5分でわかるアウステルリッツの戦い
アウステルリッツの戦い |
フランス帝国 | VS | オーストリア帝国・ロシア帝国 | |
ナポレオン1世 | アレクサンドル1世・フランツ1世 | ||
73000 | 87000 |
背景 トラファルガーの敗北からは、ナポレオンはイギリス上陸をひとまず諦め、第三回対仏大同盟の一角オーストリア帝国(神聖ローマ皇帝も兼ねる)に狙いを定めた。そして1805年9月10日にオーストリアがフランスの同盟国バイエルン王国に侵攻したのを期に、ナポレオン率いるフランス軍はオーストリア皇帝が皇帝を兼ねる神聖ローマ帝国領に攻め込んだ。10月20日にウルムの戦いでオーストリア軍のマック将軍を破って降伏させ、オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝としてはフランツ2世)は帝都ウィーンを放棄し、11月14日にフランス軍はウィーンに入城するなど快進撃を続けた。 一方、対仏大同盟メンバーのロシア軍がオーストリアの援軍に来て、合流。そしてロシア皇帝アレクサンドル1世とフランツ1世率いるオーストリア・ロシア連合軍は反攻を開始する。 一方、ナポレオンは敵の油断を誘うためにあえて軍を撤退させ、その計略は成功する。アウステルリッツ近郊に至ったナポレオンは仕上げとして、アウステルリッツの村とその西にあるプラッツエン高地を連合軍に明け渡した。そして、連合軍はアウステルリッツの村を背に布陣してフランス軍と向かい合った。 経過 午前八時半頃、連合軍左翼のブックスヘウデン隊がプラッツエン高地を駆け下りてルグラン師団に襲い掛かった。四倍以上の敵の攻撃に、ルグラン師団は大きく後退するも、後方よりダヴー元帥率いる8000がルグラン師団に合流し、ブックスヘウデンの攻撃を食い止める。 一方、中央ではスールトの第四軍団17500がクトゥーゾフ隊16000に攻撃を仕掛ける。クトゥーゾフは有利な高地を捨てるべきでないと主張するも、アレクサンドル1世の叱咤により渋々出撃する。 そして、バグラチオン隊18000とリヒテンシュタイン公ヨハン4500の騎兵隊がそれぞれランヌ元帥の第五軍団13000、ミュラ元帥の騎兵隊5500に襲い掛かる。 午前十時ごろ、スールトはプラッツエン高地を占領し、大砲を高地に上げて苦戦中のフランス軍左翼に援護射撃をする。 高地を奪われたと知り、アレクサンドル1世はコンスタンティン・パーヴロヴィッチ大公率いるロシア近衛兵8500を投入して、高地の奪還のためにスールト軍団を攻撃させる。これに対し、フランス軍もベルナドット元帥率いる第一軍団10000とベシェエール元帥率いる近衛 兵を投入し、撃退する。 午後一時すぎに旗負け色が濃くなった連合軍中央と右翼はついに退却を開始する。 深入りをしていた左翼のブックスヘウデン隊は取り残された形となり、孤立する。そこへ、すでに敵を撃破したフランス軍が襲い掛かり、湖も使って包囲する。 午後四時ごろには雪が降り始め、悪天候の中、退路を断たれたブックスヘウデンは多数の将兵と共に降伏。一部は氷ったテルニッツ湖を渡って逃げようとしたが、フランス軍の砲撃で氷を割られて、多くが溺死した。 午後五時には戦闘は終了。この戦いでフランス軍は8233人、連合軍は26000の死傷者を出した。三人の皇帝が一堂に会して戦ったがゆえに「アウステルリッツの三帝会戦」とも呼ばれるこの戦いは芸術的とも評された見事な勝利であった。 その後 |