ハンニバルの一生・生涯・人生
世界史に登場するハンニバルの一生・生涯・人生
カルタゴの貴族ハミルカル・バルカの長男に生まれたハンニバルは、紀元前221年にリビュア・スペイン軍の総司令官に就任しました。紀元前219年、ローマの同盟都市サグントゥムを攻撃し、8ヶ月もかけて陥落させます。これによってローマはカルタゴに宣戦し、第2次ポエニ戦争が始まりました。翌年、 スペインから出陣したハンニバル率いるカルタゴ軍は、4万名以上の大軍を率いてアルプスの険しい山々を越えますが、15日間に及んだ雪のアルプス越えに成功したのは、約2万名の歩兵と6千名の騎兵そして20頭の戦象だけでした。 12月末、トレビア川でローマ軍を撃退したハンニバルの軍勢は、紀元前217年の6月にトラシメヌス湖畔でもローマ軍を敗北させますが、ローマの独宰官ファビウスは持久戦の構えをとっていたので、決戦は翌年まで延期されます。ローマ軍は一冬の間に人員と物資を集めて、総勢約8万名もの軍隊を準備したのでした。しかし8月2日、アプリア平原のカンネーで決戦を挑んだローマの大軍はカルタゴ軍の見事な包囲作戦によって全滅してしまいます。 「カンネー決戦」の結果、カプアなどの諸都市がローマから離反しましたが、新たに再編成されたローマ軍は徐々に強力になり、補給が困難になっていたカルタゴ軍を圧倒するほどになりました。 孤立していたカプアの町を救おうとしたハンニバルの作戦は失敗し、紀元前211年、ローマ軍はカプアを陥落させ、離反の責任者たちを捕らえて処刑します。この頃のカルタゴ軍の質は低下しており、「メタウルス川の戦い」ではローマ軍に敗れてしまいました。ローマの将軍スキピオはカルタゴの本拠地である北アフリカに軍隊を送り、イタリアから呼び戻されたハンニバルとザマの大平原で戦います。紀元前202年の「ザマの戦い」でハンニバル軍は大敗、カルタゴは敗戦国として不利な条件でローマと平和条約を結び、2年後にハンニバルは将軍職を辞任しました。 紀元前196年に行政長官(スフェス)となったハンニバルは国制改革や財政改革を行いますが、彼の急進的な政策に反対する勢力によってローマから嫌疑をかけられてしまいます。祖国を去る決意をしたハンニバルはシリアに移りますが、ローマから彼の引き渡し要求がきたため、次にビテュニアに亡命しました。 紀元前183年、ビテュニア王プルシアス1世はローマからの引き渡し要求を拒むことが出来ず、それを予期していたハンニバルは毒杯をあおってこの世を去ります。