三国史に登場する三国以外の人物
張角
曹操、劉備、孫権、孔明ときて何で張角を取り上げるかと言うと、
まあ、気まぐれなんですが三国志が始まる上では重要(?)人物なんで、取り上げてみることにしました。
張角は「太平道」の教祖である。
ある日山で、南華老仙に会い「太平要術」3巻を授かる。張角は日夜勉強し、
病気で苦しんでいる人達を助けた。
次第にうわさをよび、張角に弟子入りしたいという者が後を絶たなかった。
そして、ついに集まった人達と後漢に反乱を起こすわけである。
自ら「天公将軍」、張角の弟2人を「人公将軍」「地公将軍」とした。
「蒼天已に死す。黄天当に立つべし。歳は甲子にありて、天下大吉」
(蒼天は漢、黄天は黄巾をさす)と言いふらした。これが黄巾の乱である。
しかし張角は病死したため、反乱はすぐに鎮圧されてまった。
この反乱で、劉備と曹操は活躍する。
董卓
董卓(とうたく)、字は仲穎(ちゅうえい)。隴西の人。
デブのスケベじじいであり、どうしようもない悪人。
三国志の登場は、劉備に救われるところである。
黄巾賊と戦う董卓だが、敗れた。そこに通りかかった劉備がたすけた。
董卓は劉備たちが官職が無いと知ると、手のひらを返して、粗末な扱いをする。
黄巾との戦いで負け続けたが、宦官グループ「十常侍」に賄賂を贈って 罪を免れた。
後、何進が官宦誅滅の呼び掛けを行ったので、董卓も文書を受け取り、
洛陽に向かった。都では宦官誅殺で大混乱していた。
外に連れ出された 少帝(劉弁)と陳留王(後の献帝劉協)は崔毅と云うものに保護されて、
都に帰る途中、董卓は少帝らと出会う。その時、威風堂々とした陳留王を見て 少帝を廃して陳留王を帝にする考えを抱いた。
董卓は百官の前でこの考えを述べたが、荊州の刺史・丁原(ていげん)が「国家の大事を 臣下が口出すことではない」と反発した。
董卓は武力にまかせ丁原を斬ろうとしたが、丁原の背後に呂布(りょふ)を見た李儒((りじゅ)董卓の部下)はこれを止めた。
翌日、丁原は戦いを挑み、董卓は呂布に歯がたたず大敗した。
そして董卓は呂布を味方に引き入れようと、李粛に金銀と赤兎馬を持たせて、
説得させた。これがものの見事に成功し、呂布は丁原を殺し董卓の元に走る。
これで、董卓は恐いものなしとなっていた。
そしてついに中平6年(189年)九月、董卓は廃立を強行した。
少帝から帝位を、何太后(何進の妹、霊帝の子劉弁を産む)からも位を奪い、
陳留王を即位させる。
そして、董卓は相国(天子をたすける役目)となって、権力を振るう。
李儒は詩にうらみごとが書かれていることを口実に弘農王(元少帝)と何太后 を殺害し、ますます暴虐になる。
夜は女官を犯し、帝の寝室で寝て、陽城の近くの村祭りで襲って男を皆殺しにし、
女と財産をぶんどった。このような行為を見かねた伍孚(ごふ)は董卓に襲い掛かると 董卓は逆にねじ伏せ、五体バラバラに斬り刻ませた。
その後、曹操は王允から宝刀を借りて、董卓を暗殺しようとしたが、姿が鏡に写り 失敗。李儒は曹操の態度がおかしいことに気付き、賞金をかけて人相書をだした。
曹操は袁紹を盟主とした反董卓連合を作った。
董卓は連合軍がシ水関に攻め寄せるとの聞き、部下の華雄を軍としてくり出す。
華雄が関羽に敗れると、部下の李カクと郭シにシ水関を守らせ、
董卓は呂布・李儒らと虎牢関を守る。呂布は劉備・関羽・張飛を相手に苦戦する。
