関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか語るスレ 日本史スレ
前スレ
関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part16
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1530344370/
改めて乙
テンプレはちょっと整理したほうがいいのかな?
6月2日 会津征伐を関東諸侯に通達
6月6日 会津征伐に関する軍議
同日 芳春院(まつ)、人質として江戸に到着
6月16日 家康、大坂出陣
6月18日 家康、伏見出発
7月1日 家康、江戸到着
7月2日 秀家、出陣式
7月12日 前田、増田、長束(以下三奉行)輝元に大坂出陣を要請
7月15日 輝元、広島出発
7月17日 三奉行「内府ちがひの条々」、細川ガラシャ自害
7月19日 輝元、大坂城入城、伏見城攻防戦開始、秀忠が会津へ出陣
7月21日 家康、江戸から会津に向け出陣
7月22日 秀家、伏見到着
7月25日 伝「小山評定」
7月26日 東軍諸将、西進 利長、金沢を出陣
7月29日 三成伏見到着
大坂で毛利は籠城できたという方がいらっしゃったので「本戦」以降も少し加筆しました。
しかしまあ、本戦後の西軍は一気に士気崩壊しているイメージができましたね。
表記揺れがあるのを修正したいのと、「細川ガラシャ自害」みたいに呼んでくれた人がいろいろ連想してくれることを前提にしています。
()内は兵数
日付は和暦です。多分。以前からのものは大丈夫だと思うけど、加筆分には西暦も混じっているかもしれない(汗
行数削減のために同じ日に起きたことは1行にまとめることを基本としています。
例外は9月3日と15日で書くことが多すぎたから。
合体の過程で京極が北国組だったこととかも省略しています。
参考になりましたら幸いです。
8月1日 西軍伏見城攻略
8月2日 前田勢大聖寺城攻略
8月3日 大谷ら約6000敦賀着陣
8月5日 家康江戸入城
8月8日 前田勢約25000大谷らの流言飛語に掛かり金沢へ引き返す
8月10日 石田、小西大垣到着
8月14日 東軍先発諸将3万数千清洲到着
8月17日 伊勢方面攻略隊より小早川秀秋勝手に行軍より離脱、病と称し近江を放浪
8月20日 島津義弘大垣到着
8月22日 東軍先発諸将木曽川渡河、織田秀信迎撃失敗岐阜へ敗走
同日 島津義弘墨俣の守備に就く
8月23日 東軍岐阜城攻略
8月24日 西軍鍋島ら伊勢松阪城攻略
同日 東軍先発諸将赤坂に布陣
同日 秀忠宇都宮城を出陣
8月25日 西軍毛利秀元ら伊勢安濃津城攻略
8月27日 宇喜多秀家、長島城攻略を止め大垣入城
9月1日 岐阜城落城の報告を受け家康は江戸から出陣
9月2日 大谷ら関ヶ原山中村着陣
9月3日 犬山城開城。石川貞清ら一部を除いてほとんどが東軍につく
同日 西軍の北陸方面守備担当京極高次が大津城に帰城、東軍方として
兵3000で籠城する
付近にいた毛利元康、立花、筑紫ら約1万5千がこれを攻める
9月3~5日頃 相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら大垣入城
9月上旬 鍋島勝茂南宮山へ向かう西軍主力から離脱、伊勢美濃国境付近に留まる
9月7日 毛利秀元、吉川ら毛利勢南宮山着陣
9月7日頃 小早川秀秋佐和山付近をうろつく
9月8日 家康が西上したことにより上杉軍が最上領へ侵攻
9月9日 大久保忠益が秀忠の元に到着、即日上田攻めを中止
9月9~10日 尾張の野間・内海にて毛利水軍が合戦
9月10日 秀忠西上開始。家康、熱田到着。
9月11日 前田利長再び金沢出陣(今回は利政抜き)
同日 家康清洲入城
9月13日 西軍小野木ら約15000、丹後田辺城を開城する
9月14日 家康赤坂着陣。秀忠信濃本山(塩尻の少し南)到着
同日 小早川秀秋、伊藤盛正追い出して松尾山占拠
同日 西軍毛利元康ら15000、大津城攻略
9月17日 秀忠妻籠(信濃美濃国境付近)到着
9月18日 東軍前田利長小松城を開城させる
9月19日 東軍前田利長北ノ庄城を包囲
9月20日 家康大津入城、秀忠大津に到着
作戦練る際の参考に。あと訂正等あればよろ。
上流渡河組:池田6500、浅野5000、堀尾4000、山内2600、有馬豊氏2200、松下重綱1000、
一柳直盛ら計21300~22000
下流渡河組:福島6500、黒田1300、加藤1600、細川2000、田中4000、藤堂1500、筒井1000、
京極1500、本多俊政、生駒一正、松倉重政、神保相茂ら計20000~22000
下流渡河組の後続として本多忠勝、井伊直政。
犬山城の抑えとして中村一氏代理の中村一栄ら3000~4000
清洲城守備:石川康通、松平家清、奥平貞治、(松平忠吉)ら5000~8000くらい?
これとは別で徳永寿昌、市橋長勝らが8月中旬頃より木曽川方面の西軍諸城攻略して暴れてる。
あと木曽川渡河後は大垣城からの後詰阻止隊として黒田、藤堂、田中の陣容。
東軍先発隊が35000だとすると実際はこんなもんでしょうか。
上流渡河池田隊:15000 下流渡河福島隊:14000
犬山城抑え:3000 清洲城守備:3000
・戦死75名、負傷226名。死傷者計301名。
負傷内訳:銃創126名、槍創60名、矢創24名、刀創1名、銃槍創5名、銃矢槍創2名、
矢槍創8名、計226名。
吉川広家が推測で兵3000引き連れていたとしたら、安濃津城力攻めでの死傷率は10%と言える。
けっこう高いね。
毛利の他隊も同様の損害が出てるなら、南宮山の秀元&吉川は13500くらいかもしれない。
それと東軍先発隊の兵数については、一般的には約35000と言われているけど、
>>4にあるように福島覚書準拠でいくと49300~58000くらい?となる。
かなり差があるのでこれをどう見るか、だけど。
あと安濃津に残置してる兵もいくらかいるっぽいので、
南宮山の秀元&吉川は(暫定的に)13500でいいかもしれない。
東軍先発隊が岐阜を攻めたのち尾張に撤退したという想定だと思うが、
>>9-10参照されたし。
>>263
大坂は輝元5000+増田3000+αでなんとかしてくれとしか言えんね。
毛利の去就云々はその想定状況では西軍は大聖寺城落とされただけで、
毛利が降伏考えるほどの不利な情勢とは思えない。
小早川はわからん。大津城組との兼ね合いになると思われる。
九州の黒田については、あれなんであんなに兵力あるんだろうね?
>>4の福島覚書にあるように黒田長政が率いてた兵が1300なら納得できるが。
いずれにしても九州方面の西軍は後詰の期待できない篭城するしかないと思う。
美濃方面の兵力を割いて九州方面に送るなど論外。
ポイントになりそうなのは犬山を保持できるかどうかと、家康、秀忠に合流されては
西軍に勝ち目は薄いという点。
ちゃんと>>4に書いてあるし。
というか>>340のひとは渡河迎撃の兵力のことを主旨に説明してるだけでしょ、
尾張の動員がどうとかの話じゃないし。
そういう言い訳をいつまでも何度もダラダラ続けなくていいから。
くそみっともない話を見せられるのはもう終わりにしましょう。
ところで、美濃尾張戦線をゆったり持久しながら西国で藤堂加藤嘉明に清正を西軍が押し潰すのを待って、
全軍で東西対峙に持ち込んだら負けはないんじゃないかなあ。
池田家履歴略記 巻之三より
上流渡河組18250余、下流渡河組16730余、
次に太田和泉守記にある、
八月廿六日(中略)
?井・関か原山中迄焼払、既及薄暮士卒其儘赤坂に陣取、
翌日より虚空蔵山構要害対陣也、敵合五十町隔候間、日々戦無止時、(以下略)
日付は8月24日のように思うが、まぁ26日かもしれない。
気になったのは日付じゃなく「虚空蔵山構要害対陣也」これ。
で、これはどこのことかと思って調べてみたら、いわゆる赤坂勝山陣跡の北約1.8kmの
ところに、虚空蔵山とも呼ばれる、金生山明星輪寺、現、岩巣公園というものがある。
岩巣公園
http://www.city.ogaki.lg.jp/0000009425.html
現在採掘で削られてしまってる部分も多そうだが、東軍はここに陣城構築でもしてたんだろうか?
赤坂陣が前線砦で虚空蔵山が家康用本陣? ちょっとよくわからん。
それから「川口氏先祖書系図」にある、伏見攻城時の川口宗勝、宗信の兵力。
相預ノ弓士三十騎、足軽百人、自分騎馬三十七騎、籏十三本、弓・鉄砲二百五十挺、
長柄百五十本、持筒十挺、同弓十挺、持鑓九本、
馬印鳥毛大半月暖小馬印鳥毛十棒、騎馬一様ニ海老柄具足、
歩者足軽小者赤染之胴着、籏差物赤茗荷ノ紋、腰差同前、
此時嫡子孫作宗信初陣也、手回リ計リ召連出立、
右同前ノ馬印三段鳥毛、雑兵千七百余人也、(以下略)
川口宗勝は、豊臣弓鉄砲衆、あるいは大坂弓鉄砲衆と呼ばれるものを
率いていたんじゃないかと思う。
岐阜中納言一手についてのわたしの見解は
石田が認識してた岐阜城の秀信+美濃衆の兵力だろう、
木曽川渡河迎撃に出撃した6530には、
岐阜城に残した守備兵力と石田の援将を考慮の
うえ、>>4とした。
それから否定するなら自説、自案を根拠をもって提示すること。
提示しないのは相手にしない。
現に福島の清洲留守居兵力の提示はない。
文章をよく読まずに話をループさせて
レスの無駄遣いはやめていただきたい。
岐阜防衛戦の6530を否定するつもりはないよ
防衛戦は総動員するから遠征時の備口人数や三人役の人数をオーバーするのは当たり前だからね
>>560でも言ってるが豊かな尾張がなぜか遠征時の三人役未満の兵力しかいないというガバガバな兵力計算を指摘しているだけ
8月22日木曽川渡河美濃侵攻時の東軍陣容(兵数は福島覚書準拠)
上流渡河組:池田6500、浅野5000、堀尾4000、山内2600、有馬豊氏2200、松下重綱1000、
一柳直盛ら計21300~22000
下流渡河組:福島6500、黒田1300、加藤1600、細川2000、田中4000、藤堂1500、筒井1000、
京極1500、本多俊政、生駒一正、松倉重政、神保相茂ら計20000~22000
下流渡河組の後続として本多忠勝、井伊直政。
犬山城の抑えとして中村一氏代理の中村一栄ら3000~4000
清洲城守備:石川康通、松平家清、奥平貞治、(松平忠吉)ら1050~4000くらい?
長島城:福島正頼、援将山岡景友、計780余
これとは別で徳永寿昌、市橋長勝らが8月中旬頃より木曽川方面の西軍諸城攻略して暴れてる。
あと木曽川渡河後は大垣城からの後詰阻止隊として黒田、藤堂、田中の陣容。
伊勢の東軍方は、安濃津城の富田信高、伊勢上野城の分部光嘉(史実では
寡兵での上野城防衛は困難とし安濃津城の富田に合流)、
松阪城の古田重勝、岩手(岩出)城(三重県度会郡玉城町岩出)の稲葉道通、
あとは去就不明の桑名城の氏家行広。
池田家履歴略記 巻之三には
上流渡河組18250余、下流渡河組16730余、とある。
上流渡河池田隊:18250 下流渡河福島隊:16730
犬山城抑え:3000~4000 清洲城守備:1050~4000?
東軍先発隊総計約39030~42980。 なお松平忠吉は駿府在番説と清洲滞在説あり。
大垣城:石田5700、小西5000、島津1000、計11700
岐阜城:秀信+美濃衆6000、石田援将河瀬、松田ら1000、計7000
犬山城:石川貞清400?、稲葉貞通・稲葉典通1400、稲葉通重400、稲葉方通150?、
加藤貞泰1200?、関一政900?、竹中重門150?、大坂弓鉄炮衆2400?
計7000
伊勢桑名、長島周辺(推定):明石掃部3000~8000(推定)、
おそらく南濃周辺:長島城への備えとして原勝胤(長頼)800
近江草津:宇喜多秀家10000~15000、(宇喜多は明石掃部と足して総計18000)
伊勢国内:安濃津城攻略に向けて、安国寺恵瓊1500、長束正家1000、吉川広家ら5000、
後続として毛利秀元ら1万、長曾我部盛親2100、鍋島勝茂9800、堀内氏善300等約29700
その他伊勢の在番、守備隊等
滝川雄利400、山崎定勝400、中江直澄390、蒔田広定370あたり。
瀬田守備隊等
相良、秋月ら約6900、
美濃、近江周辺立花宗茂3900、
推定佐和山在番筑紫広門500、
あとはよくわからんが伊賀在番7000、新庄直頼とかのことかな?
大坂は輝元・元康15000、小早川秀包1000、増田3000、前田1000、
その他大坂城在番衆詳細不明ってとこかな。
秀信は渡河迎撃時の6530から少し割り引いて計算、そのまま計算なら秀信6330になる。
それと「9月3~5日頃 相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら大垣入城(4000~7000?)」
これは8月下旬以降、垂井~赤坂を東軍に押さえられているため、
近江伊勢の白瀬峠を越えて大垣南方から入城という遠回りをしているようで、
東軍が垂井を押さえていないのなら2~3日は到着が早くなる。
毛利は、毛利総兵力:41500(大津攻城時での計算)と仮定
毛利秀就10000(所在地不明)
毛利秀元&吉川広家15000(南宮山)
安国寺恵瓊1500(南宮山)
毛利元康10000(大津)
毛利輝元5000(大坂)
なので、秀就がどこにいるかにもよるけど、輝元が出陣しても兵は5000しかいない計算。
毛利約120万石で41500人動員ならけっこうがんばってるほうだとは思う。
■安濃津城攻城戦での吉川隊(秀元等他の毛利含めず)の死傷者数。
・戦死75名、負傷226名。死傷者計301名。
負傷内訳:銃創126名、槍創60名、矢創24名、刀創1名、銃槍創5名、銃矢槍創2名、
矢槍創8名、計226名。
吉川広家が推測で兵3000引き連れていたとしたら、安濃津城力攻めでの死傷率は10%と言える。
けっこう高いね。
毛利の他隊も同様の損害が出てるなら、南宮山の秀元&吉川は13500くらいかもしれない。
それと東軍先発隊の兵数については、一般的には渡河部隊約35000と言われているけど、
>>4にあるように福島覚書準拠でいくと49300~58000くらい?となる。
かなり差があるのでこれをどう見るか、だけど。
次スレ用
>2は当スレ>>23を >3は>771 >4は>745 >5は>14+15 >6-7は同じ >8は756
>9に>11(要レスアンカー修正) >10に12 >11に16 >12に17
>13に18 >14に19 >15に20
追加忘れ:
7月22日 毛利軍が瀬田の砦構築を担当することとなる
7月23日 毛利秀元大坂出陣、瀬田へ
8月4日 瀬田の砦構築完了
これ>771に追加したいが行数満タン…。
個人的には>454あたりの川口宗勝と沓掛城あたり(収容能力は削除)も追加したいが
作戦立案に際し、沓掛城の需要が低いなら不要かなとも思う。
8月10日 石田、小西大垣到着(6700、5000)
8月14日 東軍先発諸将3万数千清洲到着(35000)
8月20日 島津義弘大垣到着(1000)
8月27日 宇喜多秀家、長島城攻略を止め大垣入城(18000)
9月2日 大谷ら関ヶ原山中村着陣(9600)
9月3~5日頃 相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら大垣入城(4000~7000?)
9月7日 毛利秀元、吉川ら毛利勢南宮山着陣(約2万?)
9月11日 家康清洲入城(33000?)
9月17日 秀忠妻籠(信濃美濃国境付近)到着(38000)
ちなみに「9月3~5日頃 相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら大垣入城(4000~7000?)」
これは8月下旬以降、垂井~赤坂を東軍に押さえられているため、
近江伊勢の白瀬峠を越えて大垣南方から入城という遠回りをしているようで、
東軍が垂井を押さえていないのなら2~3日は到着が早くなる。
8月20日時点での西軍戦力表
大垣城:石田5700、小西5000、島津1000、計11700
岐阜城:秀信+美濃衆6000、石田援将河瀬、松田ら1000、計7000
犬山城:石川貞清400?、稲葉貞通・稲葉典通1400、稲葉通重400、稲葉方通150?、
加藤貞泰1200?、関一政900?、竹中重門150?、大坂弓鉄炮衆2400?
計7000
伊勢桑名、長島周辺(推定):明石掃部3000~8000(推定)
近江草津:宇喜多秀家10000~15000、(宇喜多は明石掃部と足して総計18000)
伊勢国内:安濃津城攻略に向けて、安国寺恵瓊1500、長束正家1000、
秀信は渡河迎撃時の6530から少し割り引いて計算、そのまま計算なら秀信6330になる。
犬山城の稲葉はちゃんと別表記されてるでしょ、
>>5の犬山城兵力で「?」がついてないものは備口人数に書かれてる。
岐阜中納言一手な
西軍は長島城への備えとして美濃太田の原勝胤(長頼)800を配置。
7月22日 毛利軍が瀬田の砦構築を担当することとなる
7月23日 毛利秀元大坂出陣、瀬田へ
8月4日 瀬田の砦構築完了
これらも追加。
これを修正、補強していけばいいかんじのものができそうに思います。
以下コピペ。
403 返信:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/11(土) 21:01:03.29 ID:0UWAuM7R
>>374
長篠の合戦を例とすると長篠に武田の大軍が迫り寡兵だった長篠城はありとあらゆる通路を瓦礫で塞ぎ籠城して火縄で応戦。
そして籠城で時間稼ぎに成功して織田・徳川連合は設楽に到着。
織田・徳川連合はすぐには長篠城へは向かわず武田軍からは大軍だと見えないように丘陵地に兵を伏せ野戦築城。
そして夜間に別動隊を進軍させ夜明けと同時に奇襲して武田軍を翻弄。
痺れを切らした武田軍は織田・徳川連合本隊のいる設楽に進軍。
そして武田軍は大敗。
これを岐阜城で再現するには岐阜城で籠城させ時間稼ぎをして大垣城などから別動隊を編成して夜襲などを行い撹乱。
宇喜多や伊勢方面軍が到着したら岐阜城に向かい石田三成を使って三成を毛嫌いしている福島正則らを挑発。
岐阜城を囲う軍団と宇喜多石田軍に進軍してくる軍団に別れたら数の優位は西軍になるので迎撃。
部隊を分けずに動じなかったら岐阜城部隊と挟み撃ちにする。
そして東軍先鋒隊にもし勝つことができたなら東軍先鋒隊は退却することになる。
しかし木曽川を渡っているために渡河できる退路に東軍が殺到することになり大混乱。
甲冑来たまま深い河に入りまともに退却できなくなったり兵糧弾薬武具を脱ぎ捨てて泳いで逃げれば再軍備に時間がかかるようになる。
東軍に渡河させるのがデメリットじゃなく一網打尽にする千載一遇のチャンスにできる可能性がある。
そして東軍先鋒さえ壊滅させることができたなら徳川家康は江戸から出ることができなくなる。
岐阜城の合戦が西軍が勝つ最初で最後のチャンスだろう。
原案たる叩き台は以前のスレに出てた>>6
史実での岐阜城1日で落城の原因は暫定的に>>7
岐阜城早期落城させない為の手段が>>8
戦力差により東軍先発隊が清洲に撤退するという合理的判断をする可能性はもちろんある。
その場合西軍は>>9のように改めて有力な戦力をもって木曽川渡河迎撃の布陣を取ることが可能になる。
その結果考えられるのは膠着か>>10
なので、西軍が勝てる公算が最も高いのは>>>>6の後詰決戦に至った場合。
東軍先発隊が清洲に撤退、膠着化した場合は和睦が妥当か
東軍
史実通りの最速で家康本隊が清洲到着9月11日
岐阜城到着9月13日(江戸清洲間を11日間走らせたための休息1日とった)
史実通りの最速で秀忠の美濃到着は9月18日前後
家康本隊と秀忠隊がいない8月下旬~9月上旬までに東軍先鋒隊を壊滅させることができれば西軍に勝ち目が出てくる
壊滅できなければ木曽川より西側から東軍を駆逐しての大軍による渡河防衛での膠着になる
8月下旬~9月上旬までが勝負
については>>11を確認していただきたい。
岐阜城が籠城に不向きというのは山頂部分
だけ見ればその通りだが、全体で見れば
そうとは限らない。
って話をしてると思うのだが
東軍先発隊が清洲というか尾張に退却した場合?
その場合は犬山城、木曽川をポイントとした
小牧・長久手のような読み合いの情勢に
なると思う。
西軍が犬山城を保持できれば、だが。
もちろん家康や秀忠隊が来れば西軍は
不利になる。
その前に西軍は動く必要性は出てくる。
史実の木曽川防衛戦で福島正則隊1万5000~1万8000の軍を
岐阜城側勢は数千の兵で火縄銃で打ち掛けて追い払っている
だけど福島正則隊は別のところから渡って渡河してきているから
それを阻止するための兵力が足らなすぎた
渡河防衛は渡れる場所が限られているので少数しか渡ってこれないのでそれを袋叩きにする戦術
対岸にいくら大軍が集まろうが戦えるのは少数になる
大坂城の水堀と同じ理論
大坂冬の陣も籠城側が秀信軍並みに少数なら守りきれなくて即突破されてただろう
秀忠軍単独で中山道を来ても秀忠の将器はアレだから壊滅させて討ち取れば東軍は大打撃だよね
大津城から戻ってきた立花宗茂らをメインに秀忠軍の兵力同数ほどを向かわせれば楽勝でしょう
木曽川では大軍を生かした戦いができないから膠着するし
秀忠軍単独で中山道くるのは逆にチャンスとも言える
大津攻略軍って大垣に合流できるか?
小早川が松尾山占拠とか意味分らん事してる以上様子見で時間使わざるを得ないでしょ
岐阜城落ちる前に小早川は松尾山にいなかったでしょ
岐阜城落ちてから黒田らの本格的な調略が始まってるし
岐阜城が落ちなければ京極は大津城に戻って離反しなかったかもね
どこが史実だよ(笑)
24万石の福島正則軍が1万5000~1万8000もいてたまるか
相当無茶しても7000が精々だろ。
岐阜13万石の織田秀信は6000以上動員できてるんだから
清洲24万石の福島は最大で12000くらいいけるじゃないか?五人役で計算すれば
それ単に濃尾の小領主にとって織田の名は光輝く存在だから寄らば大樹で集まってきただけじゃない?
正則の腕っぷしだけの福島家に同じことはムリというだけのこと。
これって黒田、田中、加藤、藤堂、細川、生駒なんかの兵も合わせた数字じゃないの
木曽川防衛戦を知ってりゃ福島正則隊と池田輝政隊に分かれたの知ってるだろうし
福島正則だけで単独で行動してないのも分かるだろう
岐阜城(木曽川防戦)の戦いで東軍先鋒は福島正則隊と池田輝政隊に分かれて
それぞれ渡河したことから説明しなきゃならん素人がいるのか…
みんなに分かるように説明出来るようになってから来い
お前の脳内話をいちいち無駄な咀嚼させるな
普通に>>360の解釈で処理できると思うんだがなぁ
>>11を参照されたし。少なくとも宇喜多が来るまでは
岐阜城の後詰に行けないよ。
流れは岐阜城後詰案と変わらず、大垣城に誘引失敗したとしても岐阜城に兵力増員できている形です。
ぜひ大垣城誘引策の検討を。
東軍21000~23000対岐阜城2000~3000.
