マルコ・ポーロの一生・生涯・人生
マルコ・ポーロは『東方見聞録』を著した人物として知られます。マルコ・ポーロは元の時代の中国にわたり、皇帝フビライに17年間仕えて、ヴェネツィアに帰国しました。東方見聞録は、『世界の記録』という名前や『百万』という写本名でも知られ、ヨーロッパにアジアに対する大きな関心を呼び起こさせ、その後の大航海時代にも大きな影響を与えました。しかし、その内容が、あまりにも当時の常識を超えるものだったため、ほら吹き扱いされました。
中国側の資料にマルコ・ポーロや、マルコ・ポーロに相当する人物の記述がないことが、マルコ・ポーロの業績、それどころか、マルコ・ポーロの存在自体に疑問を投げかける要因にもなっています。しかし、その内容にはフビライの近くにいた人間しか知りえないような情報も交じっており、この当時、帝国各地へ訪れていたヴェネツィア商人の話を、マルコ・ポーロという人物に仮託してまとめたものであるという説もあります。東方見聞録では、東西に伸びる元の交通路はとても安全に整備されいるさまが紹介されいます。その交通路を通り、ヴェネツィアの商人や西欧人が帝国各地へ数多く訪れていたことが記録に残っています。
東方見聞録によれば1271年に、父のニコロ・ポーロ、叔父のマテオ・ポーロらとヴェネツィアをたちました。この年に、国号は元と改められました。1275年に元に至り、フビライ・ハンに謁見することが出来ました。17年間フビライ・ハンに仕え、3年間揚州の行政官を務めるなど重用されました。1290年に、帝国内のイル・ハン国の使節団が帰国するのに随行し、南中国の泉州を抜け、ペルシア湾のホムルスへと向かいました。ホムルスで使節団と別れ、ヴェネツィアへ向かい、帰国しました。
その後、ジェノヴァとの戦争に参加したマルコ・ポーロは1298年に捕虜になり、同じ獄中で知り合ったルスティケロに東方見聞録を口述しました。東方見聞録はヨーロッパでは、一種の空想小説として受け入れられ、マルコは『百万のマルコ殿』と揶揄されました。そのあだ名の理由は「アジアから持ち帰った財宝によって百万長者になったから」など諸説あるようですが、個人的には「モンゴル帝国の威容を語るのに、事あるごとに百万、百万と連呼したから」という説を支持したいと思っています。当時、1つの都市人口は約3万人という西洋にあって、元の繁栄ぶりはとても信じられなかったでしょう。
マルコ・ポーロは日本を黄金の国ジパングとして西洋に伝えた人物として知られます。マルコ・ポーロ自身は日本へ来たことはありませんでした。噂話として、ジパングの無尽蔵な富を西洋に伝え、大航海時代にはジパングを目指して冒険者たちが海に乗り出しました。