董卓は連合軍の連係を切るため孫堅に縁談を持ちかけるが断られた。
李儒は董卓に洛陽から長安に遷都をすすめる。朝廷のものは反対したが、
罷免されたり、首を斬られた。董卓は兵士に略奪を許し、洛陽に火を放った。
呂布には帝の墓をあばかせ、金銀財宝をとってこさせた。
そして、強制で遷都を行った。連合軍は玉璽(帝の印鑑)の発見から次第に仲間割れをし 軍が解散した。そのため、董卓はますます残虐になった。
ビ(地名)に城を建て、20年の食糧、金銀財宝、美女八百人を集め、楽しんだ。
宴席では、自分を裏切ったものを呂布に斬らせ、盆にのせ、諸侯に見せたり、
捕虜数百人の手足を切らせ、眼をえぐり、舌を引き抜き、大鍋で煮殺して楽しむ。
王允は董卓の無道ぶりに、気分は暗い。
そして、ついに美女・貂蝉(ちょうせん)に「連環の計」を実行させる。
まず、呂布に貂蝉を見せ貂蝉を差し上げると言う。
そのあと、董卓を呼び貂蝉を見せて董卓に献上する。
怒る呂布だが、主君で、義理の父である董卓には簡単に手が出せない。
董卓は自分の看病も貂蝉にしてもらう。貂蝉は呂布に「どうかわたしをあの男から 救ってください。董太師様(董卓のこと)には逆らえず、あなたの妻になれません。」 と池に身を投げようとする。呂布はこれを止め彼女を慰める。
これを知った董卓は「貂蝉をたぶらかしたな」と戟を投げて怒る
。 李儒は「貂蝉くらい呂布にくれればよいのです。呂布を失ったらどうしますか」と諌めた。
董卓ももっともだと思った。しかし、貂蝉は「呂布様は嫌がる私をおかそうとしたので、 池に身を投げようとしたのです。呂布様のもとに行くぐらいなら死にます」と言ったので 董卓も「お前は誰にも渡さない」といった。李儒は「われわれは女の手にかかって 死ぬのかと嘆じた。
王允は呂布に「貂蝉が奪われて私は年寄りだから良いが、呂将軍は妻を奪われたわけで 英雄として恥でしょう」と巧みに説得した。呂布はついに董卓を殺す決意をする。
王允は献帝が帝を譲るとして、董卓を呼び出した。
董卓の母親は胸騒ぎがするといったが、董卓は聞かず、行く途中、車の車軸がおれた。
李粛は「ものが新しくなる兆しです」とごまかした。
また行くと、濃霧があたりを覆った。李粛は「天の御威光にかすんでしまったのです」 といった。
夜は「千里の艸、何ぞ青々たる。十日トえども生くるを得ず」 (千里艸で董、十日トで卓なので、董卓は生きられないと言う意味) という詩が聞こえてくる。
李粛は「漢の劉氏が滅び、董氏がおこるしるし」と言った。
翌朝、道士が竿に布を垂らし布には「口」の字を二つ書いて現われた。
(口がふたつで呂、布に書いているから、呂布の意)
李粛は「あれは気が変なのです」といった。
董卓が宮中にはいると、王允が「国賊を討て!」の一喝。
呂布が董卓を突き刺し、ここに董卓は人生を閉じた。
初平3年(192年)4月22日董卓54歳であった。
いやあ、董卓は腐りきった役人の見本だと思う。
董卓が斬首されたあとも人民はそのさらし首を足蹴りしたり、石を投げつけたほど。
どんなにひどかったかがうかがえる。
董卓は肥っていたから、ある兵士が董卓のへそに芯をつけて火をつけたところ あくる日まで火は消えず、脂は地面に流れ落ちるほどだった。
なお貂蝉だが、貂蝉は演義での人物なので実在はしない。
呂布
呂布、字は奉先。九原の人。顔かたちがよく、威風堂々。
武器は方天画戟(ほうてんがげき)。三国志のなかで最強の武将。