それでも戦力比7~11倍。単純に戦力比で落ちてもおかしくない計算。
それに加え敗走後の低士気状態、秀信の微妙采配、守備兵戦力分散、
ろくにしてないであろう籠城準備(野戦築城含む)
そりゃ1~3日で落ちるだろう。
これを島津義弘1000を加え、8000で籠城準備もするなら落ちないか、落ちても東軍は甚大な損害を被ると見る。
29000対8000でも戦力比約4倍。この条件での攻城例がほとんどないように、一般的にこの戦力比、
守備兵数で力攻めは考えにくい。それでも力攻めするならその根拠を提示すべき。
それから8月19日付井伊直政、本多忠勝宛黒田長政、徳永寿昌、奥平貞治連署状からは
村越茂助の件もあってか木曽川渡河は成功しようが失敗しようが損害が多かろうが
相当の覚悟で敢行するつもりのよう。
木曽川渡河美濃進攻を「天下之勝負」と捉えているみたい。
なので、多少の戦力差(目安としては1.5倍くらいまでか?)なら後詰決戦に応じる可能性は
けっこうあるように思える。
もちろん合理的判断で清洲に撤退する可能性もある。五分五分と見る。
438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/19(火) 14:11:49.52 ID:KJmLICXK [1/3]
上のほうで東軍先鋒が大坂や大垣城より援軍来たら退くって言ってる人いるが
徳川家康文書の研究 中巻 8月22日付文書によると
井伊直政と本多忠勝の戦況報告では竹ヶ鼻城を落とし、
明日岐阜城を包囲して攻撃する予定であること、
来ないと思われるが万一大坂から後詰が来た場合は先にその援軍を抑えて大垣城を攻撃すると家康に送っている
もし大坂方から後詰が出たならば、岐阜は押し置き、まずは後詰の軍を食い止めて
大垣城に付け入って乗り崩す。
これも諸将は評議で一決した。
※付け入って とは、敗走する敵を追撃し、そのまま敵の城に攻め込む戦法
とある
岐阜城後詰め決戦は発生するよ
岐阜城は付け入り戦法されたからすぐ落ちた
■■1■■
798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 15:21:52.18 ID:aAd9kU2e [2/6]
それから8月19日付井伊直政、本多忠勝宛黒田長政、徳永寿昌、奥平貞治連署状からは
村越茂助の件もあってか木曽川渡河は成功しようが失敗しようが損害が多かろうが
相当の覚悟で敢行するつもりのよう。
木曽川渡河美濃進攻を「天下之勝負」と捉えているみたい。
なので、多少の戦力差(目安としては1.5倍くらいまでか?)なら後詰決戦に応じる可能性は
けっこうあるように思える。
もちろん合理的判断で清洲に撤退する可能性もある。五分五分と見る。
438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/19(火) 14:11:49.52 ID:KJmLICXK [1/3]
上のほうで東軍先鋒が大坂や大垣城より援軍来たら退くって言ってる人いるが
徳川家康文書の研究 中巻 8月22日付文書によると
井伊直政と本多忠勝の戦況報告では竹ヶ鼻城を落とし、
明日岐阜城を包囲して攻撃する予定であること、
来ないと思われるが万一大坂から後詰が来た場合は先にその援軍を抑えて大垣城を攻撃すると家康に送っている
もし大坂方から後詰が出たならば、岐阜は押し置き、まずは後詰の軍を食い止めて
大垣城に付け入って乗り崩す。
これも諸将は評議で一決した。
※付け入って とは、敗走する敵を追撃し、そのまま敵の城に攻め込む戦法
とある
岐阜城後詰め決戦は発生するよ 岐阜城は付け入り戦法されたからすぐ落ちた
■■2■■
703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 13:14:03.72 ID:jiua8RjV [14/17]
岐阜城が落ちず秀信軍が無傷で健在
墨俣付け城も27日の宇喜多到着で攻めに転じることができるので付け城阻止
9月2日の大谷吉継ら到着で完全に上回ることができるので
木曽川の西から東軍を駆逐でき木曽川を挟んでの大軍による渡河防衛が完全に機能し
関ヶ原でのぶつかり合いが木曽川になり
大軍通しの戦いでも関ヶ原と違い渡河防衛では渡河部隊との少数の戦いになるから完全に膠着
後は大津城を降した名将の立花宗茂らも合流
膠着になると上杉が最上を降しフリーになり野心ギラギラの伊達もどうなるか…
■■3■■
810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 22:35:55.59 ID:aAd9kU2e [5/6]
それと木曽川挟んでの膠着状態になった場合、東軍はおそらく犬山城を狙ってくる。
西軍はすみやかに伊木山、鵜沼を占拠し野戦築城、犬山城にも援軍送って増強するべき。
対秀忠でおそらく最前線になる。
伊木山に毛利秀元&吉川広家、鵜沼に小西あたり配置するといいかも。
個人的には家康、秀忠が来る前に和睦するのを強く推したい。
812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 23:24:51.03 ID:aAd9kU2e [6/6]
東軍先発隊が清洲に撤退、膠着後西軍のなすべきことは木曽川渡河迎撃と秀忠迎撃。
正直兵力が足りない。
対前田は以前にも述べたように田辺城組を敦賀に5000、北ノ庄に1万ほど援軍派遣すればいいと思う。
前田利長は利政抜きでおそらく兵18000~2万(丹羽3000を付け加えるなら21000~23000)と思われるので、
北ノ庄の16000~17000、敦賀5000で抑えられると思われる。
この情勢なら双方とも積極攻勢はしないと思われる。
おそらく北ノ庄で対陣。
大津組の立花、筑紫、小早川秀包計5000は美濃方面に向かうと思われるが
毛利元康はわからない。この情勢なら輝元、元康は美濃に出陣すべきだと思うが。
小早川秀秋の動向はまったくわからない。
輝元、元康美濃出陣ならなんとか兵力は足りる。
岐阜城が落ちず秀信軍が無傷で健在
墨俣付け城も27日の宇喜多到着で攻めに転じることができるので付け城阻止
9月2日の大谷吉継ら到着で完全に上回ることができるので
木曽川の西から東軍を駆逐でき木曽川を挟んでの大軍による渡河防衛が完全に機能し
関ヶ原でのぶつかり合いが木曽川になり
大軍通しの戦いでも関ヶ原と違い渡河防衛では渡河部隊との少数の戦いになるから完全に膠着
後は大津城を降した名将の立花宗茂らも合流
膠着になると上杉が最上を降しフリーになり野心ギラギラの伊達もどうなるか…
それと木曽川挟んでの膠着状態になった場合、東軍はおそらく犬山城を狙ってくる。
西軍はすみやかに伊木山、鵜沼を占拠し野戦築城、犬山城にも援軍送って増強するべき。
対秀忠でおそらく最前線になる。
伊木山に毛利秀元&吉川広家、鵜沼に小西あたり配置するといいかも。
個人的には家康、秀忠が来る前に和睦するのを強く推したい。
812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 23:24:51.03 ID:aAd9kU2e [6/6]
東軍先発隊が清洲に撤退、膠着後西軍のなすべきことは木曽川渡河迎撃と秀忠迎撃。
正直兵力が足りない。
対前田は以前にも述べたように田辺城組を敦賀に5000、北ノ庄に1万ほど援軍派遣すればいいと思う。
前田利長は利政抜きでおそらく兵18000~2万(丹羽3000を付け加えるなら21000~23000)と思われるので、
北ノ庄の16000~17000、敦賀5000で抑えられると思われる。
この情勢なら双方とも積極攻勢はしないと思われる。
おそらく北ノ庄で対陣。
大津組の立花、筑紫、小早川秀包計5000は美濃方面に向かうと思われるが
毛利元康はわからない。この情勢なら輝元、元康は美濃に出陣すべきだと思うが。
小早川秀秋の動向はまったくわからない。
輝元、元康美濃出陣ならなんとか兵力は足りる。
岐阜市 史跡岐阜城跡保存管理計画書
http://www.city.gifu.lg.jp/secure/10437/4567.pdf
http://www.city.gifu.lg.jp/secure/10437/3-4567.pdf
山上部・山林部の分布調査では、金華山及び周辺の山の尾根線上に多数の遺構が存在すること
が明らかになりつつあり、その多くが絵図に描かれた砦と対応する。また絵図や文献の検討の結
果、江戸時代に尾張藩が管轄した範囲が戦国時代の直接の城域である可能性が高く、その大半が
現在の金華山国有林として受け継がれていることが判明した。城下町を取り囲む惣構の土塁はこ
の直接の城域に対応しており、城と町が一体として成立・機能していたことを示唆している。調
査成果から岐阜城の城域を最大限に捉えると金華山に瑞龍寺山、上加納山を含んだ山塊全体、西
側の岐阜城下町とそれを取り囲む惣構、東側の達目洞を含んだ範囲となる。
国史跡岐阜城跡で石垣が新たに見つかりました!
http://www.city.gifu.lg.jp/32568.htm
一部抜粋
<山城としての岐阜城の評価について>
・ これまでの岐阜城の概念(山上の詰城+山麓居館という二元的構造)を
考え直させる大きな発見。
歴史遺産と都市文化創造Ⅲ――都市城壁(惣構)を町づくりにいかす
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/wp-content/uploads/2006/03/0603hist-heri.pdf
近代岐阜忠節用水流域における都市形成に関する研究
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00063/2011/2011-04-0072.pdf
農林水産省東海農政局 木曽川水系土地改良調査管理事務所の案内
http://www.maff.go.jp/tokai/seibi/kensetu/kisocyou/html/pdf/014-99.pdf
上記より抜粋
忠節用水は古来、金華山麓に取入口を設けて、岐阜の旧称井ノ口村
の名を生んだといわれる農業用水である。天文3年(1543)の長良川の大
洪水により岐阜市忠節の地に取入口を移し、以来400余年幾多の変遷を
経て引水が続けられた。
関ヶ原当時の引水部や用水経路がいまいちよくわからないが、
惣構の水堀が用水兼用だったとするならば、非常用水源となりうるのではないだろうか。
また、水の手口という名称から、その麓、丸山の辺りが取水口じゃなかったのではないかと
思うがどうだろう?
毛利総兵力:41500(大津攻城時での計算)
毛利秀就10000(所在地不明)
毛利秀元&吉川広家15000(南宮山)
安国寺恵瓊1500(南宮山)
毛利元康10000(大津)
毛利輝元5000(大坂)
こんなかんじになる。
あとは別枠だと、小早川秀包1000(大津)くらいかな。
なので、秀就がどこにいるかにもよるけど、輝元が出陣しても兵は5000しかいない計算。
毛利約120万石で41500人動員ならけっこうがんばってるほうだとは思う。
まず伊勢方面隊戦力
毛利秀元&吉川広家15000、安国寺恵瓊1500、長束正家1000、長曾我部盛親2100、
鍋島勝茂9800、堀内氏善300等約29700
その他伊勢の在番、守備隊等
滝川雄利400、山崎定勝400、中江直澄390、蒔田広定370あたり。
瀬田守備隊
相良、秋月ら約6900、
美濃、近江周辺立花宗茂3900、
推定佐和山在番筑紫広門500、
推定大坂の小早川秀包1000、
あとはよくわからんが伊賀在番7000、新庄直頼とかのことかな?
こんなかんじかな。
なので草津の宇喜多が美濃に援軍に行ってもまだ瀬田守備隊6900と立花宗茂3900の10800がいる。
大坂は輝元5000、小早川秀包1000、増田3000、前田1000、その他大坂城在番衆詳細不明ってとこかな。
大雑把に
7月19日朝 城方鳥居勢が城外に出て近隣を放火
19日夕方 西軍が伏見近郊に到着し始め散発的に銃撃戦がある
20~21日 西軍が外堀に取りつく。銃撃戦が激しくなる
22日 宇喜多、小早川、鍋島到着
23~24日 西軍の銃撃が昼夜に及ぶ
25日 宇喜多秀家が陣立てをあらため諸将の攻め口を決める
26~28日 西軍昼夜銃撃
29日 石田三成督戦に訪れる
30日 西軍力攻め、総攻撃4回敢行。城方死傷50余、西軍死傷500余
8月1日午前0時 松ノ丸で甲賀者の内応により火災発生、名護屋丸にも延焼
これを機に西軍突入、松の丸、名護屋丸陥落
午前10時頃より総攻撃再開、島津、治部少丸突入、治部少丸陥落
午後3時 伏見城落城
こんなかんじ。たしかに石田が来るまでは銃撃戦ばっかり。
だが西軍もまともに兵力が到着したのは22日で、仕寄って堀埋めて
30日に力攻めしてみたが大損害。
8月1日に城方の内応が出たのでそれを機に陥落。
これ城方の内応がなかったらもっと長引いてた可能性あると思う。
力攻めの寄せ手の損害数が大きすぎる。
伏見城は相当な堅城だったということだと思う。
瀬田で東軍を迎え撃つ、という方針になるのも無理はないと思う。
この彼我損害比ではもっと早い日時に力攻めしてても落ちないと思う。
何か話をそらしてるみたいだけど
兵数が足りなくて防げないなら岐阜城みたいに一日で落ちるよね
>>435で君が言ったように
>伏見城は見せる城だから
>実は結構弱い
幅広く深い水堀と石垣があるから中規模にしては少ない籠城兵で
西軍主力四万の大軍を二週間釘付けにできた城のどこが弱いんですかね?
>>14に書かれてる通りなら十分耐えてる堅城だと思いますけど
>>14は内応説だけど俺が以前に見たのは
>>14の途中まで同じで銃撃戦していたが落ちる気配が全くなかったので
水堀を埋めようとしたら櫓から鉄砲隊に狙撃されて中断
奉行が大量の大筒と大砲を持ってきて
伏見城の近くに小高い山を作って大筒大砲で鉄砲隊を無力化した
それから水堀を土や木材等で埋めて足場を作り、余った木材を伏見城内に投げ入れて炎上させた
それで二週間近くかかった
内応説とどっちが本当か分からんが
宇都宮城:本丸結城秀康、蒲生秀行、二の丸小笠原秀政、三の丸里見義康、
宇都宮城総計約18000?
大田原城:大田原晴清、那須資景、福原資保、千本資勝、大田原増晴、岡本義保、
伊王野資友、服部正成及び伊賀衆。
黒羽城:本丸岡部長盛及び甲賀衆100、二の丸服部保英及び伊賀衆100、三の丸大関資増、千本義定
鍋掛:皆川広照、水谷勝俊
蘆野口:蘆野政泰、 伊王野口:伊王野資信、
烏山城:成田泰親
厩橋城:平岩親吉
高崎城:諏訪頼水
江戸城:本丸松平康元、石川家成、松平清宗?、菅沼定盈、諏訪頼忠
西の丸武田信吉、松平康忠、天野康景、
特記点としては、6月下旬頃より家康の指示で、大田原城、黒羽城は1000人規模の人足を
動員しての防備強化普請を行っている。
同じく宇都宮周辺も、秀忠、秀康らによって約一ヶ月間強化普請を行っている。
兵数については不明部分も大きく、わかる方いれば補足、訂正等よろ。
白峰氏は考察論文、「伊勢国津城合戦頸注文」及び「尾張国野間内海合戦頸注文」に関する考察(その1)―津城合戦(慶長5年8月)における毛利家の軍事力編成についての検討
の中で以下のように述べられている。
本稿で扱う野間内海合戦については、前掲『三重県史』通史編、近世1に、
「九鬼義隆西軍に加勢」として立項され解説されている中で、「九月九日・十日両日
尾張知多半島(愛知県)先端部付近での戦闘」であり、
「当時の知多半島は、長島城主福島正頼が預かっていたとみられる(『新訂寛政重修諸家譜』
第二一)ので、北伊勢において東軍に付いた長島城の背後、
ひいては岐阜方面に集結しつつある東軍の背後を脅かす作戦を実行したのであろう。
この作戦には瀬戸内水軍が主となったものと思われ、
これに九鬼水軍が参加したかもしれない。」としている。
野間・内海合戦関連
愛知県史資料編13織豊3より引用
東軍の攻勢によって主戦場が尾張国内から木曾川を越えて美濃国西部へと
移っていく中、尾張・三河両国の海岸部では、西軍方に与した
志摩国鳥羽(三重県)の九鬼嘉隆の軍船が焼き打ちを行っており、
九月には毛利輝元の臣乃美景継・村上景弘らの軍船も伊勢湾に現れた。
毛利氏の水軍は九月九日未明に伊勢湾を渡って知多半島に押し寄せ、
各地で放火や合戦をおこなった。「慶長年中記」九月十日条にも
九鬼水軍による焼き打ちに関する記述がみえるが、
毛利氏の水軍もこれに加わっていた可能性がある。
慶長年中記 巻一
十日 熱田西の海辺四五ヶ所、是ハ敵方九鬼大隅(嘉隆)焼候よし、
岡崎?地鯉鮒(池鯉鮒)へ行に焼見ゆる、熱田海辺より五六町ほと大船一艘、
地ハ紫に白き桐のとうのまく張たる九鬼大隅守のミよし先へ被遣候、
御馬印持候ものさんたか橋にて 御目見いたし候、とかくの御意なし、
次は 慶長見聞書 二
同日(慶長5年7月21日)岩手(伊勢国)城稲葉蔵人(道通)手勢九百六拾人籠候処、
九鬼大隅守(嘉隆)町口迄取懸候へ共、堅固被相抱候間、
敵の人数引退申候、其後九鬼大隅守・堀内安房守(氏善)以下船手の衆卒し、
尾州・参州之灘浦を焼払、漁人村老男女僧侶に不限切捨狼藉前代未聞也、
尾州毛呂崎(師崎)江寄ンとす、
浦のもの内々近日従関東御上を聞て、其間敵をたるめ魚を取て日々に送り、
様々の音信におよひけり、
然るニ案のことく千賀孫兵衛(重親)一夜の内ニ而のりつけ、
大勢籠たるやうニ見せ、浦々に旗を立置候間、
敵驚寄せ不申、其間に松平紀伊守(家信)・小笠原新九郎(広勝)・
同安芸守(小笠原信元)次第ニ乗付申候間、
弥敵船驚きこきのき申候、右ノ海上浦々の悪行の天罰にや、
此口の寄手の大将達のすへ?迄後ニ皆たへはて申候、
武家の習殺業なくて不叶されとも、
分の敵を討て非分の者を不討とはかやうの事にや、
此時戸田三郎右衛門(忠次)・清水権之助(政吉)ハ
大野・とこなへ(常滑)に罷在候間、
舟を出し防候間、敵不叶舟をこきのき引取申候、
なるほど織田の嫡流の血筋が残せるなら濃尾の武将は西軍に雪崩を打つなあ。
浦備前覚書 巻一 無尽集第七七冊
先年関か原御弓矢之時、伊勢地数船之御船指廻し、御国?ハ村上八郎左衛門殿
(景広)・乃美備後殿(景継)御船手不残被差出、
大坂よりハ菅野平右衛門殿(管達長)・村上彦右衛門殿なだ声古ヲ被差添御廻シ被成候、
伊勢之鳥羽ニ者九鬼大隅殿(嘉隆)大坂へ之御馳走ニ、
右之御方々大隅殿江御座候而方角万事御談合被成、
尾張灘手を御働被成御儀定ニ相澄、
おふミなと(伊勢国大湊)まて御座候而、彼表ニ而長々船中各御苦労被成候条、
一夜彼在所にて御休め被成之由、悉宿を取り御休息候処ニ、
乃美備後殿野せつちん(雪隠)へ参と被申、
五六丁家はつれへ被参候而都合被見合候処ニ、
彼在所より弐里間にて岩手と申城を敵方?持堅、
おふミなとの在所からも殊外手広不審ニ相見候条、
各うかと罷居儀ニ而無之候条、夕飯を仕廻、
夜入候者船へ各被召可然之通被申付而、悉船ニのり申候へハ、
夜半迄(過)ニ岩手?夜打ニ心懸人数差出、殊外物あぶなき躰にて、
下々共ニ備後殿御見合之段感入候、一日間ニて血地江御働ニ、
不残御渡り被成候、尾州之内大野と申浦江九月九日未明ニ被打入、
一段仕合能発向被成候、其次ニ二浦同前ニ候而、各御談合ニ、
今日之働ハ不残出来申候へ共、放火不仕候条、
明日之働ニハほうくわ(放火)を専ニ仕候様ニと仰事ニ候、
かたかミと申在所を未明ニ御働、一軒も不残放火仕り、
頓而其次野間の内海と申浦江御仕掛候処、
是ハ先代(源)義朝之御腹被召たる浦ニて候得者、
船本江人数差出相さゝへ候へとも、船よりの御仕掛丈夫候故、
終ニハにけくつし多分追討ニ仕り、
船本より一里半奥ニ義朝之御影御座候故、坊中江おひ入候故、
跡?足長仕ル儀ニてハ無之候条、各引取り候へと被仰付、
不残引取申候、礒兼加賀殿上下八人ニ而、
彼御影之寺放火不仕候へハ、此在所相働専ハ無之候条、
是非共ニ放火仕り引可申と被申候而ふかいりの故、
人数三十計討出取まき候条、別条子細も無之候間、
足床を見合高ミを取可相果覚悟ニ候、
壱人にても足を乱シ候而ハ不叶儀候之条、八人之者ハひつかけ相果覚悟ニ候、
其人数ハ加賀殿上下三人・乃美平左衛門殿上下弐人・
末永惣右衛門・世良源右衛門・末島(島末)与左衛門、
此八人ハ鉄炮弐丁御座候而、引懸五間ほとにて討候やうニと覚悟仕り候処、
敵も其覚悟ミきりはた?と不仕懸候処ニ、舟本江此聞候而、
乃美備後殿・村上八郎左衛門殿自身かけつけ候へハ、
のほりさきを見及引取申候故、無事ニ御しのき、
御両人衆殊外御しかり被成、(乃美)宗勝巳来上りはたらきの仕やうハ御存知ニ而、
深入沙汰之限りと被仰、無事ニ船本御引候事、
二日之間ニ六浦御働殊外出来候事、
誤字脱字はご勘弁。さぁ読んでくだされw
礒兼加賀(礒兼景綱、乃美宗勝三男)、ここまでは毛利水軍だけど、
見落としてたけど菅達長(淡路水軍)も参加してるっぽいね。
これに九鬼水軍と堀内氏善の熊野水軍でしょ、
やっぱ西軍は本気で上陸作戦やるつもりだったのかなぁ?
堀内氏善は音に聞こえた豪傑だからなあ。
遠州辺りまでは西軍の手に落ちたかもな。
どうなんでしょうねえ
そういう作戦あったら三成をはじめとした西軍諸将の書状等で触れられてたりしてそうですけど
無理すんなよ。お前は>>328で白状したように、
尾張の城は清須以外知らないし武将配置も知らないんだから、もっともらしい知ったかしてないで学習してから来いや。
しかも「将器」なるものも秀忠隊は榊原に浅野長政とそれなり以上に人がいるから別に秀忠だけで判断できるのか?
>>332
そこまで深く考えずにとりあえず遊軍を作らないように集中させただけの可能性。
瀬戸内海の(西軍による)制海権は確立しているし、日本海方面はよくわからないけどそこまで水軍がいないし。
東軍も九鬼守隆や徳川水軍もいるから必ずしも優位と断言はできない。(ああ、里見水軍(涙))
今川義元も家康や朝比奈が家臣にいても桶狭間で討ち取られて潰走したし
武田勝頼も信玄時代の山県や馬場など名将と呼ばれた重臣を長篠の戦いでみな死なせてしまったし
龍造寺も鍋島がいたのに討ち取られてるし
総大将が間違った判断したがために有能な将がいても負けた例はあるよね
そこそこの将が大軍率いて攻めてきたけど、自分の庭同然の地形を生かして打撃与える、
なんて例もいくらでもあるわけでね
鳥居も真田にボコられてることからして、
「二千で一万蹴散らせる武将でも防御整えた真田に負けるかも」ということになる
これをもって秀忠が将として劣る、というのはちっと短絡的でないかな
大坂の陣で家臣に制止されても聞かず
江戸から猛スピードで出立して兵士が数騎しか付いて来れなくて
兵も疲弊させすぎて家康に激怒された話あったよね
関ヶ原で言うと家康の西上命令が川の増水のために遅れて
秀忠の下に着いた時は既に大遅刻
秀忠はスゲー焦るわな
猛スピードで西上しようとするわな
関ヶ原合戦の真実 Part8
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1518176864/
大坂の陣はどうすれば豊臣方が勝てたか?Part7 [無断転載禁止]©2ch.net
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1501990638/
上記以外はあまり伸びていないので省略。
誘導は上記適当スレへ。
過去スレ
part1
https://hanabi.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1477558509/
part2
https://hanabi.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1484991108/
Part3
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1487680538/
Part4
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1492312819/
Part5
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1496748424/
Part6
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1499775019/
Part7
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1502195081/
Part8
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1505981945/
Part9
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1509028014/
Part10
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1512519887/
Part11
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1514907315/
Part12
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1517843376/
Part13
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1522672144/
Part14
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1525775487/
Part15
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1528335113/
Part16
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1530344370/
順番にいこうか。まず西軍の基本戦略は、内府違いの条々の効果により大多数は帰国し
雲散霧消するはず。
もちろん徳川に味方する者もいるだろうがそれほど多くはない。
それら東軍の想定行動は上杉への抑えを残し2~4万程度が西上してくるか、
関東に引き籠って西軍の迎撃態勢を整える。
西上してきた場合は浜松か尾三国境付近で東軍を迎え撃つ(清洲の福島が味方する前提)。
関東に引き籠った場合は年末か春ごろに西軍の大軍で関東に進攻する。
これが8月初頭時の西軍の基本戦略。7月下旬の伏見攻城時には瀬田で迎え撃つつもりだったが
予想以上に味方が増え、越前、美濃の勧誘もほぼ成功し、前田も引き返したので
こうなったと思われる。
で、その西軍の想定通りに情勢が推移する可能性はもちろんあるので、基本戦略通りに軍事展開すればいい。
(個人的には既に戦力配分で疑問部分が多いがとりあえずそれは置いとく)
しかし少なくとも8月14~18日頃には想定外の事態が起こる。
清洲の福島は味方せず、東軍と思われる軍勢数万が清洲周辺に集結しつつある。
この時点で西軍の方針は木曽川で東軍を迎え撃つ、に変わる。
ここまではいい。しかし数万(約3万)を木曽川で迎撃するには美濃の西軍戦力では足らない。
なのでこの時点で木曽川迎撃の為にすぐさま美濃への援軍要請をする。
この時点で援軍要請しても木曽川迎撃に間に合うかは微妙だが、
大垣、岐阜、犬山が籠城し数日持ちこたえれば後詰決戦は可能になる。
岐阜が落ちてから援軍要請しても遅い。
なので、具体的には一番近いのが桑名付近の明石掃部と草津の宇喜多計18000なので、
8月18日時点で宇喜多に援軍要請すれば8月21~22日には大垣に到着できる。
・8月18日に宇喜多に援軍要請し、21日に大垣到着できれば木曽川で渡河迎撃、
間に合わないなら大垣、岐阜、犬山は籠城、この作戦方針の徹底。
西軍の基本戦略を尊重しつつ軍事的対応で合理的に勝ちを模索するなら
このあたりで岐阜城後詰決戦に至る。
訂正等は遠慮なくよろです。
また、その他の案としては、美濃主攻案、北陸主攻案、早期尾張進攻案、
鳴海上陸作戦案、9月8日後詰決戦案等あり。
また、上記諸表の兵力数は戦闘の損害による兵力減少を考慮しておりません。
6月6日 会津征伐に関する軍議、芳春院(まつ)、人質として江戸に到着
6月16日 家康、大坂出陣
7月1日 家康、江戸到着
7月2日 秀家、出陣式
7月12日 前田、増田、長束が輝元に大坂出陣を要請
7月15日 輝元、広島出発
7月17日 前田、増田、長束「内府ちがひの条々」、細川ガラシャ自害
7月19日 輝元、大坂城入城、伏見城攻防戦開始、秀忠が会津へ出陣
7月21日 家康、江戸から会津に向け出陣
7月22日 宇喜多、小早川、鍋島伏見到着
7月25日 伝「小山評定」
7月26日 東軍諸将、西進開始、利長金沢を出陣
7月29日 三成伏見到着
8月1日 西軍伏見城攻略
8月2日 前田勢大聖寺城攻略
8月3日 大谷ら約6000敦賀着陣
8月5日 家康江戸入城
8月8日 前田勢約25000大谷らの流言飛語に掛かり金沢へ引き返す
8月10日 石田、小西大垣到着(6700、5000)
8月14日 東軍先発諸将3万数千清洲到着
8月17日 伊勢方面攻略隊より小早川秀秋勝手に行軍より離脱、病と称し近江を放浪
8月20日 島津義弘大垣到着(1000)
8月22日 東軍先発諸将木曽川渡河、織田秀信が迎撃に失敗し岐阜城へ敗走、島津義弘墨俣の守備に就く
8月23日 東軍岐阜城攻略
8月24日 西軍鍋島ら伊勢松阪城攻略、東軍先発諸将赤坂に布陣、秀忠宇都宮城を出陣
8月25日 西軍毛利秀元ら伊勢安濃津城攻略
8月27日 宇喜多秀家、長島城攻略を止め大垣入城(18000)
9月1日 岐阜城落城の報告を受け家康は江戸から出陣
9月2日 大谷ら関ヶ原山中村着陣(9600)
9月3日 犬山城開城。石川貞清ら一部を除いてほとんどが東軍につく
同日 京極高次が北陸から大津城に帰城、東軍方として兵3000で籠城する。付近にいた毛利元康、立花、筑紫ら約15000がこれを攻める
9月3~5日頃 相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら大垣入城(4000~7000?)
9月上旬 鍋島勝茂南宮山へ向かう西軍主力から離脱、伊勢美濃国境付近に留まる
9月7日 毛利秀元、吉川ら毛利勢南宮山着陣(約2万?)
