロジスティックスの消滅を意味し、ツングース(高句麗)は根なし草を刈り取る如きイメージでその接収を図ったものであろう。
それに対する現地(帯方郡)漢族(中原文化を自負する魏・晋の派遣官僚組織)とその結盟的パートナーである所の邪馬臺國従(よ)り出向せる゛東夷在地登用任官団゛の反撃が広開土王碑文の高句麗vs倭の激突の真相ではあるまいか。
卑弥呼の邪馬臺國の魏・晋的秩序のキャリア登用を受けた現地採用任官の倭人は亡国、魏・晋の帯方郡残置官僚組織の漢族と古代中原文化のインテリジェンスと言う親和性で心理的カテゴリーを形成する土壌があったのであろう。
高天ヶ原と渭水流域、中原。これが記紀に叙述された天孫降臨の真相背景に思われる。
うわっ!
酷い、バカっぽ文章になっちまった。
だが、発想の骨子はぎりぎり、伝わると思う。
申し訳ありません。
清書せず、ダイレクトにカキコしたので殆んど、口述筆記の殴り書きです。
だから、神武東征の幹部は東漢直氏(魏・晋遺民)ではない。
帯方郡で現地採用された倭人本国から出向した純粋倭人たちであった、と思われる。
>>34
>ニニギノミコト X
>ニギハヤヒ ○
だった。致命的書き損じです。
申し訳ありません。
天の磐船乗船組=ニギハヤヒノミコトの子孫。
だから、400年ぶりのお互いの邂逅時に発見した共通項には深い感動があったと思う。
>お互いの邂逅
これは倭人の任官組と帯方郡の魏・晋の官僚たちの出会い、つー事だよ。
帰国子女組(神功皇后&武内宿禰)が天下を奪取したのが大和朝廷ではありますまいか。
卑弥呼の邪馬臺國は帯方郡経由で魏の冊封を受けた。
高句麗は前燕の冊封を受けた。
ともに上部構造の崩壊後、在地の遺産を接収して力を得た。
似ていると思う。
とある。ある時期、倭国と日本が同時に存在し、その後日本のみになったということになる。
大雑把に考えれば、天孫降臨の直系は倭国なのだが、そこからわかれた神武天皇を祖とする日本が分家として存在し、
8っ世紀ごろ主導権が日本に移ったと考えるべき。本家の倭国はその後衰退し滅びた。
そりゃ、別系統デソ。
「神武東征」って自画自賛してるぐらいなんだから。
゛東征゛されちまった側とは明らかに別系統。
すると、「国譲り」は卑弥呼の時代から倭の五王の存在した6世紀の間であった事になる。
卑弥呼は大和朝廷の直接の血縁者か、国譲りさせられた前王朝側か?
何とも言えませんな。
私自身の勘では、譲らされた前王朝側の人のような気がする。
いわゆる、大和朝廷と邪馬臺國が別系統の王朝であり、4~5世紀の何処かで内部昇格的政権交代があった、と帰納法的推論を採用した場合だ。
卑弥呼の時代(3世紀)には我が国は未だ統一されていなかった。
所が、国宝稲荷山出土の金錯銘鉄剣は5~6世紀のものだ。
銘文中の゛ワカタケル゛とは倭王武、すなわち、雄略天皇だと想定する説がある。
すなわち、5~6世紀には埼玉県に大和朝廷の影響力が及んでいた訳だ。
一方、6世紀の大和朝廷は任那の一部を百済に割譲したり、新羅に横領略取されたりしていた。
喪失したと言う事は元は所有していたと同義であるが、5~6世紀の大和朝廷は3世紀の卑弥呼の邪馬臺國と比較すると半島と東日本の分、支配エリアが拡大されている。
この間に大変な膨張、バブルがあった、と考えざるを得ない。
これを原資として、残余の未だ帰服せざる東日本の土着勢力に河内を本拠とするプレ大和朝廷(邪馬臺國)は支配力を強化せしめる事が出来たのではありますまいか?