始めは荊州の刺史・丁原に仕えていたが、董卓が赤兎馬を送ったので、 丁原を殺し、董卓につく。反董卓軍との戦いでは、劉備、関羽、張飛の3人相手で戦う。
しかし、王允が仕組んだ連環の計にかかり、貂蝉をめぐり董卓と対立。
ついに、王允にのせられ、董卓を殺してしまう。
(この辺までは董卓コーナー参照)
このあと、李カク、郭シら、元董卓配下の連中が仇を討ちに来る。
夜襲をかけられ、部下達も投降する。呂布は百余騎で袁術を頼るが、袁術は 受け入れなかった。呂布は袁紹を頼った。しかし、張燕を破ったことで、
傲慢になった呂布は、袁紹に殺されそうになる。呂布は張楊のもとに身を寄せるが、
やはり暗殺されそうになる。ようやく、張バクのもとにおちつく。
呂布は留守の曹操をせめて濮陽をとるが、曹操はエン州、濮陽を取り返したため、
またもさすらいの身となる。そして、徐州の劉備のもとに落ち着く。
陳宮のすすめで、劉備が留守中に徐州を奪ったが劉備と和解し、そのまま徐州に落ち着く。
のち、劉備と袁術の仲をとりもち和解させる。袁術との縁談を決めかけるが、 陳登親子の忠告で止める。張飛が呂布の馬を奪ったため、劉備と仲が悪くなり、 劉備は曹操の元にいく。曹操は呂布を殺しておかなくては、と考え呂布をせめる。
呂布は下ヒに立て篭り。陳宮の言うことは聞かず、妻妾の言うなり&酒浸り。 今度は、急に禁酒令を出してみたりする。
ついに、部下の侯成、魏続、宋憲らに裏切られ捕まった。
曹操の前に引き出された呂布は命乞いをはじめる。曹操は劉備に意見を求める。
劉備は「この男が、丁原・董卓と義父二人殺したのをお忘れか」と言う。
呂布は「この大耳ヤロウ!戟で命助けたのを忘れたか!」(劉備と袁術との仲介の恩をさしている)と言う。
結局自分の部下張遼から「見苦しい」と言われ、このあと絞殺され、 さらし首となった。
呂布はちょっと自分勝手かなあと思う。
ちょっと演義の最後は情けない。
横山光輝のアニメ三国志の最後のほうがかっこよかった。
(あのアニメ、赤壁で終わってしまって残念!ちなみにアニメでの最後は 雪原で矢を受けて死ぬ)
もし曹操が呂布を許したら、どうなったろうかと思う。
孔融
孔融、字は文挙。北海の太守。孔子の子孫。
曹操の手紙で董卓討伐軍に参加した。
その後、曹操は父を殺された復讐のため、陶謙を攻める。
陶謙は援軍を申し込んできた。しかし、この時、黄巾の残党がおり、思うようには
いかなかった。孔融は太史慈を使者にだし、黄巾の残党・管亥(かんがい)討伐の
援軍を求めた。
劉備は孔融の元に駆けつけ、関羽、張飛、太史慈が見事に働き管亥を蹴散らした。
孔融は劉備と相談をし、孔融は陶謙の援軍に出向いた。
後、孔融がたまたま許都に滞在していた時である。
曹操は太尉の楊彪(ようひょう)が袁術と親戚であるため、楊彪が裏切りはしまいか、
と考え楊彪を投獄し厳しく訊問した。
孔融は「楊氏は四代続いた名門、袁氏の関係ぐらいで罪に落とすことがあろうか」
と諌めた。
曹操は承知しなかったが、孔融は更に諌めるのでついに曹操も楊彪を免官にし
故郷に帰すだけに止めた。
また、曹操が袁紹と開戦するとき、孔融は「袁紹の部下は強者ぞろい、和睦がよろしいでしょう」と言ったが、荀イクは「袁紹の部下は傲慢、わがまま、人の言うことは聞かない。
内輪もめするにきまっています」と言われて黙り込んでしまった。