9月7日頃 小早川秀秋佐和山付近をうろつく
9月8日 家康が西上したことにより上杉軍が最上領へ侵攻
9月9日 大久保忠益が秀忠の元に到着、即日上田攻めを中止
9月9~10日 尾張の野間・内海にて毛利水軍が合戦
9月10日 秀忠西上開始。家康、熱田到着。
9月11日 家康清洲入城(33000?)、前田利長再び金沢出陣(今回は利政抜き)
9月13日 西軍小野木ら約15000、丹後田辺城を開城する
9月14日 家康赤坂着陣。秀忠信濃本山(塩尻の少し南)到着、小早川秀秋、伊藤盛正追い出して松尾山占拠、西軍毛利元康ら15000、大津城攻略
9月15日 毛利元康ら大津入場
同日 関ヶ原の合戦(本戦)で東軍勝利、宇喜多石田大谷が壊滅、島津長束長宗我部他は撤退又は敗走
9月16日 伊勢亀山、桑名城など東軍に降伏し開城
9月17日 秀忠妻籠(信濃美濃国境付近)到着(38000)、佐和山城落城、大津城開城、大垣城から相良秋月高橋などが降伏
9月18日 東軍前田利長小松城を開城させる
9月19日 東軍前田利長北ノ庄城を包囲
9月20日 大垣城の福原長堯が降伏
9月20日 家康大津入城、秀忠大津に到着
9月24日 権中納言九条忠栄が家康へ戦勝祝い
9月25日 輝元大坂城退去、福島黒田らが大坂入城、増田長盛、高野山へ退去
9月27日 家康大坂入城
10月1日 恵瓊、行長、三成が斬首される
まとめ乙。よく60行に収まりましたね。反論なければ次スレからはそれで。
上方から広島に総員撤退(久留米、和気などは放棄)、
即座に大船団を組織し博多、小倉、宇和島、松山、今治など主要港を火の海に
備前美作にも進出し、拠点となりうる都市や街道を破壊
敵が進軍に難渋する間に重要拠点の改修を行い(TERUならここで油断しそうだが)
領内に踏み込まれたら秀元や秀包率いる友軍が攻城軍を後ろ巻にする
「豊家の逆臣」「朝敵」になっちゃうのは確定のリスクだが
戊辰戦争が400年はやまるのか。
関ヶ原敗北前でさえグダグダだった毛利が一枚岩で動けるかねぇ
東軍に侵攻される前に内部分裂して内ゲバしてる気がする
上杉や佐竹、島津や増田あたりが必死になって毛利征伐の先陣を切りそう。1945年になってから連合国側で参戦したトルコやチリみたいに。
少なくとも東軍先鋒、家康隊秀忠隊に返り忠組に前田家とかの10万から12万が山陽道山陰道を通って陸路攻撃
これに上杉や佐竹、東北組に秀康隊の5万から8万人くらい?も本州からの攻撃に加わるかもしれない。
海運力が再建されれば黒田、鍋島(龍造寺)や加藤など史実で立花宗茂を包囲した連中に島津あたりも加わってくるだろう。
あとは蜂須賀や長宗我部も来るかもしれん。
というか海運力で言えば九鬼水軍も使えるし、そこまで妨害出来るかな?
>>26のやつはとりあえずの時間稼ぎはできるよね。あちこちに分散した毛利軍の指揮系統がそこまで迅速な行動ができるか疑問だけども。やれる限りやるしかないだろうね。
>>29の大坂破壊は豊家直属組と合戦すること確定で兵力消耗や輝元に危険がある。
調略をよっぽど上手くやらないと圧倒的物量と多方面作戦でかつての小田原北条氏の如くすり潰されて終わり。
下手しなくても毛利家臣が輝元や毛利家に謀反するかもしれん。
秀頼や大坂の人質をどうにか広島に連れて行けばワンチャンあるかも。増田長盛や七手組、大坂に帰還した鍋島とかがこれ幸いと「西軍と交戦した」という実績を作りに行くと思うので成功率は低めだろうけど。
元就「お前息子にどんな教育しとるん?」
隆元「どう考えてもあんたの影響だろ(憤怒」
東西挟み撃ちにして勝てたろ。
東軍もそれに対抗の手を打ってくるからダメだろ
簡単に誰それを西軍に引き入れろっていうけど、そいつらに西軍が勝つビジョンを見せられるかどうかの部分も記述してほしい
むしろ逆に三成を西軍に引き入れることなく追い出す方法を考える方が簡単だろう
東軍は三成の謀反を鎮圧するという大義名分で戦っているわけだし
大軍を持っているわけでも百戦錬磨の武将でもない官僚の三成が前線で悪目立ちしていたら
西軍を不利に陥れるだけだ
少なくとも西軍が勝つビジョンは、三成に仕切られたら見せられないよ
一部挙動不審がいる
毛利も同じだよ
家康が関東割拠策を採用していれば瀬戸内に毛利王国が成立していたんだから
毛利は西軍が勝てなくても少しでも長く戦線が膠着すれば大儲けって感じですもんね
となるとほんと岐阜が落ちて膠着すらできなくなった時点でそりゃやる気なくしますよね
確かに、東上してくる西軍を引き込んで撃つって作戦有りだね。
最低でも上杉打倒までは西には行かないって作戦。
但し、その場合西軍が内紛で分裂とかしなけば、前田や東海道諸侯が死ぬな。
まあ、歴史のIfとしては興味有るな。
その場合、上杉がどれだけ粘るかがすべての焦点で、
上杉降伏後、越後堀、最上、伊達、史実での秀康ら宇都宮守備隊、奥羽諸将等、
すべてが西に向かい西軍は正面戦力が圧倒的に足りなくなる。
関東に攻め込むどころではなくなる。
前田は…わからんね、粘るかもしれないし西軍につくかもしれないし。
まあ上杉と本格的な戦端を開いてればそっちを優先する可能性はあるけど、
そうなる為には征伐軍に参加予定の大名を関東に集結させておかないといかんから
小早川、鍋島、大谷等の西軍参加諸大名の何割かが東軍になっちゃいそう
上杉征伐は政権事業だから、軍勢集結前に見切り発車では多分やらんし
唐入りに続いて上杉征伐も参加費用掛かるだけで無駄足でしたとか政権としてもさすがにマズイから、
参加者に形だけでも参戦させて恩賞を渡すって風にしたいだろうからな
前スレでも言われていたけど、西軍挙兵によって大義名分を失った上杉討伐軍が瓦解する
というifも含めて考えると割かしリアリティのある状況になってたんじゃないですかね
自分たちを構成する軍に離反が多かったり、旗幟鮮明でない者が多ければ西上できずにその場で待ち受けるしかないですよね
家康本人ですらこんな簡単に上杉討伐軍から東軍に再編できたの、びっくりしてるような印象受けますし
上杉征伐軍が瓦解するには、なにかしらの要素を加味しなければだめでしょ、
実際瓦解してないんだから。
(あったとされる)小山評定で、石田・大谷討伐よりもまずは上杉征伐を優先、
と決した、くらいならわかるけど。
上杉が武装強化してその弁明に上洛しないのが理由なんだから、秀頼が上杉を許し、かつ討伐軍はひっこめると宣言しないとダメだよね
ただいきりたった豊臣家臣がもう一方の豊臣家臣を糾弾してるだけでは大義名分なんかには関わらない
結局は秀頼がどう動くか、それにつきる
徳川の直臣が反対するわけもない
反石田の福島もむしろ西進したい一択
ほかの日和見というか意見のないのはうんもすんもない
すり抜けてしまうので兵力減少になってだめだが、
逆に挙兵を10日早めてみたらどうか?
まだ出陣せずに在国の将もいくらかいるはず。
そして在国状態で上方雑説を聞けば、まずは様子見、となるんじゃないだろうか?
とりあえず諸将の7月7日あたりにどこにいるのかがわかればおおよそは
つかめるんじゃない?
7月7日内府違いの条々を送ったとして。
中小大名の子だくさんって破産しないの?
始めの10人くらいで2隣りの大名まで婚姻できちゃうよね?
まあそりゃ秀吉没後やっとこ徳川執政の下で内外ともにまとまって来たのをここでひっくり返したい人間なんてそういないですか、失礼しました
豊臣政権の筆頭大老
遺言やらでも大老衆の中で文字通り一番最初に名前書かれてたはず
秀吉に政務見ることを指示されてるし、
そもそも関ケ原までに他の大老は職務放棄しとるし
>>57万石の当主である島津に「13万石の織田の指揮に従え」ってのも
凄い話ではあるが
石田三成「19万石で関ヶ原では西軍に命令下す大将になってスマン」
宇喜多秀家「57万石だけど19万石の三成にこき使われてスマン」
島津義弘「53万石だけど1500人しか兵を連れて来なくて面目立たないと書状にも書き、大きな顔できなくてスマン」
>石田三成「19万石で関ヶ原では西軍に命令下す大将になってスマン」
石田は首脳部の一員だが大将でも何でもないぞ
「秀家が西軍ならそっちに付くのが豊家のため」と味方が増えてたのかな
大老として職務放棄するわ、大阪城下でドンパチやりかけるわ、
秀家より家康の方が豊家の忠臣に見えてもしゃーない
家中掌握できない無能となめられてたかもしれんし
甲信、畿内、北陸のどこかに封じればよかったのかな
備前宇喜多家は古参中心にまとまれるし、秀家に楯突く必要もない
戦力を損なうことなく関ケ原に移行できるな
秀家に従う必要もないなw
宇喜多騒動がなければ忠家は引退しないし、
忠家の発言力が高いうちは秀家を立てると思ったが、ダメか
中央政権とのパイプは維持したいだろうし
隠居したのは宇喜多騒動前で騒動は関係ないはず
秀吉没後の合議制自体が秀吉の死後、9月3日に作られた十人連判の誓紙で新しく通した体制で
秀吉生前の遺言だと家康に政権託してるって説もあるからなぁ
あと宮中序列では徳川秀忠>輝元&景勝になる。これは秀忠が輝元や景勝よりも先に中納言になったため。
息子2人を中納言にしているのは家康だけですね。(秀忠と秀康)
これで家康が筆頭じゃないとしたらそれはそれでやばい。
豊家の序列だと最初は信雄が一番だったようだけど(内大臣)失脚。輝元がナンバースリー(東国のことは徳川に西国のことは毛利に)くらいに躍り出るも、利家が台頭して「普通の大老」になったりで面白いけどスレ違かな?
家康以外の大老の職務放棄は領国や家中のことを全権委任して(ある意味隠居して)中央政治に専念できるのが、成人した嫡男がいる家康と利家だけということを弁護したいかな。
利長と利政でどうにかならなかったの?とは言いたいけど。特に上杉は弁護したい。
しかし、家康への優遇は本当に凄まじいなあ。
秀吉生前は秀康は参議では?
秀次失脚後の序列は
家康利家秀家景勝輝元だろうけど
豊臣家との縁戚関係は全く無いでしょ?
同じ大老の前田家から嫁貰ったくらいで
秀吉-秀頼という豊臣宗家と直接縁戚関係を結んだのは
秀吉の妹を娶り秀頼の叔母を跡継ぎの正室に迎え
その娘を秀頼の許嫁にした家康の徳川家しかない
五大老なんて言うけど同等でも何でもなくて、何より秀吉自身が徳川家を最大限に優遇してる、
というか最も頼りにしてるのが明らか
多分だけど、晩年の秀吉は家康と徳川家の優秀さと団結が羨ましくてしょうがなくて、
何とか一門化して徳川家によって豊臣家を存続させようとしたんじゃないか
さもないとこれだけ必死に何重にも徳川家と縁戚関係を結んだ理由がわからない
猶子だったという史料は残ってないけど秀吉養女を娶って早くから一門扱いだったと黒田基樹は言ってた
血縁的には無いけど、意識としては羽柴家の一員くらいでは?文禄か慶長で朝鮮侵攻軍の総大将もしていたし。
しかし宇喜多の場合は後継者の秀頼との直接的な関係がないから
秀頼の代になったら遠縁みたいなもので外戚を約束された徳川家ほどの影響力はとても持てない
逆に考えるとこれだけ優遇された徳川家に他の大老や三成が嫉妬と反発を覚えても全く不思議じゃない
そりゃ諸将も家康につくわとしか
よく西軍って毛利抱き込んであそこまでの大乱にできたなぁ
いやまあ、挙兵自体はアリだと思うぞ、家康って立場的には完全に藤原氏の位置だし
その藤原氏が朝廷におけるライバルポジの大伴や橘らをどうしたか考えれば、
反家康派が危機感を持つのはおかしくはなかろう
後、毛利はそれとは別の思惑もあるだろうな
政権の無力化を見越して西国覇者の大大名になりたいってのが透けている
上杉もややスケールが小さいが似たような動きしてるね
主観ではあるが、毛利や上杉は豊臣政権が無力化して大大名が好き勝手に領地拡大できる
戦国時代後期に時計の針を戻したかったんじゃないかな
実際奉行衆が挙兵するのは納得なんです
秀吉政権でそれなりの地位だったのにいきなり政務を家康に持っていかれればそりゃ反発するだろうなというのは
ただあくまでも奉行衆が乱を起こす程度ならもっと小さい規模、それこそ会津征伐中でも伏見城の人間だけで止められたと思うんです
かなり嫌われてますしぶっちゃけた話奉行衆の挙兵にそこまでの正当性はないので
そこで毛利を抱き込んで天下の大乱を起こしたところに驚いてるんです
奉行だけじゃ勝てないからでしょうね
勝てないからこそ、勝つ為の担保としての毛利を求めた訳で
というより、秀吉死亡直後に浅野を除く奉行が毛利と誓紙を交わしたなんて話もあるんで
かなり早い段階で奉行は「そうするつもり」だった可能性すらあります
やや傲慢な言い方だけど、家康さえ排除すれば(多分前田も)天下はどうとでもなるみたいな
要は自分たち『中央政権で政権運営をしていた奉行としての自分たち』を過大評価してたんじゃないかと
僕もおそらく奉行衆は忠義の発露と言ったものでなく、かなり野心を持った上での秀吉没後の行動じゃないかなと認識してます
秀吉最晩年におそらく家康に任された政権運営を奉行衆がごり押しで巻き返しを図って、ゴタゴタした結果三成が貧乏くじ引く形で家康に負けたような形なんじゃないかなと
そこからの再巻き返しに武力行使に出たのが西軍挙兵なのかなーって認識です
1590年くらいまでは、小牧長久手で戦った信雄、家康を優遇するためと、それを牽制するための一門の官位上昇
信雄内大臣、家康権大納言
秀長権大納言、秀次権中納言
秀家、輝元、景勝、利家、氏郷は参議
秀次後継が定まると秀次の官位上昇とその他の一門の官位上昇、さらに徳川以外の大大名の官位上昇があり、バランスのとれた家格秩序が整備されていく
もしかしたら秀次の意向もあったのかもしれない
秀次は左大臣
家康は据え置きで秀忠が権中納言
秀長後継の秀保が権中納言
一門の秀俊も権中納言、秀勝は参議
秀信も参議
その後、秀家、景勝、輝元、利家が順番に権中納言
秀俊を容姿に迎えた隆景も権中納言
秀雄は参議
秀次が失脚してから晩年にかけては、それまでの家格秩序が崩壊しはじめる
おそらくは秀吉が年をとって判断力が鈍ってきたのと唐入りの戦況が思わしくなく、近くにいる大名の評価が上がるということがあったのかもしれない
家康は内大臣となり秀康が参議
利家が権大納言、利勝も急上昇して権中納言
秀信が権中納言、側室の実家である高次が参議
さらには諸大夫だった正則、一矩が公家成してしまう
石田と増田はそれぞれ5000以上動員可能だし
宇喜多は既に恨み骨髄だし、
毛利も周りの西国大名が家康に媚び売ってるのは面白くない
大老衆からしてもチャンスがあれば叩きたくなるのは当然
周りの連中も家康が畿内にいないなら強い奴に従うしかない
(その構造的脆さに気付けなかったのも敗因だろうが)
多分、毛利はそういった不穏分子を止める側に入ってくれると家康は認識したんじゃないですかね
わざわざ誓紙まで出させてますし
いやまぁその甘さゆえに問題大きくしてしまったんでしょうけれど
加賀征伐(未遂)、会津征伐ときたら思うところはあるだろうね
あと秀元の相続問題をちゃぶ台返しされたこととか
縁戚からも筆頭大老(秀吉の義弟)
前田は人質送ってうまいこと矛先反らせたけど
百歩譲ってよ?堀や最上たちによる報告が言いがかりだったとしてよ?
弁明のための上洛もせず、関係修復に努めてた藤田信吉も追放して挙句煽ったわけでしょ?
ここまでのことを毛利や宇喜多がやる前提なら他人事じゃないけど、ここまで舐め腐った態度取ったらそりゃ討伐って話になるし普通に他人事でしょ
ほんそれ
他の大老からしてもイキがるのも大概にしろって思うだけで共感得ないよね
個別に家康への従属か反抗かを問われてくことになるなら今のうちに皆んなで反抗してみるかってのが関ヶ原でしょ
上杉が叩かれるのは残当としても、毛利宇喜多奉行が家康にいい感情もつ道理がないからな
逆に上方から徳川勢ほぼ総撤退して無事で済むと思ってた家康がおかしい
そりゃ「挙兵させるための上杉討伐」なんて陰謀論がもてはやされるわけで
やぶったというより時勢にあったやりかたをしただけ
秀吉本人がいないのに本人の決済が必要だとかいうアホらしい決めごとをどう守れというのか
朝日軍道は咎められたら結構まずい案件だという認識していたんじゃないかな
割かしみんなナチュラルに遺命に背いてるし、むしろ家康割と守ってる方だと思うけど
秀吉の前期の遺言で言うなら家康が完全に全権委任されてるし
>秀吉の前期の遺言で言うなら家康が完全に全権委任されてるし
どこにそんな事書いてあるんだ?
太閤樣被成御煩候内ニ被爲 仰置候覺
一 内府久々りちきなる儀を御覽し被付、近年被成御懇候、其故 秀賴樣
を孫むこになされ候之間、秀賴樣を御取立候て給候へと、被成 御意
候、大納言殿年寄衆五人居申所にて、度々被 仰出候事、
一 大納言殿ハおさなともたちより、りちきを被付御存知候故、秀賴樣御
もりに被爲付候間、御取立候て給候へと、内府年寄五人居申所にて、度
々被成 御意候事、
一 江戸中納言殿ハ 秀賴樣御しゅうとになされ候條、内府御年もよられ、
御煩氣にも御成候者、内府のごとく、秀賴樣之儀、被付御肝煎候へと、右
之衆居申所にて、被付 御意候事、
一 羽柴肥前殿事ハ、大納言殿御年もよられ、御煩氣にも候間、不相替 秀
賴樣御もりに被爲付候條、外聞實儀忝と存知、御身ニ替り肝を煎可申
と被 仰出、則中納言ニなされ、はしたての御つほ、吉光之御脇差被下、
役儀をも拾万石被成御候事、
一 備前中納言殿事ハ、幼少より御取立被成候之間、秀賴樣之儀ハ御遁
有間敷候條、御奉行五人にも御成候へ、又おとな五人之内へも御入候
て、諸職おとなしく、贔屓偏頗なしに御肝煎候へと、被成 御意候事、
一 景勝、輝元御事ハ、御りちきに候之間、秀賴樣之儀御取立候て給候へと、
輝元へハ直ニ被成 御意候、景勝ハ御國ニ御座候故、皆々ニ被爲 仰置
候事、
一 年寄共五人之者ハ、誰々成共背御法度申事を仕出し候ハゝ、さけさや
の躰にて罷出、双方へ令異見、入魂之樣ニ可仕候、若不屆仁有之而きり
候ハゝ、おいはらとも可存候、又ハ 上樣へきられ候とも可存と、其外
ハつらをはられ、さうりをなおし候共、 上樣へと存知、秀賴樣之儀
大切ニ存知、肝を煎可申と、被成 御意候事、
一 年寄爲五人、御算用聞候共、相究候て、内府、大納言殿へ懸御目、請取を
取候而、秀賴樣被成御成人、御算用かた御尋之時、右御兩人之請取を
懸 御目候へと、被成 御意候事、
一 何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、其次第相究候へと、被成 御意
候事、
一 伏見ニハ内府御座候て、諸職被成御肝煎候へと 御意候、城々留守ハ
德善院、長束大藏仕、何時も内府てんしゆまても、御上り候ハんと被仰
候者、無氣遣上可申由、被成 御意候事、
一 大坂ハ 秀賴樣被成御座候間、大納言殿御座候て、惣廻御肝煎候へと
被成 御意候、御城御番之儀ハ、爲皆々相懃候へと被 仰出候、大納言
殿てんしゆまても、御上り候ハんと被仰候者、無氣遣上可申由、被成
御意候事、
右一書之通、年寄衆、其外御そはに御座候御女房衆達御聞被成候、以上、
なんで前期だって書いてんのに思いっきり後期の遺言出してきてるの?
家康が権力を奪わなきゃ奉行どもに追い詰められ秀忠の代に取り潰されたかもしれないし。
まあ、本来信長の構想では駿河遠江三河の三ヶ国で約100万石で限界だったでしょうね。
此れすら、信長の性格では奥州あたりに転封かも知れんし。
秀吉が筑前守、光秀が日向守で惟任姓、丹羽も九州由緒の姓、嫡男の信忠が秋田城乃介って
考えると、信長が大身大名残すのって九州、奥州、北陸くらいの構想。
家康の関東250万石って、絶対家康死ねば分割か改易だろうってのは解る。
前漢だと、異性の八王は高祖の時代に全滅。
同姓諸侯で最大の斉「高祖の庶長子の家」は、後嗣が無いから一度改易した上で六郡を
七つに分割して傍系の皇子にやる。
これも呉楚七国の乱で無力化される。
まあ、一度秀忠にいちゃもん付け改易、家康の子供全部でまんべんなく分割くらいするかも。
駿遠三で百万もあるか?せいぜい70万に満たないくらいだったと思う
前主として祀るくらいの余裕は家康に持ってて欲しかった。
ならば本来の大仏の鎮守にした方がマシというもの
そこをごっちゃにするから法的な慣行上の手続きに不備があったのかと、
政治闘争上の野心や脅威があったのかを混同してどっちが正しいかみたいなことになる
冬の陣後、秀頼を江戸城の一室に匿い
子孫代々まで囲って
将軍が毎年豊国神社を祀るとかすれば
徳川家康は日本史上稀有な聖人として
今も尊敬されまくってただろうな。
趙匡胤との違いはそれだけだし。
幼君から権力を全て奪い取りやってる事は鬼だが
その後の処置により中国史上最大の聖人呼ばわりされてるし。
秀頼が二度も乱を起こさなければそうなったでしょう
秀頼が傀儡になるのをいやがるのは自然な話とは思うがせめて大坂城からちゃんと出られる人材となってなければお話しにもならんよな
愚図というかカリスマ性がない
ホントに七光りそのものでは…
まあ、趙匡胤はあそこで下剋上しないと五代の乱世を終わらせて太平にするって先帝の遺志が
駄目に成るって大義名分が有る。
立場的には豊臣秀吉に近いですね、織田信長の全国平定の遺志を継ぐ為に下剋上をしたって
言い分。
だから嫡孫の織田秀信には岐阜14万石をやって、織田の家系は大名として残すだし。
北宋の場合、南宋の最後の皇帝が崖山で入水した時に最後までお供した家臣に柴姓の人が
居たらしいですからね。
本当に300年間旧主を優遇してたみたいです。
家康が関ケ原で負けてれば、織田秀信の家系って今でも有ったかもしれないですね。
だってあれ明らかに簒奪だし孝とか忠とかチャイナの好きな要素と明らかに反する行為だし、禅譲とかおためごかしやってるのが尚更悪者くさい
まあ献帝もお飾りそのものだったからなあ
すこしは自分で動かせる軍隊かかえてないと。
曹操の祖父って、後漢の第七代皇帝の順帝のご学友「少年時代から仕えてた」だしね。
超大物宦官だから養子を夏侯氏から取った「曹嵩」のが曹操の親父だし。
多分、少年時代の祖父の思い出とかが意外と関係したのかもよ。
家柄からすると、家に順帝から賜った宝剣とか袴とか家宝として有りそうだし。
宦官の家柄でも、後漢王朝の譜代家臣の家柄だしなあ...
幾ら曹操でも、祖父の曹騰の為に思う所有ったのでは?
まあ、献帝には惨い事するなって遺言してても驚かない
よくわからんけど曹操までは献帝を一応は大事にはしてたから…
大事にしていた人が皇后や貴妃、その一族を殺すのか?
まあ確かにw
ただ帝には直接害をなしてないし、一応暗殺相手を粛清しただけだしww
ただ献帝の皇太子は殺したっぽいんだよなあ >曹操
そうなのか。それは知らなかった。暗殺組のなかにいたのかな
皇后と一緒に二人の皇子が殺されたと後漢書にあり、
三国志先主伝の劉備が漢中王になる時の上奏文に「皇后と皇太子が毒殺された」とある
時系列を整理すると、その事件の数年前に曹操の娘の曹節が献帝の後宮に入ってる。
伏皇后事件はその数年後、多分殺された皇子ってのも伏氏の子供だろうね。
確かに自分の娘を皇后にしたくて曹操が企んだ可能性は有りそうですが?
でもさ、この時点では後漢王朝への忠義とギリギリ矛盾しない気がします。
秀吉が聖人扱いされてるか?
大チョンボやらかしてるのがデカいのかも
「先帝がいたらこんな屈辱は無かった」みたいな
徳川家康が殺せたら、しかないでしょう。
徳川家自体は残しても問題無いだろうから。
別に家康討ち取りが絶対条件ではない。
西軍に有利な条件で和睦できるならそれでいいと思うが。
で、どうすればそれができるかは、東軍先発隊、秀忠隊、家康本隊、
いずれかを撃滅すればそうなる可能性が高い。
過去に何度も説明されてると思うが。
秀忠が本隊だろうに。
そも徳川隊を撃破できるなら家康の首もとれただろうよ
取れたかもしれないね、でもそんなことはわからん。
ただそう難しく考えずお題通り東西挙兵した戦役が西軍勝利と言える形で収束するとしたらどういう形かを論じればいいだけじゃね?
東北では上杉が最上潰せば伊達がどう転ぶか分らんし、佐竹と力合わせて圧力掛けられる
九州も毛利本隊が徳川に引っ張られないなら黒田、加藤は大人しくしてるだろう
伊予、丹後、豊前が毛利の手に落ちたら海道諸侯にも見限られる
そうなると東軍先発隊を撃滅するのが一番近道のような気がする。
徳川を関東に押し込めるだけでいいのなら。
その後、
・家康は内府違いの条々にある非を認めること、
・家督を秀忠か秀康に譲り隠居すること、
・伊豆・相模の2か国は減封すること、
・以後秀頼成人までの豊臣家の政務代行は毛利輝元とすること、
このあたりの条件で和睦し、西上野+北信真田昌幸、南信真田信繁、
甲斐長束正家、伊豆・相模小西行長あたりで東の防壁としておけば
秀頼成人くらいまではなんとかもつんじゃない?
その後豊臣がどうなるかは秀頼次第。
西軍の挙兵と秀頼の云々はまるで話が違うでしょ
ストーリーとしてその方が面白いから関連づけて言われてるだけで、西軍の行動とその10年後に豊臣本宗家が滅びるのはまるで関係ないよ
まぁわたしもそう思うけど、石田や奉行衆としては
家康を排除し自分達主導による豊臣の安泰を
計りたかったのじゃないかなと。
戦力的に西軍も余裕ある圧勝とはならないだろうし
落とし所としてはこんなところじゃないかなと。
京坂を本拠地とする豊臣家にとっては
関東の徳川より中国の毛利に瀬戸内押さえられる方がよほどキツいとおもうんだけどねぇ…
まあ、そうなんですよね
奉行はおそらく奉行主導+宇喜多での政権運営を理想としてて、それに権益拡大を目論む毛利が乗っかったと
東国から家康たちを出しさえしなければ政治の場への家康の口出しは防げるしで、彼らの理想は叶うんですよね
仰る通り東軍を全て駆逐できるほど兵力差がないので確かにそのあたりがリアリティのある西軍の勝利条件と言えますよね
もちろん勝ったからって急に西軍が急に一枚岩になって後の徳川幕府に匹敵する安定政権が生まれるとは思えないし
決着後さらに家康が粘って復権したり最悪西軍諸将で反目しあって乱世に逆戻りする可能性はあるけどそれはこの戦役の範囲外の話
東軍もそうだった可能性はあるけど。
家康打ち取りは戦場で打ち取るのはかなり難しい。
大大名が戦死するのはこの頃はほとんどない。破滅的な敗北であった秀家や三成でも戦地からの逃走には成功した。
本能寺以降に戦場で死んだ大名は大谷吉継と長宗我部信親くらいじゃない?
