デメトリウスの一生・生涯・人生
世界史に登場するデメトリウスの一生・生涯・人生
大フリュギアの大守アンティゴノスとその息子デメトリオスは、アレクサンダー帝国を再建するためアジアにその勢力を伸ばしました。小アジア(現在のトルコ)からインドに至る地域を支配するようになった彼等はエジプトのプトレマイオス、マケドニアのカッサンドロス、トラキアのリュシマコスなどの後継将軍たちと対立することになります。 アンティゴノス父子はまずシリアに侵入、続いてギリシャとマケドニアにも進出しようとしますが、これらの作戦は失敗に終りました(紀元前314~紀元前313年)。紀元前312年にはエジプトのプトレマイオスが反攻に出て、「ガザの戦い」でデメトリオスを破ります。 紀元前307年、アンティゴノスから250隻の艦隊を任されたデメトリオスは、ギリシャのアテネに現われてカッサンドロスの支配からギリシャを解放し、プトレマイオスの勢力下にあったキプロス島を攻撃して、プトレマイオス艦隊をほぼ全滅させました。これによって以後約20年の間、デメトリオスは東地中海を完全に支配します。(現在パリのルーブル美術館にある「サモトラケのニケ」像は、この時の「キプロス島の海戦」での勝利を記念して造られたものです。)調子に乗ったアンティゴノス父子は、続いてエジプトの征服にかかりますが、攻めるに難く守るに容易なエジプトの地の利から海軍、陸軍とも進撃できず失敗してしまいます。 エジプト遠征をあきらめたデメトリオスは、次にロードス島を攻撃し、約1年間も続いた攻防戦はロードス島がアンティゴノス父子と同盟を結ぶことで終結しました。こうしてギリシャのカッサンドロス、東地中海のプトレマイオスに対して完全優位に立ったデメトリオスは、紀元前302年にギリシャの諸ポリスの代表をコリントに集めてコリントス同盟を復活させて、自らがその盟主となりました。これはデメトリオスが他の後継将軍たちに対して、自分こそがアレクサンダーの継承者であると宣言したことになります。 翌紀元前301年にカッサンドロス、リュシマコス、セレウコス、プトレマイオスらの後継将軍たちは結束を固め、連合軍をつくってアンティゴノス父子との決戦に挑みました。 「イプソスの戦い」でリュシマコスとセレウコスの連合軍はアンティゴノス父子の軍隊と戦い、セレウコスがインドから連れてきた400頭の戦象がアンティゴノスの75頭の戦象を圧倒してリュシマコス、セレウコス連合軍の勝利に終ります。デメトリオスはギリシャに逃れますが、アンティゴノスは多数の槍を体に受けて壮烈な最後を遂げました。「イプソスの戦い」はアレクサンダー帝国の分裂を決定的なものにし、アンティゴノスの領土の大半がセレウコスとリュシマコスのものとなります。しかしデメトリオスの勢力は衰えず、紀元前294年にはギリシャに侵入してアテネを占領したデメトリオスは、マケドニアの内紛に乗じてマケドニアの王位につきました。デメトリオスは、その後もギリシャで勢力を広げますが、 再びプトレマイオス、リュシマコスらが結束し、対デメトリオスの軍をマケドニアに送ります。マケドニア人には不人気のデメトリオスは国民に見捨てられ、彼は失意のうちに国外に脱出しました。マケドニアを追われたデメトリウスは東方に逃れますが、紀元前285年にはセレウコスに降伏し、2年間の幽閉生活を送った後、自ら命を絶ちます。