劉備を攻めていた劉岱・王忠が負けて戻ってきたので、曹操は怒り二人を斬ろうとしたが
孔融は「この二人は役不足です。斬ったところで兵士からの人望を失うだけです」と言い、
更に「今季節は冬、兵士を動かす時ではありません。春までまつまでに、人をやり 張繍、劉表を帰順させるべきです」と進言した。
曹操は荀攸を遣って孔融に劉表の元へいくように言ったが、孔融は使者に禰衡を推挙した。
(この後のいきさつは禰衡コーナー参照)
後、太中大夫(帝の顧問役)になっていた孔融は、曹操が江南を攻めようとした際、
「劉備、劉表は漢王室の方、孫権は六郡にまたがったうえに長江の要害があります。
大義のない戦はしてはなりません」と諌めたが、曹操は「その者達は逆臣じゃ。
征伐するべきではないのか」と怒った。
孔融は丞相府から出ると、天を仰ぎ「不仁のもの(曹操を指す)が仁義(劉備を指す)
を討つ。勝てるわけがない」と言った。
しかし、これを聞いていたチ慮という者に密告されてしまった。
曹操は怒って、孔融を捕え処刑し、一族のものも打ち首になった。
死骸は孔融の友人・脂習によって葬られた。
霊帝・少帝
霊帝・本名は劉宏。後漢第12代目の皇帝。
大将軍・竇武、太傅・陳蕃らが宦官誅殺を企てるが失敗する。
そして、184年黄巾賊の乱が起こる。
霊帝は、皇子であった劉弁より、王美人の産んだ陳留王・劉協
に後を継がせようと考えていた。宦官・蹇碩に相談し、外戚である
何進を殺し、勢力の一掃に同意した。
しかし、中平6年(189年)夏に病死した。
桓帝と並び、後漢の暗皇帝の代名詞である。
少帝・本名は劉弁(劉辯)後漢第13代目皇帝。
大将軍・何進の妹、何皇后と霊帝との間の子である。
霊帝死後、何進によって皇帝に立てられる。しかし何進は宦官らに
殺され、袁紹らは宦官誅殺を行う。
この時、少帝は陳留王の協皇子と一緒に宦官・張譲らに連れ出されてしまう。
張譲らとはぐれた少帝は、陳留王の励ましを受け、なんとか
崔毅の屋敷にたどり着き、無事保護された。
しかし、董卓が少帝を廃し、陳留王を皇帝とした。(献帝である)
少帝は弘農王となったがやがて、毒酒を飲まされ葬られた。
献帝
献帝、本名は劉協、字は伯和。
後漢最後の皇帝。霊帝と王美人の間の子である。
霊帝の母、董太后によって陳留王になる。
袁紹らの宦官誅殺の時、少帝と一緒に宦官・張譲らに連れ出されてしまう。
張譲らとはぐれ、少帝を励まし、蛍の光に導かれ、霊帝の時の司徒・崔烈の弟、崔毅の屋敷に
たどり着く。王允らの出迎えを受け、やがて出現した董卓の軍勢の前で、
堂々とした態度を見せる。
董卓は、少帝を廃し、陳留王を皇帝に立てた。(献帝となる)
しかし、年は9歳。実権は董卓の手にあった。
やがて、董卓は配下の呂布に殺されるが、旧董卓の配下であった
李カク・郭シに宮中になだれこまれ、今度はこの二人が実権を握った。
献帝は楊彪に李カク・郭シの仲を割らせようとした。
しかし、この結果両者が長安城内で合戦を始め、献帝は李カクによって
ビ城に閉じ込められ、飲食もろくにできない有り様だった。
なんとか、李カク・郭シの手を逃れ、楊奉、董承らと洛陽を目指した。
そこへ、曹操の大軍が現れ、曹操は献帝を擁して、許へ遷都する。
後に、劉備の家系を調べ、劉備を左将軍宜城亭侯とした。そして、おじおいの礼をとった。
許田の巻き狩りで、曹操は帝の矢で鹿を射て、万歳を帝の前で受けて諸侯の反応を見る。