家康が清洲に来る9月11日には駿河遠海三河が徳川によって事実上接収されるので、徳川減封のハードルが上がる。
岐阜城陥落前にどうにかしないとですね。
>岐阜陥落前にどうにか
そこでスレ前半の岐阜城後詰決戦案になるわけだな
岐阜・犬山の防備を固めた場合東軍諸将は家康到着を待たずそれを囲むのか
西軍諸将は後詰に出てそれを崩すのは可能か、膠着するのか
それらの戦況に対して家康は徳川の本隊をどう動かすのか
言ってる通りなんですよね。
リスクが低いのは犬山城攻撃ないし包囲だけど、村越茂助の件があるから
決死の覚悟で木曾川渡ってとりあえず岐阜城攻撃&包囲するような気はするなぁ。
その後西軍の後詰に対し決戦するか清洲に退却するか、
長篠の武田に近い決断を迫られるかな?まぁ長篠ほどの兵力差はないし
西軍が野戦築城してるわけでもないけどそのかわり退路は木曾川だが。
>岐阜陥落前にどうにか
岐阜城が落ちると
・京極が大津城で蜂起
・小早川が松尾山を武力占拠
・毛利が東軍に単独降伏
と連鎖するもんな
ゲームなら糞ゲーもいいところだ
総大将が戦場で討ち取られたのは、義元ぐらいか
龍造寺隆信「わしを忘れないで」
当主ではないけれど合戦の時総大将してた三好実休も討ち死にしてる
池田恒興は大名とは違うのかな
豊家の話は関ケ原の勝敗には関係ない、というか西軍が勝って
毛利や上杉が中央の制御を離れ地方で好き勝手やってたら
豊臣家の一大名への格落ちはもっと急激だったろうな
徳川みたく天下の軍を動員し大阪攻め、なんてもんでもなく
普通に内ゲバか大勢力に吸収されて滅んでた
と言いたかった。
今川義元以外だと陶晴賢くらい?
織田信長や足利義輝も入れられるかもしれないかな?拠点であった城を枕に討ち死にするのは性質が違うと思うから入れないけど。
あるとすれば本当に退路を塞いでとかだね
完敗の三方ヶ原でもしんではいない
家康がどうやって野戦で負けさせるかを考えるのが先になると思うけど、家康が清須に来てからだと国元といっても三河に帰ればいいだけ。
東海道は徳川家が差し押さえてるから。それに岐阜城や清須城に帰れる可能性もある。
あと、割と「元気なお爺ちゃん」タイプだから落ち武者狩りみたいな治安さえどうにかしていれば帰国されそう。
福島以下先発隊相手でも岐阜城近辺であのザマだし
大規模戦闘になったらまとまりの悪さ、覚悟の無さで絶対的に不利
西軍が勝つには事前の交渉、工作を上手くやって味方を増やし、
その兵力、地の利を見せ金に箱根越えを断念させるしかない
それでも小田原落とすまでの実力がなけりゃ和睦条件に領地割譲盛り込むのは難しかろう
まだ岐阜城語詰め決戦の方が期待がもてる
飽きた
後世応仁の乱に並ぶ慶長の乱として歴史に残りそう
実際、吉川関連で関ヶ原の時に爆発したし。そういったところに乗じれば大丈夫と思っていたんじゃない?
安国寺も毛利家中から協力するかもしれない。
西軍勝利条件としては徳川家の分割も必要なくて、ただただ、家康を関東の領国から出れないようするだけ。でもいいんじゃないかな。
あとは千姫を誰かと婚姻させるとか?秀頼に影響を与えるのを阻止するために。
尾張美濃国境線で長期持久して本国と切り離された東軍先鋒組の弱体化を待つしかないと思うので、そこからは西軍有利じゃないかな。
長期持久にどうやって持ち込むのよ。
まあ、元々は尼子と大内に挟まれた安芸の国人同盟だしね。
元々対等同盟だったはずが、気が付くと家臣化されてたって流れが事実。
安芸備後程度の勢力だった時に備中の三村を傘下に入れてるけど、これも元々は対等同盟に
近いでしょうね。
其の後、三村の頭越しに毛利が備前の宇喜多「三村の宿敵」を臣従させたんで離反、毛利に
三村は滅ぼされる。
有名な清水宗治も、三村の有力家臣の石川氏の娘婿って微妙な立場だったらしい。
まあ、一代前は対等意識が多分毛利。
なんで一番厳しい想定を前提として戦略を建てないのか謎。
秀吉が生きている時に思い通りに事が運んだからでしょうね。
朝鮮征伐はそうでもなかったのでは?
同じ様な上杉は重臣たち追放して転封で地縁切ってで挙国一致体制築けたが
さりとて毛利がしっかりしていて仮に勝てたとしてらその後が恐いし
難しいねw
九州から黒田軍が上がってくる
毛利は黒田軍と対峙
前田の抑えに二万か
西軍の兵力では
結局徳川7万五千を押し込められない
実際そううまくいくだろうか?
ないね、黒田の兵は寄せ集めだし、島津がいくら弱体化してるとはいえ攻めきれない
清正と対峙
決戦で勝敗がつけば雪崩を打ってもともと西軍が正しいと思ってましたって大名が増えそうだし
徳川征伐は難しくても東軍に味方した大名の領地は厳しくなるのでは?
よく西軍が勝てば戦国時代に逆戻りすると言われるけど、多少の混乱はあるだろうがすぐに逆戻りするのだろうか
大義名分がないし、しばらくは互いに牽制が効くと思う
その後、政権内での主導権争いが頻発すれば崩壊は早いだろうけどね
実際は岐阜城あたりか
秀忠軍が来れば西軍などあっという間だ
ゆるい政権は続いたかもしれん。
全国規模で「御恩」を供給できて、守護や守護代をつなぎとめることのできる大きい意味での「幕府」が崩れても、
将軍とその周辺の名誉や追認の権限だけが残った小さい意味での「幕府」は残ったし、秀頼もそうなるのじゃないかな。
足利家と朝廷のパトロンになった細川家・三好家の役をどこがやるかはわからないけど。
本戦だったら、どういう勝ち方だったのかに左右されるだろうけど、残党プラス秀忠隊という第二ラウンドが。
豊臣政権がいくら幼主を戴いているとは言えすぐにそこまで弱体化するのだろうか
すると思うよ、というよりまず毛利と上杉が制御不能になる可能性が高い
で、毛利の後方である九州、および上杉後方の東北が自動的に制御不能になるし、
当然関東の徳川も制御不能になるな
おまけに東海道諸侯が軒並み東軍だから下手すると東海も制御不能になる
まあ近畿は何とか出来るかもしれんが…
あ、この場合の制御不能ってのは豊臣政権の言う事を聞かなくなるって意味ね
それぞれの地域の覇者がその地を支配する事によって一種の秩序が生まれる可能性は否定しないよ
それが履行できなくなったら武家も従う理由もないしで一気に衰退するよね
室町政権はあまりに異質だから果たして成立して日が浅すぎる豊臣がそんな風に行けるかというと
だから公家化させたかったのかもしれないけど
当然豊臣政権の許可や追認を求めるだろうし、豊臣政権も追認することになる
しかしそれ以上の拡大は厳しいと思うよ
政権内での争いが長引けば別だけど、そうでなけれぼ討伐軍の派遣が難しくても、一歩間違えば包囲網を敷かれるわけで
豊臣政権には朝廷を動かす力はあるし大義名分もある
一方で毛利、上杉には徳川ほどの力はない
秀頼成人までは均衡が保たれるのではないか
甘いと思うわ
そもそも朝廷は別に豊臣の味方じゃないぞ、摂関家は史実でも家康が幕府を開くより早く
関白職を豊臣家から取り返しているし
それに確固とした実力のない政権による大義名分なんぞ何の意味もない
つか、それに意味があるなら戦国時代なんてそもそも存在しなかったろうよ
大体、毛利や上杉を始めとする諸大名の一部は中央政権なんておかまいなしに
領地を好き勝手広げてた時期もあるんだからその時のやり方に戻るだけだと思う
地方を好き勝手治めてた大名たちからすれば本来中央政権なんて邪魔ものだしな
うるさい事言う中央の上役なんていない事にした方がいいに決まってる
まああれだ、どうしても西軍勝利で政権安定させたいなら毛利の一人勝ちを認めるしかない
要するに毛利に関ヶ原前の徳川ポジションをくれてやるって事
まあこれやると、奉行が関ヶ原起こした意味が完全になくなるけど
具体的に誰が現地で包囲網構成するの?
朝廷動かせたとして何だっていうんだろう?
上杉はそうだろうけど毛利はヤバいでしょ普通に瀬戸内押さえるよ
>政権内での争いが長引けば別
その政権内での争いが激しくなりそうじゃないか。
関白の椅子を取り戻したい摂関家に、徳川・浅野という共通の敵をなくした奉行・毛利・宇喜多に団結する動機がなくなる。
前田玄以の寿命と石田や大谷の奉行復帰、論考恩賞の分配でもめにもめそうだけど。
島津も義弘と義久で政争になりかねないし。東北やあっちこっちに爆弾があるっちゃある。
朝鮮との講和については後回しでいいかもしれないけど。
大老として職務放棄しまくりで家康の一人勝ち状態作っちゃったし、
せいぜい本領は200万石くらい欲しいなー、
西日本諸侯の家中あるいは大名間の揉め事裁定できる権利欲しいなー
くらいの考えで大将やってたように思ってた
>西日本諸侯の家中あるいは大名間の揉め事裁定できる権利欲しいなー
普通にもうこれ筆頭大老クラスの扱いじゃないか
現実には、貫禄の違いや本人のサボりも原因とは言え家康が全国仕切ってて、
近場だと虎加藤や黒田と縁組し、寺沢動かして庄内の乱に介入し、長宗我部の相続認定し、
藤堂どころか準一門だったはずの秀秋まで徳川に擦り寄る、といった
面白くない状況打開したかった、くらいの理由かと
岐阜城の後詰に出るなら東軍は渡河してる前提じゃないかな
木曽川挟んで睨み合う想定?
岐阜城は木曽川を利用した意味での堅城であってそこを超えられたら防衛不向きというのを聞いたことがあるんで
渡河中を攻撃の方がいいんじゃないかという気もするんですがどうなんでしょう
勝利条件は東軍の西上阻止が優先目標のはずですから、木曽川で退路断つよりにらみ合いの方が理に適うかなーと
すまん、その認識はなかった
斎藤氏時代は城下を焼かれてたりしたがその頃とは動員も違うし木曽川渡られたら終わりって考えた方がいいのかな
木曽川挟んだ睨み合いとなると、東軍が強引に渡河するようなら西軍にワンチャンあるけどそのまま膠着の可能性もあるか
東軍先陣に打撃を与えず睨み合ったまま家康秀忠の本隊が到着すると結局史実と同じ展開になりそうな気がする
大坂の陣で滅んだ時点での豊臣家は朝廷に認められた公儀(二重公儀論を持ち出そうが形骸化した豊臣家と違い
実力のある現役の公儀だった)に逆らい、ホシイママニ浪人を集めて武力蜂起したれっきとした謀反人
やたらと趙匡胤を持ち出す人がいるけど恭帝は同じように皇帝になった趙匡胤に対して武力蜂起したのかな?
恭帝は秀吉における織田のように(一旦は戦火を交えはしたが)おとなしく服したから優遇もされた
秀頼とて柴氏及び織田のひそみにならいおとなしく大坂城を出ていれば家康も公家として存続させるか、
もしくは高家として遇するくらいはしただろうに、それを自ら拒否し謀反人として死んだのは秀頼自身の選択だ
天下の謀反人として滅んだ一族を神式で祀ることは廃したが、仏式で供養することは認めてるんだから
むしろ寛大なほうだと思うけどね
趙匡胤の、石刻遺訓って有名な話だけど知らないの?
宮中の奥深い部屋に石碑が有り、家督を継ぐ時に見せるしきたりだったと言う。
一族の秘伝で、宰相すらその存在を知らなかったってさ。
北宋滅亡の時に、金軍が宮中を占領した時に発見されたってお話。
内容は物凄く単純で、だからこそ宋王朝の公約って感じだけど。
1、言論を理由としての士大夫「官僚階級」の死刑禁止
2、どんな事が有っても旧主の柴氏の面倒を見る事、どんな事が有っても祭祀が絶えたりする事
が無い様にする。
ここでは遺言で厳命だから、仮に旧主が挙兵しても当人の自害「公式には病死」で済ませて
家督は息子に継がせる。
子供居ないんだったら、甥とか従兄弟とか探して継がせる。
それも駄目なら、外孫を復姓させて継がせる程度の事をしろって事だと思う。
秀頼の子を処刑した家康とは役者が違い過ぎますね。
一方は狸の化け物扱い且つ、孫娘を焼殺しようとした外道。
もう一方は、下剋上したの事実なのに聖人扱い、どうしてこうなった?じゃ無くて当然の
結末。
おとなしく臣下になった柴氏と2度も反乱起こした謀反人秀頼を同列にして
家康を批判するのは全く説得力無いし意味が無いってことなんだけど、
意味不明に石刻遺訓なんか持ち出して日本語読めないんですかね?
柴氏が趙匡胤に大規模な反乱起こした史実があるなら提示してくださいよ、
それで石刻遺訓ならはじめて家康と同列に語れるかもって話でしょう
>>192
お二方ともに非常に面白い話をしてるとは思うんだけど、このスレは関ヶ原関連の話するところだからさ
確かに多少話が脱線することも許容されるべきだと思うんだけど、ちょっと行きすぎてるキライがあるんで、大坂の陣スレとかで話続行してくれないかな?
確かにスレ違いでしたね、すいませんでした。
只、趙匡胤って王朝の創始者としては、決っして甘くは無いけど無駄な殺戮が嫌いなんだな
って好感持てるんです。
後周王朝の版図は黄河流域だけなので、下剋上しないとまたまた乱世が続くって大義名分も
満更嘘では無いですし。
乱世の収束には、乱世の掟の否定をすべきだって考えだと思います。
石刻遺訓の意味ってこれだと思うんだよね、そうでもしないと先走った家来が点数稼ぎのつもりで
柴氏を消すだろうし。
ここまで考えてる「まあ性格的に優しいのも有るんだろうけど」人と、家康を同一視は正直
腹が立ったんでね。
現実に武力反乱起こした秀頼を厳正に処罰するのは他の諸侯への見せしめのためにもやむを得ないこと
趙匡胤の場合は柴氏も賢明で偉かったとも言えるんで、身の程知らずな秀頼とは全く次元が違う
で、皇帝になった趙匡胤に柴氏が実際に挙兵して大規模な反乱起こした史実があるならぜひ教示ください
家康が勝ったら即時蜂起して家康へお向かいを出すし
毛利が勝ったら戦勝を褒め上げる表を出す。
積極攻勢に出るきっかけとして期待できるのはやはり輝元が前線に出ることだよね
それでも東軍先陣諸将が尾張まで退いて守る構えだと短期決戦で崩せるかは微妙では?
調略で東軍に造反でも出れば別だけどそれは西軍がむしろ心配なポイントだしね
それを警戒して家康の西上が止まればそれはそれで膠着続いてありなんだけどそれも何処まで期待できるか
いいと思うけどね。秀元&吉川と、元康&秀包には「宇喜多、石田に協力するように」
あたりの指示出しとけばいいでしょ。
輝元が前線に出ると西日本に指示出すひといなくなっちゃうよ。
>>188
東軍先発隊が清洲に篭るようなら西軍は清洲には手を出せない(どうせ落ちない)。
まぁ清洲に35000入るのかわからんが。
その場合西軍は、家康本隊、秀忠隊が東軍先発隊と合流しないような立ち回りを
する必要がでてくるし、その動きの過程で野戦が発生するかもしれない。
そして調略については西軍の大きな懸念材料は何人かの東軍寄りの犬山城衆。
冷静に考えると、東軍先発隊が岐阜ではなく犬山攻略を目指した場合、
犬山への西軍後詰が到着する前に、一部の犬山城衆の東軍への内応により、
数日で犬山が落ちる可能性がけっこう高いような気がする。
犬山の問題は兵数ではなく攻められた場合内応の可能性が高いこと。
すぐに後詰が来るようならその可能性の低下はできるだろうけど、
宇喜多がまだ来てない状況下で犬山の後詰をするのもリスクは大きい。
やっと対等に戦える程度だとは思う。
>積極攻勢に出るきっかけとして期待できるのはやはり輝元が前線に出ることだよね
そこまでやったら敗戦時にお取り潰し必至じゃないか
なにが悲しゅうて火事場泥棒したいだけの毛利がそこまでのリスクを背負い込まにゃあならんのよ
京極が籠城しても大津を攻略した点、毛利水軍の伊勢湾での戦闘、
これらの点から9月上旬まではそれなりにやる気があったと思われる。
しかし9月中旬に吉川広家から、良い条件での降伏ができそうだとの知らせがきたので
輝元はそれに乗った、こんなとこじゃないだろうか?
岐阜陥落の8月下旬~9月上旬で和睦を考えていたのなら上記戦闘行為の指示はださないと思うが。
隆景がいたら家康は動かないだろ。隆景が死ぬのを待つ。
毛利120万石を輝元ではなく隆景が動かすなら、事情が全く違う。
岐阜城陥落後も秀家が家臣に強気な書状が残ってる辺り
伊勢戦線の兵を美濃に回せば数字上は有利で十分ひっくり返せるという判断だったから
輝元もその時点じゃまだやる気を持ってたんだろう
岐阜城陥落と家康西上
この二つが重なって駄目だこりゃと思ったんじゃないか
領地半減での和睦がそんないい条件に思えんけど全部失うよりはましだわな
そのまま何事もなく領地半減だけでも60万石弱だもんなぁ結局36万石まで減らされたけど
よほど西軍の状態がアレだったんかな
こんなことも戦況によっては普通に有り得そうだから簡単に前線には出れないわな
やっぱクーデター起こす側が劣勢になるとしんどいな
引き入れ工作してた会津征伐軍の大半があっさり再編された上妙に士気も高いしこりゃヤバいぞと
>>205
輝元的には大阪城が変な動きしないようギリギリまで自分が大阪城で睨みを利かさないとってのはあるよな
そういう考察とは無関係に外道だのなんだの感情的な中傷繰り返すほうが
よほどズレてんじゃないの
純軍事的に勝てないからでしょ
バッチリ調略決められて西軍首脳が疑ってる中で兵数揃えたところで
ちゃんと仕事するか疑問じゃ話にならない
だからスレの趣旨と全く関係ない趙匡胤の話を持ち出して
ひたすら家康の印象を貶めるしかないわけですね、わかります
こういう敗北者側からの考察って知的ゲームとしても当時の情勢を多面的に深く掘り下げられる
という意味でも非常に有意義だと思うんだけど、結局自分の贔屓が旗色悪くなると
この場合勝った家康を単細胞に罵倒して溜飲下げるだけの輩がしゃしゃり出てくるから困ったものです
まあ端的にただの荒らしなんだけど、それに構ってしまうこちらも所詮荒らしですね、
これで打ち切りにします
すごい早口で言ってそう
増田長盛配下の渡辺勘兵衛が大和郡山にいて、私見だけどこれは大坂城の乗っ取りに失敗した時に郡山で籠城するためにしか思えない。
吉川の東軍との講和交渉が輝元の黙認の下での行動なら、輝元が美濃に行ってもあんまり意味がないし。
そしてこれは自己批判でもあるけど、西軍の勝利とはなんぞや?ということを明確にするために動機やなんかについて考察するのはまだいいけど、脱線しすぎないようにしないと。
増田長盛がそこまでの度胸を持ち合わせてたなら史実でももっと活躍してたろ
蛍大名といわれてた京極高次だって周りが西軍なのに突如として裏切って大津城に籠城したし
度胸がないかどうかわからんだろ
あと増田長盛はそれなりに武功あるんだよな
京極が裏切ったのって東軍が岐阜城落として大垣城包囲しながら美濃と近江国境近くまで進出してきた後じゃん
増田長盛にだってその状況適用されますよね
すでに身内が東軍に参加してる上に秀忠と義兄弟で徳川と縁戚関係にある京極高次と西軍の中核メンバーの増田長盛じゃ全く状況が違うわw
度胸云々の話しだったんだけど?
その中核メンバー(笑)が三成挙兵の情報を家康に報告したり
豊臣家の蔵入地管理してたのに西軍への財政援助をやらせなかったりと保身図ってるしで
大坂城から輝元いなくなったら情勢次第でどうなるかわからんだろ
度胸云々の話なら>>217で京極を持ち出してくるのもおかしいじゃねえかw
たいした根拠のない印象論で増田長盛は大した度胸がないと言い切られていたので
大した武功もなく妹のおかげで大名になれて周囲から蛍大名と嘲りをうけていた
京極高次だってやるときはやる度胸があった例をだしてそんなの実際わからんだろと言ったまでだけど
京極高次は度胸の問題じゃなくて単純に東軍の勝ち目が見えたからだっての
もしかして>>227で言ってることがわかってらっしゃらない?
わたしの217コメの起点は209コメからなんですよ
大坂城から輝元がいなくて京極高次に東軍の勝ち目が見えたと思わせたと同じ情勢に
直面した増田長盛だってどう動くかわからんだろと言ってるんだけなんだけど
それにたいしての>>234なんだけどどうやら本当に話を何も理解してないのね…
むしろなぜそこまで増田が信頼できるのか?
西軍総大将の毛利だって味方に内緒で徳川と和睦してしまったのに…
増田が信頼できるって何を言っとるんだ…
>>234は徳川と深いつながりがある京極高次と増田長盛じゃ状況が違うって話なんだが…
わたしがいつ京極と増田の立場が同じだといったんですかねぇ…
そもそも西軍総大将の毛利が内緒で徳川と和睦しちゃった事実の前で
京極と立場が違うから増田が裏切らないといいきれんでしょうに
自分の城に籠るだけと
天下の大坂城を単身で乗っ取るの出入り
難易度も度胸も100兆倍ちがうわ
おまえの頭が悪すぎてため息がでる。
病死・寿命系はそれ以上長生きする可能性は極めて低いので不可、
討ち死に・事故死系は長生きできる理由を説明できるのならばという条件付で可、
でいいんじゃないかなと思う。
個人的にはそれに加えて暗殺も不可としたい。
暗殺できるなら史実でしてるだろう。
基本的には西軍が勝てる軍事的、政治的手段を各自が考えるべきだろうと思う。
清正に西軍につくよう御教書が届いた際
「増田の領地を全て譲るなら西軍につく」と返答し増田を激怒させた。
あれ増田の領地を渡してでも清正を味方に付けるべきだったな。
増田の説得は何とか可能だろう。伊勢とかで22万石以上あげるかって言えばさぁ。
増田に、じゃあ清正以上に戦場で働けるの?って聞けば答えられないだろう。
清正は最初から味方になる気が無いから、増田の領地を全部要求したと思う。
俺も半分はそう思うけど「それでいいんだな?じゃあやるよ」って言われたら
自分から言った手前、断れなくなるだろ。
ネタにマジレスm9(^Д^)プギャーでええやろ
というか西軍にとっちゃ増田に造反される方がヤバいだろ
つーかそれなら治部少輔の領地を寄越せって言わないか?
三成の方が度量が大きいから「どうぞ領民を可愛がってください」と譲りそう。
度量大きかったっけ?
むしろ自分勝手な正義で暴走する印象しかないので、
キレて使者に余計なこと言って清正が否応なく敵対せざるを得なくなる状況作りそう
秀信に名物の茶器あげたり、何の得にもならない徳川の子供の
結城秀康に政宗の名刀あげたりしてるじゃんか・・・めちゃ気前良いよ。
秀信は豊臣治下では名門だし秀康は豊臣一門筆頭の家康が可愛がってる上に
後継ぎ秀忠とも仲良くて自分は恵まれてて妬まれる立場だと自覚してたほどなんですが
どう考えてもリターン大きいから気前いいというより目端が利くというべき度量関係ない
こんな奴がこのスレにいるってマジかよ。
いつ家康が豊臣一門になったんだよw 更に家康が秀康を可愛がってた?どこら辺が?w
そんで、三成が秀康に刀をあげた時の状況って知らないで言ってるだろ。
家康は秀吉の義弟、秀忠は淀の義弟かつ秀頼の舅候補なので
一応一門と言えなくもないだろ
家康がいい親父じゃないのは同意だなw
>>232 は秀康の戦後最大の加増率のことを指してるのかもだが、
北陸と畿内睨める要地身内で押さえときたいのは当然だしなあ
刀の件はどうなんだろ、先君の元養子で現最高権力者の子が
護送してくれたから、それに対する礼と考えてもやっぱ過分なのかな
秀吉の妹はさっさと帰ってるだろ。筆頭一門ってなんだと思わないか?w
秀頼の・・・と云うなら一応、ギリで一門か?まぁ、その秀頼殺しちゃうんだがな。
護送したんじゃなくて、あれはちゃんと領国に帰るかどうかの目付けだよ。
礼なんて必要ないし、政宗の価値は当時でも1~2を争う名刀だよ。
秀忠合流軍を撃破しても今度は清須攻め
その前に岐阜攻めがあるかもだが
清須は福島が死守するし、残存軍が五頭目に牽制するので落とすのは容易ではない
清須は徳川の死守部隊だけで守るか
いずれにしても簡単ではないし
清須を万一落とせても東海道筋にたくさん城がある
本来徳川が西上しないための城だが
逆に西軍が東上できない
そういうのを見込んで官兵衛も真田も上杉も佐竹も蠢いたわけでしょ。
最短で半年、最長で5~6年は徳川と毛利達の死闘は続くと。
応仁の乱後の人間たちはそれが正常な考え方だったのかもしれない。
奇跡的に西軍が速やかに圧勝しても大和20万石でおしまい(どうせ空手形だが)
おそらく彼が目論んでいた通りに長期化した場合、
隣国の小西、立花を攻めるわけにもいかんし、豊後は大友の手伝いでおしまい、
黒田との戦いも主導権は握れないし、鍋島が加入してきたら手柄立てる場が減る
東軍について火事場泥棒し放題の方がずっとお得
天敵の小西、梅北の件で恨み重なる島津に一泡吹かせるいい機会だし
本戦敗北後もTERUがちょっと粘る気になるかも?
大坂を拠点とする豊臣政権には室町幕府における細川や三好のように大きな影響力を与えられる領地じゃない?
確か秀長も同じ領地だったと思うけど。これは戦後を考えたら加藤の権力が大きくなりすぎるからどう考えても拒否するしかない。
それに当時の三成はこれから復権しようとしているところなのだから近江を要求されたら通ってしまう可能性も。これには長束や京極を納得させる必要もあるんだけど。
クーデターを起こすにはそれなりの仲間と人望と大義名分がなければいけないが
いずれもない。そもそも一番必要な勇気がない。
それからすっかり忘れてたけど、8月6日付真田昌幸宛石田三成書状、及び
8月10日付佐竹義宣宛石田三成書状に、8月8日に秀信と共に?
