5分でわかるイエナの戦い
イエナの戦い
フランス帝国(ナポレオン1世:九万六千)VSプロイセン王国(ホーエンローエ大公:六万四千)
背景 1806年、ナポレオンは神聖ローマ帝国を解体し、ドイツにはフランスを盟主としたライン同盟を作る。そして、ドイツの所々にフランス軍を常駐させ、プロイセンを挑発する。 それに対し、フランスの進出に危機感を抱いたプロイセンは同年七月にロシア、イギリス、ザクセン王国、スウェーデン王国と第四次対仏同盟を結び、九月二十六日にフランスにライン河以西からの撤兵を要求する。しかし、その動きはすでにナポレオンに読まれており、ナポレオンはその前日にはパリを発っていた。 十月九日、プロイセンはフランスに宣戦し、十五万の兵力でチューリンゲンへ進撃する。一方ナポレオンもバンベルクに結集させた二十万の兵力でバイエルンよりザクセンへ進撃する。 ナポレオンの作戦はプロイセン軍の進撃すると思われるマインツにモルティエ元帥の第八軍団を置き、残りはプロイセン軍を右翼から包囲する、と言うものであった。 一方プロイセン軍の指揮は国王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世が執っていたが、王には司令官としての経験も能力もないため、実際はブルンスヴィック公が執っていた。しかし、兵制が旧式で封建制の残っていたプロイセン軍は指揮系統がはっきりせず、行動は緩慢であった。 フランス軍は三つに分かれ、イエナ方面へランヌ率いる第五軍団二万二千とオージュロー元帥率いる第七軍団一万七千が向かい、ナウムブルク方面へベルナドット率いる第一軍団二万とダヴー率いる第三軍団二万七千が向かい、スールト率いる第四軍団三万二千とネイ元帥率いる第六軍団二万はゲーラ方面に向かった。 一方プロイセン軍はと言うと、ワイマールのブルンスヴィック公はマクデブルクの予備軍一万五千を率いるヴュルテンベルク伯に自身の率いる本隊六万三千との合流を命じつつ、自身はイエナのホーエンローエ大公軍四万二千との合流を目指し、エアフルトの二万八千を率いるリュッヘルにはザクセン・ワイマール公の分遣隊一万を与えてマインツ方面に向かわせてフランス軍の後を突こうとした。 十日、ザールフェルト近郊でホーエンローエ軍の先鋒ルートヴィヒ親王の師団八千がランヌと戦い、親王は敗死する。これにより撤退の案が出て軍儀は紛糾し、プロイセン軍は時間を浪費する。 十二日、ダヴーがナウムブルクを占領し、ベルナドットは同日その南方に到った。それを知ったブルンスヴィック公は撤退を断念し、決戦を目論む。 十三日、ブルンスヴィック公はホーエンローエ大公にイエナ近郊で敵を迎え撃つよう命じ、リュッヘルにはイエナに向かい、ホーエンローエ大公と合流するよう命じた。そして自身はナウムブルク方面に後退してダヴーを撃たんとした。 一方フランス軍は、同日ランヌがイエナに到りホーエンローエ軍を発見する。その報告を受けたナポレオンはそれがプロイセン軍の本隊だと思って自身は近衛軍を率いてイエナに向かい、スールト、ネイにも強行軍で来るよう命じた。そして、ドルンブルクのプロイセン軍の一隊に側面を突かれるのを警戒して、ダヴーにはアポロダ方面進んで敵の背後を突くよう命令書を送り、ダヴーはその写しをベルナドット宛に送る。 経過 その後 |