献帝は、伏完らに相談し、曹操誅殺の血書を董承に与える。
しかし、董承の下男が曹操に密告したためことが漏れ、董承の妹で
夫人であった董貴人は献帝の目の前で殺された。
後、曹操が魏公になった時、再び密書を伏完のもとに届けようとした。
しかし、事は漏れ、穆順、伏完の一族は皆殺しにされた。
曹操死後、息子の曹丕は曹操以上に献帝をないがしろにし、ついに
禅譲を迫った。曹丕は部下の勧めで、形式上3回帝の位の謙譲を辞退したが、
その後、玉璽を受けた。献帝は山陽公となり、即日の出立になった。
献帝はその後、234年に世を去った。
司馬徽
司馬徽、字は徳操。潁川の人。道号は水鏡先生。
荊州の劉表の部下、蔡瑁に追われて逃げてきた劉備に宿を貸した。
そして、軍師を迎えることを勧めた。
その時、伏龍、鳳雛の名を挙げた。劉備が本名を尋ねると
「よいかな、よいかな」と言うだけであった。
その夜、劉備が寝た後、徐庶が訪ねてくる。
徐庶は劉表に失望していた。
司馬徽は、「まだ仕える主はいるではないか」と
徐庶をたしなめた。
翌日も劉備は伏龍・鳳雛を聞き出そうとするが、
司馬徽は答えなかった。
劉備は趙雲がやってきたので新野に帰った。
後に、司馬徽は、劉備の所にいる徐庶に会うために新野にやってくる。
劉備から徐庶が居ないわけを聞き出すと、「臥龍も主を得たが、時を得ず」
といって、その場を立ち去った。
次の逸話は実業の日本社「三国志百科」に載っていたものです。
ある人が死んだときで、司馬徽は口癖の「よいかな、よいかな」が出てしまった。
奥さんが「それはないでしょう」と言うと
「おまえが言うこともなかなかよいかな」と答えたとか。
朱儁
朱儁、字は公偉。
霊帝の時、何進の命令で黄巾賊討伐に向かう。
張梁、張宝を火攻めで破る。
劉備がやってくると、手厚くもてなし、
張宝の軍勢と戦う。劉備や孫堅の助力で、残りの
黄巾を平らげ、河南の尹となった。
しかし、宦官への賄賂を拒否したため、罷免された。
後に、李カク・郭シが政権を握ると、
かづきだされ、太僕となった。
黄巾賊残党平定に曹操を推挙した。
朱儁は太尉・楊彪と李カク・郭シの誅殺を奏上した。
そして、李カク・郭シを仲たがいさせるが、
李カクが、献帝を虜にしてしまった為に、
楊彪らと李カクに和睦を勧めに行った。
しかし、李カクは言うことを聞かなかった。
朱儁は帰宅すると、病に伏して亡くなった。
皇甫嵩・盧植
皇甫嵩、字は義真。
霊帝の時、何進の命令で黄巾賊討伐に向かう。
張梁、張宝を火攻めで破る。
曹操と連合して張梁を斬り殺し大勝をおさめた。
車騎将軍、冀州牧となった。
罪をかぶっていた、盧植の無実を証明し、盧植を
復職させた。
しかし、自分も賄賂を贈らなかったので、
罷免されてしまう。
その後、董卓が呂布に斬られた時、呂布、李粛と共に
ビ城開放に協力した。
盧植、字は子幹。
劉備の学問の師。霊帝の時、何進の命令で、中郎将として
黄巾賊討伐に向かう。
この時、加勢に来た劉備に再会する。
官宦・左豊に賄賂を贈らなかったので、罪に陥れられる。
後に、無実が証明され復帰きた。
後、何進に董卓は都に入れるべきではないと進言したが
何進は聞き入れなかったので、官を捨てて宮廷を去った。
しかし、宦官誅殺事件が起こり、盧植は何太后を救出した。
後に、董卓の少帝廃止に反対した。董卓に斬られそうになるが
周囲のとりなしで、事無きを得た。