尾張・美濃国境付近に出陣した(表現は仕置)と言ってるんだよね。
(真田宛では8日に出陣予定と書かれてる)
我等事、尾・濃境目之仕置、尾州表一昨日八日罷出候、
岐阜衆与申談事候、
上記10日付佐竹義宣宛石田三成書状
石田が尾張の曼陀羅寺に禁制出した日付は8月13日だが。
石田の大垣入城は8月10日だけど、8月6~7日の時点で既に石田の手勢は美濃におり、
8月8日に清洲の占拠ないし尾張での人留めをしようと尾張に行ったが、
無理そうなので美濃に引き返し大垣を拠点とすることにした、ってとこだろうか。
たしか8月5日は石田は佐和山にいるよね。
尾張の曼陀羅寺は、現愛知県江南市前飛保町寺町、
岐阜と犬山の中間ぐらいで木曾川から1~2km辺りのところ。
もっと大垣寄りかと思ったけどそうでもないね。
あるいは尾張の小折城(江南市小折町八反畑)の生駒利豊が味方すると見て
小折城まで行ったが(曼陀羅寺の約2km南方)、断られたか、
既に清洲に行ったと知り、美濃に引き上げた。
こっちのほうが可能性高そうだな。
>>236>>238>>239についての推論だけど、織田秀信も8月(空白)日付の曼陀羅寺への禁制を出している。
これらのことから8月8日に石田・秀信連合軍推定8000~10000、
少ない場合は3000~5000くらいだろうか、で、尾張小折城付近まで進出した、
目的は清洲の占拠、もしくは熱田あたりでの人留め、もしくはまずは小折城への進出で、
しかし進出はしたが、なにかしらの理由、もしくは情勢判断で美濃に引き返した。
小西については禁制出してないところから帯同していなかったと見る。
場合によっては、8日は小戦力だったので引き返し13日に改めて兵8000~1万くらいで
進出したかもしれない。
とりあえず禁制も出しているところと、生駒利豊書状から石田と秀信が西軍への勧誘を
していたのは間違いなく(利豊父は長年織田に仕えた恩義から秀信につくのを主張、
利豊本人は日ごろ親身に世話になっている福島につくのを主張、
結局福島につくことにする)8月8日か13日、もしくは両日に尾張小折城付近(推定)に
石田、秀信が進出した可能性がかなり高いと見る。
なので8月5ないし6日に佐和山を出発した石田は
6、7日に美濃、岐阜城かな?に行き秀信と
8日尾張に進出する作戦を立て実行、
そして大垣の拠点化が必要とかんじ
伊藤盛正に大垣拠点化の説得をした、
という流れになるかな。
禁制の日付が13日ってのは気になるけどね。
>石田・秀信連合軍推定8000~10000、
>少ない場合は3000~5000くらいだろうか、
清洲城に福島正則が帰ってたなら同数の兵がいるから帰らざるを得ないって感じかな
一 拙者儀先尾州表ヘ岐阜中納言殿申談人數出候、福島左太只今御理申半ニ候、於相濟者三州表ヘ可打出候、もし於不相濟は清須へ勢州口一所に成候而可及行候、猶吉事可申承候、恐々謹言
八月五日
一 石田三成は、岐阜中納言殿(織田秀信)と相談し、まず尾張へ軍兵を出した。
福島正則はただ今理す(質す)ところ半ばである。
うまく済んだならば三河へ打ち出ようと思っている。
もしうまく済まなかった場合は清洲城へ伊勢方面軍と合流して攻めるつもりである。
八月五日
そもそも8月5日には軍兵は尾張に出してるが清洲城を攻めるには
伊勢方面軍と合流してから攻めると言っている
逆に言うと伊勢方面軍と合流しないと兵力が足らなくて清洲城を攻められない現状だとも言える
8月6日付真田昌幸宛石田三成書状
去三日之御状今六日子刻佐和山参着、令拝見候、(中略)
兎角愚意違背之輩可被討取覚悟専要候、
此方為仕置明後八日尾州表へ被(罷)出候、岐阜申談候、不可有御気遣候、
一手之筑紫衆者残置佐和山、用次第可被打出候、(以下略
この書状から石田は少なくとも8月6日子の刻までは佐和山にいたことがわかる。
それと、8日に秀信と相談して尾張に進出する予定だとしている。
そして必要ならば佐和山で待機してる筑紫らを出撃させることもできると。
なので石田は8月6日に佐和山を出発し、7日に美濃に入ったと思われる。
8月10日付佐竹義宣宛石田三成書状については>>236に記載。
生駒屋敷について
http://www.ikoma-yashiki.com/?p=405
小折城についてです。参考までに。
お言葉頂いてきたとして、家康にとっちゃ全然有り難くないよな
この難局を完全自力で乗り越えてこそ男が上がるってもんなのに
豊家の言葉なんぞ出されたらそのおかげで勝てたみたいになっちゃう
しかも毛利や島津とはなあなあで手打ちしたかったのに、逆臣指定のせいで
骨まで磨り潰さなきゃいけなくなり、決着が遠のく
まあ家康の男上げるかどうかなんて増田長盛のしったことではないしなぁ
むしろ豊臣家にとっては名目的とはいえイニシアチブをとれたんだから史実よりプラスかもしれん
そもそもテルが「世間では増田殿が謀反を起こすと噂になってる。その噂を払拭するため関ヶ原まで御同道お願いする」と言えば
増田は断れる立場じゃないし。
なんで?
自分が前線に出た後同じことをされないか不安にはなると思うよ
実際になされるかどうかは別にして
後豊臣家から米も金子も貰えてない、必ずしも歓迎されてた訳ではないというのもあるな、不安材料として
増田は三成の要請に渋ったが、他には出してる部分もあるぞ。
どうも三成と増田の間には確執があったように伺える。
あと、三成に送ると家康が怖いと単純に思った可能性も否定できない。
家康に情報流してたのも事実だからな。二股・・・とまでは行かないが
保身には走ったな。
大阪にいる連中はまだ助かる道はある 大垣は戦うしかない
挙兵前の書状は西軍の規模を誤認させる偽情報の可能性が高いし
それ以降も情報を流したとか東軍寄りの確たる証拠は無い
長束が伊勢へ出向き、前田玄以は病という状況で、毛利に任せた
伊勢の兵站以外の大坂より東の後方支援一人でやったとなると、
そりゃ色々と齟齬もでるだろうと
なお東軍の兵站は徳川家の代官頭が担当し、北関東は伊奈忠次、
中山道は大久保長安、東海道は彦坂元正、海運は長谷川長綱、
後、江戸周辺は江戸町奉行の板倉勝重が担当した
本戦にはでなかったけど前哨戦は真面目にやってるようではある
三成に特別軍資金用立てるのも根拠に乏しい要請ではある
その上で起こり得る西軍にとっての不安要素ってなんでしょうか?
私的には前田隊の南下が怖いかなーという気がしますが、それ以外に不安点ってありますかね?
どう考えても「西軍」内部の不一致、統制の無さ>不安点
単独行動をしている小早川秀秋の動きが気になるね。
史実でも徳川家康・徳川秀忠・前田利長・小早川秀秋は連携して行動している様に感じる。
約7万人を本当に抑え込めるかな?というのは置いておいて、
西軍不利
小早川の離反、前田の南下、毛利が手打ちを始める、西軍の内ゲバ、大友敗退などの九州情勢の悪化による美濃からの兵力引き抜き
東軍不利
上杉の南下、佐竹の南下、東軍先鋒組の離反の可能性、越後堀家の離反の可能性、前田寝返りの可能性
あたりですかね?西軍不利系だと三成の奉行復帰を認めるかや大谷の処遇をどうするかとかで内ゲバしそうなのと、毛利が領地拡大と引き換えに宇喜多や奉行を切り捨てそうでならないのが特に気になる。
秀忠が中山道から美濃入りしたらどーすんの?
岐阜城あるいは木曽川にいる部隊挟撃されるよ。
せっかく戦力分散の愚を犯してくれてる東軍を集結させる一点だけでも大マイナス
西軍の統制のなさ、小早川の動向、毛利の去就、前田隊の南下、九州の戦況によっては減衰する美濃防衛兵力、中山道からの秀忠隊
といったところでしょうか
史実よりは戦闘が長引きそうですが、これでもちょっと勝ち切るあるいは有利に講和を結ぶは難しそうですね
できればテコ入れをしたいところ
戦いを主導した宇喜多と奉行の発言力が高まるから政権はそこそこ安定したと思うぞ
そういう状況になると関白の約束も果たされないだろうから
小早川は西軍には寝返らなかったんだろうな
毛利と上杉をそいつらが制御できるとでも?
つーか、総大将が取り分多くなるの当たり前だから毛利がバカでかくなるぞ
下手すると関ヶ原前の家康より大きくなるかもしれん
それと宇喜多のこれ以上の拡大はそれこそ毛利が望まんと思うよ
つーか西軍が勝った場合、地方の戦争を誰も止められなくなる可能性の方が高い
史実で諸大名がおとなしくなったのは元々大勢力の家康が戦乱を短期間で終わらせたのも大きいし
西軍勝利の場合、ストッパーになりうる存在がちょっと思いつかない
豊臣?無理だろ、徳川抜きじゃ
ないない
そんなに簡単に逆戻りはしない
根拠は?
一世紀以上分裂状態続いて、統一されて10年も経ってないし、
その統一政権下でいい目見たのが豊臣、徳川、前田、毛利など数家だけ
言うこと聞かなくても中央に殴られる心配ないんだったら
みんな勝手やり始めると考える方が普通だろ
いや、すでに上杉や毛利が領地拡大の動きしてるんで
秩序崩壊しつつあったんですけど、その辺はどうお考えで?
例えば、西軍だけでなく毛利や上杉の行動もうまくいった場合に
毛利や上杉が制圧した領地を豊臣公儀に返却すると思いますか?
絶対自領に組み込むと思いますよ、私は
で、毛利も上杉もそうなったら多分豊臣政権の言う事なんか聞かないと思いますよ
家康でさえ、関ヶ原後は豊臣政権の秩序からはずれる動きをはじめたのに
全国レベルで見ると結構居る。別に蛍大名に勇気があったわけではない。
一方、世界最強レベルの大坂城を乗っ取るなんて
凄まじい実力と頭脳と勇気が試される。ほぼ失敗する。
大阪城主の豊臣家は中立で本丸には西軍入れてもらえなかったし
淀殿辺りを説得すれば可能じゃないか?
増田は豊臣の財政を管理している五奉行の立場だし内密に協議する場くらいもうけられるだろうしね
そりゃ裏切る可能性は無くはないけどクーデターが成功する見込みは相当低いだろ。
絶対できるなんていってませんよあくまで可能性として
ただ可能性としては無視して輝元が大坂城から出陣するのを躊躇するくらいの確率はあるんでないかと
>>212>>217>>227>>229>>234>>238>>244>>264>>268
ずーっと京極と増田じゃそもそも立場が違うと言ってるのに一貫して同じ立場で語ろうとしてますねえ…
どうやら自分がなにを言ってるのかもわからなくなってるご様子
そもそも別にこっちは増田が裏切らないと言ってるわけではなく状況も立場も違う京極を例に挙げて増田の度胸云々を語るのがナンセンスだと言う話なのですがそれがなぜ増田が裏切る裏切らないの話になるのか訳がわかりません
西軍有利不利の情勢は立場が違えど同じだとおもいますけど?
というか増田の度胸は印象だけで無いと言い切られてたので
同じく印象だけで嘲りを受けた京極にだって度胸あったんだから
増田に度胸かあるかないか実際にはわからんだろとしか言ってないんだが
>西軍有利不利の情勢は立場が違えど同じだとおもいますけど?
増田は徳川と縁戚ですか?秀忠と義兄弟ですか?京極とは全然状況は違います
>というか増田の度胸は印象だけで無いと言い切られてたので
>同じく印象だけで嘲りを受けた京極にだって度胸あったんだから
大津城で京極が寝返りを行なった事例をあげて増田の度胸云々を語るのが間違いだと言ってるのにいい加減気付きましょう
じゃあ増田の度胸云々の話しをどんな事例を上げて語るのだったらあなた様は納得されるのですかね
増田と比較するのに的確な条件を備えた事例を挙げればいいんじゃないですか?京極の場合は不適格だと判断したので指摘させてもらいましたが
他人を納得させたいならそれに値する論拠のある事例をあげればいいだけでしょ?
増田と比較するのにあなた様が的確とした条件を浅学なわたしに是非ご教示下さいm(_ _)m
今後の参考にしたいので
正直出馬要請が来ててもあの段階では史実と同じ経過を辿りそうではある
伊勢攻略放棄の美濃主攻案は東軍先発隊が目論み通り岐阜城を攻めてくれれば良いけど犬山城に矛先を向けられるとどれくらい持つかなんともいえん
とにかく家康、秀忠の軍勢がくるまえに東軍先発隊に打撃を与えないと勝ち目は見えてこないが
これも家康、秀忠がくるというのを知ってるから出来る後知恵なんよなぁ
美濃主攻案なら西軍はもっと楽な展開できるよ、もう一度状況を整理しようか。
伊勢の東軍方は、安濃津城の富田信高、伊勢上野城の分部光嘉(史実では
寡兵での上野城防衛は困難とし安濃津城の富田に合流)、
松阪城の古田重勝、岩手城(三重県度会町岩出)の稲葉道通、長島城の福島正頼、
あとは去就不明の桑名城の氏家行広。
これらを攻略もしくは抑えるなら、桑名、長島方面に明石掃部(3000~8000)、
安濃津、松阪方面に長束、安国寺、鍋島、長曾我部、堀内ら約14700、
岩手城には九鬼嘉隆、
美濃・伊勢・近江方面予備として草津に宇喜多秀家、
佐和山付近に立花、筑紫、
瀬田守備隊相良、秋月ら約6900、
この陣容で足りる。
つまり毛利秀元&吉川広家15000を初めから(伏見攻略、瀬田陣地構築後)
美濃に投入することは可能だが、それを実行していれば
犬山がもつかどうかの心配はいらなくなるし
宇喜多も東軍先発隊約3万清洲集結の報が入り次第美濃に急行すれば
兵力的にも西軍は東軍先発隊に対し有利な展開ができる。
マイナス面は安濃津城の攻略が史実よりも遅れる可能性が高いこと。
岩手(岩出)城(三重県度会郡玉城町岩出)が正しい。
田丸城の南東約3km。志摩に近い。
その場合家康や秀忠も史実より早く美濃にくるんじゃないか?
それに伊勢の連中は遅れるというより仕事が終わらずに主戦場に来れないんじゃない?
8月中なら大坂には元康10000、秀包1000、輝元5000、計16000の毛利勢がいる。
東軍先発隊約3万が伊勢に来るなら
美濃から石田、島津、秀元&吉川、約2万、(小西、秀信美濃防衛)
予備隊宇喜多18000、大坂から輝元16000、計54000+伊勢方面安国寺、長束、鍋島、
長曾我部等、
大坂、美濃から伊勢に転進して東軍と決戦すればいい。
東軍に退路はない。
厳島の再現ができる。厳島の再現と言えば輝元やる気満々で出陣すると思う。
羽柴○○は同感。まず、こいつは誰なんだ?から始まる(笑
>>307
その可能性はあると思うよ。ならばどうするか、だね。
ただ秀忠隊は逆に信州制圧を優先するかも。
信州制圧といっても上田城だけでしょ普通にほっとくとおもうけど
全力出撃じゃなくて>>303みたいに伊勢には最小限でいいやん?
伊勢の東軍戦力なんてかき集めてもせいぜい5000だけど、
東軍先発隊は放置できる兵力じゃない。
それに信濃に行くにはまず東濃を鎮圧しなければならないし、
木曾谷行くならまず妻籠城を攻略しなければならない、
伊那谷なら京極高知の城だね。
西軍の戦力的には別動隊が精一杯だと思うよ。
長島城:福島正頼、援将山岡景友、計780余
西軍は長島城への備えとして美濃太田の原勝胤800を配置。
配置時期は不明もおそらく8月中旬頃と思われる。
>>388
>>303にあるように伊勢の東軍は長島、安濃津、伊勢上野、松阪、岩手と散らばっており
攻勢作戦で使用できるのはせいぜい2000~3000だと思うよ。
一瞬で栃木県縦断とな
腐っても関東管領家だからな。
上杉の漢気に地侍があちこちで呼応するだろう。
太閤検地の進んだこの時代に地侍なんて残ってないだろ 石高自己申告の徳川領は知らんが
会津から移封された蒲生、親父と謙信に因縁ある成田なんかは上杉にいい感情持ちようがないし
そもそも謙信に協力した坂東武者って謙信が北陸に引っ込んだらすぐ北条に土下座してた連中ばっかよ
つまり上杉が出てくれば上杉に土下座して参加してくれる訳だ。
よし坂東武者で東軍包囲だ。
徳川領の自己申告は軍役の負担の規模を自分で決めれるという特権なので太閤検地をしていないわけじゃない。
徳川家臣が太閤検地のやり方を勉強してやっていたはず。
地侍というか土着の豪族なら当時でもあちこちにいたよ。沈む夕日みたいなものだけど影響力はまだあった。
伊予藤堂領でも毛利家が伊予守護の河野家繋がりで豪族を蜂起させたり、藤堂家が蜂起しなかった豪族と手を組んでそれを鎮圧したりしている。
冗談でないなら漢気なるもので上杉のために蜂起するとかはっきりいって意味不明だけどさ。
>>295
もしかして小山が栃木のどの辺にあるのか知らないのか?
ただでさえ軍隊が一日で移動できる距離じゃない上に、
那須衆やら蒲生やらが厳戒態勢整えてる宇都宮突破しなきゃならんぞ
やるなら家康が江戸に戻ってから、国境近辺荒らすだけだろ
それで本隊の西上送らせてる間に清州城取るなり先発隊潰すなり
上方で上手いことやってくれればいいんだから
その僅かな勝利を大袈裟に最上や伊達や越後の喧伝するのが大事。
そう肩肘張らずに参加したらいいよ
そこまで考えていないけども。
稲葉一族もそうだけど羽柴豊臣朝臣が多すぎて困る。
岐阜が落ちちゃうと先陣諸将だけで決戦されて徳川家の戦にならないから焦ったとよく言われるけど
岐阜城陥落しない場合どうか?どの時点で援軍を送るのか
岐阜包囲失敗の時点か?木曽川で睨み合いになった時点か?清洲城を囲まれた時点か?そこまで行くかはともかく清洲城が落ちた時点か?
状況としては、「東軍先発隊は木曾川を渡って岐阜城攻撃しようとしたけど
西軍の後詰接近の報により美濃に留まる不利を悟り尾張に退却した」だね。
となると史実で家康が9月1日に出陣した理由、秀忠に命令変更した理由を踏まえつつ
考えてみるべきかね。
家康としては東軍先発隊が本当に東軍として戦うのかいまいち信用できない点、
かといって東軍先発隊が大敗して壊滅してもらっても困る点、
しかしながら徳川が関ヶ原戦役勝利の立役者となりたい点、
そして東北方面の戦況との絡み、
これらを総合的に考えるとどうなるか、かな。
家康が東軍先発隊が信用に足ると感じたなら出陣すると思うが。
そうなると家康の江戸出陣はほぼ史実通りのタイミングじゃないかな?
清須囲んでいる間に東軍先発隊に攻撃されたら敗走
ひとまず一度木曽川を超えたら先陣諸将を信用できるとなるような気がするが、そもそも西軍後詰が来てる状況だと渡河を躊躇って睨み合いになる気がする
その状況だと先陣諸将は出馬を要請するけど家康から見たらイマイチ信用できないというおもしろい展開にならないか
>>311
落ちるとしたら東軍が先陣諸将だけで西軍後詰と当たって大敗した後にってパターンしかない
厳しい条件だけど逆にそのくらいにならないと西軍ジリ貧かなと
清洲城って35000の収容能力あるの?
大垣みたいに野戦築城で外曲輪張り出して無理矢理収容パターンかな?
清洲城は織田信雄100万石時代に大改修されたみたいだから
せいぜい10万石クラスの居城となった岐阜城や大垣城とは違うんじゃないか?
逆に100万石の巨城を20万石程度の福島家で守り切れるの?
福島正則が最初からいて家中全軍で守るならまだしも、
正則東下後に留守将だけで領内あちこちに兵を配るなら清洲には幾らも兵はいない。
奇襲でアッサリ落ちるんじゃね?
福島家は脳筋揃いで野戦でぶつかるのは怖いが守城で手強いような知将は居ない。
別に清洲城だけに籠城すればいいんじゃないか?
援軍がすぐに来るのは確実だし東北地方ならともかく
尾張24万石なんて単純に面積だけなら大して広くもないだろうし
何で東北に出てる部隊がすぐに援軍に来ると思うんだ?
尾張と東北では同じ24万石でも領地面積が違うんじゃないかという話です
横着せずに句読点入れればよかったですね…私が
清須の留守武将は清須の留守を任されてるだけじゃないの?
尾張一円の城の守将に「お前ら城を空にして清須に来い」と命じられる格の武将が清須に見当たらないんだが?
すいません清洲24万石領内の清洲城以外の城の配置や守将の配置よく知らないので教えてください
敵と圧倒的戦力差の場合には守将判断で
支城を放棄したり開城して本城に退却する例はあるんじゃないですかね?
よし、この土日は城の配置や武将配置みたいな基礎学習に当てろ。
学び切ってから参加だ、この土日はもう来るなよ?
勝手に清洲に兵を集めて、
西軍が尾張全土の城を押さえて席巻するのをじーっと眺めながら、
亀の子みたいに正則の帰還を首を長くして待っていたら、
「命惜しみしやがったな」と正則激怒は間違いないでしょ。
福島家24万石で尾張全土だと57万石ですよ
そういうマニュアルとか作法はある程度決められてるじゃないんですかね?
正則激怒間違いなしと判断できるほどお詳しい人と見ました興味深いので教えてくださいお願いします
本当にそんなこと言い出したら脳筋どころじゃない、
できることとできないことの区別もつかないただのアホだぞ…
一定の戦術眼があればこその地位と名声だろ
秀吉が攻め込んで来てる訳じゃないんだから、
伊勢方面は長島の福島正頼に任せて、
全軍を集めて小牧山で家康ばりに三成と対峙だろ。
俺ならこのにらみ合いで援軍を待ち家康に激賞されて大大名だな。
普通に、万単位の兵力で籠城するの前提の城だよね。
留守部隊が幾らいたのか知らないけど、正則が率いてる兵力が約6000、だとすれば留守部隊は
700~2000が良い所では?
この兵力では、本丸にしか籠れないとか成らないかな?
或る程度の兵力で押し掛けられると数日で落城とかしそうな気が?
逆に守り難いでしょ?兵力が少ないと。
包囲できないし
城攻めに入ったら横槍を入れる
木曽川を越えても岐阜城が落ちなければ
まだまだ先が長いと考えてステイ
秀忠隊がついてから考える
必要なのは兵の信頼を集め動揺を抑えることのできる謹厳実直な将
その点大崎なら十分だと思う
不利とみて尾張に退却するかはかなり意見がわかれると思う。
池田あたりは冷静に退却すべし、と言いそうだし
細川、福島あたりは迎撃すべし、と言いそう。
迎撃する場合は、長良川か揖斐川の線だと思う。
後方で小早川が胡散臭い、京極が完全アウトな動きしてる段階で
海渡って兵送り込み領地切り取る、というのは孤立必至でスリルありすぎるな
(水軍の兵って大規模城郭攻略とかだとイマイチ役立たなそう、イメージだけど)
前線が押され気味だからこの上家康にまで出張られるとヤバい、
伸び切った補給線に攻撃しちゃうよ、という格好を見せて牽制しよう、くらいの作戦なのでは
(たぶんまだ家康が動き出したことに気付いてない?)
徳川の主な武将は水軍知識は皆無だし、
たぶんまだ家康が毛利水軍が動き出したことに気付いてないってのは正しいだろうね。
もはや遠州灘は西軍圏内だな。
という希望的観測
そういう意味じゃない
家康ビビらせて出陣遅らせようとしたけど、とっくに西上開始してたので意味なかったねって話
西軍の船団が戻らなきゃ伊勢湾の制海権は九鬼守隆が掌握しちゃうので
補給も援軍も来ない、撤退できるかも怪しい状況で取り残される孤軍になる
家康の大軍と遭遇せずに済んだだけ、とっとと撤退したのは正解だったかも
向井正綱以下の徳川水軍、北条から受け継いだ伊豆水軍は海戦に精通してるので
西軍が遠州灘に長居できないのは看破できてただろう
悪路なのに昼夜問わず行軍してると書いてるから
関ヶ原時でもかなり無茶してた模様
勧誘工作の結果と考えられているが、こうも成功した理由は何だったのかも重要だと思う。
岐阜城攻防戦は一連の東西の攻防の流れを一気に変えた戦いではあるが、この敗戦が
西軍の崩壊を決定づけたかと言われると疑問が残る。
三成の書状だと会津征伐軍が瓦解して家康は江戸から動けず
帰還してきた大名を味方に組み込んで周辺を鎮圧して年明け後に江戸攻め、というのが当初の構想だけど
西軍首脳がここまで都合よく事が運ぶとは思ってなかったとしても
想定と全く違う結果があっという間に岐阜城陥落という現実となって返ってきたわけだから
先行きに疑問を感じて転向者が続発するのも無理はないんじゃないか
岐阜城の陥落ももちろん大きいが
それに伴う家康の西上もでかいわな
岐阜城が落ちただけならまだ伊勢の戦力を美濃に回して十分戦えたんじゃないか
小早川や鍋島はともかく毛利は降りてないと思うわ
福島正則の与力になっていて、福島正頼が代官をしていた知多郡等の太閤蔵入地の10万石もあるので、
福島の動員力を最大24万石のみで計算するのはいかがかなと思う。
知多半島は漁村はあるだろうけど、
人口は少ないんじゃない?
本人だけは平気なのがコワイデスネ
テンプレさえ読んでなくて、木曽川防衛戦の流れも理解してなかったんだから
検討違いのことを言ってたのを理解したんだね
って意味では昨日出てた清州速攻も一考の価値ありと思ったんだが、
史実で西軍が攻めなかったのは短期で落とす能力がなかった、
あるいは状況的に不可能だったからなんだろうか
「落とせるけど攻めない」のはなぜかって考えた場合、
メリットは正則を決定的に敵に回さないことくらいしか思いつかないんだけど
なまじ大坂城なんてものがあるから安全策が頭によぎり消極的な発想が生まれ
前に出て行くアグレッシブな気持ちが奪われてしまう
西軍が勝ちたいなら大坂城を隅から隅まで燃やして消滅させた方がいい
清州攻めなんていくら考えても、東進するしかないという背水の陣を生み出す環境がなければ
こんなものは絵に描いた餅にしかならない
木曽川から岐阜城にかけて大戦果を挙げられたのは
清州城の30万石の兵糧が大きかったんじゃなかろうか
長期戦になった場合領国から切り離された連中はこの米に頼らざるを得ないから
正則の指揮下で結束できた(そういう連中は皆下流渡河組)
まとまりの悪い西軍が当たれば負けるのは目に見えてる
やっぱり落とせるなら清州城落として兵糧接収してたかな
早々にそこまで出陣したことを御苦労共、上方雑説のため人数(福島正則の兵)は西上させて、御自身(福島正則)は是(江戸)まで来るように。
詳しいことは黒田長政・徳永寿昌が述べるので詳しくは書かない。
という書状を家康が送ってるから清洲から江戸に来るまで正則はこの書状を受け取り
受け取った後は正則のみ江戸に来て、兵は清洲に引き返した
そして8月5日の石田三成書状には清洲城の福島正則を説得中とある
8月初めまでには福島正則は清洲城に戻ってきている
守備兵合わせて一万近くいるだろうから清洲城を落とせなかったというのが妥当でしょう
力攻めで落とせる城なんすかね?
兵糧攻めはかなり無理がありますからどうしても強攻せざるを得ないわけですけども
ただ、適した兵数がいないとどうにもならないが。
そして東軍先鋒隊が8月14日に清洲に到着するから日数的にも全く足りない
宇喜多秀家などには大軍を持たせて信濃方面の中山道へ調略させるべきだったろ
そんなに退路が不安な退路キチガイなら最初から大坂城で籠城しろよ
一歩も城から出るなよ。
長期的に見て沿岸部だと敵水軍に上陸される可能性もある
そして押さえの兵として敵が5000なら有利に戦えるように10000前後は置くことになるから兵力分散する
後方の敵軍は極力無くす&沿岸部押さえるとこちらの水軍の中継地点にできるというメリットを差し置いて
戦線を美濃越えて信濃方面まで細く長くなる戦略を提案したら間違いなく却下されるだろうね
沓掛城
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%E6%8E%9B%E5%9F%8E
川口宗勝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E5%AE%E5%8B%9D
川口宗勝は中江直澄と大坂にいて安濃津城攻略戦に参加したみたいだが、
それはいいとして、東軍先発隊が沓掛城を占拠したという話は聞かないよね?
