ミッドウェーの勝利で戦略的な優位と自信を得たアメリカ軍は、本格的な反抗作戦を計画していた(望楼作戦)。第1段階はソロモン諸島に航空基地を確保すること、第2段階はニューギニア作戦と統合して北上を目指すというものだった。この作戦の最重要課題は,ガダルカナル島に航空基地を確保することだったのである。
ガダルカナル飛行場の完成が間近であったが、日本軍の主目標はあくまでポートモレスビーであり,南西方面のアメリカ軍をさほど警戒していなかった。
アメリカ海兵隊上陸
日本軍のガダルカナル飛行場完成直前の8月7日未明、アメリカ機動部隊を中心とする米・英・豪の連合艦隊はガダルカナルに接近していた。誰もが日本軍の猛攻撃を覚悟していたが、何事も無く上陸地点に到達した。そして連合軍の援護艦砲射撃のなか、アメリカ海兵隊がルンガ岬に上陸、数時間後には橋頭堡を確保した。ここでも日本軍の反撃は全く無く,アメリカ海兵隊員は日本軍の罠ではないかと暫くは半信半疑だった。
日本軍にとっては連合軍がガダルカナルをこれほど重要視しているとは全く予想していなかった。このため、250名足らずの守備隊と2,000人の基地設営隊を配備しただけで,警戒も十分では無かった。日本守備隊は不意をつかれ,7日未明の砲撃により組織的反抗は壊滅し、ジャングルに遁走するのがやっとだった。翌8日、日の出と共にアメリカ軍は基地に突入、基地・滑走路とも何事も無く占領した。この場所はヘンダーソン飛行場と呼ばれることになる。ツラギ方面では日本軍の反抗も激しくアメリカ軍に大きな被害が出たことを考えると,日本軍のガダルカナルへの認識があまりにも軽かったと言わざるを得ない。
一方アメリカ軍は,飛行場の確保は完璧な形で行えたが、補給物資の積み下ろしに手間取っていた。7日の夕刻までに予定の半分程度しか作業が終了していなかった。なお悪いことに,ラバウル航空基地から発進した日本軍戦闘機の空襲に肝を冷やしたアメリカ機動部隊が南方に退避を開始したため,輸送船団は裸に近い状態になってしまった。
また、8日の深夜に始まった第一次ソロモン海戦により、連合軍の護衛艦隊に大きな損害が生じたため、3,000人の海兵隊員とかなりの荷物を積んだまま、連合軍輸送船はガダルカナルを離れてしまった。これを見た海兵隊員たちは、自分たちは見捨てられたと感じたという。この時上陸できた海兵隊員は約10,000人だった。
一木支隊の攻撃
日本軍は、正確な情報が得られないまま,ガダルカナルに上陸したのは2,000名程度の偵察隊であろうと勝手に推測し,一木支隊(約2,000人)を派遣を決定、その第一陣900人は18日の夜に飛行場の東に上陸した。一木支隊先遣隊は後続の到着を待たずに進撃し,斥候隊を送ったがアメリカ軍の待ち伏せに逢って全滅してしまった。これを聞いた一木大佐は奇襲攻撃の効果が薄れることを恐れたのか、十分な情報収集も行わないままその夜の総攻撃を決定した。
8月20日夜、一木支隊は海岸沿いに進出し,アメリカ軍の兵力も確認しないまま陣地に突撃を行った。しかし、アメリカ軍の機銃の前に日本兵は次々となぎ倒されていった。夜が明けると、日本兵士は海岸を埋め尽くすように倒れていた。彼らが攻撃したのは堅固なトーチカ群だったのである。朝から戦車をまじえたアメリカ軍の反抗が始まり,一木支隊の残存兵力は完全に蹂躙されていった。一木大佐も成すすべなく自害して果てた。日本軍は参加した兵力のほとんどである800人近くが戦死した。
この日,アメリカ軍の飛行隊約30機が完成したばかりのヘンダーソン飛行場に進出してきた。地上航空基地の運用を始めたアメリカ軍は、制空権で大きな優位を得ることになった。
川口支隊の攻撃
