九品官人法とは? 中国史
九品官人法
九品官人法とは、中国の魏晋南北朝時代に行われていた人物重視の登用制度
概要
もともと漢代の官僚登用法には、郷挙里選と呼ばれる推薦制度があった。この制度は理念は各地に埋もれている有用な人材を発掘することだったが、推薦制だったがために、地方豪族の政界進出を助けるための道具となって、後漢朝末期には私利私欲にまみれた官僚が溢れて政界の腐敗は極まった。漢朝が滅んで魏が立つと、こうした旧王朝の官僚の処遇をどうするかが大問題となった。もしも彼らを悉く受け入れれば、魏王朝にまでその腐敗が進出しかねず、かといって彼らを野に放つのも危険に感じられたからである。そこで腐臭の中から少しでもマシなものを選んで登用しようと始められたのが、この九品官人法であった。その趣旨は、人物重視の登用であり、中正官と呼ばれる官吏が人物を見極めてランク付けし、そのランクに応じて昇進の上限を決定しようというものである。上限となる官職が九品(九つのランク)に分かれていたのでこう呼ばれる。このような制度が登場した背景には、後漢から三国時代にかけて、巷の間で人物鑑定がブームになっていたという事情があるらしい。以降も恒常的な登用制度として、魏王朝では九品官人法が行われることとなった。
さて、こういう理想のもとに行われた九品官人法であったが、始まった当初から暗雲が漂っていた。それは当時、任子制と呼ばれる世襲制が暗黙の内に認められていたからである。この任子制と九品官人法がいとも簡単に結びつき、しかも任子制の効果のほうが圧倒的に強力に働いた結果、九品官人法が理想とする「人物」の中に「親」や「一族」という要素が含まれてくることとなった。しかも、ただの任子制であれば一代限りで終わった話が(文字通り、高官が子供を官途につけるための慣習であるが、世襲の二代目というのは中々成功しないのが世の常である)、九品官人法という公的な制度と結びついたばかりに、事実上世襲が公認された形となって、代々任子の連鎖が起こり、ここに貴族と呼ばれる階層が誕生した。
当時の中正官はこう考えたに違いない。
「教育の源は親であり、親の顔を見れば子の良し悪しも分かる」
これはある意味もっともらしい理屈であるが、もっともらしかっただけに世襲を正当化する格好の材料にされてしまったわけである。以降中正官は能力よりも家柄を重視し、任官者の郷品(昇進上限のランク)とそれに応じた起家官(最初の官職で、郷品より四等低いランクの官職が普通だった)を決定する事となった。
九品官人法の傍ら、郷挙里選の後身とも言える秀才孝廉制度が存在していた。これは民間で学のあるものを推薦し、試験を受けさせてその結果に応じて起家官を与えるもので、貴族制の弊害を補うものであった。しかし貴族制度全盛の時代にあっては影が薄く、一般的に起家官も貴族より低く抑えられており、出世できた者は限られていた。この傾向は東晋以降も変わらなかった。
南朝の九品官人法
九品官人法は魏から西晋へと伝わり、晋は南遷して東晋となり、その後も陳王朝が滅亡するまで、多少の変革を経ながら南朝で行われ続けた。さて東晋の時代になると西晋時代にかろうじて残っていた九品官人法の当初の趣旨などは完全に没却され、ただ貴族階級を存続させるためだけの制度と化した。門地二品と呼ばれる貴族たちは、官途についた時から二品官職への昇進が約束されており、こうなると政治上の功績を積んでも昇進に関係が無いので、貴族同士の社交会などに入り浸って哲学談義をすることを生きがいとするようになった。また、同じ門地二品と定まると、今度はどの官職を経由したかが新たなステータスになり、清官、すなわち貴族にふさわしい官職とそうでない濁官の区別が生まれた。ちなみに彼らにとっての清官とは「とにかく暇な閑職」を指しており、長官より次官以下を好むなどの奇妙な現象が発生した。彼らにとって見れば、仲間との哲学談義こそ貴族の嗜みであり、高い地位に昇っても仕事に追われるようでは元も子もなかったのである。彼らは政治にも、国家にも、そして皇帝にも興味がなかった。なんせ貴族たちがその血を代々伝える一方、王朝の方は数十年ごとに革命が繰り返され、その度に前の皇帝一族は皆殺しにされた。つまり貴族の方が皇帝よりもずっとずっと古い血を伝えていたのである。これでは血族を何よりも尊ぶ貴族たちが内心で皇帝を見下すようになってしまうのも無理の無い話であった。
貴族たちが哲学談義に耽っている一方で、実際の政治はそれ未満の階層の人々が担当した。後に彼らは皇帝と直接結びつき、あたかも新政権のような政府を作り上げ、貴族に変わってその権力を行使するようになっていった。こうして貴族制度が有っても貴族政治とは言い難いなんとも不思議な時代が、梁代の頃になって出現したようである。
北朝の九品官人法
翻って北魏政権、すなわち北朝に目を向けてみると、そこには南朝とは異なる北方民族らしい素朴な身分制度が存在していた。元来北朝建設の功臣は、腕一つで成り上がってきた武人たちであり、彼らにとって見れば、南朝の惰弱な貴族文化の如きは受け入れ難かった。しかし彼らは南朝に対する文化的な後進性は自認しており、文化や制度においても絶えず南朝の影響にさらされ続けた。やがて漢民族の文化に心酔する孝文帝の時代になり、半ば強引な形で、北魏にも(貴族制度と化した)九品官人法が若干修正された形で導入された。しかし結局のところ、これはなかなか定着しなかったようである。そもそも家柄の上下を決めるところから議論が紛糾し、中正官に対してあちこちから怨嗟の声が飛び交っていた。もともと実力主義の北方民族には、南朝の貴族制度の意味を理解することは困難であった。
彼らは貴族制度を理解できなかったが、漢代の郷挙里選の伝統を受け継ぐも、いまや南朝では全く不遇の制度と化していた秀才孝廉制度に対しては、「何それ公平ジャン」と好意的であった。こうして、九品官人法の陰に隠れていた秀才孝廉制度が、意外にも北朝において俄に注目を浴びることとなった。そしてこの秀才孝廉制度こそが、後の科挙の起源になったのである。
隋の統一と科挙の成立
秀才孝廉制度を発展させて登場した科挙は、北朝を受け継いだ隋によって初めて実施された。漢民族が自らの手で葬り去った理想が、異民族の王朝を経て再び世に示されたことは皮肉である。そして最終的に隋が南朝を滅ぼしたことにより、科挙制度は中国的な制度として完全に定着することになった。
人物重視という名目で始まった九品官人法だったが、その周りには親が有り、一族が有り、行き着いたところは家柄による貴族制であった。この弊害を身を持って経験した中国人が到達したのは、結局のところ「ペーパーテストが最も公平」という結論であった。また郷挙里選のように他薦に頼っていては、有力者の子弟が跋扈する世に逆戻りしかねないので、自薦を基本とする形式に転換した。自分の意志で試験に応募して、採用を求めるという現在当たり前の形式は、この時に初めて生まれたのである。中国文明は、南北朝という困難な時代を乗り越え、その刺激を糧として、また一つ、大きな進歩を遂げることとなった。