沓掛城けっこう規模の大きい城みたいだし、このスレ的には沓掛城の利用価値あるかも。
なるほど福島正則が大軍を率いて東に向かった後ならば清洲の落城は必至だな
>宗勝は大坂城におり東軍に味方するつもりで中江直澄と共に出立したが、
>増田長盛・長束正家に留められたため心ならずも西軍に属した。
って書いてあるから西軍首謀者並みに宗勝が早期から西軍として動くというのは無理があるけどね
>沓掛城けっこう規模の大きい城みたいだし
沓掛城
http://sahashi.vivian.jp/kukkakezyou/img155.jpg
この縮尺が正しければ500人しか収容できない小城と言われる長篠城と同じかそれ以下の規模だぞ
長篠城
http://livedoor.blogimg.jp/sujin_10/imgs/1/b/1b067863.jpg
長篠城はちょうど昨日行ってきたところだけど、500人しか収容できないとは思えなかったが。
それ多分現地の看板だと思うけど(見覚えがある)、「巴城郭」と書かれてるところが
現在の駐車場で、本丸と野牛郭の間にJR飯田線が走ってる。
わたしの感想としてはけっこう広くて、これなら3000~5000くらいは収容できるかな、の印象。
たしか長篠のときに蔵を占拠されたんだっけ?
巴城郭の蔵屋敷まで武田に詰められてて
本丸だけだったのならたしかに500人くらいかもしれないが、本丸でも詰め込めば
もう少し入りそうな印象。
わたしの印象としては寒狭川側がたしかに崖で、宇連川側はよく見えなかったけど、
弾正郭と本丸の間の川は滝になってるし、たしかに堅固な城には見えた。
沓掛城址
https://www.city.toyoake.lg.jp/3356.htm
その沓掛城の図、二の丸の下側の三の丸が載ってないよ。
>>403
どれくらいの建物が建ってたかはわからんけど、あれだけのスペースなら
本丸だけでも500人は入るでしょ。
本丸の北東側は土塁なのか地形の丘なのかわからんが高くはなってたけど、
北東側のあれ空堀じゃなくて水堀?
建物、水堀、敵の攻撃を防ぐ壁、武具や食料庫、損傷した壁を修復する木材、米を煮るための薪
寝る場所とかどうせ考えずにみんな立った状態で寿司詰め計算してるんだろう
当時の家康でさえ500人で配備してるのに
3000~5000人入ると言われても
守るだけなら500で足りると家康が判断したんじゃない?
多けりゃいいってもんじゃない、それだけ設楽ヶ原での決戦兵力が減るんだから。
それと武田に米蔵取られて兵粮があと数日しかもたない状況になったから
鳥居強右衛門が岡崎まで援軍要請に行ったんじゃない?
てかほんとに現地行って見たの?二の丸帯曲輪のとこに長篠城址史跡保存館建ってたでしょ、
わたしは思ってたより長篠城は広いと思ったけど。
5000人規模で数ヶ月以上持つ食料と薪があの小城に収まるのか?
500人時での食料庫が燃やされてんだから弱点が10倍以上に膨れてんだぞ
寝る場所は?
長篠城は観光客が50人くらいしかいなかったけどあれでもし500人いたら子供が走ったら人にぶつかると思うほど狭かったぞ
特に本丸はね
それが5000人は間違いなく寿司詰めだ
5000人はたしかにすし詰めだけど、長篠で5000人で数ヶ月守るという想定はわたしはしない。
3000人で1ヶ月ってとこかな。5000人なら2週間。数ヶ月なら2000.
逆に500人であの広さは守り切れないと思うけど。
だから武田に米蔵取られたんでしょ。
それと小城って言うけど、わたしの感覚だと真田本城とか猿啄城とかが小城で
長篠城は十分広いと思うけど。あれだけ平面があるんだから。
天守閣があるような城と比較してはだめだよ。
あの手の平城は数千~数万収容できて当たり前なんだから。
想定にないと言われても籠城は援軍がいつ到着するかも分からないんだから
食料がなくなればすぐ落ちる
何日も籠るんだから寝る場所も必要
米を炊く薪も数ヶ月必要、火薬を保管したり武器も必要
敵からの矢を防ぐ壁や盾も必要
壁を修復する木材も必要
投石する石置き場も必要
収容人数をそういうのを計算しないで寿司詰め棒立ちで入れる人数だけ計算して何か意味あるの?
籠城するんでしょ?
このスレ的には想定される籠城は長くて1ヶ月くらいでしょ。
そして10日~2週間くらいなら多少の無理も利くでしょ。
小さい城に密集しても攻撃できるのは城壁全面の少数なのに何もしない飯食らいだけは多く入れるのか
なるほどなぁ
七尾城とかでは糞尿の処理に困ったり
それが原因で病気になったり士気が落ちたのにな
しかも関ヶ原では既に抱え大筒や大鉄砲があるから密集して寿司詰めしてると被害が増えるのなあ
壁を補強せずに小城に人数だけ詰めて何か意味あるのかな?
ぶっちゃけ二の丸三の丸がある城なんて結構な大城じゃないの?くつかけってそんなに大身の武家がいたのか
領主の知行と城の広さは必ずしも比例しないよ。
小折城の生駒利豊は2000石らしいけど、小折城はあの広さ。
清州速攻の兵力も時間も足りない状況で、3万の敵相手にある程度粘れる軍がいるか、
それだけの兵の補給線を清州留守居役が切りに来ないかがネックかな
正則不在の清州がどう出て来るかで尾張での動きやすさは変わってくるな
まだ西軍に付く可能性もあるから亀になってたのか、
東軍に付くのは確実だけど戦力足りないから大人しくしてるか、
積極的に西軍の妨害に動くのか
これなら確実に福島家も西軍に付くな
西軍の兵もほとんど美濃に来てないからな
真田本城は城域をはっきり覚えてないけど、こりゃ1000人も入らんだろ、と思った。
小谷城は全体で見れば数千人収容できるだろうけど、京極丸単体で見ると
こりゃ小屋でも建ってたら50人も入らんだろ、と思った。
上田城移転してからほぼ使われてないんじゃね?
人が歩けないほど寿司詰めにしてるのか?
水堀だった斜面があるから平らな部分は凄く狭かったよ
むしろ小城の方が防衛機能を構成するための人数少なく済んでよく守れそうな気がしないでもないんですけど
防御力の問題ではなくて、関ヶ原期の大軍の運用面での収容能力の問題かな。
「逆に500人であの広さは守り切れないと思うけど。
だから武田に米蔵取られたんでしょ。」
「500人では長篠城は落ちるでしょ」と言ってるわけではない。
長篠城全域守り切れないでしょ、と言ってる。
だから武田に米蔵取られたんでしょ、と。
米蔵燃やされても本丸に食料があったんでしょ
食料庫燃やされて鳥居が脱出したのが14日、設楽原決戦が21日
一週間持ってるし
信長も食料事情はまだ余裕であると知ってたから18日に到着して陣城を余裕綽々と作り出してるし
長篠城行ってれば分かるでしょ?
道路向かいに山があって長篠城側は道路よりも低くなってるの
人数詰めてたり食料庫や薪が溢れてたら火矢とか打ち込まれたり被害が拡大すると思わんか?
人数詰めて食料庫燃やされて脱出しても信長がくるまで食い尽くして降伏してると思うわ
荒砥城はわたしも行きましたけど、柵、櫓、小屋等木造建築物復元してて
いい雰囲気は出してますよね。尾根のほうがどうなってるのか記憶が薄いけど、
あの部分だけならたしかに小さいですね。
>>420
まぁ長篠城も追手門、搦手門、各曲輪配置からそう小さいとは思えないですけどね。
>>418
たしかに長篠城はR151より低い所にあったけど、根本的に米蔵の配置がおかしいか、
守備兵力が足りない部分に問題があると見る。
それと鳶ヶ巣山から城内が丸見えという点も。
本丸周辺は他の所より少し高くなっているし
最新の発掘調査を反映させたジオラマとかを見れば分かりやすいが
断崖絶壁の川と全面の水堀に囲まれて
本丸への侵入路は狭くなっているのでそこに鉄砲隊を配せば鉄壁の守りになる
巴城郭周辺は低い上に空堀と土類になってるから突破されやすい
だから本丸に集結したんだろ
本丸に集結してから武田軍は長篠城を落とせず一週間耐えられてるしね
数千人もいたら本丸に終結できない兵士は討ち取られて大損害になるだけだ
しかも飯食らいの数が増える&糞尿の量も増えて悪影響しかない
三河東条城、沼津の戸倉城、信濃の荒砥城
みたいな小城なんかより
何倍も広い本丸跡(1万平米?)だったぞ♪
本丸跡を見て「これが城の広さか」と勘違いするのは城オタクあるあるだよね。
小田原城も大半の人が城の範囲を勘違いしてるし。
本丸が異次元規模だった城って具体的にどこ?
おそらく城の東か南側に真田丸のような小型の砦を作ったに違いないと思う。
掎角の計でも使わないとジリ貧になりやすいタイプの城だから。
自分はそうするように心がけてる
>>430>>671で言われてる通りか
ただスルーされたか落ちたことさえ史料にも乗らなかったって話だろうね
行軍の支障となるので当然に接収されたと考えるのが自然だと考える。
そもそも周囲が敵だらけで海上からの支援も見込めない兵站を無視した籠城は無理がある。
落城前提で誰が立て籠もると言うのか。
今さら寝返る事も出来ない場合とか、主君や守るべき御家の為に最初から玉砕前提とか
そういうパターンはあるけど、この場合はどっちも当てはまらないかな
それを2千人前後で守ってた
江戸城、大坂城、小田原城等を大規模の城としたら、鶴ヶ城、飫肥城辺りから中規模
伏見城はギリギリ中規模の城だろうね
実は結構弱い
小勢の籠る城に大軍送り込んだ挙句落とすのに時間かかってるのが痛いな
大軍に威圧されて西軍入りした連中が石田の復権、毛利の拡大のために
血を流す義理はないから当然っちゃ当然だが
例えば伏見城の北西にある御花畑山荘・大蔵丸・徳善丸はやたら広い曲輪なので、
守るに必要な兵が多くなるので、早期に放棄される
そうなると当時は松の丸外の出丸が無い上、本丸北西に天守があるので、
中枢部が直ぐに攻撃されることになる
実際に松の丸から突破されて落城した
>御花畑山荘・大蔵丸・徳善丸はやたら広い曲輪なので、
>守るに必要な兵が多くなるので、早期に放棄される
出鱈目言ってるな
この前面が幅広く深い水堀と石垣があったから敵が侵入できなかったのに早期に放棄とか
まぁ突破され無いことが前提の曲輪なのは確かだが、突破されたら一気に本丸まで迫られる
それに御花畑山荘にある城門も、治部池を挟んで治部少丸と接しているけど、
そこも他と比べて屈折が少ない
敵の侵入を防ぐ幅広く深い水堀と石垣があって、それで西軍主力4万もの大軍を2週間釘付けにして
西軍に致命的な遅れを出したのに戦用の城じゃないと言われても説得力がないね
北西の曲輪がその名称毎に分割されていたら、もっと保ったでしょうね
1万石な苗木城とかも同じになるよな。
むしろ突破されてからがキルゾーンになっててさらに頑強に抵抗できるってのが必須条件ってことですかね?
本城門前に到着したら真田昌幸自ら槍を持って現れ
内と外から挟み討ちにして殺戮していったんだっけ。
人海戦術で四方から隠し穴を掘って進むとかは駄目だったの?
手段を選ばなきゃ可能だったかもしれんがね、
仮にも豊臣御為を掲げた連中が豊臣家の城を初手でド派手にぶっ壊しにかかる訳ないじゃん
ただでさえ西軍は豊臣家の支持を得てるとは言い難いのに、余計心象が悪くなりかねんぞ
と、ここまで書いてふと思ったのだが、いわゆる襲撃事件の時に三成ここに逃げ込んでるけど
それって問題にならないのかな?伏見は一応豊臣家の城だから、
命の危機とはいえそこに立てこもったら「豊臣家の財産の私的流用」になりかねん気がするのだが
本来なら腹斬らせるレベルだけど
七将の方にも問題あったから相殺して三成の蟄居という決着になったとか?
北政所から家康に助命嘆願入ってた気もするし、
あまり追い詰めたらそれこそ洛中でドンパチやらなきゃならなくなることも考慮したかも
その足で尾張まで進軍した方が良かった。
先手必勝なのに悠長に構えてた事が西軍の敗因の一つだ。
まず川口宗勝。
まず伏見城攻めに参加した豊臣麾下の組頭堀田勝嘉、旗頭秋田藤左衛門、
銃隊長木下周防守、伊熊源助、伊藤長弘、
弓頭松浦宗清、河口久助、
つまり伏見城攻めに参加してる。
川口氏先祖書系図
(愛知県史資料編13織豊3より引用、さらにその引用元は豊明市史資料編補1)
一 同(慶長)五庚子年七月十九日、大坂屋敷留守居ヨリ尾州沓掛ヘ飛脚到来、
今般ノ企ニ付、五奉行衆下知トシテ諸国在城別而関東 徳川家供奉ノ面々妻子
大坂城中ヘ為質不残取籠之由風聞ス、(中略)
仍テ人質沙汰相止ムトモ申騒動有之候ニ付、早々御登リ可然旨注進ス、
仍テ沓掛城番以下諸事厳重ニ申付、同廿一日大坂ニ趣ク、(以下略)
一 同年七月廿七日、五奉行ノ下知来月朔日伏見ノ城ヲ可攻間、
可有其用意旨申渡候、仍而早速出張相預ノ弓士三十騎、足軽百人、(中略)
五奉行より連名ノ感状ヲ添、当座ノ褒美千石并白銀十枚賜下之、(以下略)
一(中略)信高城ヲ明渡シケレバ、大坂よりノ検使滝川豊前守・蒔田権佐両人ニ
山崎右京亮・中江式部少輔・川口久助ヲ阿濃津ノ番手ト定置、
秀元以下ノ兵ハ濃州大垣ヘ出陣ス、(以下略)
つまり伏見を攻めた後、安濃津も攻め、攻略後は安濃津城在番だった。
かなり略してるけど、具体的な伏見攻城兵力とか安濃津城攻撃とか書かれてる。
そして上記『沓掛城番以下諸事厳重ニ申付、』とあり、福島(清洲)、田中(岡崎、西尾)、
水野(刈谷)あたりに沓掛接収の話はざっと見ではないし、
徳川の在番も沓掛はない(吉田、岡崎、西尾、清洲はある)
接収しようとすれば戦闘になっただろうが記録がない(川口側にも)ということは
放置された可能性が高いと見る。
次に沓掛城の収容能力について。
単純比較する。
小牧山:東西約600m、南北約400m
沓掛城:東西約290m、南北約234m
小牧山の収容能力が約2万とするなら沓掛城の収容能力は約6000あたりだろう。
沓掛城に兵站線を引こうとするなら、犬山・小牧山・沓掛あたりになる。
小牧山:東西約600m、南北約400m 20000人
沓掛城:東西約290m、南北約234m 6000人
実際の史実
伏見城:東西約1km、南北約1km 2000人前後
ガバガバすぎるw
何が言いたいの? 伏見城には2000人の収容能力しかないといいたいわけ?
小牧山:東西約600m、南北約400m 20000人
20000人って頭おかしいんじゃないの?
ただ、どう利用すると高い効果が得られるかはまだ思いつかない。
しかも軍艦島には石垣・土塁・空堀・水堀・馬出と言った土木施設はないし、沓掛城には
中高層アパートがない。
中長期で生活するのではないのは無論承知だが、こんな環境では短期間でも無理がある。
もう少し現実的によく考えて書き込んで欲しい。あまりにも馬鹿げている。
小牧・長久手時に小牧山に入った徳川・信雄連合軍の
兵数を基準に面積比で沓掛城の収容人数出しただけだから
その数字がおかしいと言うのなら
小牧山に入った徳川・信雄の兵数は
いくつと見るの?
ざっくり小牧山の4分の1くらいだと思うけど。
そんな事だろうと思ったが、小牧山とは全く性質が違うと思うんだが。
徳川家康と織田信雄は小牧山に籠城したのではなく、小牧山を中心に砦や土塁を築いて
防衛ラインを構築した内側に布陣したんだから小牧山の面積だけで密度を類推するのは
おかしいと言わざるを得ない。
そもそも二万坪に6000人が籠城する時点で自説が狂っていると気付くべきだろう。
寝床を一坪とかなり少なく見積もってもそれだけで30%の面積が消費されるんだぞ。
じゃ、小牧山にどれだけ入ったの?
その数字出せば終わる話。
>>465
他に参考になりそうなものがあるならそれでも
いいですよ。
面積比で沓掛城の収容能力がわかればそれでいいので。
小牧・長久手の役と呼ばれるくらい範囲が広く長期化してる戦だったのに
小牧山に全軍が集まった戦いと思ってる人がまだいるとはw
史実の籠城人数とかを参考にせずに何にも知らない奴が自分勝手な計算で
沓掛城に6000人、小牧山に20000人とかもうゲーム脳だな
当時の戦国大名たちがどういう考えで籠城兵を決めてたのかも考察しようとも考えないゲーム脳
そもそも挙兵して直ぐだから西軍側も準備が整っておらず、
射撃しつつ放棄された北西の曲輪に展開
同時に調略を進めて、裏切りと同時に総攻撃して一気に落城
こういう流れかと
それでも全滅覚悟で籠城した鳥居ら徳川勢は恐ろしいものだが
関ヶ原は結局のところ、家康が何らかの理由で中央を離れたうえで、
大坂と秀頼をがら空きにしてくれるというかなり偶然性の高い出来事がおきないと成立しないからな
だから事前準備とかがほぼ不可能だ
クーデターだからな
>小牧山に2万入った
↑
小牧長久手の役は広範囲かつ長期化した戦いです
清洲城やその他砦城をがら空きにしているのか?
>ざっくり小牧山の4分の1くらいだと思うけど。
↑
小牧山の2万入ったというのは自分勝手な計算で比較根拠になる数字ではありません
>面積比で沓掛城の収容能力がわかればそれでいいので
↑
史実の史料に載っている他の籠城戦の人数を総合的に平均化して参考にすれば良いだけでは?
移動してるせいかIDが変わる。
ゲーム脳とかいって否定するなら
あんたが小牧山に入った徳川・信雄の兵数 提示すればいいだけ。
史実の当時の武将がどういう風に籠城兵数を決めたのかが一番参考になるのに
それを無視して当時の人間でもないお前が自分勝手に建物、土累、兵糧、武器、寝床、資材等を無視して
人間をただ城内に寿司詰めした脳内計算して決めた籠城兵数の何が参考になるのか
そして小牧山や沓掛城に一気にワープして行ける前提というゲーム脳な上にIDチェンジしまくるようじゃ荒らしと変わらん
そこまで言うのなら、あんたが根拠を以て
沓掛城の収容能力を提示すればいい。
できないのなら黙ってろ。
同感。確かにその通りだわ。
まるで石田が西軍総大将兼参謀総長兼野戦軍総司令官であるかのような酷いスレタイだな……
見えないんだろうなぁ
ほとんどの人が逃げてちゃったんだけど
どうせまたスレタイと関係ない豊臣の話
始めるだけだと思うが。
戦略を転換しなきゃならんから、そこから考えた方がいいな
あれだけの大軍で伏見囲んで瞬殺できなかった時点でこれ以上どう頑張れってんだって話だが
ままならなかったのに三河にほど近い尾張東部の土地の意義なんて戦略的には価値がない。
喧嘩腰になってまともな会話にもなってないから、もうこの不毛な争いは終わりにして欲しい。
小牧山、犬山、岐阜のトライアングルで守ってたらどうなってたんだろ?
それに対し東軍は、清洲を拠点、小折を前線基地として
家康の到着を待つんじゃないかな?
どちらかが仕掛ければ野戦になるかもだけど。
岐阜城後詰め決戦案、あるいは決戦を東軍が避けてのにらみ合い
というのが非常に綺麗な案すぎてこれ以上話ふくらませるのがかなり難しいのでは?
これを更に突き詰めようとすると上のような各論的になるし
なぜドイツ軍人は西軍勝利だと思ったの?
司馬遼の創作説がある
動かない武将の存在を知らなかった
積極的に西軍を裏切ろうとしなかったと思うんだよね。
それでやっとこさ互角だよ。
福島や池田を相手に、期待し過ぎ
輝元と三成の失策だよな。
どう考えても伊勢より美濃が重要すぎる。
西軍に着かなかった場合、西軍ってどこに防衛線引いたんだろ
やっぱ大垣城?それとも決起すらしない?
引いて守られるとちょっと付け入れない気がする
清洲に引き籠られた場合、守備兵力35000と城の防御力の組み合わせ、
自軍(西軍)の兵力数からして力攻めは無駄、
包囲しても兵糧は十分備蓄があるだろうし意味はない、
つまり無策で清洲を落とすことはほぼ不可能で、
ならばそのうち来るであろう家康、秀忠を先に撃滅するか、
なにかしらの行動で東軍先発隊を清洲から引きずり出すしかない。
例えば9月上旬あたりに西軍主力5万ほどで犬山集結→小牧山→末森→鳴海と
南下してみる。
東軍からしたら清洲の東軍先発隊と西上してくる家康とで挟撃のチャンスだよね、
それで勇んで清洲から出てきたら東に抑え残して東軍先発隊と決戦、
出てこなかった帰るもよし、鳴海あたりに留まるもよし、家康が来れば
西に抑え残して家康と決戦もよし。
もちろんドンピシャのタイミングで挟撃される可能性もある。
しかしこれぐらいのリスクを踏まなければ清洲からは出てこない可能性はけっこうあるように思う。
あ、鳴海への南下はあくまで「例え」なんで、それぐらいのリスクを踏まねばという意味の。
大坂に接近されると西軍の負けになるかもしれない
関東東北は膠着、北陸は前田次第、四国は伊予で東軍が抵抗している以外は西軍
九州は黒田加藤が優勢って感じで持久戦でもあまり好転しそうなところはないかもね
やはり濃尾戦線で早いうちに良い戦果がほしい
東北は膠着しないでしょ
結城秀康が鬼怒川を渡って来ない案山子だと見極めたなら
景勝も動く
最上撃破で出羽を束ね政宗をも決戦で撃破
上杉の東北一統までは行ける
江戸から指示を出すだけじゃ流石に東軍諸将にも不満は出るでしょう
そして家康が前線に出るまで戦力温存されてたら主導権は東軍に移るんじゃないかなぁ
西軍は勝てると思ってないと内部分裂が怖い
家康は岐阜城攻略の報が入るまで西上にはかなり慎重な姿勢だから
濃尾国境で睨み合いなら史実よりは大幅に出立は遅れると思うんだよね
諸将の不満は秀忠の出陣で宥めるつもりだったかもしれない
出馬が遅れるのはあるだろうけど何時迄も遅らせられるものでもないと思う
逆にどのタイミングなら出馬するのかってのは結構重要
あまり遅れるようだと西軍としては付け目が出るけどそれはわかってると思うんだよね
家康の出陣を半月から一月でも遅らせることができれば西軍にはかなり大きいよ
田辺城組が別の事に使えるし岐阜城陥落(&家康西上)がないなら大津城の離反も無い可能性もある
可能な限り西軍に都合のいい展開を予想すると秀忠が真田の攻略に手間取り
堀家の一揆の鎮圧が終わる九月の終わり頃まで上杉が家康を江戸に縛り付けてくれれば
濃尾戦線で優勢に戦が進められるかもしれない
>>501
家康の出馬も秀忠への上田攻略取りやめ命令も岐阜が落ちたからだからな
東軍先陣だけで決戦されると困るというのがあった、ということは逆に言えば膠着してるだけならどちらも無いという見方もできる
一月ぐらいのディレイは俺も不自然ではないと思う
ふと気になったが上田合戦って真田が秀忠に勝ったという部分が強調されるけど急行命令が出ないとどうなってたかな?
続けてたら兵力差的には西軍厳しいけどどのくらい粘ると期待できるんだろ?
本戦での役立たず感で除外されがちだけど美濃尾張で睨み合い、家康も容易に出馬出来ないとなるとそちらの戦況と秀忠軍の進行が状況動かす可能性あるな
実際は布陣も怪しいし殆どやる気ない
わからんでもないがここIFスレだし……そこらへんは考慮しない事にすべきかと
だからといって西軍勝利の為のご都合主義満載展開もそれはそれでアカンと思うが
別に軍事的な作戦を捻り出すのがすべてではないだろ
今までも西軍のあり方を変えないとって話は何度も出てきてるじゃん
宗教勢力や商人など、大名以外でも西軍に引き込めて力になれそうな勢力っていないかな?
福島ら川下隊は目標を変更して大垣を落とす
上杉景勝の敵じゃないでしょ。
俺も実はそれ思ってた。
上杉景勝は西進すべきだったのではないかと。
あくまでもそれは結果論でしてね。
なによりも秀康の背後に家康や秀忠の計八万がいる。八万全部ではないにしてもこれに最上と伊達を含めた二正面作戦では佐竹すら勝ち馬(東軍)に乗るかもしれんぞ。
せっかくのPhoney War(まやかし戦争)状態を壊すのは上杉にとって危険にすぎる。
>>515
汚名返上名誉挽回のために徳川軍の北上が発生しないのはなぜ?
二正面作戦不可避なんですけど。
あとは万が一にも負けたら逆効果。
現実は攻めるに攻められなかっただけ、じゃないの?
全戦力を最上攻めにまわすのが精一杯で。
小山で東軍が反転したのを史実だと仮定すると
追撃するメリットが無いと判断したんだろうけど。
あれだけイキリまくった直江状がホントなら、いざ攻めてきた徳川にガツンと当たらないなんて肩すかしもいいところだよね
なんなら攻めてきたらどうか、とか言っときながら。
そんな直江におんぶにだっこな景勝という時点で情けないが、逆に直江に責任おっかぶせていいところどりをする景勝はある意味策士なのかねえ
イキリまくりの体で母親をさしだして恭順した前田も似たようなもんだが。
東軍に電撃作戦で小当たりし死者数十名程度の局地戦でも勝ちを拾い
それを誇大広告して全国に手紙出しまくりながら最上を攻めても罰は
当たらなかったと思うんだが。
典型的な机上の空論
北上させるのが目的。
それこそ革籠原合戦を予定通り実行できる。
しかし家康が無視して南下した場合の事を言っただけ。
それやるなら秀忠隊が宇都宮を出撃した以降かな、
ただその結果、江戸の家康本隊を誘引することに
なるかもしれない。
西軍としては悪くないんだけど
上杉からしたら面白くない状況になるね。
そこで佐竹が連動して野戦にでもなって
家康が負けるようなことになれば
上杉も納得できるだろうけど、
ちょっと線が細いよね。
最上滅ぼして伊達と手打ちってなれば別だけどそれも考えにくい
上杉の勝利条件は東軍と西軍が美濃あたりで半年~数年膠着して長期戦になるのが
最低限必要となる。
まあそれを量る戦もないから仕方ないが。
世に出たときにはもう豊臣徳川くらいの世になってたわけで。
幕末まで残ったのは身の程をわきまえた結果か。
そういう意味で石田とか間抜けの極みだよなあ
実力ともとめる結果を吟味する頭がついてないとしか言えない
運も実力のうちと言えば有能枠に入ると思う。あれでも御屋形の乱で勝って当主になったわけだし。
その後は織田相手に絶望的な戦争をするかと思えば本能寺の変で命拾い。
会津征伐で全方位を敵に囲まれて戦うかと思えば西軍蜂起で命拾いと結構すごい。ピンチになった原因は景勝のミスなんだけど。
>>529
>>531
直江状の実態が明らかにされることはたぶんないけど、「上杉からの書状に家康が激怒した」として家康はふるまっているよね。
とりあえずはそれだけで十分かと。
>>537
「病気」になった時に「御見舞い」しに行くべきだったよね。……2年後に死んでいるからマジ病気だった可能性もあるけどさ。
背後に回られた場合敗北必至
本来の手はず通りなら徳川が来た瞬間に謝るはずだったって説を聞いたことあるけれど
どうだったんですかね?