この半島利権の拡大及び、その本州東日本浸透への活用に於ける最大の功績者が内部昇格し、政権交代せしめたのが大和朝廷であるのかも知れない。
で、彌生時代の群小勢力割拠状態の倭人世界の上部階層の一部に漢字文化圏の渡来人の子孫が存在し、これらの者にとっては対馬海峡も朝鮮海峡も越えられぬ絶縁帯ではなかった、むしろ、北九州や山陰、北陸の支那系彌生人にとって、半島南部は十分、行動範囲だった、と言う仮説である。
この華人文化の色濃い渡来系彌生人の影響により、彌生時代の倭人の活動範囲に半島南部が組み入れられ、現地に倭人コミュニティーが成立したと推測する。
これが邪馬臺國の卑弥呼登場直前の状況の部分的スケッチだ。
「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為る。歳時を以て来り、献見すと云ふ」
彌生時代の我々に関して、交流のあった事実がされている。
ま、ふつーは地続きで徒歩なら、(郡都から出発して)1ヶ月かかる。湊(みなと)から湊(みなと)に水路直行すれば、十日だ、そー言う事だよ。
漢江上流域の何処かに群都があったとして、そこから十日の行程だと九州はレングスの内側過ぎじゃわな。
120キロメートルだったかも知れんな。しかし、ツーキューディデースは紀元前だからね。
卑弥呼はAD2世紀。昼間12時間航行して、寄港、停泊しなけりゃならんよーな性能だと、玄海灘の荒海を航海出来んだろ。
ましてや、黄海を渡り、山東半島から帯方群都(漢江上流の何処か)にまで、魏国本土の援軍、物資を届けるロジスティックスの任は果たせないわな。
外洋航海可能な性能の帆船だったはず。
実際は黄海を通り、対馬を経て玄海灘に洗われつつ、瀬戸内海に入る訳だから、その1.5倍、千二百キロメートルぐらいの行程であろう。
一日、百二十キロメートルの性能の帆船で、十日だな。
大和朝廷の外港は上町台地の天王寺区辺りにあったはず。
囲碁の呉清源先生がインタビューに応えられ、曰く、
「最近、将棋界の第一人者の某氏が講演等で将棋を喩え話に使い、所々で教訓を垂れ流しているようだが、棋士は思い上がってはならぬ。
これは非常に重要な点であるが、囲碁や将棋と実社会の諸現象は根本的に違う、位相の異なった、互いに相通じない、別次元の体系事象なのである。
故に、洒落や言葉遊びなら許されるとしても、互いの求道に関し、真摯な意味での助言など、専門外の立場から、おいそれと口を挟めるはずがない。
(仮にアドバイスを)求められたとしても、偉そうに説教じみた講話なんぞ、慎むべきであろう」
と言う意味の苦言を呈せられていたが、私はひどく、感心し、一層、先生への敬服の念を深めたのである。
それで、呉清源先生の仰せは、深層(真相)を穿つ正論である事を百も承知の私であるが、敢えて、方便知的に囲碁を喩え話として、直後の次レスで↓使おうと思う。
明石、鳴門の両海峡を経、瀬戸内海に通じている。
この海の回廊に関する考察だ。
古代の都市は囲碁の盤上の一石(浮き石)に喩える事が出来る。
この浮き石は包囲され、ロジスティックスを絶ち切られると、死ぬ(飢餓死する)のである。
故に、強力な都市(策源地)とは、糧道(ロジスティックス)の確保された、連繋のある石を指して使われる表現なのである。
そこで、古代、大和朝廷の難波(なにわ)の宮に視点を移すと、その糧道が大坂(大阪)湾、瀬戸内海と言う海の回廊によって、九州、四国、山陽の穀倉地帯と繋がっている事が分かる。
陸路ではなく、内海、ここが重要なのだ。
古代の帆船は一昼夜で120キロメートルは進める。人間が12時間歩いても、50キロメートルだ。水路は、古代、物流のハイウェイであったのだ。
大和朝廷(河内)の地勢学的立地は、物流集積速度が他の内陸拠点、すなわち、軍事施設(敵の居城)よりも二倍~三倍の速度で後背地からの支援を得られる、と言う優位性と同義語であった、と申す事が出来る。
゛瀬戸内海の突き当たり゛には、そのような意味があったのである。
囲碁で申すなら、瀬戸内海は山陽、四国、九州のロジスティックスの厚みそのものであった。
この河内時代の大和朝廷の゛厚み゛に匹敵する物流ハイウェイは畿内はもとより、不破の関以遠の東国の何処にも存在しなかったのである。
帆船の乗員水夫と車輌の小荷駄人夫の単位作業費用に大きな差が生じるのだ。
クセルクセスがサラミースの海戦で破れた後、戦意を喪失したのは海上兵站線が危殆に瀕する事態に陥った事を悟ったからである。
百万の軍勢の兵站線をコスパの見地から海上輸送により多くシェアを割いていた事が分かる。
瀬戸内海は西日本に於ける天然の飛脚アウトバーンだった訳である。
支那の渭水流域に数珠玉の如く都市国家群が成立していたのも同じ理由であろう。
この場合は大河の水上兵站線である。
帯方郡都の位置は不明だが仮にソウルを近似点とする。
Googleマップで距離を調べると、
CA、ソウル市-済州市は453キロメートル
AB、済州市-大阪市(茶臼山)は837キロメートル
CB、ソウル-大阪市(茶臼山)は830キロメートル
故に、総旅程は
線分CA+線分AB=453+837
=1290キロメートル
帆船一昼夜の到達距離を130キロメートルとすると
130km x 10日 =1300km
徒歩1日の到達距離を43キロメートルとすると
43km x 30日 =1290km
水行10日、陸行30日だ。
メルカトルの地図に定規を宛がっても無駄だ。
Googleマップの二点間距離測定サイトで調べれば一発正解だ。
↑イラスト線分ABとは
肥前沖ー対馬ー博多ー関門海峡ー瀬戸内海ー大阪市の航路の事である。