一木支隊が全滅に瀕している頃、日本の哨戒艇がアメリカ軍機動部隊を発見、ガダルカナル支援のためにトラック諸島に集結していた艦隊に出撃命令が出された。日米両艦隊はそれぞれ敵を求めて移動し、ついに8月24日にソロモン諸島北方で激突、日本側の航空部隊に大きな損害を出して終了した。(第2次ソロモン海戦)
一木支隊全滅の報を半信半疑で受け取った日本軍は,この時点でもアメリカ軍は小部隊であると勝手に判断し,川口支隊(約6,000名)の増派で攻略可能と考えていた。川口支隊はアメリカ軍戦闘機の攻撃により大きな損害を出しながらも,9月7日までにガダルカナル上陸を完了し、主力5,000人は飛行場の東,左翼隊は西側からアメリカ陣地を目指した。
川口少将は一木支隊が行った海岸沿いの攻撃は不利と見て,防御の薄い南の丘陵地帯から攻撃をかけることにし、総攻撃を9月12日と定めたが,深いジャングルに阻まれて予定どうりに進撃できない。攻撃を延期しようとしたが,アメリカ軍陸戦部隊の援軍が派遣されたとの情報を受け、やむなく12日の総攻撃を決定した。
12日夜,左翼部隊と連絡がつかないまま、河口支隊主力は後に「血染めの丘」と呼ばれる百足高地に攻撃をかけた。しかし、アメリカ陣地に取り付いたところで夜があけたため、攻撃は中止された。夜が明けるとアメリカ軍の火砲が火を吹き、日本軍を大混乱に陥れた。それでも川口少将は体制を立て直し,13日夜に再度攻撃を開始した。このときには,敵陣に突入するまで発砲を禁ずるとの指令が出された。日本軍伝統の肉弾戦法である。
しかし、2度目の夜襲もアメリカ軍の強力な火力の前に頓挫した。一部の部隊は防衛線を突破してアメリカ軍の司令部付近まで迫ったが,集中砲撃をうけてそれ以上前進できなかった。日本軍は参加兵力約6,200人中650人が戦死,500人が負傷、アメリカ軍は南方を守備していた兵力約700人のうち戦死31人、負傷103人であった。双方に20%もの損害を出すほどの大激戦であった。
最後の総攻撃
攻撃に失敗した川口支隊には、さらに大きな試練が待っていた。補給品の欠乏である。輸送船が近づくとヘンダーソン飛行場からアメリカ軍戦闘機が現れて次々に船を沈めるため、満足な補給が得られない。ついに食べる物が無くなり,飢餓地獄が始まる。川口支隊の惨状を聞いた日本軍大本営は,やっとアメリカ軍が師団レベルの大部隊であることに気づく。この時点で、日本側はガダルカナルの戦略的価値に対し,奪回作戦があまりにも大きな犠牲を強いていることを理解しながらも、誰も自分からやめようとは言わなかった。軍人としての偏狭な意地がそうさせてしまったのだろうか。
日本軍は駆逐艦の夜間輸送などによって、第2師団とガダルカナル全体を統括する第17軍司令部(司令官、百武中将)を上陸させた。これで日本軍の総兵力は約22,000人となった。アメリカ軍もこの頃になると戦力がかなり増強されていた。10月中旬にはアメリカ軍の戦力は23,000人まで増大し、はじめて日本軍に対し数的優位を確保した。
第2師団が上陸したのは飛行場の西側だった。主力はアメリカ軍の背後を迂回し,川口支隊が大損害を出した「血染めの丘」方面から攻撃し、同時に西側海岸から砲兵隊を中心に陽動攻撃を加えることにした。その後の補給がほとんど当てにできなかったことも有り,百武中将は早期の総攻撃を行おうとした。しかし、十分な機材を揚陸することができなかった日本軍工兵隊は、1枚の地図も無い状態で、ほとんど人力で深い密林を切り開かなければならなかった。やっと開通した60kmあまりの迂回路(丸山道)は下枝を払った程度のもので、夜間ともなると一寸先も見えなかった。第2師団はこの道を手探りで進んでいったが遅々として進まず,攻撃予定は何度も延期された。その間、海岸沿いに進撃した部隊は、アメリカ軍の猛砲撃のために総攻撃以前に戦力を消耗し尽くしていた。そして結局、足並みが揃わないまま、攻撃日時だけが10月24日と決定された。