それなら直江状なんてイキがりをやめとけばいいのに。
まあ直江状自体の存在も疑わしいとの話だが。
少なくとも直江が無礼な手紙を送って来た(少なくとも家康は無礼と認識した)ってのは事実だけどね
その原本が残ってないので、真偽はさだかではないんだけどね
島津とかの手紙で直江から送られてきた手紙が存在しそれに家康に不快感を示していたことは確定してる
不明なのはその手紙の内容だけ
あんな突然の時間切れは予想外すぎる
自国の領内で敗走する上杉相手にろくな戦果挙げれない最上の手腕を疑うべきやぞ
圧倒かな、まあ優勢ではあったろうが。
伊達介入で攻めきれないのではとてもとても。
7月22日 毛利軍が瀬田の砦構築を担当することとなる
7月23日 毛利秀元大坂出陣、瀬田へ
8月4日 瀬田の砦構築完了
時系列表に追加すべきか微妙だけど、反対がなければ追加したほうがいいと
わたしは思う。
これからわかるのは毛利軍約15000で約10日で瀬田の砦構築が完了したこと。
瀬田普請が決定したのが7月22日で、伏見城の攻城状況や、
前田の南下とは関係なく瀬田普請が決定されていること。
大津の京極の不審な態度がこれに影響していたかはよくわからない。
つまり西軍は当初の予定は瀬田で東軍を迎え撃つつもりだった。
しかし8月1日、越前、美濃の勧誘状況から、理由は不明だが、
伊勢主攻、北陸防衛、美濃助攻の戦力配分が決まり前線は東に移る。
何をするにしてもまずは諸大名の反応を窺う時間が必要なわけだし
事前の根回しができていないなら決起してすぐ行動というわけにはいかないだろう
慶長五年「白河決戦」論の虚実
松尾山を占拠した時点で決まったようなものだから。
石川康通2万石、松平家清1万石、奥平貞治5000石、(松平忠吉10万石)
石高からすると上記3人で兵1050人。松平忠吉がいつ清洲に来たのかいまいちわからんのと、
福島がどれだけ留守居を残したかわからんが、仮に福島留守居250として
清洲在番は1300(+忠吉3000)あたりか。
それと東軍先発隊35000というのは、総数ではなく木曾川渡河した兵数ならば、
総数は約4万+忠吉3000となる。
このあたりどうだろうか?
>福島がどれだけ留守居を残したかわからんが、仮に福島留守居250として
>>4-5によると
岐阜13万石の織田秀信は6530人
清洲24万石の福島正則は6500+250=6750人
っておかしくね?
>石高からすると上記3人で兵1050人。
という風に他のは石高で計算してるのに
記録が残ってるのはその数字使えばいいが、記録がないのは推測
あるいは石高で計算するしかないでしょ。
木曾川渡河組+犬山城抑え+清洲在番(+松平忠吉)をわたしは総数と言ってる。
徳永、市橋組は兵数がわからないので保留。
困った時はこの神社の唄でも
聴いてお参りすると良いかも。
日頃から通う様にすると、
自然と運気が良くなるよ。
色々出会いが出来たりとか…
その場合は西軍決起は不可能だった?
加賀は畿内に近くすぐ引き返せる距離だし
前田征伐のときは丹羽や石田が家康よりだったんだっけ
そうするとやはり利家が死んだのがまずかったな
利家存命中は家康を封じ込めていたわけで
利家くらいしか家康を牽制できる勢力を残しておかなかった秀吉のミスか
秀吉死後の家康って簒奪の意図があったのかとか
奉行は本当に秀吉から政権委託をされてたのかとか
とかの話になってしまってまた別スレなりなんなりにした方がよくねって話になってくよ
徳永寿昌3万700石、市橋長勝1万石が木曾川流域西軍諸城を攻撃するのに
はっきりした数字はわからんが福島がいくらか兵を出してる。
それ含めて計算すれば渡河した福島はだいたい6500くらいになるんじゃない?
福島覚書の数値が微妙とはいえ、さすがに自家の数値は間違わんと思うが。
石高×0.03は大名に課せられた標準を三人役が多かったからそう計算されるようになっただけで
遠征などに駆り出される軍役なわけでその地域の総兵力(限界兵力)ではない
総兵力=三人役で課せられた軍役+守備兵な
石高×0.03の軍役に課せられた人数=総兵力
と勝手に勘違いしてるみたいだけどもうちょっとそこら辺を勉強した方がいいぞ
>仮に福島留守居250として
先に憶測で数字を出した君が史料などで数字を出すべきでは?
>正しいと思われる数値を提示すればいいじゃん。
250人しかいなかったという史料をね
あぁ、じゃあ清洲の福島留守居は不明でいいよ、ちゃんと
「福島がどれだけ留守居を残したかわからんが、仮に福島留守居250として」
とわからんがと前置きしてあるんだが。
徳川の在番が来るのだからそれ以上の数の留守居を残すとは思えない、
戦力に余裕があるなら渡河に引き連れていくか徳永・市橋支援に出してるだろう
という推測からの「250」という数字なんで。
清洲在番は1050+α(+松平忠吉3000)でけっこう。
「わからんが」と前置きしてるのに史料出せとか、文章読んでない。
じゃどうぞ、あんたが福島留守居の兵数の史料出せばそれで済むから。
提示してください。
美濃衆が含まれた数字と見るべき。
ただし美濃衆がどれだけ岐阜城に詰めてたかはよくわからない。
佐藤方政は木曾川渡河迎撃で遊軍として出撃したようではあるが。
織田秀信13万石の三人役で計算すると3900
8月5日付石田三成書状の 備口人数では岐阜中納言一手で5300(一手とあるので犬山城勢も含む)
岐阜城防衛の秀信軍6530
三人役をその国の限界兵力と勝手に思ってる君の計算だと秀信は遥かにオーバーしてるよね
防衛戦だと総力戦になるために総動員するから増えるわけで
遠征時(三人役などの軍役)=防衛時の総兵力
と混同してる素人考えの人が兵力計算してるのがちょっと滑稽だったので
つい突っ込みを、ねw
とりあえずもうちょっと勉強したほうが宜しいのでは?
>留守居なんてせいぜい数百でしょ。
尾張24万石の福島正則は6500+250=6750人
豊かな尾張の総兵力(限界兵力)が遠征に使われる三人役未満とか
さすがに笑わせて貰いました
遠征に出てる福島正則の6500は否定してないよ
守備兵250をどういう計算で出して
なぜ豊かな尾張の総兵力(限界兵力)が遠征時に使われる三人役未満なのかって話な
秀吉や家康「尾張は三人役で出してくれ」
って言われたら尾張には遠征に出せる三人役の兵力はありませーんって言ってたのかねw
それなら19万石の三成の総兵力は約1万1千人となるよな
負けたら石田家なんて滅亡確定なわけだし、
関ヶ原なんて石田領から見れば遠征にもならないほど目と鼻の先だというのに
そう考えると三成は自分の兵力を出し惜しみし過ぎなんだよね
遠征における最大負担の五人役で計算しても、最低9500は出していないとおかしい
三成が兵力の出し惜しみをしていたら、他の西軍大名がやる気をなくすのも当然だろう
石川正西覚書が出典
そうなると、駿府から家康本隊と合流して
関ヶ原本戦に至る、でいいのかな?
うろ覚えなんだけど、白峰氏が松平忠吉
清洲滞在説だったような気がしたから。
家康上洛と聞き、先発したとある
清須滞在説は東軍にいた宇喜多旧臣と秀家に留まった明石との書状だから、
情報の一部に誇張や嘘があるとみるべきかと
徳永寿昌、市橋長勝、尾張赤目城主横井時泰、その一族横井時朝、時久、
これに福島の加勢、ここまでしかわからん、
>>573
松平忠吉はさっぱりわからないですね、8月18日付戸川達安書状見てみましたけど、
たしかにホラくさいですね、16日に家康が江戸を出陣した、
松平忠吉ら先手衆が一両日中に到着する、
この2点以外はほんとのこと言ってるかんじだけど。
総決起体制なのは当たり前でしょ。
福島正則は上杉討伐軍を東に送るだけなんだから留守居は少数でしょ。
家康の立場に立ったら、
味方面しているが全兵力を徴兵して清洲に籠めつつ余力で東下してきた武将なんて敵にしか見えんよ。
>ていうか秀信は自分が最前線で矢面に立つと分かっていれば、
>総決起体制なのは当たり前でしょ。
西軍は総決起するけど
東軍の尾張は西軍が攻めて来ても総決起しないという謎設定
鍋島勝茂の率いる約一万の軍勢が抑えとして拘束されてるんだから籠城兵もそれなりにいるはず
わたしもそう思ったけど、山岡某が援軍した
以外は特になさそうなんだよね。
家康が福島正頼に出した書状とかはあるけど。
中間地点は三人役前後
財政苦しい、移動経費がかかる遠方、
別の国から攻められる可能性のある国の場合は三人役以下って条件や
信長~家康までのその時代で課された軍役がそれぞれ違ったのに
元の史料を見ずに伝言ゲームで三人役(石高×0.03)という部分だけを取り上げ
いつからか戦国時代板ににわかが勝手に
石高×0.03=総兵力(限界兵力)
という謎の計算式を作り上げ、三人役以上の兵力は動員できないという謎ルールを作り上げたんだよな
西軍の指揮権も自分で握りたがっていて
戦場も自分の領地から目と鼻の先の近所なのに
自分は三人役しか動員しない石田三成みたいな例もあるけどな
どんくらい兵力いたんだっけ
勝利を約束された軍対覚悟を決めた死兵の戦いという側面も大きいと思われるので、兵力についてはそれなりに割り引く必要もあるかもしれない。
関ヶ原での本隊6000を足すと8800
19万石で五人役だと9500だからこんなもんか
あと岐阜城援軍に送った部隊が結構被害出たみたいな話しもあったような
仮に東軍に取られてもいいから全軍関ヶ原に集結すべきだったと
島左近の感想を通して主張してたね。
俺もそう思った。守備兵800名くらい残して限界まで関ヶ原に従軍させるべきだったろ。
なんなら島津義弘に1000名か2000名預けて指揮させても良かった。
6000の兵が8000になれば少しは違うんじゃないか?
勢いついて小早川もこちらに寝返ったかもしれん
いや、その場合は小早川秀秋が佐和山城を攻め
そこで籠城する可能性が高いから関ヶ原は全く違う様相になってた可能性が高い。
そうなると自然に小早川VS立花になる。
今言われてる説だともう兵数がどうとかいう状況じゃなく、三成たち生贄にされたみたいな状態での壊滅だし
実際に前田が大軍で南下して手薄な番場と佐和山城を抑えた場合、西軍の兵站は草津・亀山・
桑名経由だけに絞られるから厳しくなる。
前田が日和見であれば南下のプレッシャーは杞憂に終わるが、現実では西軍はそのプレッシャーを
受け続けたんだと思う。だから個人的には佐和山城に戦力を残すのは間違っていなかったと思う。
秀秋がずっと滞在してたのはその中間地に近い高宮。
つか三成も不安要素だらけだな、もっと段取りしておかないとな
基本的に命令を聞いてくれたのは秀家と行長だけだものな。
これではしんどい。
輝元が美濃へ駆けつけさえすれば秀秋は何もできず西軍に埋め込まれて
東軍攻めの先鋒をせざるを得なかったのに。
例えば輝元本人が西軍に寝返るとか。ソースは無い。
そうでなくても秀秋が輝元の命令に従うかな?
義理は無くたって毛利一門として長年やって来た家臣団でしょ。
居抜きで20000人ぐらい豊臣から引き連れて小早川家入りした訳じゃあんめえ。
隆景隠居の際毛利家からついてきた老臣は皆備後についてっちゃったし
北ノ庄に移った時筑前衆はほとんど他家に移っちゃったんで
(そいつらも毛利との付き合いは隆景が筑前貰ってからの10年ちょい)
もう毛利色はほとんど残ってないはず
実際家老両席と先方大将が羽柴系だし
輝元さまの下知に従いますって事もあるしな。
輝元が数万の兵を連れて高宮に急行するなんて報を聞いたら
「こりゃ西軍が勝つだろ」と慌てて大垣城に急行して
何食わぬ顔で西軍として戦ったと思うぞ。
仮に東軍に取られてもいいから全軍関ヶ原に集結すべきだったと
>島左近の感想を通して主張してたね。
俺もそう思った
SLGゲームじゃないんだからさぁ
西軍東軍問わず諸将の多くは家康なり豊臣・石田なりを勝たせたいってより負ける方にはつきたくないってことで進退してるよな
岐阜城がすぐ落ちたから西軍には東軍主力を止める力がないと周知されてしまった
そのことで日和見してた奴等の離脱や離反が続出した
岐阜城で止めないと後はないと思ったほうが良い
伊藤盛政に大垣城は任せてありったけの兵を最初から岐阜に進駐させれば
よかっただけの話。
なんで三成は東軍が岐阜城に攻めてくるはずがないと思ったんだろ?
福島の調略が上手くいかない以上先鋒大将は秀信に決まりだし、
開戦の判断を一任された奴の城に寄騎でもない軍をぞろぞろ入れるのは
合理的な戦略以前に武家の習いとして無理なのでは
合理的な判断しようず
西軍のやつらも「三成・・・こいつ本当に駄目だ」と悟ったはず。
岐阜城に集結して大垣城が手薄なら福島隊下流組は大垣城に攻める可能性があるから難しいところ
木曽川、長良川、揖斐川の三川を渡るわけで現実的ではない。
渡川中に襲われたらひとたまりもない。
上流組と下流組で戦力分散してる上に大垣城が堅城なら寡兵でも耐えられる可能性は高い
大垣城誘引策の検討の価値はあり
家康に送ってたような。
毛利勢は全くやる気失せてたようだね。
伊藤は先鋒でもないし、織田と違って文句言うには格も実力も足りない
「なんでさっさと開戦しねーんだよこのチキンが、
後つかえてんだからとっとと進めや」とせっつかれてる形になる
先鋒大将としての面子は丸潰れ
大垣が兵が少ないなら大垣が狙われる。
命令系統が混乱するなら三成が大垣城にいて副将として島左近か島津らを派遣すれば良いだけでは?
大垣城主の伊藤は一旦は明け渡し拒否してるはず
まあ信長の孫で岐阜13万石の秀信と父親が信長の馬廻で大垣3万石の伊藤盛正じゃねぇ…
「他家の居城に駐屯するのダメ、絶対」って話ではなく、
「先鋒が開戦時期を見計らう権限侵すのは配下でもヘソ曲げられる、
まして連合組んだ相手とか非常識にも程がある」って話
57万石の当主である島津に「13万石の織田の指揮に従え」ってのも
凄い話ではあるが
なにか手掛かりないのかな?
というか各地の在番衆も戦況の進展で
どんどん前線の在番に前進してきてるよね。
菅沼定仍は最初、興国寺城で忠吉が駿府から離れる際に、
駿府へ移動したと思う
徳川領国から一番近い城だけあって、家康上洛後に在番する
必要性は最も低くなるだろうし
石川正西聞見集を確認してみました。
これだと駿府在番松平下野守(忠吉)、掛川在番浄和(松平康重)となってますね。
これが慶長見聞書だと、駿府在番菅沼志摩守(定仍)、
掛川在番松平隠岐守(定勝)となってる。
ちょっと判断つかないところですね。
結局石田の別動隊が入ったくらいじゃ岐阜城が先に攻められるのも
守り切れるか怪しいってのも変わらないけど
それはそうだが、そもそもいくら官位が高くても秀信が
豊臣政権において『飾り』以上の役割を求められていたかな?って話ではある
大体、官位云々の話をするならそれこそ内大臣の家康に逆らうなよって話になる訳で
秀信の官位の話しをしただけで食ってかかる人がいたのは予想外だったw
飾り云々は豊臣政権では武家関白制を目指していたので
武家官位を公家官位と切り離した江戸幕府よりは実体はあったんじゃね?
いや、官位の件で一番言いたかったのは三行目の部分なんだが…
勝手にあなたが私の考えを想像しただけでしょw
秀信の官位の事を言っただけなのにw
よく旧主の岐阜城に攻められたな。
岐阜城や織田勢を制御下に置くのはより困難ということになるが
>>619
秀次の下にいたことで職歴ロンダリングはできてるし、
今は家康の娘婿だし
岐阜城や織田勢を制御下に置くのはより困難ということになるが
>>619
秀次の下にいたことで職歴ロンダリングはできてるし、
今は家康の娘婿だし
池田、福島あたりは「岐阜中納言様を攻めるのに気が咎める。まず犬山城から落とそうぜ」
と言い出す可能性は普通にあったと思うな。
出撃策に出て秀信側から交戦に応じたので流れで秀信の城を攻め落としてしまった感じだが。
というかその辺の指揮系統の曖昧さ複雑さが西軍と東軍の決定的な差
方向を変えて例えるなら、津軽に兵を総動員して朝鮮の最前線で戦えと要求しているようなもの
三人役ってそういうこと
石田でしょ。
同じように瀬田守備隊に大垣に来るように
指示したのも。
まぁ小西と相談の上ではあろうが。
義弘個人を慕う連中が自発的に自腹を切って参加したのが島津軍
数が少ないのは当然
あるとすれば、近隣の攻略
戻って来た家康が伏見城入りしたところで、それ以上大阪には近づけないだろ
佐和山を守りたかったのかね
「貴様ら頭下げろ!」って言えば何やっても許されるとでも思ってるのかよ
大坂に籠城するってのは事実上そういう事だぞ
少しは豊臣家や豊臣政権に配慮ってものをしたらどうだ
勝ちたいのはわかるけど、あくまで西軍は豊臣御為で(建前でも)決起したんだから
豊臣家や政権を文字通り踏みにじるような事したらアカンと思うぞ
つーかそれやってキレた東軍が大坂突入して、そのどさくさで秀頼死亡したら
間違いなく西軍が悪いって断じられると思うよ、少なくとも東軍を責める人は少ないと思う
事実上の敗北だよ
野球で言えば5回に五点取られたようなもん
まあ野球だとわかんないか
10点取られたようなもん
福島など離反する将が多数だろう
毛利が逆賊指名されるかも
それが怖くて輝元は玉を抑えた
クーデターだからな
その場合西軍が大阪城本丸の淀・秀頼を包囲し、それをさらに東軍が包囲するって図式になるぞ
(強引に武力で制圧すれば別だけど)
内府征伐という名目は立たないし、淀・秀頼の支持も得られない
東海近畿の諸将からしたら本領に援軍もなく、大阪周辺に篭れと言われてることになり東軍に着くだろう
西としては包囲もなにも毛利が入り込んでるでしょ
西の言い分としては秀頼さまの保護
東の言い分としては秀頼さま閉じこめからの救出
東は大坂攻めのうち秀頼が死んでも西のせいにすればいい
西も同様
>>645
本丸に入らせて貰えてないってば
大阪城を戦場にします、回避するための努力は一切しませんなんて言ったら最悪出てけ言われるぞ
拒んで場内にらみ合いになるか制圧するか、いずれにしろやってることは逆臣そのものだろ
まあそれだからこそ、関ヶ原が敗戦濃厚で毛利が無血開城しちゃってるんだろうね
いや毛利がすこしでも徳川に一矢むくいるくらいの気概があればね
歴史は少しは変化してただろうね
なんというか当時の人間、馬鹿にし過ぎだと思う
もしそうなら決起した時点で西軍が勝っていたはずだわな
思うんだが。政権中枢が欲しい石田や宇喜多ですらそこまでするか怪しい。
他の方も指摘されているが、簡単に籠城できるかも疑問がある。
石田は格が低すぎるんだよね
結局武力あっての政権維持だから。
明らかに徳川より格下がいきりまくってそれは世間に通じない
七将襲撃の逆バージョンかな。
だけど仲裁者がいないから和睦案もまともにまとまらないような気がする。
・家康は江戸に蟄居する、
・秀頼成人まで豊臣の政務は毛利輝元が代行する、
このあたりの条件で和睦がまとまれば西軍勝利と言えるだろうけど
家康がこの条件呑むとは思えないなぁ。
軍事的には大坂に籠城しても西軍に勝ち筋はないと思う。
籠城してそこからどう勝ちに繋げるわけ?
よくわからない
大垣はじめ諸城への援軍放棄したら当然東軍が抑えてくでしょ?
当然その分西軍の勢力が削られ日和見の諸将も東軍に流れるよね?
なんらかの妙手ってのは大阪まで撤退してさらに諸城も無事で西軍優勢とみて味方も増える手ってこと?
それは流石に虫のいい話ではないか?
東軍は大坂を攻撃できない?
だからなに?ってかんじ。負けないだけなら初めから挙兵しないでおけばいいんだから。
負けない手段じゃなくて勝てる手段を考えましょう。
これまた何故かそんな主張をしてる人なんかいないことにしようとしてた人も現れた
なんなん?同じ人なの?
大坂城に籠城して西軍が勝てるの?
もちろんただ籠城してるだけで勝てるなんてことあるわけない
そう主張してる人と、主張してる人がいないことにしようとしてる人がいると言っただけだよ
毛利がその気になって秀頼を人質にしたらまず東軍が攻め落とす事は不可能だったろうとは思うよ。
前田を難詰して服させる姿を見れば淀君がまともな頭なら家康の上杉攻めにウンと言わない。
淀も意外と親徳川だから
仮に淀が親西軍だったとしても本丸まで毛利に明け渡すとは考えられない。
初手大坂篭城は史実の東軍に濃尾や越前組、田まで含んだ軍勢と争うことになってもおかしく無い。
現時点において御提示いただいたアイデアに関しては、加賀や飛騨、信濃主攻の方がまだ勝ち目が見えると言わざるを得ない。
今まで検討されていないであろう事柄について議論がされたという点においては一定の意義があるかもしれないけど、そこから先において西軍を勝たせる方法が自分には思いつかない。
初動からでも本戦後でも大坂籠城すればこれが落ちるということは考えにくい、
しかしそこから西軍が勝ちに繋げる手段がない。
越前や美濃の西軍派在国衆は後詰がないんだからおそらく開城する、
東軍先発隊38000、家康本隊33000、秀忠隊38000、前田約20000、計129000、
これに小早川秀秋8000、京極高次3000あたりも加わると思われる。
大坂に集結した西軍が20万ほどでないかぎり家康は和睦には応じないと思う。
毛利31500、宇喜多18000、石田6700、小西5000、増田3000、大谷約4000、島津1000、
長束1000、毛利秀包1000、これで71200、
これに立花3900、鍋島9800、長曾我部2100等が西軍に与するかどうかだが。
初動なら田辺城組丹波但馬衆ら15000も加わるかもしれんが。
西軍が大坂に籠城しても勝ち筋がない。
総構えの大阪城がその程度の兵力で落とせるとは思わんけど、巻き込まれて西軍についた大名は籠城には加わらなかったり、士気が低かったり物資が足りなかったりで籠城そのものが覚束ないだろうな
まして大阪の陣と違って領国留守にした大名が数ヶ月も戦えるとは思えん
食い詰めた行き場のない浪人だからこそ大阪の陣の籠城は成立した
そりゃ淀も含めてみんな何かにつけては問題起こしてしまっていた石田たちよりは
豊臣外戚で官位も実力も十分の家康に付くよね
秀頼の叔母(江)の夫 徳川秀忠
立花が提案したのは知ってるが島津は本当か?
本戦で負ける前なら愚策でしかないし、
負けた後ならほぼ戦力無い状態で発言力失ってたはずだが
アホが「じゃあ毛利本領攻めるニダ」と得意気に言うが
軍を二分にしたら大坂城から出撃してあっさり家康の首を獲るだけだしw
いや、もう少し詳しく説明してもらわんと。伊藤盛正が兵1000だとして、
東軍先発隊の攻略目標は岐阜ではなく無兵の大垣、
下流渡河組が竹ヶ鼻、大垣攻城、上流渡河組が大垣への後詰阻止隊、
こんなかんじになるんじゃない?
大垣失陥は岐阜、犬山の孤立、あまりにもリスキーだしメリットがかんじられないが。
引きつけるもなにも10倍以上の兵力差では力攻めで落ちると思うが。
合流しても18700.
渡河迎撃した場合、
上流渡河組とほぼ互角だが、おそらく下流渡河組が上流渡河組苦戦を聞いて
加勢に来ると思うよ。そのために二手に分けてるんだし。
>>706から大垣城は岐阜城より堅城であろうから>>679の西軍18700の数字を借りて言うなら、
石田三成6700を大垣城に残し、岐阜城に12000置く。
史実では岐阜城7000前後だったので兵力的にも実際の岐阜城の戦いよりマシになる。
大垣城に下流渡河組が来ても来なくても岐阜城は戦力増員できているので、どちらにしてもwin-win。
西軍は岐阜城に集結して大垣城には石田三成と陣夫しかおらず、陣夫に脱穀させているという情報
を竹ヶ鼻城落城したあたりで福島正則に流せば、石田三成憎しの福島正則率いる下流渡河組を
大垣城に誘因できるかもしれない。
戦力分散できれば確実に岐阜城陥落は免れることができるだろう。
福島正則の下流渡河部隊のみで大垣城を攻めていたら背後から宇喜多軍と挟撃もできる。
そもそも宇喜多や毛利もそんなのに巻き込まれたくないだろ
東軍が渡河中に横撃されるリスク侵して岐阜より先に取りに行く価値のある拠点なの?
だから詳しく説明せいと。石田、小西、島津はどこにいるの?岐阜城じゃないの?
当たり前の話だが、まずは渡河、次が攻略。ただし敵野戦勢力の攻撃があれば
これへの対処が優先。
大垣の価値については、岐阜、犬山への援軍を遮断できる地点という地理特性がある。
関ヶ原での決戦を回避した場合、大阪に守備兵を残して主力は転戦すべきでは?
秀頼と家康の連携を断つためにそれなりに政治的な睨みの利く大物に居てもらう必要はあるけど
てかそれって史実の展開じゃね?
単に決戦避けて逃げ回れば勝てるってのはないと思うわ
岐阜城が落ちたあたりからの戦略かと思った。
初手籠城はないわ。
その場合も同じじゃね?
岐阜落とされてさらに大垣始め東海近畿も全て放棄して逃げるだけってそれ単に東軍大勝利、西軍柔弱と喧伝してるに等しい
単なる戦線整理では、西軍が押されてる印象は与えるかもしれないが東軍大勝利とは言えない。
それと、大坂を保持するのであれば近畿完全放棄とは違うと思うけど。
別に美濃からの撤退で西軍勝利が見えるとまでは言ってない。
そこからさらに、何らかの妙手が必要と思う。
それもはや大坂籠城関係ないと思うけど。
大坂城の防御力を頼みに支とう点として戦線を維持するという話なら、
大坂籠城を核とした戦略と言えるのでは?
