5分でわかるライプツィヒの戦い
by
sekaishi1
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· 更新済み
フランス帝国
ワルシャワ大公国
ライン同盟 |
VS |
オーストリア帝国
プロイセン王国
ロシア帝国
スウェーデン王国 |
ナポレオン1世 |
|
シュヴァルツェンベルク
ブリュッハー
バルクライ
ベニグセン
ベルナドット |
|
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150000 |
|
350000 |
背景
1813年始め、ナポレオンはロシア遠征によって消耗した軍事力の再建を目指して徴兵令を出す。一方、今が好機と見たプロイセンはロシアと同盟して2月22日にフランスに挑み、ベルリン、ハンブルクのフランス軍を撤退させたが、ナポレオンの出陣により連敗に連敗を重ねた。6月4日に両国はオーストリアの仲介で休戦する。その中休みを利用してプロイセンは軍備の増強をし、6月15日にはイギリスとプロイセンとロシアが、27日にはオーストリアとプロイセンが同盟を結んだ(第六次対仏大同盟)。7月にはかつてのフランス元帥ベルナドットが皇太子となったスウェーデンもこの同盟に加わった。
8月10日、休戦期間が終了し、フランスは440000、対仏同盟国は510000の兵力を揃えた。しかし、フランス軍は度重なる戦争によりベテラン兵は死に、経験と鍛錬の不足した兵士ばかりだった。
オーストリア軍がフランスの属国イタリアに侵攻し、イギリス軍はイベリア半島のフランス軍に襲い掛かった。数カ国との戦争により、新兵ばかりのフランス軍の消耗は激しかった。さらに連合軍は直接ナポレオンと戦わずに、力量ではナポレオンに及ばないフランスの元帥や将軍を優勢な兵力で各個撃破するという作戦を執ったため、ナポレオンは次第に追い詰められていった。10月にはフランスの属国バイエルン王国がフランスを裏切り、オーストリアと同盟を結んだ。
後退したナポレオン率いるフランス軍150000は、決戦を目論んで10月15日にライプツィヒに布陣した。軍には病人が多く、兵力は劣勢。元帥たちはこれでは到底敵には勝てないと考えていたが、兵士たちは天才ナポレオンに率いられていることから勝利を信じきっており、奮い立っていた。ナポレオン自身もまたそうだった。
経過
16日、ブリュッハー率いるプロイセン軍54000、シュヴァルツェンベルク率いるオーストリア軍がフランス軍に攻撃を仕掛け、フランス軍は何とか食い止めることに成功した。特にマルモンは敵の半分の兵力であるにもかかわらず、ブリュッハーを見事に撃退した。
17日、ベルナドット率いるスウェーデン軍60000、ベニグセン率いるロシア軍60000が到着した。この日は小競合いに終始し、大きな動きはなかった。
18日正午、昨日の援軍によって数的にフランス軍に圧倒的差をつけた連合軍はついに総攻撃に移った。戦いの最中、フランス軍に味方していたザクセン軍(マルモン軍の右翼)が連合軍に寝返り、マルモン軍を側面から攻撃しだした。正面からブリュッハー、右からザクセン軍の二方向から攻撃されたマルモンは大きく後退する。
フランス軍をこのように脅かしたものの、結局連合軍はフランス軍を抜くことが出来ず、午後6時にこの日の戦闘は終了する。
19日、再度連合軍はフランス軍への攻撃を敢行する。前日までの激戦によって弱りきっていたフランス軍は優勢な敵を食い止めることが出来ず、ついにエルスター川を渡っての退却を開始する。退却の際、まだ全軍がわたり終えていないにもかかわらず、退路のリンデナウ橋が誤って爆破され、マクドナルド、ポニャトフスキーらの率いる20000の兵士が対岸に取り残された。大半は捕虜になった。一部は泳いで川を渡ろうとしたが、溺死するものもいた。マクドナルドは泳ぎきったが、ポニャトフスキーは溺死した。
この戦いでフランス軍は45000の死者と15000の捕虜を出したのに対し、連合軍は75000の死者と5000の捕虜を出した。
その後
その後、フランスはドイツの都市を撤退または降伏によって次々と手放し、11月20日にはライン同盟が崩壊する。
翌年1月には戦場はドイツからフランスに移る(「フランス戦役」)。一連の敗北によってナポレオンは国内の支持を失っていたが、劣勢の中獅子奮迅の戦いを見せて幾つもの会戦で勝利した。しかし、パリを守るマルモンが皇帝の許可もなく降伏したことにより、フランスの敗戦が確定した。
そして、部下に退位を迫られたナポレオンは退位した。4月12日、ナポレオンは自殺を図ったが、使った毒が古すぎて失敗した。
20日にはフォンテーヌブロー宮殿で近衛兵に別れを告げて、ナポレオンはエルバ島に流された。 |