スキピオの一生・生涯・人生
世界史に登場するスキピオの一生・生涯・人生
紀元前218年「ティキヌス河畔の戦い」で父を救って有名になったスキピオは、2年後の「カンネー決戦」で軍団の指揮官として戦いました。この戦いで敗れたローマ軍の残兵を集めて再編成し、紀元前210年にはスペインでの軍団指揮権を与えられます。翌年、新カルタゴ(カルタゴ・ノウァ)を包囲攻撃して陥落させ、紀元前208年「バエクラの戦い」でカルタゴの将軍ハスドルバル・バルカを破りますが、 カルタゴ軍の残兵はハンニバルの部隊を追ってイタリアに進軍していきます。スキピオはあえて敵軍を追撃することはせず、まずスペインにおけるローマの支配権を確立させました。 紀元前204年、元老院の強い反対を押し切ったスキピオはシチリアから北アフリカ上陸作戦を敢行し、 カルタゴの北、ウティカ付近に3万5千名のローマ軍を上陸させます。「バグラダス河畔の戦い」で約3万名のカルタゴ軍を完敗させ、カルタゴから20~25キロ離れたテュニスを占領、ここに陣営を設けて周辺地域を荒らしまわりました。紀元前202年、ザマの大平原でイタリアから召還されたハンニバル率いるカルタゴ軍と戦い、これを壊滅させて第2次ポエニ戦争を終結させます。アフリカ遠征を成功させたスキピオは「アフリカヌス」という尊称を受け、紀元前199年には監察官に選出されて元老院議員主席になりました。紀元前190年、スキピオは弟のルキウスと共にシリア遠征に出発し「マグネシアの戦い」でアンティオコス3世を破りますが、スキピオ一族の独裁化を嫌った有力者たちから弾劾されて人望を失ってしまいます。ひどい屈辱のうちに隠退したスキピオはローマを去り、ハンニバルが自殺する1年前にカンパニアのリテルヌムで病死しました。