例えば、大坂方面で持久している間に九州を平定すれば戦力を大幅に増勢できる
勿論家康が黙って見てるわけはないので何らの動きがある
その何らかの動きが東軍の分散を伴うものであればどこかに勝機が生まれるかもしれない
大坂籠城するってことは越前、丹後、若狭、美濃、伊賀、近江、伊勢、志摩、山城、大和、
つまり京都以東を放棄するってことでしょ?
東軍別動隊3万くらいが播磨方面からどんどん西進していくだけと思うが。
東軍は尼崎、伏見に大坂の抑えを置くだろうが。
大坂の防衛に全軍は必要ないからその別働隊を叩けばいいのでは
東軍の別動隊を西軍の主力で叩ける状況が発生すればわからなくなる。
家康が西へ移動して日が経てば上杉が最上を降し伊達を引き込み、佐竹も動き出す可能性もある。
それでも西軍の勝ち目がそこまで高いとは思わないが不確定要素は出てくる。
仮だが、
伏見:家康、松平忠吉33000、前田20000、計53000
尼崎:秀忠隊、本多、井伊41000、小早川秀秋8000、京極高次3000、計52000
東軍別動隊(中国方面進攻隊):東軍先発隊約35000、
西軍は7万しか兵が集まらんのでは厳しいと思うが。
というか東軍に大坂を囲まれた時点で石田や長束らの奉行衆の領地は近江や大和、丹波だから本国陥落
兵力差にもよるけど、大坂が包囲されている間に広島や岡山を攻めることもできて、戦争の主導権を完全に東軍にわたすことになる。
そもそも本丸をつかえるかも怪しいのに。
西軍諸将に与える動揺は小さいかもしれん。
竹ヶ鼻や福束、高須の延長線上のインパクトかな。
そのかわり岐阜、犬山が孤立するが。
ただ東軍もしばらくは東軍先発隊約4万でやりくりしなければならないので、
西軍は宇喜多や他の西軍後詰との連携次第では有利に戦える部分もあるかもしれない。
当時はコジロ扱い
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1534557759/l50
南濃か垂井あたりで大谷らか伊勢方面隊の到着を待つと思う。
佐賀を攻撃して鍋島敵に回すとかポカしない限り九州での東軍優位は揺るがないのでは
上方からそこを巻き返せるだけの戦力割いて回す余裕があるかは微妙だし
黒田如水の逸話が有名だけど家康がいつまでも事態を収拾できないなら東軍に与する意味がないと考え出す大名も出てくるだろう
でもそのためにはただただ戦線を後退して大阪によるだけでは不十分だろう
むしろこれまで話されてた岐阜後詰とかも西軍優勢で膠着するためにこそ必要だと思うよ
伏見を陥落させた事で先手はとったし、内府違いの条々ばらまいて徳川足止めの手も打っている
前線は近畿どころか美濃にまで進出しているし、長期戦に備えて伊勢制圧も順当な一手だろう
それに北陸の前田も一旦ひかせたし、西国でヤバいのは精々黒田位だ
上杉征伐軍の連中が自分たちを支持してくれなかったっていう致命的な見込み違いを除けば、
西軍の戦略や政略ってすごくまともだと思うんだけど
いや西軍の戦略は全部上杉征伐軍が家康を見限るという所から出ているので、この時点でもう全部ダメなんだが
>上杉征伐軍の連中が自分たちを支持してくれなかったっていう致命的な見込み違い
いやだから、その致命的な部分さえどうにかすりゃ勝てそうって話
実際少数ではあるが征伐軍から離脱した大名はいた訳だし
たしかに
前田が屈服したあげく大軍率いて上杉討伐までされたわけで
徳川が大軍を率いて討伐するという既成事実ができれば
あのまま西軍が決起せずとも上杉討伐が成功してたら誰も逆らえない状況だった
普通に考えたら勝負にすらならなかったはずだが、後の世に天下分け目と言われる勝負に持っていけただけで凄いよね
誰も逆らえない状況だったとしても、あくまでも石田派閥が権力抗争に敗れただけに過ぎないのに
まるで自分たちの権勢が豊臣の存亡と同じかのように言い張って暴走したことが
豊臣恩顧の不興を買って西軍が負けた原因だろうね
別に豊臣家は三成のためにあるわけではないのに
三成のために豊臣があるかのような態度を西軍は露骨に見せすぎた
まあそれも結果からの選択肢の一面だな
史実通り三成が挙兵しなかったら、じゃあ豊臣家は存続し得たか?という問うてみたら君はなんと答える?
豊臣は傀儡政権のうちにいずれ形骸化して実質徳川の世になるのは変わらんだろうね
その徳川がいつまで豊臣を牛耳れるかは未知数だけど。
徳川だって実際は張り子の虎だった訳だからな
幕末まで待たずに関ヶ原で早目に反抗しておけばみんな暮らし易かった
違うでしょ
このまま家康の専横を許すことが豊臣の存亡と同じかのように言い張った、が正しい。
まあ関ヶ原の合戦を起こしたことで結果的にその流れを加速したのは否めないが。
関ヶ原本戦とほぼ同日の9月15日に水野勝成、松平康長、西尾光教、津軽為信ら東軍が大垣城の
三の丸に攻撃を開始。
三の丸はその日のうちに陥落。
そして関ヶ原本戦も15日中に決着したことにより大垣城は敵地に取り残される。
関ヶ原本戦の大敗を聞き、9月16日夜に籠城側の相良頼房、秋月種長、高橋元種が水野勝成との
交渉に応じ東軍に内通。
9月18日に籠城側の守将の垣見一直、木村由信、木村豊統、熊谷直盛らを軍議を名目に呼び出し
騙し討ちし、その後二の丸陥落。
大垣城の武将は本丸の福原長尭のみとなり、福原は二の丸が陥落した後も抗戦を続けるが、
西軍が瓦解し援軍の望みもなくなったことにより家康の使者の説得を受け9月23日に開城。
関ヶ原本戦の敗戦したことにより内応で二の丸まで陥落したが15日~23日の9日耐えた。
東軍先鋒隊の岐阜城攻城から宇喜多が大垣到着までは5日。
関ヶ原敗戦が無い分、二の丸の内応はないだろうし、二の丸落ちた後の本丸でも5日耐えている。
西軍瓦解しなければもっと耐えられた可能性もある。
大垣城の戦いより兵数少なくても最初から三の丸を放棄して三の丸を湿地化または瓦礫で埋める。
これでかなり耐えられそう。
大垣城の攻城戦は少し複雑なので、ちょっと整理して考えるべきだと思う。
まず、水野勝成(三河刈谷3万石)、松平康長(2万石)、西尾光教(2万石)、
津軽為信(参戦兵力不明)、
他に近隣には一柳直盛、松下重綱あたりもいたようではあるがとりあえず置いとく。
兵力としては水野勝成(推定1500)、松平康長600、西尾光教600、津軽為信(不明)
計2700~3000程度が大垣城抑えとして曽根城及び林村の寺もしくは林寺に配備されていたと見る。
「水野勝成覚書」には、
今度ハ一大事の御合戦に御座候と存、
山こしをとらせ人数も身上よりおほくつれ候てこし申候条、(以下略)
とあり、水野勝成は強動員を掛けたようなので兵はとりあえず1500と。
一方大垣城守備隊は7500とあるが、豊臣弓鉄砲衆か、本戦敗残兵込みの数字の
可能性が高い。福原、相良らだと4000~6000といったところ。
そして9月15日早朝頃、水野らが大垣城攻撃、(おそらく)三の丸を占拠
(水野勝成覚書には二の丸と本丸のことしか書かれてない、おそらく本人の勘違い)
その後、町口に放火して曽根、林寺へ撤収。
9月16日夜、もとより井伊直政とよしみを通じてた相良、秋月らが、
「なんとか福原を呼び出して腹を切らせる、残りの者共も討ち取る」と
水野、松平康長に伝える。
9月18日相良らは約束を実行、福原の本丸を残すのみとなる。
その後、水野・西尾が大垣城を受け取り、大垣留守居を松平周防(康重)が引き継ぐ、
とある。
そも、水野勝成は家康に本隊と同行を願い出たが却下され大垣抑えに回された。
それでもなんとか手柄を立てようと大垣攻城を強行したと思われる。
最後本丸で福原が寝返り組+水野ら相手に粘っているが、
これ評価が難しいね。最終的には開城してるが。
東軍攻城兵力、大垣守備兵力、内応、降伏勧告と評価が分かれそうなポイントがある。
大垣城の戦い西軍7500を調べると大垣城攻めた東軍は11000と出てきますね。
関ヶ原本戦は15日中に終わってその後に大垣城攻めに東軍が一兵も派兵合流させないのも不自然。
7500の籠城兵が敗戦後の合流組含む可能性が高いなら、7500の軍が籠る要衝の大垣城を家康が
放置するわけないですし、関ヶ原本戦後には東軍の大垣城攻め合流で1万以上はいたと思いますね。
それで籠城側が内通で裏切り、内応で籠城兵も撃ち取られ半減したとしても本丸だけで5日耐えて
いるわけですから関ヶ原本戦前の士気が高い状態なら内応も出ないし十分耐えられると思います。
その11000ね、赤坂岡山に堀尾5100、中村一栄4350、長松砦に一柳直盛1050、
曽根城・林寺に水野・西尾・松平康長(2700~3000)、居所不明松下重綱300、
この合計だと思う。
とりあえず水野勝成覚書には水野、西尾、松平康長しか登場してこない。
他隊が大垣攻城に参加したかはわからん。
包囲側が籠城側より寡兵では包囲できないですし普通はしませんよ。
関ヶ原本戦後はみんな敵領占拠、首謀者捕らえるために攻めに動いてるわけですから。
包囲ではなくて抑えなら守備兵と同数以下もありうるよ。
城方が攻撃してくる可能性が低いと判断するなら。
現に犬山城(7000)の抑えは中村一栄ら約4000。
大垣の場合、抑えだというのに水野勝成が抜け駆けしたんじゃないかと思う。
それは関ヶ原本戦直前の話でしょう。
関ヶ原本戦前なら本戦に兵力集中させるために最低限の兵しか残さないのも分かりますよ。
関ヶ原本戦後に西軍が潰走してるから関ヶ原に兵力を集中させる必要はなくなってるので。
その後に7500の敵兵が要衝の大垣城に籠城してるのに家康が一兵も派兵合流させないのは
不自然って話です。
家康は関ヶ原が終わった後の方があせってたろ。
佐和山城にも小早川秀秋と田中吉政だけおいて神速で大坂城目指した
他にも滅ぼすべきところはいくつかあったが全てスルーし
一日でも早く一日時間でも速く大坂城に到着する事だけを目指した。
どさくさに紛れて大坂城を開城させないと家康旗下の東軍諸将がどう心変わりするか分からなくて
怖かったんだろうと思う。
家康は17日から毛利輝元の処遇を書状で確認し合い、輝元が大坂城を退去する25日まで
大津城にいたでしょう。
神速で大坂城目指したわけでなく23日には捕らえられた石田三成と対面し晒し者にしたり
輝元が大坂城から退去するまで他の西軍大名の処遇を話し合うくらい余裕でしたよ。
いやどうせすぐ秀忠隊が来るだろうし、まずは佐和山攻略優先なんじゃない?
佐和山攻略優先というか首謀者を捕らえにって感じでしょう。
家康は大坂に行くより三成捕縛の指示だしてますから。
秀忠も関ヶ原戦勝の報を聞いて焦って、軍を置き去りにしてまで単騎で大津まで
神速してしまったという話がありましたね。
手間掛かるし目が疲れる。
半年かかって結局武力制圧はできなかったわけでしょ。
その時の秀吉と比べたら家康の東軍なんて雑魚に近いし大坂城を落とせるわけがないじゃん。
その時までは幕府の命令に従って全国の大名が一生懸命長州と戦ったけど
結局攻めきれず和解した事から二度と幕府の命令に全国の大名が従う事はなく
幕府 VS 長州で その他の大名は明治時代まで日和見する事になった。
家康が大坂城攻めで三ヵ月もぐずぐずしてたら東軍に従軍してた大名の大半は
一旦帰国させていただきますとなり。二度と上京する事なく群雄割拠したろ。
第二次長州征伐で一生懸命戦ったのは小倉とか肥後とかの極一部だけ
関ヶ原の状況とは大きく違うので参考にならないし、何なら斜陽の幕軍=豊臣西軍と被る
そもそも東軍は家康に従う以前に西軍に対して絶許状態やろ
水野勝成や細川忠興がどんなに不利になろうとも西軍に日和るとは思えない
妻を人質にとられた山内一豊は我が城をお使い下さい自分は前線行ってくるんで!
と全力で戦う姿勢。
その妻の元にも家臣を送って安全を確保。
勝ち続きの最後の最後で太閤様のお城だから~と毛利を放置するとか、どういう心理でそうなるのか
だいたい西軍は太閤様の伏見城攻めたやろw
そうは言っても西軍の総大将が三成と言うわけではないから「絶対」とは言い切れない
ハードルが高いという以上のことは言えない
短期決戦で決まったからそこは有耶無耶になったけど
長期戦になり厭戦気分が蔓延したり食料の供給が少しでも滞ったりしらら
すぐに「なんで家康の癖に俺等に命令してんの?糞野郎!」となるのは必定。
徳川家康「大坂城に囚われた人質を取り返そうぞ!」を大義名分にして
諸大名を従えて大坂城にやってきたわけで
既に人質は解放されており、万一毛利が籠城などしてどかなかったら
諸大名は「え?俺等家康に従って太閤様の城を攻めるの?なんで?やだよ」と
ほぼなるのは必定だったし。
家康と秀忠の嫁を人質に差し出さない限り大坂城は引き渡さないと交渉すればよかったのに。
担保もなしで本領安堵の空手形に騙されるなんて幼稚園入りなおしてこい。
秀吉の養女にして淀の方の実妹、秀頼の姑候補である江を人質に寄越せとか
完全なる豊臣政権への絶縁宣言なんですががが
今後日本で生きていくこと許されないレベルで
「もうあいつ謀反人だし、勝手に本領蚕食しちゃっていいよね!」とか
クロカンとかがハッスルしだすの目に見えてる
あと岐阜城陥落受けて泡食って和睦しただけの奴が
担保寄越せとか言える義理かってのが
もう彼自分の論に酔ってるだけの荒らしみたいな状態なってるから構うな
黒官の所には兵なんか居ないでしょ。
百姓を集めた凝兵で空き城を接収して廻っただけ。
西の織田信雄こと大友義統としょっぱい戦やるのが精一杯な器だから。
黒田に限らなくても
九州では本戦一か月後には小倉と博多が東軍の支配下
これは毛利領に攻め込む上で重要な補給基地になる
鍋島と松浦も息子が暴れた禊のために参戦
特に松浦は精強な水軍持ち
四国には加藤、藤堂、脇坂が帰国すれば瀬戸内から攻め込める
来島水軍も当主が福島正則の娘婿で庶兄は福島家の被官
すぐ東軍に転ぶのは目に見えてる
さっさと和睦、帰国しないと本領失陥するのは明白
担保担保言ってんのも前と変わってねえw
三の丸のあたりは住宅が建っててなんとなくしか城域がわからない。
それよりも鎌倉街道と東海道の違いを
認識する必要性がありそう。
鳴海城も大高城も海に面してるんだね。
収容できたのかどうかよくわからんわ。
三の丸の空堀と柵がどのあたりまで
あったか次第かな。
個人的感想としてはあまり堅固な城には
見えない。
松永久秀とかだったら最後にひと花咲かせただろうな。
鳴海を押さえるだけでは足りないと感じた。
理由は鎌倉街道の存在で、
https://www.city.toyoake.lg.jp/3356.htm
この豊明市HPにある「二村山鎌倉街道」。
ここには熱田から呼続(名古屋市南区呼続)→古鳴海(同緑区古鳴海、地下鉄野並駅付近)
→柏原(同緑区柏原郷?緑高校の南辺り)→二村山(名古屋・豊明市境)→
宿(豊明市、沓掛城南南西約500~700m)→十三塚(宿の500mほど南南東)→
大久伝(十三塚の南500m辺り)→西境(境川を越えて三河、刈谷市西境町)→
駒場(豊田市駒場町)→八橋(知立市八橋町辺り)のルート。
関東からの西上を阻止するには鳴海だけでなく沓掛も押さえる必要がある。
しかし鳴海はともかく沓掛のほうは今日見てきたかんじだと、とても堅固には見えない。
二村山(標高72m)に砦構築したほうがいいんじゃないかとも思う。
境川が要害として機能するなら清洲を拠点、鳴海、沓掛を前線基地として
境川で東軍を迎え撃つ、というのもできるかもしれないが。
発想としては東軍の宇都宮が拠点で、大田原、黒羽が前線基地、に近いかな。
最後にもう一度。実現できるかは別。
三成の構想通りに行けば西軍買ってたな
尾張早期進攻案かな。
なんかみんな清洲を落とすことにこだわってた印象があるけど、
味方になるのか敵になるのかわからない、
落とせるのか落とせないのかわからない、
なら清洲放置したっていいと思うんだけどね。もちろん敵対した場合に備える必要はあるけど。
具体的には、最低条件として、遅くとも8月10日までには兵35000~4万程度が
尾張に進攻し、鳴海、沓掛(二村山)で野戦築城、普請を開始すること。
これができれば尾三国境付近で東軍を迎え撃てる。
最低条件ノルマがかなりきついけどね。
関ケ原直後に高圧的に出るとは思えないのだが
お前の仮想戦記に都合良い話を次々持ち込むなカス
18万石は絶対嘘やろ
大事なのはトップがどう指揮するかだし
そうトップが
トップ変えようや…
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1534578693/
たとえ関ケ原みたいなことがなくても諸侯は勝手するし瓦解してたやろうなぁ
家康が電光石火で勝ったから「ウリは元から東軍だったニダー!」と言い出しただけで
西軍が善戦し美濃か大坂城で半年もぐだぐだやってたら群雄割拠かは免れなかった。
豊臣政権は最初から大大名に権力を与えて政治に参加させた
足利義満はその魅力と政治手腕で全国の守護に圧力を掛けて抑え込んだ
秀吉も義満と同じようなもん
室町の応仁の乱あたりと関ヶ原の違いは山名細川赤松大内上杉鎌倉公方といった実力者がいたのと
家康しかいなかったの違い
結局は徳川がスルッと入ってきそうな気が駿河
本格的に家督継ぐようになったら
徳川の入り込む隙がなくなる、って。
宣教師の話だと偉丈夫通り越して「身動きままならんデブ」だったらしいぞ
これが事実なら大坂の陣で一度も陣頭指揮採らなかったのも頷ける
政治の世界で家康や秀忠と渡り合えるかも微妙だな
まあ関ケ原が無けりゃ諸侯が徳川の権力絶対視することも無かったし、
全国の問題解決に奔走した家康が史実より早く過労死する可能性もあるが
でも大坂夏の陣では秀頼が自ら素手で裏切り者を次々と堀へ投げ込んで殺害した事実があるが
それ記録者が見てたんじゃなく、聞き取りの中で
出てきた話だし、豊家に同情的な奴が盛った可能性もあるんじゃ
これもう実質荒らしだろ
秀吉に従って徳川と戦った豊臣古参の合体なんだよな…
輝元が秀吉超えないと無理じゃ
家康が小牧山に陣取っている訳じゃないだろ。
家康率いる上杉攻め軍団が小山にいる頃に電光石火で清洲を落とせばいい。
負けは確定してるけどさ、首を討たせるくらいの器量をみせて死ぬべきだったよな
スレタイはそんなに難解か?
だから朝鮮出兵では九州を筆頭に西日本の大名が前線で戦って
徳川などの東国大名は前線では戦わなかった
逆に西軍が尾張を攻めたいなら、三成や秀信などの西軍の中でも東側の大名が五人役を負担して最前線に行かなければいけない
西国大名、それも共謀友達でもない大名が三成より前に出て戦う義理も義務もない
西軍の敗因は、三成たちが口先だけで自ら東進しようとしなかったことだろう
三成が行かないなら後方支援の西国大名が三成より先に東進するわけがない
分かれてるかんじ?
これはこれで守りにくそうなかんじがしないでもないが。
というか広すぎて寡兵では守り切れないんじゃない、これ?
留守居の兵力がわからんからなぁ。
田辺城が丹後の留守居かき集めて約500なら清洲も留守居は約1000くらいだと思うが。
尾張と北伊勢100万石の主府として織田信雄が作った城だからなあ。
20万石ちょいの福島正則では全軍でも護りきるのは無理。
結果、前へ前へと出るしかないと岐阜に攻めかかって成功するのだから世の中分からないもんだよなあ。
秀次に借金しまくってたから秀吉から嫌疑かけられて連座を逃れようと家康に金借りて秀吉に借金返した金欠の細川忠興と
人と金が集まり石高以上の豊かな尾張で秀吉から米を預けられてた福島正則を一緒にするとか
尾張は寺社、商業と人と金が集まるから桶狭間でも傭兵を動員して今川を倒してるのに
石高=国力動員力と思ってるにわかがまだいるんだな
否定するなら正しいと思われる数値を根拠をもって提示しろ。
否定するだけで提示しないなら黙っとけ。ただの邪魔。
自演指摘されて図星でぶち切れるのは分かるけどさ
歴史の資料に記されている根拠の数字を使うならデータとして使えるが
個人の憶測や推量を混ぜるとデータとしては信憑性無くなるから
自分の推測や推量をソースとして使いたいなら>>774-775で言われてるようにブログをお薦めする
それでみんな去っていってるの気付かないのかな?
自演で提案→承認という風に見せるのも程々になw
俺は指摘して笑いに来てるだけだからw
自演とかそんなくだらんことになんの意味がある?
お前といっしょにするな。
スレタイに関係しない話題始める者は他スレでやればいい。
ねえねえ、何で別idなのに自分が言われたみたいな反応してるの?
休みの日でもなければ常時在宅ではないでしょ。
逆に常時在宅なひとが多いわけ?
>>スレタイに関係しない話題始める者は他スレでやればいい。
これには同意だわ
二度と趙匡胤やカエサルの名前出すんじゃねーぞ
基本的に福島正則の身代では総兵力は6000前後だよね。
他の枝城も有るし、最大1000、下手すれば500だよねこれ。
普通に万単位の西軍が押し寄せれば数日で落ちる「その前に開城かも」よね。
どんなに造りが巧妙でも攻め手が圧倒的大兵力で犠牲をいとわず猛攻すればそう長くはもたない
鉄砲が普及して特にその傾向が強くなった
俺が攻め側の一平卒なら絶対に山城は攻めたくない。
山を駆け上がって城に取り付いて塀に梯子掛けたりして
攻め込むとか正気じゃやってらんない。
仕寄で攻めろよ
しかも堀の中はデカイ剣山みたいなのが泥から突き出した状態で
そんな堀見たらそら大坂の陣の時に家康が強引に堀埋め尽くすわ
堀の埋め立ては秀頼側からの提案なんで強引でもなんでもないんやけどね
別のもので例を出そうとするとその例への知識に物言いがつくからあまりやらん方がええで
8月6日、三河・尾張の上杉征伐から帰ってきた軍勢の様子がおかしいことに気付いた
石田は大坂の輝元・増田に西軍主力を美濃に送ることを要請。
その使者が8月8日大坂に到着。美濃への援軍に、伊勢へ向かう予定の秀元・吉川に
急遽美濃に向かうよう作戦変更指示、指示を受けた秀元・吉川は美濃に向かい
8月10日大垣に到着。
これで間に合うか?沓掛に着くのは8月12日だろう。砦構築してる時間がない。
石田、小西、秀信、犬山城衆、秀元・吉川で39700.大垣、岐阜、犬山、小牧山
それぞれに1500ずつ守備兵置くと尾三国境付近で使用可能兵力は33700でしかない。
こりゃ宇喜多も投入しないと足りない。
つまり兵力的日程的に無理がある。8月6日よりも以前、当初からの美濃主攻案でなければ
尾三国境付近で東軍を迎撃するのは難しい。
というかなにしてたのかわからんが、8月15日まで大坂に留まっていた宇喜多秀家、
こいつが北陸でも美濃でも伊勢でもさっさと行ってれば前線は楽になってる。
ほんとに浪人徴募、訓練してたのかな?
瀬田に秀元が留まってたのは、京極、前田対策として仕方のない面もあると思うが。
話題をころころ変えるの止めてくれない?
ちなみに木曽川沿いにある黒田城は小牧長久手の戦いでも落ちなかったが
その時の守将は清須城で留守番してたりする
そういえば尾張美濃の東軍諸将の存在忘れてた。
徳永は上杉征伐、生駒利豊は清洲入城、
残りは家帰ったら調べてみます。
一柳、西尾、市橋、水野勝成あたり。
これから見させて貰います
前に自宅のwimax回線も勝手に切れることが
あると言ったがな。
そんなくだらんもの監視してるひまがあるなら
西軍が勝てそうな作戦の立案でもしろ。
否定しかしないのは議論とは言わん。
お前と石高×0.03は遠征時の三人役で話で限界兵力ではないって話したの俺な
聞く耳持たない上にIDチェンジ指摘したのに未だにやり続けてるから
議論しようにも相手がIDチェンジしまくって別人のフリしたり自演するから議論にならないんだわ
尾張以西を食べにほったらかして清洲城に集合すれば可能だろうけどそうもいかないから東軍先陣が着陣したのでは?
それでも岐阜城後詰決戦で潰走させればチャンスはあるってことではあるかもしれんけど
清洲を落とすことで
「遮断された」「包囲された」」と清洲より西の小領主を浮き足立たせる効果が有るっしょ
ひとつひとつ落としながら進むと東方から次々増援が来るのだと心強く思って抵抗するでしょ
確かに清州を得ることの心理的効果はある程度のリスクに見合う程度に
大きいと思うが、清州速攻のリスクは「ある程度」を越えてると思う
伏見城や田辺城は完全に後顧の憂いの無い状態、圧倒的兵力で囲んでもあのザマ
これは西軍の指揮や統制が相当低レベルなことを示している
後方に敵のプレッシャー抱えながら巨城を攻略できる状態ではないのでは
かといって割と質の高い石田勢単体で攻めても数が足りるか
あと城主のネームバリュの問題
「文化人の細川「外交官の富田「真田に負けた年寄りの鳥居」相手でも
それなりに手こずったのに、「猛将福島正則」の城を敵に回して
士気を維持できるかはなはだ疑問
伏見攻略に時間がかかった事については諸将がなかなか踏ん切りがつかなかった面も有るんじゃない?
ついこないだまで豊臣家臣にとって権力の象徴であり天下の主府だった所。
本当にやっちゃっていいのかな?と躊躇する方がまともだと思う。
田辺も細川幽斎に知己が多過ぎ。後々恨まれることを考えたら迂闊に攻められない。
うっかり幽斎の首なんか取っちゃったら恐ろしいわ。生きていけないよ。
初日から苛烈に攻めて伏見城はボロボロ、街はまともな建物が残ってないほどな状態で、
それでも大手柄だからと意気揚々と鳥居の首を抱えて鈴木重朝が本陣に向かっていたら、
家康と景勝が肩を組んでいて前田慶次と福島正則と直江兼続がゲラゲラ笑いながら帰ってくるのが遠望出来るコントみたいな展開有ったら嫌だわ。
個人的には30万石の兵糧米を接収してしまえば
本領と切り離された西国の東軍諸侯は相当動揺する
正則が彼らを統率し戦果を挙げられたのは
米を背景に明確な指揮系統を構築できたからだと思ってる
あれが無ければ家康到着までは東西とも烏合の衆の睨み合いになる
余裕で尾張は奪取できた。
もう最初期から毛利が裏切ってるのだから勝ち目がない。
勝てる(確信)