総攻撃の予定時刻になっても日本軍は飛行場にたどりつけていなかった。夜11時過ぎ、やっと左翼隊がアメリカ陣地に銃剣突撃を始めたが、機関銃の掃射の前に全く成功しない。そのまま夜が明けて攻撃は中止となった。百武中将は翌25日夜も総攻撃を続けたが、前夜と全く同じ結果になり第2師団の総攻撃は失敗に終わった。突撃を試みた日本兵は殆ど全てアメリカ軍の銃弾に倒れた。第2師団の兵士は丸山道を引き返したが途中で倒れる者が多く、丸山道は白骨の並ぶ道と化して行った。
日本海軍は第2師団の総攻撃を支援するためにヘンダーソン飛行場に対する艦砲射撃を計画したが、アメリカ艦隊と遭遇して第3次ソロモン海戦が勃発、なんとか日本軍優勢のまま終結したが、当初の陸軍支援の目的は達せられなかった。
日本軍撤退
この後も,日本軍はガダルカナルを諦められず、第38師団の揚陸を強行するが、アメリカ軍の攻撃のため多くの歩兵が海の藻屑と消えた。ラバウル航空隊が何度かヘンダーソン飛行場を攻撃し,壊滅的な損害を与えたこともあったが(10月14日)、地上部隊にはこの戦果を利用するだけの力は残っていなかった。滑走路はすぐに修復され、日本軍の地上部隊と輸送船を攻撃するための戦闘機を送り出した。
ガダルカナル周辺の制空権はほぼアメリカ軍が握っていたため,日本軍は駆逐艦の夜間輸送に頼らなければならなかった。アメリカ軍はこれを「東京急行」と呼び、指揮官だった田中少将に一目置いていた。しかし、駆逐艦では搭載量に限度があり,2万の将兵を養うことはできなかったため、日本兵は急速に飢えていった。しかも、11月始めからはアメリカ軍の反撃が始まり,日本軍の防衛線は徐々に圧迫されていった。アメリカ軍は11月中旬には6,000人、1月には20,000人と着実に戦力を増強し、最終的には50,000人となり数の上でも日本軍の倍になっていた。
ガダルカナル周辺海域での度重なる海戦でも、日本軍は制海権を得ることができず、補給の道は閉ざされたままだった。陸上部隊では飢餓とマラリアにより1日に100人が死んでいったという。このため、アメリカ軍の攻撃にも全く対処できないところまで疲弊しきってしまった。日本軍大本営は万策尽きたことを認め、1942年12月31日の御前会議でガダルカナル撤退を決定した。
この決定を聞いた第17軍上層部は全軍での突撃を希望したが、天皇の命令で有ることからやむなく撤退に同意したと言う。明けて1943年2月1日、日本軍の撤退作戦が開始された。自力で歩行できる者は西側のエスペランス岬から駆逐艦に乗って撤退した行った。一般兵士には海岸から再上陸してヘンダーソン飛行場を攻撃すると説明したが、いつしか撤退という噂が広まっていたらしい。それでも壊走に至らなかったのは、日本軍の厳しい軍律のためであろうか。2月4日深夜、第三陣の撤退作業が完了しガダルカナル撤退作戦は完了した。アメリカ軍は海からの攻撃を警戒していたため,日本軍の撤退には気がつかなかった。日本のラジオ放送を聞いて半信半疑で前進したところ,日本陣地がもぬけの殻だったことを知った。
日本軍の記録によれば,撤退した日本軍の数は10,660人、ガダルカナルに残された死没・傷病者は21,138人であった。アメリカ軍は,陸海空合わせて死没6,842人と報告されている。
ガダルカナル争奪戦により、日本軍は優秀な人材を大量に失ってしまった。これまで兵士の技量・錬度によって勝利していた日本軍は一気に劣勢に陥ってしまった。逆に、アメリカ軍はガダルカナルを皮切りに、日本本土に向かって北上を開始する。
ミッドウェーとガダルカナルの敗戦を国民に秘匿した日本軍部は、その失敗を教訓にすることなく破滅への道をひた走って行く。
|